103 / 116
頑張った結果
しおりを挟む
「単刀直入に言う。俺の婚約者になってくれ」
その言葉に、腕に食い込ませた爪が一層深く身に沈んだ。痛いなんて感覚は既にどこかに去って、今はこれが現実だと思い留めるためのそれになっていた。痛いから…これは夢ではないのだろう。でも…
「婚約って…この前白紙にしたばかりで…」
「わかっている」
「だったら…」
もう形だけの婚約者なんて勘弁して欲しかった。そんな事をしたら忘れたくても忘れられなくなってしまう。早く視界に入らないくらい離れたいと思っているのに…
「ど、どうしてそんなことを仰るのです? わ、私の気持ちを知って…」
「知っているし、お前だからだ。他の者になんか頼めないからだ」
それは…既に一度は解消されているから、既に私は傷物だと世間では言われているから、それが好都合だから頼みたいと言いたいのだろうか…そりゃあ、未婚の令嬢を新たに婚約者にしたら、後が面倒なのは明らかだ。彼の身分とその見た目と能力では、相手が本気になってしまう可能性は高くて、いざ解消となった時に揉めるのは目に見えている。
(…そんなに私は…都合がいい女なの?)
そりゃあ、貧乏な伯爵家の出で持参金も用意出来ず、既に行き遅れの上に一度婚約を解消していて結婚は絶望的だ。それに裏の事情を知っているから隠す必要もなければ、新たに説明する必要もない。知らなくてもいいことを知っているというだけでも、利用するにはうってつけだと思われても不思議じゃないけど…
(…今まで頑張ってきた結果が…これなの…?)
自分でも驚くほどに心が冷えていくのがわかった。王家にお仕えする貴族の一員として、王家から何かを望まれるのは光栄なことだ。その感覚は子供の頃から刷り込まれてきたもので、今まで疑ったことはない。王子の地位にある方から婚約者にと望まれるのは、理由はどうであれ僥倖なのだけど…湧き上がってくる絶望に、声が出せない。光栄ですと応えなければならない場面なのに…
「おい?どうした?」
気が付けば、向かいの席に座っていたはずの彼が直ぐ側にいた。いつのまに…と思う間もなく、手を取られた。腕に感じていた痛みが別の痛みに変わったな…などと、どうでもいい事を考えていた。頭が…動かない。
「どうした?何を…考えている?」
何を?と問われても、返せる言葉が見つからなかった。頭が考えることを拒否しているようにも感じたし、心が考えるなと命じているようにも感じた。
「な、何も…」
思ったことを素直に言って許されるのは子供だけだし、大人は感情で動くべきではない。私はこれでも貴族のはしくれで、情よりも理を優先しなければいけない立場にある。私は貴族で、責任があって、だから意に染まぬ事でも命じられればやらない選択肢はなくて…だから…
「お、おい…なんで…泣くんだよ?」
「……は?」
言われた言葉の意味がわからなくて、変な声が出てしまった。
「な、なくって…ど、どうして……?」
「どうしてって…俺が聞いているんだけど?」
彼の声が戸惑っている様にも感じられて、益々混乱したけれど…
「……ぁ…」
泣いているのは、自分だった。そのことがショックで、自分でも信じられないくらいに驚いた。これまで嫌な事や辛いことがあっても、泣けば女だからと侮られ馬鹿にされるから、絶対に職場では泣かないと誓って、そうしてきたのだ。
「…こ、これは…ち…」
「…泣くほど…嫌か?」
違うと言おうとしたのに、その声は彼の言葉に被せられて音にならなかった。
「…え?」
「俺が…嫌いか?」
彼が真っすぐに私の目を見てそう尋ねてきた。強い視線に絡めとられた気がした。
(それって…どういう意味、で…?)
嫌いかだなんて、どうしてそんな問いが出来るのだろう。好きだと言ってから、それほど時間が経ったわけでもないのに…
「俺は…お前が好きだ」
「………え?」
「お前が好きなんだ。だから…俺の妻に…なってくれ」
時間が止まった、気がした。
その言葉に、腕に食い込ませた爪が一層深く身に沈んだ。痛いなんて感覚は既にどこかに去って、今はこれが現実だと思い留めるためのそれになっていた。痛いから…これは夢ではないのだろう。でも…
「婚約って…この前白紙にしたばかりで…」
「わかっている」
「だったら…」
もう形だけの婚約者なんて勘弁して欲しかった。そんな事をしたら忘れたくても忘れられなくなってしまう。早く視界に入らないくらい離れたいと思っているのに…
「ど、どうしてそんなことを仰るのです? わ、私の気持ちを知って…」
「知っているし、お前だからだ。他の者になんか頼めないからだ」
それは…既に一度は解消されているから、既に私は傷物だと世間では言われているから、それが好都合だから頼みたいと言いたいのだろうか…そりゃあ、未婚の令嬢を新たに婚約者にしたら、後が面倒なのは明らかだ。彼の身分とその見た目と能力では、相手が本気になってしまう可能性は高くて、いざ解消となった時に揉めるのは目に見えている。
(…そんなに私は…都合がいい女なの?)
そりゃあ、貧乏な伯爵家の出で持参金も用意出来ず、既に行き遅れの上に一度婚約を解消していて結婚は絶望的だ。それに裏の事情を知っているから隠す必要もなければ、新たに説明する必要もない。知らなくてもいいことを知っているというだけでも、利用するにはうってつけだと思われても不思議じゃないけど…
(…今まで頑張ってきた結果が…これなの…?)
自分でも驚くほどに心が冷えていくのがわかった。王家にお仕えする貴族の一員として、王家から何かを望まれるのは光栄なことだ。その感覚は子供の頃から刷り込まれてきたもので、今まで疑ったことはない。王子の地位にある方から婚約者にと望まれるのは、理由はどうであれ僥倖なのだけど…湧き上がってくる絶望に、声が出せない。光栄ですと応えなければならない場面なのに…
「おい?どうした?」
気が付けば、向かいの席に座っていたはずの彼が直ぐ側にいた。いつのまに…と思う間もなく、手を取られた。腕に感じていた痛みが別の痛みに変わったな…などと、どうでもいい事を考えていた。頭が…動かない。
「どうした?何を…考えている?」
何を?と問われても、返せる言葉が見つからなかった。頭が考えることを拒否しているようにも感じたし、心が考えるなと命じているようにも感じた。
「な、何も…」
思ったことを素直に言って許されるのは子供だけだし、大人は感情で動くべきではない。私はこれでも貴族のはしくれで、情よりも理を優先しなければいけない立場にある。私は貴族で、責任があって、だから意に染まぬ事でも命じられればやらない選択肢はなくて…だから…
「お、おい…なんで…泣くんだよ?」
「……は?」
言われた言葉の意味がわからなくて、変な声が出てしまった。
「な、なくって…ど、どうして……?」
「どうしてって…俺が聞いているんだけど?」
彼の声が戸惑っている様にも感じられて、益々混乱したけれど…
「……ぁ…」
泣いているのは、自分だった。そのことがショックで、自分でも信じられないくらいに驚いた。これまで嫌な事や辛いことがあっても、泣けば女だからと侮られ馬鹿にされるから、絶対に職場では泣かないと誓って、そうしてきたのだ。
「…こ、これは…ち…」
「…泣くほど…嫌か?」
違うと言おうとしたのに、その声は彼の言葉に被せられて音にならなかった。
「…え?」
「俺が…嫌いか?」
彼が真っすぐに私の目を見てそう尋ねてきた。強い視線に絡めとられた気がした。
(それって…どういう意味、で…?)
嫌いかだなんて、どうしてそんな問いが出来るのだろう。好きだと言ってから、それほど時間が経ったわけでもないのに…
「俺は…お前が好きだ」
「………え?」
「お前が好きなんだ。だから…俺の妻に…なってくれ」
時間が止まった、気がした。
176
あなたにおすすめの小説
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
一級魔法使いになれなかったので特級厨師になりました
しおしお
恋愛
魔法学院次席卒業のシャーリー・ドットは、
「一級魔法使いになれなかった」という理由だけで婚約破棄された。
――だが本当の理由は、ただの“うっかり”。
試験会場を間違え、隣の建物で行われていた
特級厨師試験に合格してしまったのだ。
気づけばシャーリーは、王宮からスカウトされるほどの
“超一流料理人”となり、国王の胃袋をがっちり掴む存在に。
一方、学院首席で一級魔法使いとなった
ナターシャ・キンスキーは、大活躍しているはずなのに――
「なんで料理で一番になってるのよ!?
あの女、魔法より料理の方が強くない!?」
すれ違い、逃げ回り、勘違いし続けるナターシャと、
天然すぎて誤解が絶えないシャーリー。
そんな二人が、魔王軍の襲撃、国家危機、王宮騒動を通じて、
少しずつ距離を縮めていく。
魔法で国を守る最強魔術師。
料理で国を救う特級厨師。
――これは、“敵でもライバルでもない二人”が、
ようやく互いを認め、本当の友情を築いていく物語。
すれ違いコメディ×料理魔法×ダブルヒロイン友情譚!
笑って、癒されて、最後は心が温かくなる王宮ラノベ、開幕です。
偉物騎士様の裏の顔~告白を断ったらムカつく程に執着されたので、徹底的に拒絶した結果~
甘寧
恋愛
「結婚を前提にお付き合いを─」
「全力でお断りします」
主人公であるティナは、園遊会と言う公の場で色気と魅了が服を着ていると言われるユリウスに告白される。
だが、それは罰ゲームで言わされていると言うことを知っているティナは即答で断りを入れた。
…それがよくなかった。プライドを傷けられたユリウスはティナに執着するようになる。そうティナは解釈していたが、ユリウスの本心は違う様で…
一方、ユリウスに関心を持たれたティナの事を面白くないと思う令嬢がいるのも必然。
令嬢達からの嫌がらせと、ユリウスの病的までの執着から逃げる日々だったが……
婚約者が他の女性に興味がある様なので旅に出たら彼が豹変しました
Karamimi
恋愛
9歳の時お互いの両親が仲良しという理由から、幼馴染で同じ年の侯爵令息、オスカーと婚約した伯爵令嬢のアメリア。容姿端麗、強くて優しいオスカーが大好きなアメリアは、この婚約を心から喜んだ。
順風満帆に見えた2人だったが、婚約から5年後、貴族学院に入学してから状況は少しずつ変化する。元々容姿端麗、騎士団でも一目置かれ勉学にも優れたオスカーを他の令嬢たちが放っておく訳もなく、毎日たくさんの令嬢に囲まれるオスカー。
特に最近は、侯爵令嬢のミアと一緒に居る事も多くなった。自分より身分が高く美しいミアと幸せそうに微笑むオスカーの姿を見たアメリアは、ある決意をする。
そんなアメリアに対し、オスカーは…
とても残念なヒーローと、行動派だが周りに流されやすいヒロインのお話です。
【完結】モブのメイドが腹黒公爵様に捕まりました
ベル
恋愛
皆さまお久しぶりです。メイドAです。
名前をつけられもしなかった私が主人公になるなんて誰が思ったでしょうか。
ええ。私は今非常に困惑しております。
私はザーグ公爵家に仕えるメイド。そして奥様のソフィア様のもと、楽しく時に生温かい微笑みを浮かべながら日々仕事に励んでおり、平和な生活を送らせていただいておりました。
...あの腹黒が現れるまでは。
『無口な旦那様は妻が可愛くて仕方ない』のサイドストーリーです。
個人的に好きだった二人を今回は主役にしてみました。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
大好きだった旦那様に離縁され家を追い出されましたが、騎士団長様に拾われ溺愛されました
Karamimi
恋愛
2年前に両親を亡くしたスカーレットは、1年前幼馴染で3つ年上のデビッドと結婚した。両親が亡くなった時もずっと寄り添ってくれていたデビッドの為に、毎日家事や仕事をこなすスカーレット。
そんな中迎えた結婚1年記念の日。この日はデビッドの為に、沢山のご馳走を作って待っていた。そしていつもの様に帰ってくるデビッド。でもデビッドの隣には、美しい女性の姿が。
「俺は彼女の事を心から愛している。悪いがスカーレット、どうか俺と離縁して欲しい。そして今すぐ、この家から出て行ってくれるか?」
そうスカーレットに言い放ったのだ。何とか考え直して欲しいと訴えたが、全く聞く耳を持たないデビッド。それどころか、スカーレットに数々の暴言を吐き、ついにはスカーレットの荷物と共に、彼女を追い出してしまった。
荷物を持ち、泣きながら街を歩くスカーレットに声をかけて来たのは、この街の騎士団長だ。一旦騎士団長の家に保護してもらったスカーレットは、さっき起こった出来事を騎士団長に話した。
「なんてひどい男だ!とにかく落ち着くまで、ここにいるといい」
行く当てもないスカーレットは結局騎士団長の家にお世話になる事に
※他サイトにも投稿しています
よろしくお願いします
結婚結婚煩いので、愛人持ちの幼馴染と偽装結婚してみた
夏菜しの
恋愛
幼馴染のルーカスの態度は、年頃になっても相変わらず気安い。
彼のその変わらぬ態度のお陰で、周りから男女の仲だと勘違いされて、公爵令嬢エーデルトラウトの相手はなかなか決まらない。
そんな現状をヤキモキしているというのに、ルーカスの方は素知らぬ顔。
彼は思いのままに平民の娘と恋人関係を持っていた。
いっそそのまま結婚してくれれば、噂は間違いだったと知れるのに、あちらもやっぱり公爵家で、平民との結婚など許さんと反対されていた。
のらりくらりと躱すがもう限界。
いよいよ親が煩くなってきたころ、ルーカスがやってきて『偽装結婚しないか?』と提案された。
彼の愛人を黙認する代わりに、贅沢と自由が得られる。
これで煩く言われないとすると、悪くない提案じゃない?
エーデルトラウトは軽い気持ちでその提案に乗った。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる