調べ、かき鳴らせ

笹目いく子

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上意討ち(一)

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 大川から小名木川を経由し、江戸川を遡って野田で船を降りた。そこから早駕篭を乗り継いで、両手に松林と田畑を見ながら日光東往還を少し北上すると、さらに徒歩で脇街道を行く。
 日が傾きかける頃、小槇領内に入った。六人と共に、村を迂回しつつ丘陵や林のそま道を黙々と進んでいた久弥は、木々の間に見え隠れする景色に幾度も視線を投げていた。垂れ込める雲の底を焦がす夕日の赤が、なだらかな平野に延々と広がる鏡のような水田に映っている。北へと眼を向ければ、遠くに日光連山や筑波山が黒い影となってそびえるのが望める。畏怖を覚えるほどに厳しく雄大な山塊の姿と、見渡す限りの真っ赤な田園、そこここに島のように点在する黒々とした屋敷林や丘陵、その中にぽつりぽつりと見える人の姿を、かすかな胸の痛みを覚えながら目に映した。
 青馬に、畳の上に地図を描いてやった日のことを思い出す。一度も足を踏み入れたことのなかった国に、こんな形でやって来た。
 緑と土の匂いの中に重く立ちこめる湿気が、いっそう濃くなってきたようだ。空気が重くのしかかるような息苦しさを覚えながらも、久弥は深い暮色に沈んでいく天地の姿から、視線を逸らすことができなかった。
 宵闇の中を舞田城下に到着する頃には、雨が降り出していた。

「木戸が閉まる前に到着してようございました。木戸番にいちいち戸を開けさせて、いらぬ関心を引きたくはございませんから」

 前を歩く浜野が小声で言った。
 ぬるい雨に足元を濡らしながら、七人は人気のない町人地と武家地を通過した。城の周囲には、上士の屋敷地、下士の屋敷地、そして町人町という風に城下町が形成されるのが普通である。さらに上級の家臣団は、城の外堀を渡り大手門を入った三の丸に屋敷を構えていて、筆頭家老の饗庭外記あえばげきの屋敷もそこにあった。
 やがて、黒い水を湛える広い水堀の向こうに、舞田城大手虎口の大手門が見えてきた。切妻屋根の高麗門の奥に、白壁の美しい、間口が七間はあろうかという勇壮なやぐら門を備えた桝形ますがた門であるが、雨に煙って灰色に濡れ、門に灯るわずかな明かりに一部が浮かび上がるのみである。本間や浜野ら重臣の姿を見た門番たちが、慌てて頭を下げて一行を見送った。行く手を阻まれれば斬り捨てる他になかったから、久弥はわずかに安堵して、今にもつばを押し上げようとしていた手の力を緩めた。
 三の丸を闇と雨に紛れて進むと、ほどなくして饗庭あえば家老の屋敷の裏門に到着した。江戸からの早飛脚により知らせを受けていた家臣は素早く門を開き、七人は音もなく邸内へ滑り込んだ。
 六人と別れ、饗庭に勧められるまま風呂を使った久弥は、新しい着物を身に着けると奥座敷にて夕餉の歓待を受けた。

「ご立派にご成長あそばされましたなぁ」

 饗庭はそう言って目を細くした。還暦を幾つか越しているが、品のいい細面と、痩身だが小揺るぎもせぬ姿勢のよさに筆頭家老の風格が漂う男だ。過去には数度、向島の久弥と志摩緒の住まいを内密に訪ねてきたこともあった。

「浪人の三味線弾きが若君に成ったとなれば、ご立派には違いない」

 久弥が目に笑いを浮かべて応じると、饗庭は肩を揺らして笑い、湿り気を帯びた目を瞬かせた。

「……お母上様が、どれほどお喜びになられたことでございましょう」
「山辺へ戻されたと聞いたら、父上に烈火のごとく怒るであろうよ。そなたや諏訪家老に塩を撒いたお人であったからな」
「あいや、まったくでございます。若君の御為ならば刀を取って戦われる、巴御前のようなお方様でございました」

 口元の皺を深くして微笑んだ饗庭は、ふと笑みを消すと眼を伏せた。

「ーーこのような仕儀となり、面目次第もございませぬ。筆頭家老ともあろう者が、暗殺を恐れて屋敷に籠もっている有様。挙句、若君の御身も危険に晒すことになろうとは……」
「よい」

 呟くようにそう言うと、久弥は雨戸の外から聞こえる、囁くような雨音に耳を澄ませた。
 元はと言えば、養子の兄と実子の弟のどちらを世継ぎとするか、決断に迷った父に非があったのだ。もちろん、家中の意志を無視して藩主の一存で世子を決めることは出来ないが、父の迷いは、実子を世継ぎにと望む家臣に力を与えてしまった。

「ーーだが、順を違えるべきではなかった。そなたは父上をお諌めすべきではなかったか。家木を抑えるのであれば、別の方策を取るべきではなかったか」

 饗庭の顔を見詰めると、老人は目を見開き、顔に血を上らせて声もなく平伏した。
 世襲家老を輩出する家老連綿れんめんの家柄である饗庭家は、二代藩主の弟を養子に迎えた経緯があることから、忠臣として藩に尽くしたこともさることながら、藩主一族との深いつながりを背景に、今に至るまで筆頭家老の地位を独占してきた。一方、同じく家老連綿格の家木家は、才気煥発と言われた陣右衛門が次席家老に上り詰めると、筆頭家老を世襲する饗庭家を追い落とそうという機運が派閥内に高まった。
 宗靖が養子に迎えられた折、両家は若君の教育係であり後見役である守役の座を巡ってしのぎを削ったが、家木一派の告発で饗庭家老に与する勘定奉行と郡代の汚職が取り沙汰され、弁明と弁護に追われる饗庭は守役の座を家木に譲らざるを得なくなった。
 結局、汚職の決定的な証拠はないとして評定所は処分を見送ったが、勘定奉行と郡代は混乱の責任を取って致仕し、代わって家木の息のかかった役人が送り込まれたという。以後勘定所に家木の影響力が浸透し、勘定不正の横行と公金の横領が頻々ひんぴんと行われるようになった。これらの金は宗靖の世子就任のため重役を買収する運動資金や、江戸上屋敷における反乱の準備にあてた他、幕府老中の出羽守一派にまいないをばらまき、支持の取り付けを得ようとする企みにも充当されていた。
 家木に対し少なからぬ怨念を抱いていた饗庭が、彰則の誕生という慶事を機と見て、藩主の実子を世子に据え、己が後見役として権門を盛り立て、家木派を抑え込もうと意図したとしても不思議はなかった。
 だが、家木派が急伸したのは買収工作が功を奏したせいばかりではない。宗靖に心酔する家臣はそもそも多く、彰則に鞍替えした藩主と筆頭家老の姿は彼らの反発を招いたのだ。饗庭と家木を除いた残り二名の家老は藩主に忠誠を誓っているが、宗靖を廃することへの家臣団の不信と抵抗を危険視し、家木への対処を決めかねていた。家木が重役の暗殺にまで手を染め出すとさすがに反家木に転じたが、時は既に遅く、一派を抑える力は藩主側に残されていなかった。
 
「……まことに、汗顔の至りにございます。筆頭職にありながら、まつりごとの筋道を見誤りましてございます」

 久弥は平伏する饗庭の白髪混じりの頭を見下ろした。この家老の赤心を疑うわけではない。だが、家臣団の心情を汲みかねたのは、筆頭家老の慢心ゆえではなかったか。
 けれども、そう問うている己自身が、明日強硬な手段で家臣団をねじ伏せに行くとは、皮肉な話だった。

「……明日の手筈は抜かりないな」

 は、とくぐもった声が返ってきた。

「配下の者たちには既に申し送りを済ませてございます。また明朝、家木が確かに二の丸御殿へ登城しますよう、内密の話があると使いを送りました。それがしを亡き者にする絶好の機会にございましょうから、必ず警護を伴って現れるはず。若君が踏み込まれるまで、何があろうとも彼奴をそこに留め置きまする」
「信じておるぞ」

 低く言うと、はい、と饗庭が顔を上げた。

「この命に代えましても」

 硬く見開かれた目を見下ろしながら、久弥は頷いた。

「明日、城内の叛臣を一掃するにあたっては、私の命を越えた報復を加えてはならぬ。御前の名代はこの私であることをゆめゆめ忘れるな。よいか、饗庭」

 声を荒げてもいないのに、圧するような威力を漲らせた声音で告げる久弥を、饗庭は畏怖と驚嘆を浮かべた目で唖然と見上げた。

「──心得ましてございます」

 喘ぎながら叩頭すると、饗庭はそのまま、しばらく顔を上げるのを恐れるかのように動かなかった。 

***

 翌朝も、小糠雨は降り続いていた。
 まだ夜の明けきらぬ早朝に起き出し、身支度を整えると、玄関近くのため之間で六人の仕手と合流した。皆緊張に青白い顔をしながらも、腹の座った表情で久弥を出迎えた。

「饗庭家老は先ほどお城へ発たれました。もうそろそろ御殿にお入りになられましょう」

 天城が落ち着いた声音で言う。久弥は軽く頷いた。
 明け六ツ頃、番方と役方の登城が一段落すると同時に踏み込む手筈になっている。饗庭の屋敷から二の丸御殿までは四町ほどの距離だから、今しばらく待機してから屋敷を出れば頃合いであろう。

「御殿に入るまで出来る限り気取られるな。御殿に知らせを走らせようとする者は迷わず斬れ」

 久弥が簡潔に命じると、侍たちが強張った顔で頷いた。
 ひたひたと軒先から滴り落ちる雨粒の音を聞きながら、薄暗い座敷で時を待った。家士が時折様子を伺いに来ては、気を集中させて沈黙している剣士たちを見て、怯えたように去って行った。
 静かに瞼を閉じた久弥は、ふと指を動かし右の袂に触れた。中に落とした折り鶴の、辛うじて分かる頼りない輪郭を静かに辿る。花御堂の咲き乱れる花々と、その前に寄り添うように立つ二つの影が瞼に映った。

「……若君」

 やがて、小声で本間が囁いた。
 瞼を開き、久弥が頷いて立ち上がると、皆も一斉に畳を蹴った。

「ご武運を……」

 家士たちが平伏して見送るのを後にして、菅笠を被った七人は灰色に煙る路を二の丸へと向かった。
 長大な武家屋敷の壁を両手に見ながら三の丸を進むと、やがて小雨の中に二の丸の長壁が立ち現れてきた。 
 舞田城は三層三階の天守を持つ平山城ひらやまじろである。晴れた日は白い城壁と白い天守が青空に映えてたいそう美しいそうであるが、今日は天守の鯱瓦も鈍く霞み、灰色の壁が陰鬱に伸びる様が雨を透かして見て取れるばかりだった。
 鏡石を並べた高い白壁を両脇に見ながら進み、二の丸南大手門の高麗門を潜る。この門も桝形ますがた門となっていて、高麗門と呼ばれる小ぶりな二の門を入ると、三方を壁に囲まれた桝形という空間があり、高麗門に対して直角に配置された一の門のやぐら門のみが内部へ開いている。こうすることで外敵の通行を妨げ、桝形内に閉じ込め高い防御力を発揮するのだ。
 大手門の番士たちは、登城の際の正装である裃姿でもない菅笠の一行を見ると眉を顰め、櫓門を出ようとしたところで数人が追いすがってきた。

「畏れながら浜野様、本間様、本日は何か火急の事態が出来いたしましたのでございましょうか?」

 組頭と思しき男が、訝しげな目で尋ねる。

「御前の御用にて、筆頭家老にお目に掛かる」
「は。では先触れを……」
「よい。その必要はない」

 本間がぴしりと言って歩き出そうとすると、組頭が配下の番士に目配せをするのが見えた。番士が足早に御殿へ向かおうとした次の瞬間、音もなく走り寄った浜野の刀が雨を斬るように一閃した。背を割られた男が膝をついて突っ伏すのを待たずに身を翻すと、呆気に取られている組頭に殺到する。刃唸りと共に鈍く冷たい光が走った。逆袈裟に斬られた男がぐっと呻いて仰向けに倒れる。
 たちまち二人が石畳に血だまりを作って転がるのを見て、番士らが顔色を失って凍りついた。

「我らを阻む者あらば、即刻斬り捨てよとのご命令である。よいか」

 浜野が斃れた男の着物で刀を拭い鞘に納める傍らで、本間が鋼のような目を番士らに据えた。
 番士たちが一斉に道を開けた。

「……こ、心得ましてございます」

 引き攣った顔で見送る門番を一顧だにせず、一行は砂利を踏んで威容を誇る櫓門を通り抜ける。門内の番士詰所から二人ばかりが出てきた。成瀬と天城に視線を合わせこくりと頷くと、雨の幕の向こうに旋風のように駆け去っていく。城内の他の詰所へと知らせに走る味方の手勢だ。雨に黒く濡れた石畳を踏みながら人気のない前庭を行くと、ほどなく二の丸御殿東翼に位置する遠侍とおさむらいの車寄玄関に至った。
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