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その日(一)
しおりを挟む小袖に袴を着け、大小を差して無紋の羽織を纏うと、菅笠を目深に被った。人目を避けるため側用人の神谷と浜野のみが付き従い、丹波篠山青山家上屋敷へ向かうべく家を出た。
松坂町から相生町河岸へと下り、そのまま猪牙舟を雇って竪川を大川へと向かう。蒼天の天頂近くに日輪がまぶしく輝き、空を映したように真っ青に染まった川面のあちらこちらには、白い小波が立っている。行き交う大小の船を透かし、対岸の元柳河岸に近い浅瀬の蘆原を、青鷺が長い足を刺すようにして歩くのが遠目に見えた。ほどなく、光の綾を映す両国橋の橋桁を潜り、柳橋から神田川へ入った。浅草と両国のざわめきが、湿り気を帯びた風に乗って流れてくる。前後に座した側用人の間で、久弥は一度も顔を上げることなく川面に目を落としていた。そうしてただ、川底の石に影を映しながら、解いた女の髪のようにゆらゆらと揺れる水草や、その下を鳥のようについっと横切る鮒や鯉の姿に見入っていた。
舟は筋違橋をくぐり、やがて昌平橋の袂の船着き場へ静かに寄せられた。
青山家上屋敷は、江戸城の外郭門のひとつである筋違御門と昌平橋の前に広がる、八ツ小路の正面に位置している。筋違御門と昌平橋の前方には、八方向の道が交わることから八ツ小路とか、八辻ヶ原とか呼ばれる火除御用地があり、丹波篠山青山宗家の上屋敷は、この広場を向いて広がっているのだった。
この上屋敷を訪れるのは初めてではない。風流を好む下野守に請われ、屋敷内の能舞台で過去に幾度か演奏をしたことがある。下野守は久弥を表向き三味線弾きとして遇したが、気づくと値踏みするような目でこちらを眺めていたのを思い出す。だが、このような形で再びこの屋敷を訪れることになろうとは、さすがに思いもしなかった。
船着き場から八ツ小路に上がった久弥は、周囲をさりげなく警戒する神谷と浜野に導かれ、盛んに人が行き来する広場を横切っていった。
上屋敷の東には通りを挟んで神田須田町が広がっている。須田町西側は弥生の大火を免れていたが、まったく無傷とはいかなかったらしい。笠の陰から目を向けると、焼け落ちた町屋の普請の最中らしく、屋根の上で桟瓦を葺いている大工の姿がところどころに小さく望めた。
けれども、どこに視線を投げていても、心は麻痺したように無反応だった。通り過ぎる人々の姿も、喧騒も、町並みも、雲一つ無い青空も、体の周りに見えない膜があるかのように、遠く隔たって感じられた。
地面を踏みしめている足の感触がひどく鈍く、頼りない。まるで深い砂の上を歩いているようだ。しっかりしろ、と己を叱咤しながら足を進める内に、三人は屋敷の西側、若狭小浜酒井家上屋敷に面した通りに入っていた。
大名家の上屋敷が連なる整然とした路は、須田町とは打って変わって、白漆喰に下見板張りの壁が延々と両手に伸びている。日が落ちる頃にはたちまち閑散とする武家屋敷の通りであるが、この時刻は侍や屋敷に出入りする商人が盛んに行き来していて、三人はそれに紛れるようにして歩いた。やがて表御門である、両番所付唐破風屋根の長屋門を通り過ぎ、御勝手御門に至る。本来、将軍や大名家を迎える際は、青山銭の家紋を掲げた表御門を開くのが決まりだが、菅笠に倹しい羽織袴の侍が入っていけば通行人の無用の関心を引く。側用人たちはその先の御勝手御門に久弥を招じ入れるつもりらしかった。
格式は落ちるとはいえ家紋を掲げ、片番所が付いた見上げるような切妻屋根の黒々とした門である。その前で側用人が周囲に目を光らせていると、間もなく心得たように内から門が開いた。
かすかな眩暈を覚えながら、太い梁に支えられた分厚い門の奥を凝視する。白く霞んだ門の内は、盲いたように見通せない。三味線弾きとして招かれた時には、ただの客人として脇の潜戸をごく気軽に通った。同じ門を潜るというのに、今は底の無い沼に踏み込むような心地がしている。しかし、戻る道はもう背後になかった。見えない手に掴まれたように体が動き、久弥は己の意思に反して石畳を踏み、一歩ずつ門の内へと足を踏み入れていた。
眼前に、見覚えのある豪壮な唐破風屋根の御殿と、広大な表庭が広がった。
門の内に控えていた江戸家老の諏訪らと、青山家の重臣と思われる数名が裃姿で進み出てきて、
「ーー若君。ご無事のご到着、祝着至極に存じます」
と久弥の前で深く腰を折った。
その背後には、やはり裃を纏った侍たちが道を作るように二列に並び、微動もせずに拝跪している。
表のざわめきが幻のように遠ざかる。庭木もない白い表庭に、侍の灰色の背中ばかりが並ぶ景色は、色彩に乏しく、冷たかった。
久弥はゆっくりと菅笠を取りながら、背後で門が閉じられる重々しい音を聞いた。
***
小槇の上・中屋敷は火災の被害を受けて再建のただ中にあり、かといって高輪にある下屋敷は手狭な上に警護が手薄であることから、藩主はじめ山辺家の主だった郎党は、縁戚である青山家のこの上屋敷に身を寄せていた。
諏訪家老をはじめとする山辺家家臣と、青山家家臣らに導かれ、花鳥図の落ち着いた襖絵が美しい、藩主の私的な間である小座敷に通された。
ほどなくして廊下に足音が近付き、襖が開いた。平伏した久弥の前に、衣擦れの音が静かに立った。
「よう参った。面を上げよ」
きびきびと言った男が上座に着き、その斜め前に、もう一人が着座した。下野守その人と、父の彰久に違いなかった。
「……下野守様、お久しゅうございまする」
半ば顔を上げて言うと、久弥は一瞬視線を上げた。手前に横を向いて座した父の姿があった。端正だが切れるように鋭い面が、悲嘆を隠しきれずに青白く窶れているのを見て取ると、久弥は再び叩頭した。
「……父上。この度は彰則どののご逝去、まことにお労しく存じます。夕御前様のお嘆きも如何ばかりでございましょうや」
低く述べると、前方を見詰めたまま、父が頷く気配がした。
「ようやく身を起こして、食も増していたところであったのだが、一度熱がぶり返したかと思ったらあっけないものであった。まこと、子供の命とは儚いものだ」
彰則はわずかに九つになったばかりであった。青馬とそう変わらぬ年だと思うと哀れだった。どんな子供であったのかは知る由もないが、利発で物怖じしない若君だったと聞く。父や正室、家木一派を除く家臣には、さぞ誇らしい嫡子であったことだろう。
「ーー昔、どこから聞き及んだのか、三味線弾きの兄上がおられるというのはまことか、と尋ねられたことがあった」
寂寞の漂う、久弥とよく似た声で言う。
「そんな兄はおらぬが、いたならばいかがすると訊いたら、三味線を教えていただくのだと言うておった。祖父も芸事に耽溺なされたお方であったが、三味線を好むのは血筋かの」
父に庶子があることはわずかな重臣以外には秘匿されていたし、彰則の耳に入れぬように厳重に申し渡されていたはずだ。だが、正室の夕御前や、側近の話を漏れ聞く機会があったのかも知れない。
生きている限りは、相見えることが叶わぬ兄弟だった。
「……年は離れておるが、面差しもそなたによう似ていたな」
下野守が大きく嘆息して口を開いた。
「伊豆守にとっては、そなたを側に置くことは慰めになろうよ」
久弥は思わず額を強張らせた。柔和な中に、老獪さと猛禽のような鋭さを秘めた目が見詰めているのを両肩に感じる。還暦を越えているとは思えぬ充実した気力と頑強さが、押し出しのいい姿から滲み出るようだった。
歴代の青山家当主の中で、稀代の名君と称される下野守は、学問奨励と殖産興業に力を入れて内政の安定に努め、藩財政を劇的に改善した手腕の持ち主であり、幕府においては既に二十年以上老中の座に君臨し辣腕をふるってきた。
下野守は文化九年に失脚した楽翁こと松平越中守定信に与し、文政一年から同じく老中首座の地位にある水野出羽守忠成とは対立する立場にある。楽翁の失脚という大きな痛手を挽回すべく、昨今は有力大名を派閥に取り込もうと余念がなかった。縁戚である彰久に目をかけているのは、たんに彰久を気に入っているからというだけが理由でないのは明白だ。十五万石を誇る譜代大名であり、一度決めたら押し通す頑なさと、明敏ではあるが世間知らずな性質を備えた彰久は、あけすけに言えば御しやすく、味方にするのに都合がいい大名なのだ。もちろん、彰久の側から見れば悲願の老中の座を得られるかもしれないのだから、双方の思惑は一致している。……しかし、一枚も二枚も上手なのは下野守であるのは間違いなかった。
「下野守様のご尽力により、そなたを山辺の正統な若君に戻すことについて、既にご閣老方のお許しを賜っておる。併せて、そなたは従五位下安房守に叙せられることとなった」
父が淡々と話すのを、久弥はじっと手許を見詰めながら聞いた。
「……下野守様には、数々のお骨折りをいただき、まことにかたじけなく存じまする」
畳に目を落としたまま呟くと、やわらかいが腹に響く太い声が降ってきた。
「そなたの才は天稟であった。そなたの糸とその美声の玄妙なること、名手と呼ぶに相応しい。山辺の血筋とそなたの母の才、それにたゆまぬ精進の賜物であろう。ここで幾度となく聴かせてもらったが、そなたの音曲の美しさはまこと眩いほどであった。武にも優れ、心根の清廉なるところも、ついつい肩入れしたくなるところがあった」
静かに息を吸うと、老中首座の声がすっと鋼のように硬く冷えた。
「……だが、そなたは山辺の血を受けた者だ。三味線弾きとして生涯を過ごすことは、そなたの生きる道にあらず。あるべき道に戻る時がきたのだ。わかるか」
圧するような鈍い光を湛えた目を寸の間見て、久弥はただ頭を下げた。唇がふるえた。
「市井の暮らしから大名家に戻るには不安もあろう。だが、そなたの器量があれば家中をまとめ、嗣子として立つことが叶うはずだ。そなたの父も、余もついておる。そうであろう、伊豆守」
「いかにも、左様にございます」
父が端然と座したまま、ゆっくりと首肯する。
「家木はただちに上意討ちとする。逆臣はことごとく排除した上、宗靖は隠居させる」
典雅な小座敷に父の声が虚ろに響き、時が止まったかのような沈黙が降りた。
「……もはや、そなたしかおらぬ」
一切の乱れを許さぬ、冷然と滑らかな声が、見えない枷の如く喉を締め上げていく。
「山辺家に戻り、世子として立つがいい」
目を閉じた。青馬の三味線の音が響く松坂町の家の光景が、黒く塗りつぶされた視界にふわりと浮かび、儚く消えた。
「……仰せのままに致しまする」
叩頭したまま応じると、父が満足げに頷く気配がした。
「まずは家木一派を除き、家中を平らげねばならぬ。準備が整い次第、浜野らと小槇に赴き、城内で若君としての披露目を行うがいい。その後世子の名乗りを上げ、上屋敷に戻って参れ」
「──卒爾ながら、その前にお願い申し上げたきことがございます」
久弥は不意に顔を上げると、はっきりとした口調で言った。
いつかこうなる日がくるのではないかと、半ば予期して暮らしてきた。
どうあっても逃れる術がないのなら、せめてこれだけは手に入れようと心に決めていた。
「私は十になる迷い子を預かってございます。天賦の三味線の才に恵まれた、心ばえの優れた子です。その子供を、養子とさせてはいただけませぬでしょうか。山辺家の跡目相続からは未来永劫除くことを条件に、私の子とすることをお許しいただきたいのです」
背後に控えた諏訪がかすかに息を飲む気配がした。彰久と下野守がちらと視線を交わすのが見て取れる。諏訪を通じて、青馬の存在は二人にも伝わっているはずだった。
「若君として育てるなど思いもよりませぬ。手元に呼び寄せようとも望みませぬ。私の身代を残します故、独り立ちするまで不自由はございませんでしょう。ただ、私が当家に戻れば子供は寄る辺を失いまする。せめて残される子に、父子の縁だけは与えてやりとうございます。
しかし、当家の家譜に加えることは、父上のお許しがなくば叶いませぬ。ーー分をわきまえぬ望みであることは承知の上にございますが、どうか、どうかお聞き届け下さいませぬでしょうか」
両手をつくと、久弥は深く叩頭した。
側にいてやれぬのに、形を与えることにどれほどの意味があるのか、とやりきれぬ思いが押し寄せる。しかし、どこにいようと決して変わらない絆を繋いでやりたかった。
己と引き換えにするのだとしたら、それがよかった。
沈黙が体を押し包み、息ができない。心ノ臓が身をよじるようにして打つ音が、耳の奥に鳴り響いていた。
ーーやがて、父がわずかに身じろぎをした。
「……それが望みであれば、叶えよう」
久弥はゆっくりと、詰めていた息を吐いた。首筋に冷たい汗が流れていた。
顔を上げると、彰久と下野守が、久弥を見てかすかに目を見開いた。
「……ありがたき幸せにございます」
久弥は穏やかな笑みを浮かべ、真っ直ぐに父を見ていた。
「もはや心残りは、ございませぬ」
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