12 / 36
向島、秋(二)
しおりを挟む
男は、その後再び久弥の前に現れることはなかった。
重傷を負った久弥が母の遺骸を抱えたまま倒れているのを、近くの村の住人が見つけ大騒ぎになった。偶然、村には知己を訪れていた橋倉林乃介が滞在していて、久弥に懸命の手当てを施したのだった。どうにか命を拾った久弥は、町方には辻斬りに襲われたと告げ、母を渋江村の寺に埋葬した。母と久弥の刀傷を、本当に辻斬りの仕業なのかと橋倉が訝しんでいる節があったが、同じ武家の出であることから事情を慮ったのか、久弥の言に橋倉は異議を挟まなかった。橋倉とは、それ以来の付き合いだ。
「……その直後に、父が幕閣として江戸に移ることになった。母が死んで少しした頃、父が向島の家を密かに訪れてな。母も亡き今、中屋敷か国元の城に住まうかと聞かれたが、嫌だと言った。私は三味線弾きとして暮らしたいのだと。そうしたら、本所にこの家を用意してくれた。まだ十八であったし、向島には寓居していたから、家を与えられたのはありがたいことだった。
それ以来、どうにか平穏に三味線弾きとして暮らしてきたんだがね。今年に入って、国元の情勢がとうとう看過できぬところまで悪化してしまった。家木家老は奸計を弄して上屋敷を手勢で囲み、父に隠居を迫ったのだ」
しばらく青馬の顔に見入ると、ゆっくりと言葉を継いだ。
「私の剣の腕は父の家臣にも知られていたから、上屋敷の包囲を破る助勢を頼まれた。国元の腕の立つ剣客は家木が囲い込んでいるらしく、味方は少なかった。江戸で人を集めれば、騒擾がお上に伝わり父が処罰を受けかねない。それで私も加勢せざるを得なくなった。それがあの大火の朝のことだ。……お前に会ったのは、その帰り道だよ」
青馬が声もなく唇を噛んだ。
忙しく瞳が揺れ、必死に久弥の言葉を理解しようと試みているのが見て取れた。
父の身内に疎まれ、かと思えば離れることは許されず、母も失い、己の人生が振り回される不条理にただ耐えて暮らしてきた日々だった。三味線の名手として名を上げても、それは変わらなかった。父の意志次第で、いつ暮らしのすべてを捨てさせられるかわからぬ、そういう人生だ。赤の他人の子供なぞを育てている余裕などないはずだったし、こんな境遇の人間が親代わりなどであっていいわけがなかった。
だが、大勢を斬って捨てた帰り道、焼け跡に茫然と佇んでいる子供を見たら、どうしてかそこに置いて行く気になれなかったのだ。
「……十五で元服するまで」
久弥は囁くように言った。
「私の名は青馬といった」
青馬が零れんばかりに目を瞠り、息を止める様を見て、視線を逸らさずにはいられなかった。
我ながら、馬鹿なことをしたものだ。
「元服してから仮名は久弥、諱は胤靖という」
元服の際、久弥に名を与えたのは父だった。結局のところ、母が父をどう思っていたのか久弥にはわからず終いだ。最初こそ母は父を蛇蝎のごとく忌み嫌い、あらゆる干渉にはげしく抵抗したものだった。けれども武家の子として元服させることを了承し、三味線の稽古の傍ら若君として教育を受けさせ、父が名前と山辺家伝来の祐定の傑作を与えることも許した。半分は父の子であると考えたのか、大名の子息として得られるはずものを与えたいと思ったのか。それとも、父に罪滅ぼしの機会を与えようとしたのか。
大名家の子息は、七つの頃から重臣を守役に付け、各分野の教育係から教えを受ける。大名家の子息としての礼法や心構えにはじまり、四書五経などもちろん、武術や兵法、藩政や家の歴史などを徹底して教え込まれるのである。久弥は嫡子ほどではないとはいえ、有事の際には世子として立てるよう、諏訪家老を守役として元服するまでの間様々な指導者から教育を施された。母はそれを黙って見ていた。侍嫌いの母だったが、相反するものが胸の内には常にあったのかもしれない。
青馬は頬に血を上らせて、ぼんやりと久弥を見ていたが、不意に弾けるような笑顔を浮かべた。
「どうした」
久弥が首を傾げると、
「お師匠様の名前をもらって、嬉しいです」
青馬が日向のように明るい表情で、にこにこしながら答えた。
「……変えてもいいんだぞ」
「変えません。ずっとこのままがいいです」
青くなって青馬が声を上げるのを見て、こんなに業の深い男の名前が嬉しいものだろうか、と久弥は苦いものを噛み締めていた。
「お前が怖い思いをする謂れはないのだから、ここに暮らす必要もない。私に気兼ねすることはないし、落ち着いて暮らせる場所はいつでも探してやれるぞ」
「い、嫌です」
さらに声を高くして青馬が腰を浮かせた。
「怖くなんてありません。お師匠様は強いから大丈夫です。そうでしょう? 離れて暮らすのなんて嫌です。それとも、お師匠様はお侍に戻ってしまうんですか」
半纏を握り締める小さな両手を見下ろしながら、久弥は押し黙った。
久弥の姿が見えなくなると、夜も日も明けぬような子だった。己から離すのは酷だろうなと想像はついた。
養い子でしかない青馬を家木の一派が付け狙うことは考えにくいが、己が討たれるか、山辺家へ戻されることがあれば、青馬は一人ぽっちで放り出されてしまう。打てる手は打っておかねばならないだろう。考えに沈んでいると、青馬は不安に駆られたらしく頬を強張らせた。
「……お師匠様、あの、俺も剣術を習います。もっと大きくなって、お師匠様みたいに腕を上げたら、お役に立ちます」
いきなり思い詰めた表情で言うので、久弥はぽかんとして固まった。
「……馬鹿を言え」
思わず吹き出すと、青馬が顔を赤らめて悄然とする。久弥は手を伸ばし、小さな頭にぽんと掌を置いた。
「ありがとうよ。だが、お前が大きくなる頃には、すっかり片がついているさ」
ーーどちらに転ぶとしても、そう遠いことではあるまい。
誰かが世子に立たねばならないのだ。父たちは、嫌でも決着をつけざるを得まい。薄氷を踏む思いで待つこと以外に、できることはなかった。……今までもそうであったように。
子馬のような両目で久弥を食い入るように見上げたまま、青馬は膝に置いた両手を強く握り締めていた。
***
翌日、青馬はいつものように起きて来て、門人の稽古を聞いて、自分の稽古に没頭して過ごしていたが、時折、ふっと宙を睨んでは何かを考え込んでいた。昨夜の出来事は到底一晩で咀嚼しきれることでもなかろうから、無理もないと久弥は敢えて何も問わなかった。
夕刻、風呂の支度をしようと襷がけをして井戸端で水を汲んでいると、青馬が近付いて来た。
「お師匠様、あの……」
緊張した面持ちで一瞬言い澱むと、思い切ったように息を吸った。
「あのう、怪我はもう治ったし、これからは、湯屋に行きます。俺、大丈夫です」
「……青馬」
手を止めて、まじまじと少年の顔を見下ろした。予想もしなかった言葉に、なんと返せばいいのか声に詰まった。
傷は癒えているだろうが、青馬の体には折檻の痕が残っている。着替えを助けてやる時にちらと見たが、まだあちらこちらに目立つ傷痕があった。子供のことであるし、成長と共に薄れてはいくだろうが、湯屋に行けば人目を引くだろう。
「風呂を沸かす手間だの費えだのを気にしているのなら、無用の心配だぞ。こんなものは大したことじゃない」
久弥が腰を屈めて言うと、青馬の顔が耳朶まで赤くなった。
実のところ、毎日のように内風呂を沸かすというのは、相当な贅沢だった。江戸では水は貴重で、薪炭は高値であるし、火を出さないように細心の注意を払う必要もある。商家に暮らしていた青馬も、そのことはよく知っているのに違いなかった。
夏であれば台所で湯を沸かして盥で済ませることもあるが、冬になればそうもいかない。だが、大勢の目に傷痕を晒す青馬の苦痛に比べたら、そんなことは些細な問題だった。
「それに、こう見えて実入りはいいんだよ。私の演奏は高直だからな」
悪戯っぽく付け加えたが、嘘ではない。妙手として知られる久弥の演奏は、一席で数両は下らないのだ。この家を除いて山辺家からの援助は退けてきたが、暮らしに困ったことはなかった。内風呂を使いつづけたからといって家が傾くわけでもないし、演奏の機会を多くして稼ぎを増やすくらいの甲斐性はあるつもりだ。
しかし、青馬は着物を握り締めてなおも言った。
「いいえ、だ、駄目です。湯屋に行きます。行ってみます」
夕日に照らされ、赤い顔がいっそう赤い。様々な感情が入り混じった、怒っているような、泣き出しそうな顔で繰り返すと、青馬は大きく息を吐いた。
「……でも、行ったことがないので、お師匠様も一緒に、来てくれますか」
小声で弱々しく言うのを聞いて、久弥は眉を下げて微笑んだ。
青馬なりに、必死に考えているのだろう。久弥の助けになることはないかと、健気に探しているのだろう。その思いが切ないほどに伝わってくる。
「……当たり前だ」
桶に汲んだ水が、黄金を溶かしたように輝きながら揺れていた。
***
相生町二丁目の湯屋『亀の湯』に入ると、仕事帰りの人々の混雑はひと段落したらしく、男湯の脱衣所に人影は少なかった。番台で大人十文、子供六文を払い、洗い粉とぬか袋を二つ買うと、青馬にひとつ渡してやった。青馬は緊張した顔つきながらも、不思議そうに袋をいじっていた。
「岡安のお師匠、すっかりお見限りでしたねぇ。どこの湯に浮気なすってたんですよ。あたしはもう、今生の別れかと思ったよ」
すきっ歯の老人が番台から身を乗り出すので、久弥は、そんなこたないですよ、と笑って言い返した。
脱衣所で着物を脱いで、持参した手拭と共に衣棚に仕舞うと、青馬がおそるおそる真似をする。
洗い場は湯気がもうもうと立ち込めているし、窓も少ないので薄暗く、それほどものがはっきり見えるわけではない。久弥は青馬を体の影に隠してやりながら、洗い場に入った。
洗い場の桶から湯を汲み、板敷の端に陣取ると、ぬか袋で体を擦るやり方を教えてやる。
青馬は周りの目を気にしておどおどとしていたが、人も少なく、湯気で見通しもきかないことに安心した様子で、見様見真似で体を洗いはじめた。
頭を洗ってやって、石榴口と呼ばれる出入り口をくぐって湯船に入る。外気を入れないようにかなり入口が低いので、久弥のような長身は難儀する。中はもうもうと湯気が立ち込め、ますます薄暗く、隣の人の顔も容易に判別できないほどだ。青馬にはかえって気楽だろう。
「熱い!」
湯に足を浸けた青馬が小声で叫ぶのを聞いて、久弥は笑った。
「これでもぬるい方だ。仕舞い湯に近いからな」
青馬が息を詰めて湯に浸かり、ふうふうと息をする。湯船の中には数人の客がいるようだったが、湯気に隔てられ、小声で会話するのが聞こえるばかりだった。
「……なんにも見えません」
ふうふう言いながら、青馬が拍子抜けしたような、嬉しそうな声で言う。
「そうだな」
久弥も幾分ほっとして、湯の中で息を吐いた。
広いですね、と湯船を見まわしながら、青馬は楽し気だった。
しかし、いくらもしない内に、「……あのう、お師匠様、熱いです」と蚊の鳴くような声が聞こえてきた。
茹で蛸のように全身真っ赤になった青馬と湯船を出て、最後に湯汲みから岡湯を桶にもらった。これを上がり湯にして体を流すのだ。
洗い場の隅で湯を体にかけていると、三つくらいの子供が湯気の向こうから飛び出して来た。
つるりと転びそうになったので、手を伸ばして腕を掴んでやると、父親らしき男が追って現れた。
「おっと、こいつはすんません。目を離すとすぐこれなもんで……」
笑って子供を受け取った父親が、青馬を見るなりぎょっとしたように目を剥いた。
「坊主、おめぇ、そいつぁどうしたんだい」
しまった、と思った時には男が顔色を変えて声を上げていた。
「いや、これは……」
こうなることも予想していたはずが、舌が強張り咄嗟に言葉が出なかった。青馬が鋭い緊張に息を止め、凍り付いたように立ち竦む。
みみず腫れの跡や、青や黒の痣の痕跡が残る青馬の小さな背中に、男の瞠った目が釘付けになっていた。
「ーー古い傷です。何でもありません」
久弥はそう言うなりさっと少年の背を押し、その場を離れた。
「古いって、あんた。ちょっと、おいっ」
湯気の向こうから非難するような声が追いかけてくるのを振り切って、脱衣所に戻った。
「……気にするな」
手拭いで手早く体を拭きながら固い声で言うと、青馬は湯上りだというのに青い顔をして、必死に体を拭いていた。
単を肩に掛けてやったところで、背後に視線を感じて振り向くと、男が一人じろじろとこちらを眺めている。着物を尻端折りにした四十絡みの男で、風呂上がりらしくつやつやとした顔をしているが、底光りする目からは堅気らしからぬ剣呑さが漂うようだった。
着物を身に着けながら見返すと、男がふらりと近付いて来た。
「……あんた、松坂町の三味線のお師匠だったな?」
久弥は寸の間男の顔を眺めると、小さく首肯した。
「そうですが、何か」
「この子、あんたの子かい」
「ええ、そうです」
久弥がまた頷くと、ふん、と男が唇を舐めて青馬を見下ろした。
「お師匠さんよ、この子の傷、こりゃあ何だい」
粘ったような冷たい視線に、青馬が頬を強張らせる。血の気が引いて目の縁まで白っぽくなり、濡れた髪が額に張り付いて、まるで氷雨でずぶ濡れになったかのようだ。
「……あなたは」
小柄な男を見下ろすと、男は久弥を斜めに見上げた。
「俺かい。俺ぁ南町の久米様の手下をしてる、辰次ってもんでね」
同心の御用聞きか、と久弥はそっと顔を顰めた。面倒な男に目を付けられた。
「お師匠、あんた確か子供はいねぇよな。こいつはどういうことだい」
「……先日の火事で奉公先が焼けましてね。身寄りがないのを引き取ったんですよ」
棒立ちになった青馬の帯を結び、手拭いで髪を拭いてやりながら答えると、辰次の目が細くなった。
「へぇ。赤の他人の子供をかい? そいつは若いのに殊勝なこった。でも、その傷痕はちっと気になるよなぁ。誰の仕業だ?」
「奉公先が厳しかったそうでしてね。傷が残っているんですよ」
手短に言った久弥を、男は疑い深そうな目で睨めつけた。
「本当だろうねぇ。いや、疑うわけじゃねぇけどさ。あんたみたいに若い男が、おまけに独り身だってのに、突然子供を引き受けるなんてねぇ。ずいぶん思い切ったことをするもんだと驚いてさ」
「……と、いいますと」
静かに問い返すと、辰次は意味ありげな目をしてしばし黙った。
いつの間にか、脱衣所が静まり返り、数人の客が固唾を飲んでこちらを見ている。
久弥は男としばし睨み合った末、溜め息を吐いた。
「私の仕業じゃあありませんよ」
「……ふぅん。坊主、ひでぇ目に遭ったんだな。かわいそうに。そりゃあ誰にやられたんだい。ちっと教えてくれるかい。え?」
青馬の前にしゃがみこむと、青馬は引き攣った顔で唇を引き結んだ。
「そんなに怖がるこたねぇだろう。お前さんのことが心配なだけよ。世の中にはよ、親切そうな顔しながら、汚ぇことをやってのける野郎がごまんといるからな。俺ぁそういう奴が何より許せねぇのよ。な、本当のことを言ってみな。俺が助けてやるからよ」
震えるばかりで声も出せずにいる青馬を見かねたように、番台の老人が声をかけた。
「親分、お師匠はそんなお人じゃねぇですよ。お弟子さんたちにも慕われててさ、男気のある真っ当なお人なんだから」
「そういう澄ました真面目そうな奴に限って、えげつねぇ性癖があったりするんだぜ。裏じゃあ何やってるもんだかわかりゃしねぇってな。どうも、あんたは得体が知れないとこがあるしねぇ、お師匠。総州のご浪人だって話だが、脱藩なすったわけでもなさそうだし、どういうわけでご浪人なぞになられたんで?」
せせら笑うようにそう言いながら、辰次は蛭のような目で久弥の顔を舐めるように見回している。御用聞きと関わり合いになったことなどないが、縄張りの住人のことをよく知っているものだ。久弥は何やら薄ら寒い気分で辰次を見返した。白いものでも黒と疑うのが職分なのだろうが、食らいつかれた方はたまったものではない。
「亀沢町の橋倉先生に聞いてみてください。この子の治療をしていただいたんで、詳しく説明してくださると思いますよ」
「ああ……橋倉先生か。じゃあご足労だが、先生も自身番に来てもらうかねぇ」
自身番へ連れていく気か。久弥は内心憮然とした。だが、まぁ、御用聞きが不審に思うのも無理からぬ節もある。青馬が怯えるだろうが、辰次が納得するまで付き合う他なかろう。などと考えていると、
「……あ、相すみません」
唐突に、掠れた細い声が脱衣所に響いた。
「こんなことになるなんて、思わなくて」
打ちのめされたような瞳で、がくがくとふるえている青馬の顔を、辰次が驚いたように覗き込んだ。
「おい、どうしたい、坊主」
「お、お師匠様が」辰次を遮るように、青馬が上擦った声を出した。
「いつも風呂を沸かしてくれるので、人に傷を見られなくていいから、嬉しかったんです。でも、費えが大変だし、風呂を沸かすのは手間だし。だけど湯屋は怖くて、い、言いだせなくて。みんな気味悪がるだろうから。
……でも、ずっとこのままじゃ駄目だと思って、お師匠様にお願いしたんです。お師匠様が疑われるなんて、思わなかったんです。やめればよかったです。余計なことして、ごめんなさい。お師匠様を、連れていかないでください」
目を擦りながら、相すみません、とうわ言のように言い続ける青馬を、辰次が呆気にとられたように見ている。
「青馬」
なんと言ってやったらいいのかわからず、久弥はただ手拭いで青馬の顔を拭ってやった。
青馬は、我慢ができなくなったように久弥の袂を両手で掴むと、顔を押し付け声を殺して泣いた。十の子供の泣き方とは思えぬほど、静かに泣いた。
「あ……お、おいおい」
辰次が口篭もってばつの悪そうな顔をした。
「お師匠様は、ぶったりしません」
くぐもった涙声が、袂の陰から小さく響く。
「……おう。そうかい」
唇をへの字にして、辰次が鬢を掻いた。
「お師匠は、やさしいかい」
辰次が尋ねると、青馬は袂から顔をのぞかせ、涙の張った目を見開いて頷いた。
「やさしいです。あのう、とてもやさしいです」
懸命に訴える声に、御用聞きは歯をのぞかせてちらりと笑った。
「そうかい」
「あと、あのう……あの、すごくやさしいです。本当です」
もどかしげに言うと、はっとしたように身を乗り出した。
「それから、三味線がすごく上手です!」
力強く言ってから、馬鹿なことを言った、というように顔を赤らめる。
「違ぇねぇや」
辰次が吹き出し、周りの客が肩を揺らして笑った。
「わかったよ。ちぇ、何だよ俺が苛めたみてぇじゃねぇか」唇を尖らせてそうぼやきながらも、男の眼光がわずかに緩んで見えた。
「おい、つまらねぇ詮索をして悪かったな。坊主は気味悪くなんざねぇよ。ただ、辛ぇ目に遭ってんじゃねぇかと気になったもんでさ。坊主、なかなか肝が座ってるじゃねぇか。え?」
横目で久弥を見ると、御用聞きは少し考え、
「なぁ。俺ぁ繁多でない限りは、毎日大体このくれぇの時間に湯を浴びにくるんだよ。同じ頃にくるといいぜ。くだらねぇことを言ってくる野郎がいたら、俺が追い払ってやるからよ」
「そりゃあ、親分みたいなのに絡まれたらたまらんですわな」
体を拭いていた客が口さがなく言うのを聞いて、辰次は、おきゃあがれ、ときまり悪そうに怒鳴った。
青馬は恐ろしそうに久弥の袂を握っていたが、辰次がきつい眉を和らげて顔を覗き込むと、しばらく考え込んでからわずかに頷いた。
「ようし。じゃあまたな」
辰次は、ぽんと手拭いを肩に掛けると立ち上がった。
「邪魔したな、お師匠。ま、一応橋倉先生には確認しとくよ」
執念深い捨て台詞に、はぁ、と久弥は苦笑した。久弥を自身番へ引っ張れないのが残念だとでも言うような表情を一瞬浮かべると、御用聞きは大股に湯屋を出ていった。青馬は久弥の後ろに蝉のように張り付いて、また辰次が戻ってきやしないかと男湯の入り口を凝視していたが、やがてほっと緊張を解いて久弥の袂を放した。
「坊主、辰次の親分に言い返すなんて偉ぇもんだな。儂ならちびってるところさ」
少し離れて着替えていた老人が目を細めて言った。
「まったくよ。俺も肝が冷えたぜ。あれで意外と面倒見のいいところがあるんだがねぇ。なにしろ柄が悪いからな。破落戸と見分けがつかねぇよ」
隣で別の男が苦笑いする。
「ま、あの人に気に入られたら悪いようにはなんねぇから、安心しなよ」
「お師匠を庇ってやろうなんざ、てぇしたもんだ。俺もなんかあったら助けてやるからよ、心配すんな」
また他の客が話し掛けて来る。
青馬は慌てて久弥の袂の陰に隠れ、こちらを見上げた。
久弥が目に笑いを浮かべているのを見ると、そろそろと袂から顔を半分覗かせ、
「……ありがとう存じます」
と消え入るような声で言った。
「おい、さっきの勢いはどうしたんだい」
皆の笑い声が、仄暗く湿気を帯びた、暖かな脱衣所に響いた。
重傷を負った久弥が母の遺骸を抱えたまま倒れているのを、近くの村の住人が見つけ大騒ぎになった。偶然、村には知己を訪れていた橋倉林乃介が滞在していて、久弥に懸命の手当てを施したのだった。どうにか命を拾った久弥は、町方には辻斬りに襲われたと告げ、母を渋江村の寺に埋葬した。母と久弥の刀傷を、本当に辻斬りの仕業なのかと橋倉が訝しんでいる節があったが、同じ武家の出であることから事情を慮ったのか、久弥の言に橋倉は異議を挟まなかった。橋倉とは、それ以来の付き合いだ。
「……その直後に、父が幕閣として江戸に移ることになった。母が死んで少しした頃、父が向島の家を密かに訪れてな。母も亡き今、中屋敷か国元の城に住まうかと聞かれたが、嫌だと言った。私は三味線弾きとして暮らしたいのだと。そうしたら、本所にこの家を用意してくれた。まだ十八であったし、向島には寓居していたから、家を与えられたのはありがたいことだった。
それ以来、どうにか平穏に三味線弾きとして暮らしてきたんだがね。今年に入って、国元の情勢がとうとう看過できぬところまで悪化してしまった。家木家老は奸計を弄して上屋敷を手勢で囲み、父に隠居を迫ったのだ」
しばらく青馬の顔に見入ると、ゆっくりと言葉を継いだ。
「私の剣の腕は父の家臣にも知られていたから、上屋敷の包囲を破る助勢を頼まれた。国元の腕の立つ剣客は家木が囲い込んでいるらしく、味方は少なかった。江戸で人を集めれば、騒擾がお上に伝わり父が処罰を受けかねない。それで私も加勢せざるを得なくなった。それがあの大火の朝のことだ。……お前に会ったのは、その帰り道だよ」
青馬が声もなく唇を噛んだ。
忙しく瞳が揺れ、必死に久弥の言葉を理解しようと試みているのが見て取れた。
父の身内に疎まれ、かと思えば離れることは許されず、母も失い、己の人生が振り回される不条理にただ耐えて暮らしてきた日々だった。三味線の名手として名を上げても、それは変わらなかった。父の意志次第で、いつ暮らしのすべてを捨てさせられるかわからぬ、そういう人生だ。赤の他人の子供なぞを育てている余裕などないはずだったし、こんな境遇の人間が親代わりなどであっていいわけがなかった。
だが、大勢を斬って捨てた帰り道、焼け跡に茫然と佇んでいる子供を見たら、どうしてかそこに置いて行く気になれなかったのだ。
「……十五で元服するまで」
久弥は囁くように言った。
「私の名は青馬といった」
青馬が零れんばかりに目を瞠り、息を止める様を見て、視線を逸らさずにはいられなかった。
我ながら、馬鹿なことをしたものだ。
「元服してから仮名は久弥、諱は胤靖という」
元服の際、久弥に名を与えたのは父だった。結局のところ、母が父をどう思っていたのか久弥にはわからず終いだ。最初こそ母は父を蛇蝎のごとく忌み嫌い、あらゆる干渉にはげしく抵抗したものだった。けれども武家の子として元服させることを了承し、三味線の稽古の傍ら若君として教育を受けさせ、父が名前と山辺家伝来の祐定の傑作を与えることも許した。半分は父の子であると考えたのか、大名の子息として得られるはずものを与えたいと思ったのか。それとも、父に罪滅ぼしの機会を与えようとしたのか。
大名家の子息は、七つの頃から重臣を守役に付け、各分野の教育係から教えを受ける。大名家の子息としての礼法や心構えにはじまり、四書五経などもちろん、武術や兵法、藩政や家の歴史などを徹底して教え込まれるのである。久弥は嫡子ほどではないとはいえ、有事の際には世子として立てるよう、諏訪家老を守役として元服するまでの間様々な指導者から教育を施された。母はそれを黙って見ていた。侍嫌いの母だったが、相反するものが胸の内には常にあったのかもしれない。
青馬は頬に血を上らせて、ぼんやりと久弥を見ていたが、不意に弾けるような笑顔を浮かべた。
「どうした」
久弥が首を傾げると、
「お師匠様の名前をもらって、嬉しいです」
青馬が日向のように明るい表情で、にこにこしながら答えた。
「……変えてもいいんだぞ」
「変えません。ずっとこのままがいいです」
青くなって青馬が声を上げるのを見て、こんなに業の深い男の名前が嬉しいものだろうか、と久弥は苦いものを噛み締めていた。
「お前が怖い思いをする謂れはないのだから、ここに暮らす必要もない。私に気兼ねすることはないし、落ち着いて暮らせる場所はいつでも探してやれるぞ」
「い、嫌です」
さらに声を高くして青馬が腰を浮かせた。
「怖くなんてありません。お師匠様は強いから大丈夫です。そうでしょう? 離れて暮らすのなんて嫌です。それとも、お師匠様はお侍に戻ってしまうんですか」
半纏を握り締める小さな両手を見下ろしながら、久弥は押し黙った。
久弥の姿が見えなくなると、夜も日も明けぬような子だった。己から離すのは酷だろうなと想像はついた。
養い子でしかない青馬を家木の一派が付け狙うことは考えにくいが、己が討たれるか、山辺家へ戻されることがあれば、青馬は一人ぽっちで放り出されてしまう。打てる手は打っておかねばならないだろう。考えに沈んでいると、青馬は不安に駆られたらしく頬を強張らせた。
「……お師匠様、あの、俺も剣術を習います。もっと大きくなって、お師匠様みたいに腕を上げたら、お役に立ちます」
いきなり思い詰めた表情で言うので、久弥はぽかんとして固まった。
「……馬鹿を言え」
思わず吹き出すと、青馬が顔を赤らめて悄然とする。久弥は手を伸ばし、小さな頭にぽんと掌を置いた。
「ありがとうよ。だが、お前が大きくなる頃には、すっかり片がついているさ」
ーーどちらに転ぶとしても、そう遠いことではあるまい。
誰かが世子に立たねばならないのだ。父たちは、嫌でも決着をつけざるを得まい。薄氷を踏む思いで待つこと以外に、できることはなかった。……今までもそうであったように。
子馬のような両目で久弥を食い入るように見上げたまま、青馬は膝に置いた両手を強く握り締めていた。
***
翌日、青馬はいつものように起きて来て、門人の稽古を聞いて、自分の稽古に没頭して過ごしていたが、時折、ふっと宙を睨んでは何かを考え込んでいた。昨夜の出来事は到底一晩で咀嚼しきれることでもなかろうから、無理もないと久弥は敢えて何も問わなかった。
夕刻、風呂の支度をしようと襷がけをして井戸端で水を汲んでいると、青馬が近付いて来た。
「お師匠様、あの……」
緊張した面持ちで一瞬言い澱むと、思い切ったように息を吸った。
「あのう、怪我はもう治ったし、これからは、湯屋に行きます。俺、大丈夫です」
「……青馬」
手を止めて、まじまじと少年の顔を見下ろした。予想もしなかった言葉に、なんと返せばいいのか声に詰まった。
傷は癒えているだろうが、青馬の体には折檻の痕が残っている。着替えを助けてやる時にちらと見たが、まだあちらこちらに目立つ傷痕があった。子供のことであるし、成長と共に薄れてはいくだろうが、湯屋に行けば人目を引くだろう。
「風呂を沸かす手間だの費えだのを気にしているのなら、無用の心配だぞ。こんなものは大したことじゃない」
久弥が腰を屈めて言うと、青馬の顔が耳朶まで赤くなった。
実のところ、毎日のように内風呂を沸かすというのは、相当な贅沢だった。江戸では水は貴重で、薪炭は高値であるし、火を出さないように細心の注意を払う必要もある。商家に暮らしていた青馬も、そのことはよく知っているのに違いなかった。
夏であれば台所で湯を沸かして盥で済ませることもあるが、冬になればそうもいかない。だが、大勢の目に傷痕を晒す青馬の苦痛に比べたら、そんなことは些細な問題だった。
「それに、こう見えて実入りはいいんだよ。私の演奏は高直だからな」
悪戯っぽく付け加えたが、嘘ではない。妙手として知られる久弥の演奏は、一席で数両は下らないのだ。この家を除いて山辺家からの援助は退けてきたが、暮らしに困ったことはなかった。内風呂を使いつづけたからといって家が傾くわけでもないし、演奏の機会を多くして稼ぎを増やすくらいの甲斐性はあるつもりだ。
しかし、青馬は着物を握り締めてなおも言った。
「いいえ、だ、駄目です。湯屋に行きます。行ってみます」
夕日に照らされ、赤い顔がいっそう赤い。様々な感情が入り混じった、怒っているような、泣き出しそうな顔で繰り返すと、青馬は大きく息を吐いた。
「……でも、行ったことがないので、お師匠様も一緒に、来てくれますか」
小声で弱々しく言うのを聞いて、久弥は眉を下げて微笑んだ。
青馬なりに、必死に考えているのだろう。久弥の助けになることはないかと、健気に探しているのだろう。その思いが切ないほどに伝わってくる。
「……当たり前だ」
桶に汲んだ水が、黄金を溶かしたように輝きながら揺れていた。
***
相生町二丁目の湯屋『亀の湯』に入ると、仕事帰りの人々の混雑はひと段落したらしく、男湯の脱衣所に人影は少なかった。番台で大人十文、子供六文を払い、洗い粉とぬか袋を二つ買うと、青馬にひとつ渡してやった。青馬は緊張した顔つきながらも、不思議そうに袋をいじっていた。
「岡安のお師匠、すっかりお見限りでしたねぇ。どこの湯に浮気なすってたんですよ。あたしはもう、今生の別れかと思ったよ」
すきっ歯の老人が番台から身を乗り出すので、久弥は、そんなこたないですよ、と笑って言い返した。
脱衣所で着物を脱いで、持参した手拭と共に衣棚に仕舞うと、青馬がおそるおそる真似をする。
洗い場は湯気がもうもうと立ち込めているし、窓も少ないので薄暗く、それほどものがはっきり見えるわけではない。久弥は青馬を体の影に隠してやりながら、洗い場に入った。
洗い場の桶から湯を汲み、板敷の端に陣取ると、ぬか袋で体を擦るやり方を教えてやる。
青馬は周りの目を気にしておどおどとしていたが、人も少なく、湯気で見通しもきかないことに安心した様子で、見様見真似で体を洗いはじめた。
頭を洗ってやって、石榴口と呼ばれる出入り口をくぐって湯船に入る。外気を入れないようにかなり入口が低いので、久弥のような長身は難儀する。中はもうもうと湯気が立ち込め、ますます薄暗く、隣の人の顔も容易に判別できないほどだ。青馬にはかえって気楽だろう。
「熱い!」
湯に足を浸けた青馬が小声で叫ぶのを聞いて、久弥は笑った。
「これでもぬるい方だ。仕舞い湯に近いからな」
青馬が息を詰めて湯に浸かり、ふうふうと息をする。湯船の中には数人の客がいるようだったが、湯気に隔てられ、小声で会話するのが聞こえるばかりだった。
「……なんにも見えません」
ふうふう言いながら、青馬が拍子抜けしたような、嬉しそうな声で言う。
「そうだな」
久弥も幾分ほっとして、湯の中で息を吐いた。
広いですね、と湯船を見まわしながら、青馬は楽し気だった。
しかし、いくらもしない内に、「……あのう、お師匠様、熱いです」と蚊の鳴くような声が聞こえてきた。
茹で蛸のように全身真っ赤になった青馬と湯船を出て、最後に湯汲みから岡湯を桶にもらった。これを上がり湯にして体を流すのだ。
洗い場の隅で湯を体にかけていると、三つくらいの子供が湯気の向こうから飛び出して来た。
つるりと転びそうになったので、手を伸ばして腕を掴んでやると、父親らしき男が追って現れた。
「おっと、こいつはすんません。目を離すとすぐこれなもんで……」
笑って子供を受け取った父親が、青馬を見るなりぎょっとしたように目を剥いた。
「坊主、おめぇ、そいつぁどうしたんだい」
しまった、と思った時には男が顔色を変えて声を上げていた。
「いや、これは……」
こうなることも予想していたはずが、舌が強張り咄嗟に言葉が出なかった。青馬が鋭い緊張に息を止め、凍り付いたように立ち竦む。
みみず腫れの跡や、青や黒の痣の痕跡が残る青馬の小さな背中に、男の瞠った目が釘付けになっていた。
「ーー古い傷です。何でもありません」
久弥はそう言うなりさっと少年の背を押し、その場を離れた。
「古いって、あんた。ちょっと、おいっ」
湯気の向こうから非難するような声が追いかけてくるのを振り切って、脱衣所に戻った。
「……気にするな」
手拭いで手早く体を拭きながら固い声で言うと、青馬は湯上りだというのに青い顔をして、必死に体を拭いていた。
単を肩に掛けてやったところで、背後に視線を感じて振り向くと、男が一人じろじろとこちらを眺めている。着物を尻端折りにした四十絡みの男で、風呂上がりらしくつやつやとした顔をしているが、底光りする目からは堅気らしからぬ剣呑さが漂うようだった。
着物を身に着けながら見返すと、男がふらりと近付いて来た。
「……あんた、松坂町の三味線のお師匠だったな?」
久弥は寸の間男の顔を眺めると、小さく首肯した。
「そうですが、何か」
「この子、あんたの子かい」
「ええ、そうです」
久弥がまた頷くと、ふん、と男が唇を舐めて青馬を見下ろした。
「お師匠さんよ、この子の傷、こりゃあ何だい」
粘ったような冷たい視線に、青馬が頬を強張らせる。血の気が引いて目の縁まで白っぽくなり、濡れた髪が額に張り付いて、まるで氷雨でずぶ濡れになったかのようだ。
「……あなたは」
小柄な男を見下ろすと、男は久弥を斜めに見上げた。
「俺かい。俺ぁ南町の久米様の手下をしてる、辰次ってもんでね」
同心の御用聞きか、と久弥はそっと顔を顰めた。面倒な男に目を付けられた。
「お師匠、あんた確か子供はいねぇよな。こいつはどういうことだい」
「……先日の火事で奉公先が焼けましてね。身寄りがないのを引き取ったんですよ」
棒立ちになった青馬の帯を結び、手拭いで髪を拭いてやりながら答えると、辰次の目が細くなった。
「へぇ。赤の他人の子供をかい? そいつは若いのに殊勝なこった。でも、その傷痕はちっと気になるよなぁ。誰の仕業だ?」
「奉公先が厳しかったそうでしてね。傷が残っているんですよ」
手短に言った久弥を、男は疑い深そうな目で睨めつけた。
「本当だろうねぇ。いや、疑うわけじゃねぇけどさ。あんたみたいに若い男が、おまけに独り身だってのに、突然子供を引き受けるなんてねぇ。ずいぶん思い切ったことをするもんだと驚いてさ」
「……と、いいますと」
静かに問い返すと、辰次は意味ありげな目をしてしばし黙った。
いつの間にか、脱衣所が静まり返り、数人の客が固唾を飲んでこちらを見ている。
久弥は男としばし睨み合った末、溜め息を吐いた。
「私の仕業じゃあありませんよ」
「……ふぅん。坊主、ひでぇ目に遭ったんだな。かわいそうに。そりゃあ誰にやられたんだい。ちっと教えてくれるかい。え?」
青馬の前にしゃがみこむと、青馬は引き攣った顔で唇を引き結んだ。
「そんなに怖がるこたねぇだろう。お前さんのことが心配なだけよ。世の中にはよ、親切そうな顔しながら、汚ぇことをやってのける野郎がごまんといるからな。俺ぁそういう奴が何より許せねぇのよ。な、本当のことを言ってみな。俺が助けてやるからよ」
震えるばかりで声も出せずにいる青馬を見かねたように、番台の老人が声をかけた。
「親分、お師匠はそんなお人じゃねぇですよ。お弟子さんたちにも慕われててさ、男気のある真っ当なお人なんだから」
「そういう澄ました真面目そうな奴に限って、えげつねぇ性癖があったりするんだぜ。裏じゃあ何やってるもんだかわかりゃしねぇってな。どうも、あんたは得体が知れないとこがあるしねぇ、お師匠。総州のご浪人だって話だが、脱藩なすったわけでもなさそうだし、どういうわけでご浪人なぞになられたんで?」
せせら笑うようにそう言いながら、辰次は蛭のような目で久弥の顔を舐めるように見回している。御用聞きと関わり合いになったことなどないが、縄張りの住人のことをよく知っているものだ。久弥は何やら薄ら寒い気分で辰次を見返した。白いものでも黒と疑うのが職分なのだろうが、食らいつかれた方はたまったものではない。
「亀沢町の橋倉先生に聞いてみてください。この子の治療をしていただいたんで、詳しく説明してくださると思いますよ」
「ああ……橋倉先生か。じゃあご足労だが、先生も自身番に来てもらうかねぇ」
自身番へ連れていく気か。久弥は内心憮然とした。だが、まぁ、御用聞きが不審に思うのも無理からぬ節もある。青馬が怯えるだろうが、辰次が納得するまで付き合う他なかろう。などと考えていると、
「……あ、相すみません」
唐突に、掠れた細い声が脱衣所に響いた。
「こんなことになるなんて、思わなくて」
打ちのめされたような瞳で、がくがくとふるえている青馬の顔を、辰次が驚いたように覗き込んだ。
「おい、どうしたい、坊主」
「お、お師匠様が」辰次を遮るように、青馬が上擦った声を出した。
「いつも風呂を沸かしてくれるので、人に傷を見られなくていいから、嬉しかったんです。でも、費えが大変だし、風呂を沸かすのは手間だし。だけど湯屋は怖くて、い、言いだせなくて。みんな気味悪がるだろうから。
……でも、ずっとこのままじゃ駄目だと思って、お師匠様にお願いしたんです。お師匠様が疑われるなんて、思わなかったんです。やめればよかったです。余計なことして、ごめんなさい。お師匠様を、連れていかないでください」
目を擦りながら、相すみません、とうわ言のように言い続ける青馬を、辰次が呆気にとられたように見ている。
「青馬」
なんと言ってやったらいいのかわからず、久弥はただ手拭いで青馬の顔を拭ってやった。
青馬は、我慢ができなくなったように久弥の袂を両手で掴むと、顔を押し付け声を殺して泣いた。十の子供の泣き方とは思えぬほど、静かに泣いた。
「あ……お、おいおい」
辰次が口篭もってばつの悪そうな顔をした。
「お師匠様は、ぶったりしません」
くぐもった涙声が、袂の陰から小さく響く。
「……おう。そうかい」
唇をへの字にして、辰次が鬢を掻いた。
「お師匠は、やさしいかい」
辰次が尋ねると、青馬は袂から顔をのぞかせ、涙の張った目を見開いて頷いた。
「やさしいです。あのう、とてもやさしいです」
懸命に訴える声に、御用聞きは歯をのぞかせてちらりと笑った。
「そうかい」
「あと、あのう……あの、すごくやさしいです。本当です」
もどかしげに言うと、はっとしたように身を乗り出した。
「それから、三味線がすごく上手です!」
力強く言ってから、馬鹿なことを言った、というように顔を赤らめる。
「違ぇねぇや」
辰次が吹き出し、周りの客が肩を揺らして笑った。
「わかったよ。ちぇ、何だよ俺が苛めたみてぇじゃねぇか」唇を尖らせてそうぼやきながらも、男の眼光がわずかに緩んで見えた。
「おい、つまらねぇ詮索をして悪かったな。坊主は気味悪くなんざねぇよ。ただ、辛ぇ目に遭ってんじゃねぇかと気になったもんでさ。坊主、なかなか肝が座ってるじゃねぇか。え?」
横目で久弥を見ると、御用聞きは少し考え、
「なぁ。俺ぁ繁多でない限りは、毎日大体このくれぇの時間に湯を浴びにくるんだよ。同じ頃にくるといいぜ。くだらねぇことを言ってくる野郎がいたら、俺が追い払ってやるからよ」
「そりゃあ、親分みたいなのに絡まれたらたまらんですわな」
体を拭いていた客が口さがなく言うのを聞いて、辰次は、おきゃあがれ、ときまり悪そうに怒鳴った。
青馬は恐ろしそうに久弥の袂を握っていたが、辰次がきつい眉を和らげて顔を覗き込むと、しばらく考え込んでからわずかに頷いた。
「ようし。じゃあまたな」
辰次は、ぽんと手拭いを肩に掛けると立ち上がった。
「邪魔したな、お師匠。ま、一応橋倉先生には確認しとくよ」
執念深い捨て台詞に、はぁ、と久弥は苦笑した。久弥を自身番へ引っ張れないのが残念だとでも言うような表情を一瞬浮かべると、御用聞きは大股に湯屋を出ていった。青馬は久弥の後ろに蝉のように張り付いて、また辰次が戻ってきやしないかと男湯の入り口を凝視していたが、やがてほっと緊張を解いて久弥の袂を放した。
「坊主、辰次の親分に言い返すなんて偉ぇもんだな。儂ならちびってるところさ」
少し離れて着替えていた老人が目を細めて言った。
「まったくよ。俺も肝が冷えたぜ。あれで意外と面倒見のいいところがあるんだがねぇ。なにしろ柄が悪いからな。破落戸と見分けがつかねぇよ」
隣で別の男が苦笑いする。
「ま、あの人に気に入られたら悪いようにはなんねぇから、安心しなよ」
「お師匠を庇ってやろうなんざ、てぇしたもんだ。俺もなんかあったら助けてやるからよ、心配すんな」
また他の客が話し掛けて来る。
青馬は慌てて久弥の袂の陰に隠れ、こちらを見上げた。
久弥が目に笑いを浮かべているのを見ると、そろそろと袂から顔を半分覗かせ、
「……ありがとう存じます」
と消え入るような声で言った。
「おい、さっきの勢いはどうしたんだい」
皆の笑い声が、仄暗く湿気を帯びた、暖かな脱衣所に響いた。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
112
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる