あなたに愛や恋は求めません

灰銀猫

文字の大きさ
342 / 350
第四部

思いがけない結末

しおりを挟む
「ヴォルフ様っ!?」

 広がり続ける赤が全身の血を凍らせていく。無事であってほしいと夫の姿を求めてその名を呼んだ。ヴォルフ様は数歩先でいつもと変わらず背を伸ばして立ち、右腕を左手で掴んでいた。

 その足元にはジーモンが片膝を付いてヴォルフ様を見上げていた。右腕を左手で掴んでいるけれど、その手からは赤い液体が流れ出ていた。床を赤く染めていたのはジーモンだった。虚ろで酩酊しているように見えたけれど、今は意思を感じさせる目でヴォルフ様を見上げている。その表情から胸の内まではわからない。さっきまでの姿は……

「は、やっぱりな」

 ジーモンの後ろに立ったヴィムが呟く。声が小さすぎてその声に感情を感じることは出来なかった。何がやっぱりなのかしら? 彼の暴挙をどう受け止めたの? 何がどうなっているのか、その答えを求めて彼らの姿を凝視した。周りの方々も同じなのか、それとも何が起きたのか図りかねてか騎士団長ですら様子を伺っている。その時だった。

「よせ!」

 ヴォルフ様の鋭い制止が響き、ヴィムがジーモンに手を伸ばしたのが見えたけれど、それよりも早くジーモンが胸に握った手を勢いよくぶつけた。ヴィムがその手を引いたけれど身体は前のめりに崩れていった。床に倒れこむ寸前、一瞬だけど口元に笑みが浮かんだようにも見えたのは気のせいかしら? ヴィムがジーモンに手をかけてうつぶせになった身体を起こして背を支えた。服の胸元に赤が見えたと思ったら、それはゆっくりと広がっていった。

「おい、吐け! 死ぬのはそれからだ!」

 小さいけれど強い圧を込めてヴィムが呼びかけた。それでも声をかけられた方は目を開かない。僅かに口元が動いているように見えたけれど、次の瞬間、その身体はヴィムの手から離れ床へと滑り落ちた。

「チッ」

 忌々しそうにヴィムが舌打ちして微かに顔を歪めると、首元に手を当てて脈を探り、数呼吸の後、小さく頭を振った。

「死んだか」
「ああ」

 ヴォルフ様の呼びかけにヴィムが答えながら立ち上がった。

「侯爵、その者は」

 誰もがまだ動けずにいる中、騎士団長が前に進み出て躊躇いがちにヴォルフ様に問いかけた。目の前で起きた事象の理由が思い浮かばないから混乱されているのかもしれない。事情を知っている私ですら何が起きたのかはっきりしないもの。

「自死したようだ」
「麻薬にやられているように見えましたが……」
「ああ。だが、こうなってはわからん」
「さようですな」

 ヴォルフ様やヴィムにはわかるのかもしれないけれど、それを口にされることはなかった。屋敷に戻ったら教えてくださるかしら?

「誰か、遺体を地下牢へ運べ」
「はっ」

 騎士団長の声が硬直していた空間を動かした。騎士たちが慌ただしく動き始める。まだ実感が湧かないけれど、悪い夢から覚めたようだわ。身の内に溜まっていた空気を吐き出した。知らず知らずのうちに身体に力が入っていたわ。

「ヴォルフ」

 ヴィムの声に再びヴォルフ様に視線を向けて、息が止まった。ヴォルフ様の指先から流れ落ちるそれは……心臓が否応なく鼓動を速める。

「ヴォルフ様!」
「大事ない。騒ぐな」
「ですが……」
「奥方様、落ち着いてください。大した傷ではございません」

 そう答えるとヴィムがどこからか取り出した布でヴォルフ様の腕を縛った。大丈夫なの? その傷はジーモンが? 毒の心配はないの?

「落ち着けって。部屋に戻るのが先だ」

 ヴィムが私にだけ聞こえるような声でそう囁いた。そ、そうね、毒なら時間との勝負、ここで騒ぐよりも部屋に戻るのが先だわ。


「兄上?」

 陛下がこちらの異変に気づいたようで怪訝な表情でこちらを見ていた。

「何でもない。一旦部屋に戻る」
「え? あ、ああ。そうだね。今日はここまでにしよう。皆も下がってくれ。また連絡する」

 ヴォルフ様は陛下から腕が見えないように立たれていたため気づくことはなかった。反対側には私やヴィムがいるから会場内の誰も気づかれていないよう。そのせいか陛下は一同にそう呼びかけられて散会になった。その一言に会場内の空気が緩んだように感じた。

「行くぞ」
「え、ええ」

 歩いて大丈夫なのかと、毒だったら危険ではないかと気になったけれど、ヴォルフ様は私の手を取ってさっさと歩きだしてしまった。その後をヴィムが続く。こうなっては早々に部屋に戻るのがよさそうね。不安が顔に出ないよう参加者に会釈しながらその場を後にした。

 幸いにも誰も私たちを止めたりはしなかった。有難いわ、今はヴォルフ様の治療が先だから。それに気持ちを落ち着ける時間が欲しい。情報の整理も……否定されたけれどあの者はジーモンなのよね。だったらお身体だけでなくお心も心配だわ。師として慕っていらっしゃった方が目の前で亡くなったのだから……去り際に会場に視線を向けると騎士たちがジーモンを担架に乗せているのが見えた。

 王宮に賜った我が家の部屋に入った。会場から近いのが有難い。医師を呼ばなければ。アベルにそう告げようとしたけれど、ヴォルフ様が上着を脱ぐとすぐにヴィムが傷口を調べ、アベルが用意した水で洗った。傷は小さいものだったけれど、出血はまだ止まらない。もしかしてかなり深いの?

「傷はどうなの?」
「あ~傷口は小さいが深いな。どうだ?」
「痛みだけだ。痺れはない」
「だったら神経は大丈夫そうだな」

 ヴィムが手際よく包帯を巻いていく。慣れているのね。それだけ怪我をする機会が多かったってことよね。

「身体は?」
「変わりない」
「そうか。念のため解毒剤を飲んでおけ」
「ああ」

 私やアベルを置き去りにしたまま二人の間で結論がついてしまっていたけれど、本当にそれでいいの? ヴィムは医師じゃないから正直不安しかないのだけど……

「本当に大丈夫ですの?」
「ああ」
「問題ねぇよ。毒に関しては医師よりも俺たちの方が詳しいんだ。なんせ日常茶飯事だからな」
「あなたに言われても安心出来ないわ。遅効性の毒を受けて麻痺が残ったじゃない」

 そう、数年前に毒を受けた時、過小評価して手当をしなかったせいで麻痺が残ったわ。そんな彼に断定されても安心出来ない。

「うわ、余計なこと覚えていやがる」
「毒の解毒は時間との勝負だと言ったのはあなたじゃない」

 何が余計なことよ。あなたならそれでもいいけれど、ヴォルフ様はこの国の要なのよ。それに曾孫の誕生を一緒に祝うって約束しているのだから、小さなことだって見過ごせないわ。

「イルーゼ、大丈夫だ。マルガほどではないがヴィムも毒には詳しい」

 意外にもヴォルフ様がヴィムを擁護した。そりゃあ、影なら自身も毒を使うこともあるでしょうから詳しいのかもしれないけれど。でも、本当に大丈夫なの?

「念のため解毒剤を飲む」
「解毒剤?」

 そう言うとヴォルフ様は懐から薬の包みを取り出した。

「それは?」
「マルガが用意してくれた解毒剤だな。遅効性の毒は限られてる。これを飲んでおけば大抵は何とかなる」

 ヴォルフ様に尋ねたけれど答えたのはヴィムだった。そうなの? だけど……ジーモンは死んでしまったから何の毒かを聞き出すことも出来ない。だったらこれが最善なのかしら? そんな風に思っている間にヴォルフ様は解毒剤を飲み干されてしまった。

「今日はもう呼び出しもねぇだろう。ヴォルフ、念のため大人しくしておけよ」
「わかった」
「ほら、奥方。今日は王が来ても断れよ。ヴォルフを休ませるんだ」
「え、ええ」

 ヴィムにそんな指示をされるとは思わなかったけれど、悔しいけれどその通りね。アベルにヴォルフ様の着替えを頼み、私も隣室で簡易なドレスに着替えた。屋敷に戻りたいけれど今の状態でヴォルフ様を動かすのも憚られる。アベルに頼んで屋敷に使いを出し、マルガとロータルをここに呼ぶように頼んだ。あの二人がいてくれるなら安心だから。

 着替えを終えて居間に戻ると、ヴォルフ様は着替えを終わらせてソファに座ってお茶を飲んでいらっしゃった。ヴィムの姿はないわ。どこに行ったのかしら? 隣に腰を下ろすとアベルがお茶を淹れてくれた。

「ヴォルフ様、お身体は……」
「今のところ問題ない。大丈夫だろう」
「ですが……」
「約束を違える気はない」

 それは私とのあの約束だと思っていいの? 嬉しいけれど不安は消えない。マルガやロータルが来てくれるし、今の段階で症状が出ないなら即効性ではないはず。遅効性の毒の解毒剤も飲まれたから大丈夫なのよね?


しおりを挟む
感想 1,631

あなたにおすすめの小説

さようなら、お別れしましょう

椿蛍
恋愛
「紹介しよう。新しい妻だ」――夫が『新しい妻』を連れてきた。  妻に新しいも古いもありますか?  愛人を通り越して、突然、夫が連れてきたのは『妻』!?  私に興味のない夫は、邪魔な私を遠ざけた。  ――つまり、別居。 夫と父に命を握られた【契約】で縛られた政略結婚。  ――あなたにお礼を言いますわ。 【契約】を無効にする方法を探し出し、夫と父から自由になってみせる! ※他サイトにも掲載しております。 ※表紙はお借りしたものです。

「君との婚約は時間の無駄だった」とエリート魔術師に捨てられた凡人令嬢ですが、彼が必死で探している『古代魔法の唯一の使い手』って、どうやら私

白桃
恋愛
魔力も才能もない「凡人令嬢」フィリア。婚約者の天才魔術師アルトは彼女を見下し、ついに「君は無駄だ」と婚約破棄。失意の中、フィリアは自分に古代魔法の力が宿っていることを知る。時を同じくして、アルトは国を救う鍵となる古代魔法の使い手が、自分が捨てたフィリアだったと気づき後悔に苛まれる。「彼女を見つけ出さねば…!」必死でフィリアを探す元婚約者。果たして彼は、彼女に許されるのか?

今さら「間違いだった」? ごめんなさい、私、もう王子妃なんですけど

有賀冬馬
恋愛
「貴族にふさわしくない」そう言って、私を蔑み婚約を破棄した騎士様。 私はただの商人の娘だから、仕方ないと諦めていたのに。 偶然出会った隣国の王子は、私をありのまま愛してくれた。 そして私は、彼の妃に――。 やがて戦争で窮地に陥り、助けを求めてきた騎士様の国。 外交の場に現れた私の姿に、彼は絶句する。

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
私は、夫にも子供にも選ばれなかった。 その事実だけを抱え、離縁を突きつけ、家を出た。 そこで待っていたのは、最悪の出来事―― けれど同時に、人生の扉がひらく瞬間でもあった。 夫は愛人と共に好きに生きればいい。 今さら「本当に愛していたのは君だ」と言われても、裏切ったあなたを許すことはできない。 でも、子供たちの心だけは、必ず取り戻す。 妻にも母にもなれなかった伯爵夫人イネス。 過去を悔いながらも、愛を手に入れることを決めた彼女が辿り着いた先には――

「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある

柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった 王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。 リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。 「わかりました。あなたには、がっかりです」 微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。

離婚する両親のどちらと暮らすか……娘が選んだのは夫の方だった。

しゃーりん
恋愛
夫の愛人に子供ができた。夫は私と離婚して愛人と再婚したいという。 私たち夫婦には娘が1人。 愛人との再婚に娘は邪魔になるかもしれないと思い、自分と一緒に連れ出すつもりだった。 だけど娘が選んだのは夫の方だった。 失意のまま実家に戻り、再婚した私が数年後に耳にしたのは、娘が冷遇されているのではないかという話。 事実ならば娘を引き取りたいと思い、元夫の家を訪れた。 再び娘が選ぶのは父か母か?というお話です。

悪役令嬢と言われ冤罪で追放されたけど、実力でざまぁしてしまった。

三谷朱花
恋愛
レナ・フルサールは元公爵令嬢。何もしていないはずなのに、気が付けば悪役令嬢と呼ばれ、公爵家を追放されるはめに。それまで高スペックと魔力の強さから王太子妃として望まれたはずなのに、スペックも低い魔力もほとんどないマリアンヌ・ゴッセ男爵令嬢が、王太子妃になることに。 何度も断罪を回避しようとしたのに! では、こんな国など出ていきます!

三回目の人生も「君を愛することはない」と言われたので、今度は私も拒否します

冬野月子
恋愛
「君を愛することは、決してない」 結婚式を挙げたその夜、夫は私にそう告げた。 私には過去二回、別の人生を生きた記憶がある。 そうして毎回同じように言われてきた。 逃げた一回目、我慢した二回目。いずれも上手くいかなかった。 だから今回は。

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にレジーナの小説・漫画を1話以上レンタルしている と、レジーナのすべての番外編を読むことができます。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。