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対峙
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黄金色の斜陽に染まった畳の上に、己の黒い影が伸びている。
遠い蝉の声が、動くもののない牡丹の間の虚ろさを埋めるかのように響いていた。
白と薄紅の牡丹の周りに、燕や猫が戯れる墨彩画の襖絵が部屋の両側をやさしく彩っているが、今は障子を透かしてもなお強い西日と、高い天井から落ちかかる影とに塗りつぶされて、何が描かれているのかも定かには見て取れない。
己の影に目を落としたまま、久弥は父を待っていた。
若君として御殿にて育つことを拒み、宗靖を討つことを拒み、今また世子となることを拒もうとしている。
ことごとく父に背かねばならない業の深さを思う。……だが、迷いはなかった。
襖の外に気配が立った。
平伏した久弥の耳に、上座からのかすかな衣擦れの音が届いた。
「面を上げよ」
粛然とした声が、人払いした御座の間に響く。
久弥はそっと息を吸い、半ばほど身を起こした。
「お疲れと存じますところ、お目通りをお許しいただき有難き幸せにございます」
彰久がかすかに頷く気配がした。
「家中に世子の布告を行う前に申し上げたき儀があり、参上致しました」
「……申してみよ」
呟くように父が言った。
「私は嗣子にはなれませぬ」
久弥は目を伏せたまま、平静な、しかし通った声で言った。
「世子となるべきは兄上にございます。どうか、お許し下さいませ」
厳しい夏の日差しが差し込む座敷に、息詰まるような静けさが降りた。
「……先刻、饗庭も同じことを申した」
彰久がおもむろに口を開いた。
「そなた饗庭に、筋目を違えるな、と申したそうだな」
久弥は答える代わりに深く叩頭した。
「僭越ながら、それだけが理由ではございませぬ。筋目を守ることが最善であるとは限らぬこともございましょう。しかし……舞田に参りまして短い間ではございますが、兄上は賢君の器にあらせられると拝察申し上げました。奢らず、ご寛大で、ご聡明にあらせられます。民の安寧に心を砕かれ、己を切磋することに惜しまれるところがございませぬ。ーー畏れながら、私はあのお方に、世子にお立ちいただきたいのです」
「……そなたの器を見込んだからこそ、世子に任ずるのだ。下野守様はじめご閣老方のご尽力を無にするつもりか」
重い声が、両肩を押さえつけるように落ちてきた。
「お怒りはごもっともにございますれば、いかなる処分も承る所存にございます。……しかし、私が世子に立てば、必ずや当家と政道を危うく致します。それだけはどうか、お許し下さい」
彰久の視線が射るように注がれるのを感じる。座敷に漂う昼間の暑さの名残りが、いっそう濃くなった気がした。
「……母を討たれたこと、恨んではおらぬのか」
「畏れながら、兄上には何の科もおありでないことと存じます」
「だが宗靖が世子に立てば、家木の一派にしてみれば願望成就となる。そなた、それでもよいと申すか?」
久弥はじっと己の影を見詰めた。
「ーー悲しみは、癒えることがございませぬ。しかし、私もまた大勢を殺めました。私のみが恨んでよい立場にあるわけではございません」
父のかすかな呼吸が、上座から届く。
「……宗靖が世継ぎとなれば、そなたは江戸には戻れぬぞ。あの二人に会えずともよいか」
大名家の正室と世継ぎは江戸に集住しなくてはならないが、側室や他の若君はそうではない。江戸の中屋敷で生まれれば話は別だが、久弥はすでに成人であり、江戸の親元で暮らさねばならぬ理由はなかった。
宗靖が世子となって江戸中屋敷に居を移せば、久弥は一人、この二の丸御殿に暮らすこととなる。
武家はたとえ大名家であったとしても、嫡男以外の権利は著しく制限され、婚姻さえも許されない。養子に出るか、嗣子の座が巡ってこない限り、生涯を部屋住みとして過ごすのだ。大名家の子息であろうとも、部屋住みの立場は惨めなものだ。仕官せぬのだから当然俸禄はなく、わずかな捨て扶持のみを与えられ、着古した着物で呻吟するような暮らしを強いられることもある。
国元の財政にとって、江戸の上・中・下屋敷を維持する負担は莫大である。彰久の猟官運動にかかる費えがそれに輪をかけている。十五万石を誇る小槇は財政的には恵まれているが、本来庶子である久弥のごくごく個人的な欲求のために浪費をする余裕などない。まして、世子の指名を拒むとなれば、久弥が江戸に戻ることを父が許すわけがなかった。もし蟄居を命じられれば、父の怒りが解けるまで、押し込められる部屋から出ることすら叶わなくなる。
だが、跡目争いに終止符を打ち、青馬と真澄を守ってやれるのならそれが何だろう。二人にはさぞ泣かれて、恨まれるだろう。身勝手を詫びようもない。しかし、生きていてくれるのなら、裏切り者と罵られても耐えられる。
「……心残りは、全て捨てて参りました。小槇にて生涯を過ごすことに、何の不満がございましょうか」
揺るぎのない声で応じると、彰久は束の間沈黙した。
「ーーあの子供が熱を出しておる時に、枕元に見舞ったことがあった」
久弥は思わず顔色を変え、耳をそばだてた。
「目を開けて、余の顔を見てな、そなたのことを呼んでおった。熱が引いてから見舞ったら、そなただと思ったのだと申した」
不意に、切ないもので喉の奥が詰まった。よく似た父子なのだ。久弥のやわらかい形の眉と唇は母譲りだが、彫ったようにくっきりとした目と鼻梁、輪郭、上背のある背格好、それに声までも、父に生き写しだった。五十になっても彰久は若々しかったから、熱で朦朧とした青馬が見間違えても不思議はなかった。
「見舞うと余の顔ばかり眺めていた。真澄という娘が、そなたがおるようで嬉しく思っておるのだろうと申した。余が話をすると、声がそなたとまるで同じだと、二人して驚いておった」
嗚咽が込み上げそうになり、歯を食い縛った。
茜の後ろ姿が目に浮かぶ。諦めようと幾度も思いながら、面影を探している。胸の奥底に沈めても沈めても、思いは朽ちてはくれず、気づけば心の面に浮かび上がってしまうのだ。
そしてこれからも、未練だけを抱いて生きていくのだろう。
「あれは、健気な娘だな」
彰久は独り言のように呟いて、ゆっくりと続けた。
「そなたとの縁はもはやないが、あの子供を世話するのかと尋ねたら、そうだと申した。そなたが江戸におるのなら、それでいいのだとな」
気丈なものだ、と父が言う。
血が、流れるのを感じる。胸からとめどなく、血が流れ出していく。愛おしむものをむしり取られてできた深い傷から、血が流れている。
「……だが、もう江戸に戻れずともよいのだな」
胸の内でのたうつものを、渾身の力で押さえつけた。己で己の息の根を止めようとしている苦痛に目が眩む。視線を上げると、こちらを見下ろす父の目と出会った。表情の読み取れぬ、瞬きもしない双眸が、小揺るぎもせずに子の断末魔を見詰めている。
久弥は寸の間、はげしい意志を漲らせた目で父を見上げた。下腹に力を込め、ゆっくりと拝跪して固く瞼を閉じる。
そして、瞼に浮かぶ二人の面影に、別れを告げた。
……終わらせるのだ。
「仰せの通りに、ございます」
蝉の声が遠くなり、御座の間が水を打ったように静まりかえった。
耳鳴りのしてくるような静寂が、永劫のように続く。首筋を、汗が一筋伝い落ちた。
やがて、あるかなきかの衣擦れの音が、緊張に強張った耳に届いた。
「ーーそなたも、そなたの母も、余の意に逆らう」
どこか遠い声で彰久が漏らした。怒りなのか、嘆きなのか判然としない嘆息を聞いた気がした。
「……忠諫、大義である」
降りかかる乱れのない声は、どこまでも滑らかで、茫漠としていた。
「処遇は、追って沙汰する」
去っていく彰久の気配を聞きながら、久弥はがらんとした部屋に、一人じっと蹲っていた。
***
翌日、彰久が宗靖を世子に指名することが、家中に布告された。正式な世子就任は大書院の大広間で家臣団を前にして宣言されるが、もはや決定は揺るぎないものだった。
家中の激しい動揺は想像した通りであったが、目立った反発は起きていなかった。
多喜浜の分家から養子を取るのは家法であったし、いくら直系とはいえ、突如として現れた庶子の久弥を世子に戴くよりも、長年若君として山辺家で暮らして来た宗靖の方が遥かに受け入れ易いのだ。
当然、久弥の婚約も白紙となる。
これで、すべて無くなった。何もかもを手放した。
彰久からどのような処罰が下されるのかはわからないが、隠居か蟄居となれば、今度は久弥が桃憩御殿に押し込められるのだろう。
三味線弾きが若君となり、あっという間に今度は蟄居か。己の運命の有為転変には、小さな笑いを禁じ得なかった。
しかし、近侍や久弥を慕う家臣にとっては、このような境遇の激変は受け入れ難いものだったらしい。いくらも経たぬ内に、馬廻り組頭の成瀬が目通りを願い出て来た。
「成瀬か。久しいな」
居間に平伏した男に声をかけると、成瀬は久弥の顔をちらと見上げるなり、はっと息を飲んだ。
「……若君」
「どうした」
作法も忘れて久弥の顔を凝視する男に、首を傾げた。
「いかがなされましたのです?そのようにお窶れになられていたとは……」
顔色を失っている成瀬を見て、久弥は苦笑いした。
「私はそんなに酷い顔をしているのか。皆に食べろ食べろとしつこく言われるわけだ。患っているわけではないゆえ案ずるな」
成瀬は絶句したまま身を強張らせ、迷うように視線を下げた。
「いかがした。申してみよ」
水を向けると、成瀬の顔に血が上った。
「……は。それがし、久弥様がご世子様としてお立ちになられるとばかり了見しておりました。いえ、それがしのみではなく、天城どのも、北田も同様にございます。よもや御前様が宗靖様をご指名になられようとは夢にも思わず……それも、若君御自らご辞退なされたと伺いました。なにゆえ、このようなことが……」
言葉を探しあぐねて顔を引き攣らせるのを、久弥は静かに見下ろした。
「そなたにもわかるはずだ。私が世子に立ったとて、混乱は収まらぬ。家木の一派には怨念がくすぶり、筆頭家老の側にも庶子の私を好ましく思わぬ者がいる。世子争いは収まっても、他の争いで恨みを晴らそうと衝突が生じればすべては元の木阿弥だ。そなた、兄上がどのようなお方であるか、私よりもよくわかっておるだろう。あのお方は名君の器であられる。私は三味線と剣は少々扱えても、藩主として立つ器量は兄上に遥かに及ばぬ」
「そのようなことはございませぬ。久弥様をお慕いするものは多くございます。ご世子様に立たれれば、若君を支持する者は家中に増えましょう。従わぬ不埒者など、一掃すればよろしいではございませぬか」
むきになったように言い募る成瀬を、久弥は厳しく叱責した。
「これ以上血を流してなんとする。家中がまとまらねば国が揺らぐぞ。己の復讐と引き換えに、国を危機に晒すのか?」
「若君……」
武骨な顔がみるみる青ざめ、瞳が揺れる。久弥はその目をじっと見詰めた。
「すでに家木は討ち取られ、一派への処罰は決した。兄上を担ぎ上げようとする輩はもはやおらぬ。これ以上誰にも処罰を加える大義はない」
肩で喘ぎながら、成瀬は絞り出すように言った。
「畏れながら、若君は刺客にお命を狙われつづけ、お母上様も討たれておいでにございましょう。江戸の青馬様も逆臣に斬り付けられ、手傷を負われたと伺いました。それがしも、同輩や上役の方々を幾人も陥れられ、討たれました」
「しかし、我らも大勢斬ったであろう。ーーもう、よせ」
鋭く囁くと、成瀬が久弥の目を見てはっと息を飲んだ。目に涙が張るのを感じながら、久弥は成瀬に躙り寄り、腕を掴んで揺さぶった。
「もう、こんなことは終わりにするのだ!」
打たれたように目を見開き、成瀬は呆然と久弥を見上げていたが、やがてその体からぐにゃりと力が抜けた。
突っ伏した成瀬の低いすすり泣きが、いかつい背中をふるわせる。そのふるえは、がっしりと鍛え上げた腕を掴む久弥の手にも、伝わって来た。
成瀬が肩を落として居間を辞した後、近習頭の杉本が青ざめながら呟いた。
「……成瀬様のお気持ちはそれがしにもようわかります。畏れながら、お世継ぎにふさわしきお方は若君ではございませぬか」
若い杉本にとっても青天の霹靂であろう。せっかく若君の近習頭に抜擢されたというのに気の毒なことをした、と胸が痛んだ。
「饗庭にはそなたを重用してもらえるよう頼んでおくゆえ、案ずるな。そなたが忠義で、文武に秀でていることは重役衆にも伝わっておるから、悪いようにはならぬ」
「若君の御為に口惜しゅうてならぬのです。それがしのことなぞ、どうでもよろしゅうございます」
目を怒らせて歯噛みするように言ってから、はっと頭を下げた。
「……申し訳ございませぬ」
久弥は穏やかな眼差しで杉本を見下ろした。久弥が入城した直後には、粗相があれば手討ちにされるのではないかと、始終遠巻きにしていた近習頭だった。
「……兄上は優れたお方だ。そなたたちには、私心なく兄上によく仕えてもらいたい。私はあのお方が好きなのだ」
「ーー存じ上げておりまする」
眉を下げて杉本が呟いたので、久弥は小さく笑みを浮かべた。
遠い蝉の声が、動くもののない牡丹の間の虚ろさを埋めるかのように響いていた。
白と薄紅の牡丹の周りに、燕や猫が戯れる墨彩画の襖絵が部屋の両側をやさしく彩っているが、今は障子を透かしてもなお強い西日と、高い天井から落ちかかる影とに塗りつぶされて、何が描かれているのかも定かには見て取れない。
己の影に目を落としたまま、久弥は父を待っていた。
若君として御殿にて育つことを拒み、宗靖を討つことを拒み、今また世子となることを拒もうとしている。
ことごとく父に背かねばならない業の深さを思う。……だが、迷いはなかった。
襖の外に気配が立った。
平伏した久弥の耳に、上座からのかすかな衣擦れの音が届いた。
「面を上げよ」
粛然とした声が、人払いした御座の間に響く。
久弥はそっと息を吸い、半ばほど身を起こした。
「お疲れと存じますところ、お目通りをお許しいただき有難き幸せにございます」
彰久がかすかに頷く気配がした。
「家中に世子の布告を行う前に申し上げたき儀があり、参上致しました」
「……申してみよ」
呟くように父が言った。
「私は嗣子にはなれませぬ」
久弥は目を伏せたまま、平静な、しかし通った声で言った。
「世子となるべきは兄上にございます。どうか、お許し下さいませ」
厳しい夏の日差しが差し込む座敷に、息詰まるような静けさが降りた。
「……先刻、饗庭も同じことを申した」
彰久がおもむろに口を開いた。
「そなた饗庭に、筋目を違えるな、と申したそうだな」
久弥は答える代わりに深く叩頭した。
「僭越ながら、それだけが理由ではございませぬ。筋目を守ることが最善であるとは限らぬこともございましょう。しかし……舞田に参りまして短い間ではございますが、兄上は賢君の器にあらせられると拝察申し上げました。奢らず、ご寛大で、ご聡明にあらせられます。民の安寧に心を砕かれ、己を切磋することに惜しまれるところがございませぬ。ーー畏れながら、私はあのお方に、世子にお立ちいただきたいのです」
「……そなたの器を見込んだからこそ、世子に任ずるのだ。下野守様はじめご閣老方のご尽力を無にするつもりか」
重い声が、両肩を押さえつけるように落ちてきた。
「お怒りはごもっともにございますれば、いかなる処分も承る所存にございます。……しかし、私が世子に立てば、必ずや当家と政道を危うく致します。それだけはどうか、お許し下さい」
彰久の視線が射るように注がれるのを感じる。座敷に漂う昼間の暑さの名残りが、いっそう濃くなった気がした。
「……母を討たれたこと、恨んではおらぬのか」
「畏れながら、兄上には何の科もおありでないことと存じます」
「だが宗靖が世子に立てば、家木の一派にしてみれば願望成就となる。そなた、それでもよいと申すか?」
久弥はじっと己の影を見詰めた。
「ーー悲しみは、癒えることがございませぬ。しかし、私もまた大勢を殺めました。私のみが恨んでよい立場にあるわけではございません」
父のかすかな呼吸が、上座から届く。
「……宗靖が世継ぎとなれば、そなたは江戸には戻れぬぞ。あの二人に会えずともよいか」
大名家の正室と世継ぎは江戸に集住しなくてはならないが、側室や他の若君はそうではない。江戸の中屋敷で生まれれば話は別だが、久弥はすでに成人であり、江戸の親元で暮らさねばならぬ理由はなかった。
宗靖が世子となって江戸中屋敷に居を移せば、久弥は一人、この二の丸御殿に暮らすこととなる。
武家はたとえ大名家であったとしても、嫡男以外の権利は著しく制限され、婚姻さえも許されない。養子に出るか、嗣子の座が巡ってこない限り、生涯を部屋住みとして過ごすのだ。大名家の子息であろうとも、部屋住みの立場は惨めなものだ。仕官せぬのだから当然俸禄はなく、わずかな捨て扶持のみを与えられ、着古した着物で呻吟するような暮らしを強いられることもある。
国元の財政にとって、江戸の上・中・下屋敷を維持する負担は莫大である。彰久の猟官運動にかかる費えがそれに輪をかけている。十五万石を誇る小槇は財政的には恵まれているが、本来庶子である久弥のごくごく個人的な欲求のために浪費をする余裕などない。まして、世子の指名を拒むとなれば、久弥が江戸に戻ることを父が許すわけがなかった。もし蟄居を命じられれば、父の怒りが解けるまで、押し込められる部屋から出ることすら叶わなくなる。
だが、跡目争いに終止符を打ち、青馬と真澄を守ってやれるのならそれが何だろう。二人にはさぞ泣かれて、恨まれるだろう。身勝手を詫びようもない。しかし、生きていてくれるのなら、裏切り者と罵られても耐えられる。
「……心残りは、全て捨てて参りました。小槇にて生涯を過ごすことに、何の不満がございましょうか」
揺るぎのない声で応じると、彰久は束の間沈黙した。
「ーーあの子供が熱を出しておる時に、枕元に見舞ったことがあった」
久弥は思わず顔色を変え、耳をそばだてた。
「目を開けて、余の顔を見てな、そなたのことを呼んでおった。熱が引いてから見舞ったら、そなただと思ったのだと申した」
不意に、切ないもので喉の奥が詰まった。よく似た父子なのだ。久弥のやわらかい形の眉と唇は母譲りだが、彫ったようにくっきりとした目と鼻梁、輪郭、上背のある背格好、それに声までも、父に生き写しだった。五十になっても彰久は若々しかったから、熱で朦朧とした青馬が見間違えても不思議はなかった。
「見舞うと余の顔ばかり眺めていた。真澄という娘が、そなたがおるようで嬉しく思っておるのだろうと申した。余が話をすると、声がそなたとまるで同じだと、二人して驚いておった」
嗚咽が込み上げそうになり、歯を食い縛った。
茜の後ろ姿が目に浮かぶ。諦めようと幾度も思いながら、面影を探している。胸の奥底に沈めても沈めても、思いは朽ちてはくれず、気づけば心の面に浮かび上がってしまうのだ。
そしてこれからも、未練だけを抱いて生きていくのだろう。
「あれは、健気な娘だな」
彰久は独り言のように呟いて、ゆっくりと続けた。
「そなたとの縁はもはやないが、あの子供を世話するのかと尋ねたら、そうだと申した。そなたが江戸におるのなら、それでいいのだとな」
気丈なものだ、と父が言う。
血が、流れるのを感じる。胸からとめどなく、血が流れ出していく。愛おしむものをむしり取られてできた深い傷から、血が流れている。
「……だが、もう江戸に戻れずともよいのだな」
胸の内でのたうつものを、渾身の力で押さえつけた。己で己の息の根を止めようとしている苦痛に目が眩む。視線を上げると、こちらを見下ろす父の目と出会った。表情の読み取れぬ、瞬きもしない双眸が、小揺るぎもせずに子の断末魔を見詰めている。
久弥は寸の間、はげしい意志を漲らせた目で父を見上げた。下腹に力を込め、ゆっくりと拝跪して固く瞼を閉じる。
そして、瞼に浮かぶ二人の面影に、別れを告げた。
……終わらせるのだ。
「仰せの通りに、ございます」
蝉の声が遠くなり、御座の間が水を打ったように静まりかえった。
耳鳴りのしてくるような静寂が、永劫のように続く。首筋を、汗が一筋伝い落ちた。
やがて、あるかなきかの衣擦れの音が、緊張に強張った耳に届いた。
「ーーそなたも、そなたの母も、余の意に逆らう」
どこか遠い声で彰久が漏らした。怒りなのか、嘆きなのか判然としない嘆息を聞いた気がした。
「……忠諫、大義である」
降りかかる乱れのない声は、どこまでも滑らかで、茫漠としていた。
「処遇は、追って沙汰する」
去っていく彰久の気配を聞きながら、久弥はがらんとした部屋に、一人じっと蹲っていた。
***
翌日、彰久が宗靖を世子に指名することが、家中に布告された。正式な世子就任は大書院の大広間で家臣団を前にして宣言されるが、もはや決定は揺るぎないものだった。
家中の激しい動揺は想像した通りであったが、目立った反発は起きていなかった。
多喜浜の分家から養子を取るのは家法であったし、いくら直系とはいえ、突如として現れた庶子の久弥を世子に戴くよりも、長年若君として山辺家で暮らして来た宗靖の方が遥かに受け入れ易いのだ。
当然、久弥の婚約も白紙となる。
これで、すべて無くなった。何もかもを手放した。
彰久からどのような処罰が下されるのかはわからないが、隠居か蟄居となれば、今度は久弥が桃憩御殿に押し込められるのだろう。
三味線弾きが若君となり、あっという間に今度は蟄居か。己の運命の有為転変には、小さな笑いを禁じ得なかった。
しかし、近侍や久弥を慕う家臣にとっては、このような境遇の激変は受け入れ難いものだったらしい。いくらも経たぬ内に、馬廻り組頭の成瀬が目通りを願い出て来た。
「成瀬か。久しいな」
居間に平伏した男に声をかけると、成瀬は久弥の顔をちらと見上げるなり、はっと息を飲んだ。
「……若君」
「どうした」
作法も忘れて久弥の顔を凝視する男に、首を傾げた。
「いかがなされましたのです?そのようにお窶れになられていたとは……」
顔色を失っている成瀬を見て、久弥は苦笑いした。
「私はそんなに酷い顔をしているのか。皆に食べろ食べろとしつこく言われるわけだ。患っているわけではないゆえ案ずるな」
成瀬は絶句したまま身を強張らせ、迷うように視線を下げた。
「いかがした。申してみよ」
水を向けると、成瀬の顔に血が上った。
「……は。それがし、久弥様がご世子様としてお立ちになられるとばかり了見しておりました。いえ、それがしのみではなく、天城どのも、北田も同様にございます。よもや御前様が宗靖様をご指名になられようとは夢にも思わず……それも、若君御自らご辞退なされたと伺いました。なにゆえ、このようなことが……」
言葉を探しあぐねて顔を引き攣らせるのを、久弥は静かに見下ろした。
「そなたにもわかるはずだ。私が世子に立ったとて、混乱は収まらぬ。家木の一派には怨念がくすぶり、筆頭家老の側にも庶子の私を好ましく思わぬ者がいる。世子争いは収まっても、他の争いで恨みを晴らそうと衝突が生じればすべては元の木阿弥だ。そなた、兄上がどのようなお方であるか、私よりもよくわかっておるだろう。あのお方は名君の器であられる。私は三味線と剣は少々扱えても、藩主として立つ器量は兄上に遥かに及ばぬ」
「そのようなことはございませぬ。久弥様をお慕いするものは多くございます。ご世子様に立たれれば、若君を支持する者は家中に増えましょう。従わぬ不埒者など、一掃すればよろしいではございませぬか」
むきになったように言い募る成瀬を、久弥は厳しく叱責した。
「これ以上血を流してなんとする。家中がまとまらねば国が揺らぐぞ。己の復讐と引き換えに、国を危機に晒すのか?」
「若君……」
武骨な顔がみるみる青ざめ、瞳が揺れる。久弥はその目をじっと見詰めた。
「すでに家木は討ち取られ、一派への処罰は決した。兄上を担ぎ上げようとする輩はもはやおらぬ。これ以上誰にも処罰を加える大義はない」
肩で喘ぎながら、成瀬は絞り出すように言った。
「畏れながら、若君は刺客にお命を狙われつづけ、お母上様も討たれておいでにございましょう。江戸の青馬様も逆臣に斬り付けられ、手傷を負われたと伺いました。それがしも、同輩や上役の方々を幾人も陥れられ、討たれました」
「しかし、我らも大勢斬ったであろう。ーーもう、よせ」
鋭く囁くと、成瀬が久弥の目を見てはっと息を飲んだ。目に涙が張るのを感じながら、久弥は成瀬に躙り寄り、腕を掴んで揺さぶった。
「もう、こんなことは終わりにするのだ!」
打たれたように目を見開き、成瀬は呆然と久弥を見上げていたが、やがてその体からぐにゃりと力が抜けた。
突っ伏した成瀬の低いすすり泣きが、いかつい背中をふるわせる。そのふるえは、がっしりと鍛え上げた腕を掴む久弥の手にも、伝わって来た。
成瀬が肩を落として居間を辞した後、近習頭の杉本が青ざめながら呟いた。
「……成瀬様のお気持ちはそれがしにもようわかります。畏れながら、お世継ぎにふさわしきお方は若君ではございませぬか」
若い杉本にとっても青天の霹靂であろう。せっかく若君の近習頭に抜擢されたというのに気の毒なことをした、と胸が痛んだ。
「饗庭にはそなたを重用してもらえるよう頼んでおくゆえ、案ずるな。そなたが忠義で、文武に秀でていることは重役衆にも伝わっておるから、悪いようにはならぬ」
「若君の御為に口惜しゅうてならぬのです。それがしのことなぞ、どうでもよろしゅうございます」
目を怒らせて歯噛みするように言ってから、はっと頭を下げた。
「……申し訳ございませぬ」
久弥は穏やかな眼差しで杉本を見下ろした。久弥が入城した直後には、粗相があれば手討ちにされるのではないかと、始終遠巻きにしていた近習頭だった。
「……兄上は優れたお方だ。そなたたちには、私心なく兄上によく仕えてもらいたい。私はあのお方が好きなのだ」
「ーー存じ上げておりまする」
眉を下げて杉本が呟いたので、久弥は小さく笑みを浮かべた。
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