どうやら私はバッドエンドに辿りつくようです。

夏目

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第一章 夜の女王とミミズク

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  ライドル王国に住む人間は、生まれた季節によって、通う学校が決まる。王都では春から夏に生まれた十一歳から十九歳は、王都の北側にあるレゾルール王立学校へ。秋から冬に生まれた十一歳から十九歳は南側にあるフォード王立学校、つまり私が通う、この学校に通うことになる。
  王都以外の主要都市もこうやって、季節によってわけられるらしい。
  身分の壁は学校にも巣食っている。貴族は貴族の教室、清族は清族の教室、平族は平族の教室、貧族には教室がなく、家畜小屋のような部屋が割り振られている。
  フォード王立学校に通う王族は、私とリストだけだ。
  リストは、フォード王立学校に在籍しているものの、軍に熱をあげているので、学校にいることは少ない。そもそも、八歳の時に王族としての勉強を学び尽くした秀才が学校でおさらいをする必要を感じないのは当たり前だ。
  私は、あいにくと出来がいいリストと違い、学ぶべきことがまだまだ残っている。
  まあ、教師たちはある程度を超えると、上達しなくてもいいと極めさせてはくれないのだが。
  なにごとも、出来すぎるというのはよくない。とくに女性の場合、ちょっとできぬほうが可愛らしいらしい。
  ギスランのような人形で遊ぶのが好きそうな奴らが考えそうなことだ。
  今日も、日課の詩集の朗読と、聖歌を歌わせられた。
  女神へ捧げる聖歌を歌っているとき、昨日会った女を思い出した。ギスランが連れてきた、女神に似た商家の女。
  あのあと、きちんとギスランは彼女を慰めただろうか。
  あいつのことだから上手くやっているだろうが。あの女狂いにも役立つことがある。女の手間がかかるご機嫌伺いは、大変得手であるのだ。あの能力だけは、誇っていいと密かに思っている。
  今日の授業をあらかた終え、サロンで休憩をする。珍しく、あの三人の令嬢もいない、静かな午後のお茶の時間だ。心の休息のために窓の外に目を向けると美しい花園が広がっていた。窓を開けるとうっとりとする花の芳しき香りがする。
  毎日、届けられるギスランの赤い薔薇とは違う、清々しい匂いに胸がすっきりする。
  久々に花園を歩くのもいいかもしれない。
  紅茶を飲み干す。片付けようとしたら、どこからか、ギスランの従者と名乗る貧民の女がカップ諸々を奪っていった。瞠目する。あの男、私に監視をつけているんじゃないだろうな?
  口元をひくつせながら、後ろを気にしつつ、なんとか花園に向かうことに成功した。

  花には詳しくない。ギスランがなにを思ってか、毎日贈ってくる薔薇以外、ろくに名前と形が一致しない。そのせいで、白い花弁の花。茎に刺がある花。甘い香りのする花。ギザギザの葉を持つ花。そう種類をわけることしかできない。名前だけなら知っている花は多いが、それがどんな形をしたどういう花なのか、見たことがなかった。
  ただ、この花園が愛を持って育てられていることは分かる。どの花も生き生きとしている。枯れたり、色褪せた花がない。
  花の表面には水滴が付着している。ついさっき水を与えられたばかりらしい。太陽にあたって、宝石のように乱反射している。
  ふと花園に似つかわしくない甲高い悲鳴のような声が聞こえた。音の方に視線をやると、貧民の男と貴族らしき女が言い合っている。珍しい、貧民が顔を伏せていない。対等に見つめ合っている。本格的に私の知らないうちに身分の壁は崩壊してしまった疑惑が浮上する。
  少し耳を傾け、会話を盗み聞きする。

「なぜ、こんなに愛しているのに、わたくしを受け入れないの!」
「……貴族様の相手ができるほど、俺は綺麗じゃないもので」
「そんなの関係ないわ、ハル」
「……はあ、いい加減にしてくれませんか」

  どうやら、貴族の女が貧民に懸想してしまったらしい。貧民の方は身分の違いがよく分かっているらしく迷惑そうだ。顔を伏せていないのも、貴族の女が強要したかららしい。
   貧民は、貴族の女よりも頭二つ分高い。猫背だから、胸を張ったらもっと高いだろう。猫背の時点でリストと同じぐらいの身長だ。
   身分違いは誰にも知られてはいけない秘密の恋だ。誰もが立ち入れる花園で大胆なと呻きそうになる。

「あんたと俺じゃあ身分の差がありすぎるでしょうに。そのぐらい分かっているでしょう?」
「愛し合う二人にそんなこと関係ないわ。駆け落ちしましょう。そして、誰にも阻まれないように、遠くへ逃げましょう」
「なにを無計画なことを。どうせすぐに連れ戻されますよ」

  呆れたといわんばかりに貧民が嘆息する。確かにそうだ。生徒同士の駆け落ちが上手くいくはずがない。家に追手をかけられ、捕まるに決まっている。そうなれば、貴族の女は軟禁程度で済まされるだろうが、貧民は首が物理的に飛ぶ。
  そんな危険な賭けをするような恋に恋している貧民ではない。嫌々、貴族の道楽に付き合っているといわんばかりだ。

「俺など、塵に等しい下賎な存在。この花園の花のように美しいあんたに相応しくない」

  言葉の慇懃さと裏腹に、声は棒読みだった。
  貴族の女は、貧民の感情を鑑みることなく、言葉だけで満足したようだ。きゃあと頬を赤らめた。きゃあじゃない。馬鹿にされているのがわからないのか。
  だいたい、なんだ、この学校は。恋の病でも流行っているのか。会う女会う女、恋を患っているのだが?
  だいたい、昨日会った女もギスランなんて女狂いを好きになるなんて、頭がいかれている。顔がいいからといって騙されてはいけないのだ。

「ハル、いつかわたくしと逃げてちょうだいね」
「……ええ。あんたが望むならば」
「ふふ」

  貴族の女は、しばらく貧民の顔をしげしげと眺めていた。
    だが、次の授業の鐘が鳴ると名残惜しそうに花園を去っていく。
  あの女、子爵家の次女だな。このあいだは平民の男と駆け落ちしようとしていたはず。自分より下の男と駆け落ちするというシュチュエーションに憧れているらしい。本と現実の境界が曖昧になっているのだろうか。一度、水を被って、頭を冷ますことをおすすめしたい。
  花のように美しいと称された貴族の女は、脳みそまでお花畑をしているのだろうか。
   それとも、女という生き物は例外なく恋に溺れる定めなのか? 私もあんな風にぽわぽわしたことを言い始めるようになる? おそろしい事態だ、それは。
  近くにあった黄色い薔薇の花弁に触る。表面が濡れているせいで、少し冷たい。
   赤い虫が私の指の上にのってもぞもぞしながら蜜を吸っている。この虫の名前も知らない。
  ちょっと、可愛いかもしれない。この赤い虫。そう思って、むぎゅっと親指で押さえつけていたら、飛び立たれてしまった。四枚ある黒い羽を細かく揺らして、青空に消えていく。
  取り残されたと、子供のようなことを思った。親指で意地悪しなければよかった。

「花が傷むんですけど」

  突然、頭上から声がきこえた。
  見上げると、先ほどの貧民が私を見下ろしていた。
  ぷんと泥と花、そして汗が混じった臭いがした。花の匂いが混じっている分、他の貧民より増しだが、それでも眉を顰めるぐらいに臭いがきつい。
   服はよれて清潔感をなくしたシャツと黒ズボン。
  もっさりした頭で、目の下には隈ができている。意地悪そうだが、貴族の女が懸想する理由が分かる魅力的な顔だ。
  貧民は手にタンクと繋がったホースを持っていた。どうやら、花に水をやっているのは彼だったらしい。
  黄色い薔薇から手を離す。
  すると彼は興味を失ったとばかりに水遣りを再開した。
  通り雨が降ったように空気が湿り気を帯びる。ざあと水音がする。流れ落ちる小さな粒の間には虹がかすかに見えた。
  しかし、暫くすると、貧民はホースを置いて、乱暴に髪を掻き混ぜ始めた。
  そして私を一見すると、早足で近づいてくる。

「あんた、魔法がつかえる?」

  気怠い口調だった。
  魔法。科学とはきっても切り離せないものだ。そもそも科学とは魔法の劣化した学問。万人が使えるように、簡易化されたもの、それが科学だ。
 困った。私は魔法は使えない。そもそも、清族以外、魔法は使えないとされている。

「いいえ。どうかしたの? 清族を連れてきましょうか?」
「いいや、いい、です。機械が壊れただけだから」

 確かにホースからは水が出ていないようだ。水遣りの途中で壊れてしまったのか。
   科学の発展により、光電機械という、光電を用いた代物が生まれた。飛行船が空を飛べるようになったのも、光電学が飛躍的に進歩したからだ。誰にでも使えるということが大きな特徴であり、今まで清族を呼ばねばできなかったことが一般人にも出来るようになった。
   このフォード王立学校は、王都の学校ということもあり、革新的な機械が搬入されることが多い。しかし未だ不具合が多いのが難点だ。機械の仕組みは複雑で、一度壊れると技術者に任せなければ直せない。
   光電機械の生みの親であるヴィクター・フォン・ロドリゲスは、特許は取ったものの、技術を独占することはなかった。技術者達に仕組みは教えているので、彼に来てもらわずとも修理はできるだろう。しかし、私の記憶する限り、学校には常駐している技術者がいない。
   頼れるのは清族だ。清族は、機械を直すことはおろか、水の魔法をつかって水遣りを代行できる。科学は魔法の劣化版。魔法が上位互換なのは当たり前だ。しかし、貧民からの要請を、清族が素直にきくわけがない。 
 貧民は諦めきれないという顔をしている。さっきも思ったが嘘をつくのが下手だ。顔や声に感情が出ている。

「花が好き?」
「……貧民風情が花を愛でるなって言いたいの?」

  意地悪そうな顔が、くしゃっと歪む。
  不穏な気配を漂わせる貧民を無視して、手をあげる。
  呼びかけに応じて、さきほどのギスランが寄越した貧民の女が生け垣から姿を現す。つかつかと歩み寄って、跪いた。

「お呼びですか」
「ギスランにお前の魔法が見たくなったと伝えて」
「御意」

  貧民の女が走り去っていくと探るような瞳でみつめられる。彼の視線に挑むように見つめ返す。

「花を愛でることに、身分は必要? 言葉は空気にとけるわ。証拠は残らない。心にとどめるだけならなおさら」

  探るような瞳が見開かれる。

「それとも、言葉にいつからか制限が? では、不遜な口をきくお前の口には、どれほどの罰があるの?」
「……これでも、頑張っているつもりなんだけど……ですけど」
「そう、なら、もう少し頑張りなさいな。私でなければ鞭刑は必至よ」
「それは遠慮したいんだけど。ねえ、それって、あんたの前だったら普通に喋っていいってこと?」
「あら、私には敬意を払わないというの? 不敬な貧民ね」

 だが、こちとら、貧民の男を鞭でうったり、椅子にする趣味はない。
 この貧民が他の貴族にどんな罰を与えられても構わないが、私が、愉快な貴族の遊びにはまったと醜聞を流されてたまらない。ギスランが嬉々として詰め寄ってくるのが容易に想像できるからだ。
   言葉遣いなど些細な問題だ。
   昨日だって、なんだかんだいってあの女に気安く話しかけられても許したのだし。

「あんたってなんか、変」
「そう、この世界に変なやつなんていっぱいいるわよ」

 たとえば、ギスランとか。
 あいつは変人という言葉じゃ足りないぐらいの異常者だ。
 口が悪い貧民と言い合っているうちにギスランがやってきた。
 私を見つけると、泥がつくのも気にせず傅く。私の手をとり、手の甲に狂おしく口づける。一連の動作は優雅で思わず見惚れる。

「お呼びですか、私の女王様」
「お前、授業中ではなかったかしら」
「はい。でも、貴女様にお呼び頂く栄光に恵まれましたので」
「ご苦労なことね」

 授業をぬけてきたらしい。それまで私の機嫌をとって、こいつになんの得があるかわからないが、利用させてもらうとしよう。

「それで、私の魔法がみたいとお聞きしました。それは本当でございますか?」
「ええ、お前、水の魔法はつかえる?」
「勿論です。なぜとおききしても?」
「虹がみたくなったの」

   機械を直すのは時間がかかるだろう。手っ取り早く水遣りを代行したほうがいい。

「ちょっと待って」
  
  そう思ったのだが、貧民がいきなり会話に参加してきた。
  ギスランは貧民を一瞥すると、私の顔をまじまじと見つめた。
  なぜだろう。瞳が潤んでいるような気がする。

「この人、清族様?」
「違うわ。ただ、こいつは清族の血が混じっているから例外的に魔法がつかえるのよ」
「……待って。そもそも、花にやる水は適量じゃないとだめ。魔法がつかえるからって、俺じゃない奴の手でやっても、花が傷むだけ」
「お前が管理しているのね」

   それもそうか。さっき、水遣りできないと失意に暮れていたのだ。愛情が知れるというものだ。
  この花園の花達は、一本残らず愛情で包まれている。それだけ、この貧民が心を砕いているのだ。水遣りができても美しい花園の花達が枯れてしまっては元もこうもない。

「なら、ギスラン、お前、水を汲み上げる機械の修復を……? ギスラン、きいているの?」

  ギスランは瞳だけでなく、体までぷるぷる震わせていた。
  嫌な予感がする。

「私の女王様が、貧民と愛人関係に?」

  吐き出された言葉の意味を理解するのに、時間がかかった。
  こいつ、とんでもない間違いをしている。どういう脳内変換の末、そうなった。

「とんでもないことだ。この男の名は? ねえ、この薄汚いの男のどこががお好きなのです?」

   お前のなかで私はどんな女なのだと説明してほしい。
  貧民を愛人にしそうなほど、遊んでそうにみえるのか? お前じゃないんだとこんこんと説教したくなる。

「貧民に、砕けた言葉を許していらっしゃる」

  そう言われれば、言い寄っていた貴族の女と同じように、気安く話すことを許可している。
   ギスランの目には、貴族の女のように、私も恋の病に狂っているようにみえるのか。

「貴女様の寵愛を手に入れるこの貧民の男が妬ましくってたまりません」

   そ、そう。

「首を刎ねたくなります。あるいは、拷問にかけ、貴女様との関係を洗いざらい吐かせて、惨めに衰弱死させたい」

   ……そ、そう。それは、私にはつれない癖に、貧民には甘くしやがってと憤っている?
   人間というのは厄介で、自分が寵愛を受けるのはいいが、他の人間が愛されていると疎ましく思うものだ。特に、見下す相手である貧民が、愛されていると知れば貴族連中は怒り狂う。
   ギスランの過激な発言の内容は実行されたことがあるのだ。
   
「貴女様も閉じ込めたくなってしまう。あまり、その貧民に近寄らず、私の側に」

   腰を抱き寄せられる。
   コルセットの締め付けのうえから締め付けられ、息がし辛くなる。
   貧民との距離ができたことに安心したのか、ギスランが切なげに見上げてきた。
   ちらりとうかがったら貧民が、絶句している。

「愛おしい女王様。私は処刑人になりたいです。そうすれば、この貧民を駆除できますのに」

   駆除! 貧民はネズミか何かか。
  いやいや、落ち着こう。
   対話だ。理性に呼びかければ、暴走中の正気も戻ってくるに違いない。

「ギスラン、落ち着きなさい」
「落ち着いています。ああ、そうだ、貴女様はどのような籠がお好みですか?」
「籠? 鳥でも飼うの?」
「ええ、貴女様を飼う籠です」
「……言いたいことがありすぎて、何から言ったらいいか、よくわからなくなってきたわ」

   頭を抱える。ひどく頭痛がしている。
   とにかく、怒っているのは分かった。
   心底、複雑だがギスランの機嫌をとっておくべきか。こいつの頭が正常にならないと事態は好転しない。

「ねえ、私の女王様は、私よりもこんな男と懇意にしたい? 私より、この男が好き?」
「そ、それは……」
「それは?」

   危うく、お前を好きになった記憶はないと高らかに宣言してしまうところだった。
   そんなことを言ったら最後、この場は血で染まり、私は気が付けば檻の中というビジョンが見えた。幻視であったらどれほどよかっただろう。おそらく、現実に起こりうることに間違いない。
   ギスランが欲しいのは私のなかに流れる高貴な血。死ななければ、監禁しても構わないと思っているに違いない。

「その、ギスラン、今まであまり言わなかったというか、口にしづらいことだったのだけれども、お前のこと、嫌いではないわ」
「はい、うれしいです。それで、質問の答えは?」

   こいつ!
   私が愛想よくしてやったというのに軽く流しやがった! 眉一つ動かさなかったぞ。
   私は、お前を嫌いじゃないと言ったこと、なかったでしょうに! いつもどうでもいいとか、嫌いとか興味ないとか邪魔とか愚図とか散々言ってきたのに。嫌いじゃないって最大の賛辞ではないの! 機嫌をとろうとした私が馬鹿だったの? それとも、言い方が悪かった? でも、他にどう言えと? 好きって言葉に出せとでも? 無理、嘘はつけない!
   確かに、目の前の貧民より気心は知れているけれど、好きかどうかと問われたら、まだ理性的な貧民のほうが好きだ。

「お前の方が付き合いが長いわ」
「私以上に付き合いの長い男はいらっしゃいませんよね?」

   生まれる前から婚約者になることが決まっていた私達だ。血の繋がりがあるリストよりも断然付き合いが長い。

「だいたい、好きだなんだとなによ。お前は私の婚約者なのだから、毅然としていればいいじゃない」
「その愛おしい婚約者に汚い鼠がまとわりついているのが、我慢ならないと申し上げているのですが?」
「お前、先ほどから、勘違いしているようだけどね、この貧民とは今日会ったばかりなのよ?」
「今日会った人間に、気安く話しかけるのを許可していらっしゃるのか」

   喋れば喋るほど泥沼に足を突っ込んでいる気がする。
   珍しく引く気がない様子のギスランの姿が、脳を揺さぶる。気が昂ぶって、だんだん冷静に考えられなくなってきた。
   だいたい、自分はどんな女にも色目を使っているじゃないか。その癖、私のこととなると許さないのは狭量なのではないか。別に貧民と愛人になろうとも、ギスランの淫らな行いのはけ口である女達に嫉妬しようとも、微塵も思ってはいないが、まずは寛大な対応をしている私に感謝するべきなのでは? 

「どうしてでしょう、今日の貴女様は痛めつけたくなる」
「私に危害をくわえたいですって? お前、本気で言っている?」
「危害ではなく……いえ、そうなるのかもしれません。貴女様を嬲ってやりたい」
「嬲るですって! よくもまあ、この私にそんなことを言えたものだわ! 被虐趣味の癖に」
「今は貴女様のことを泣かせてやりたい気分ですので」
「……お前、私のことが嫌いなら面と向かって言いなさいな!」
「貴女様こそ、私のことをどれくらい想っていらっしゃるのか。今日会ったばかりの貧民より、私のことが嫌いですか?」
「だから、嫌いではないと言っているじゃない!」
「貧民より、どうなのかと尋ねている」

   こうなったら意地だ。腰を抱かれていて、ただでさえ体が近いが、喧嘩を売るように、襟を掴んでさらに近付いてやる。
   ギスランの紫の瞳が怒りで濁っていた。
   なんだって、こんな言い合いをしているんだ。ギスランが、やけに過激で、反抗的だから。こっちが、授業を抜け出してきたギスランに少し悪いなと思い下手に出てやったら、図に乗ったのだろう。甘い顔をみせるべきではなかったのだ。
   いつものように、太股を蹴って、言うことをきかせた方が良かった。
   メラメラと怒りが炎のように燃える。このまま、この身ごと、ギスランを燃やし尽くしてやりたくなる。
   顎に噛み付くばかりの勢いで、口を広げた、その時。

   全身に、何かが降ってきた。
   ぽたり、ぽたりと頬に水滴が伝う。やけに、服がずっしりと重い。髪が肌にはりついた。何が起こったのか、よく分からなかった。ギスランも同じらしく、目を大きく見開いて体を硬直させている。
   春の風が花の香りを運んでくる。身震いした私を反射的にギスランが抱きしめた。

「頭、冷めた?」

   貧民が、ホースを片手に持ったまま呆れた様子で言った。
   彼をまじまじと見つめて、気がつく。
  ホースから水がしどしどと落ちる。どうやら、私とギスランが言い合っているうちに直ったらしい。
   ならば、私達にかけられたのは、ホースから出た水か。
   分かった瞬間、脱力する。あまりのことに、怒りが鎮火してしまった。

「花の水遣りに邪魔だから、どっかいって欲しいんだけど」

   ムッとしてしまう。元はと言えば、この貧民が魔法をつかえるかと私にきいてきたのが悪い。……ただ、私が、お節介でギスランを呼んだのだったか。そう考えると、私一人が盛り上がっていただけのような。
   気まずくなり、こくりと頷く。水をかけられたことは無礼極まりないと思うが、あのままだったら二人揃って醜態を演じていただろう。水をかけて頭を冷やすというのは乱暴だが、効果的だ。普通の貴族ならば処刑してやると憤慨するほど無礼だが。
   周りが見えなくなるほど正気を失っていた自分が恥ずかしい。ギスランを正気に戻そうとしていた癖に、一緒になって我を忘れてしまっていたのか。
   ちらりと目線を上げる。ギスランは、刺々しい視線で貧民を睨みつけていた。

「貴様……」

   地面を這うような低い声にぎょっとする。地獄に迷い込んだような、陰惨な響きがあった。

「ギスラン!」

   名前とともに腰に抱き付く。
   いつも部屋に届けられる薔薇の香りがする。
   さっきの仕返しだと、ありったけの力をこめる。コルセットの上から、蛇のように絡みついてきやがって。内臓が飛び出そうだという感覚を知るといい。

「お前、私が風邪をひいてもいいの? そんな貧民、放って、私の世話をなさいな」

   もう、機嫌をとるなんて愚かなこと、するものか。私が上であることをしっかり叩き込まねばなるまい。取り敢えず、服を着替えるために花園を出なければ。
   ぐいぐいと貧民と反対方向に体を引っ張りと、ギスランは私を抱き上げた。慌てて、肩に手を置いて均衡を保つ。この野郎と厳しめに睨みつける。だが、どうしたことだ? ギスランの奴、ちょっくら熱がありそうな赤い頬をしている。
   風邪? この男、昔からどこかひ弱なところがあるから、さっきの水で体調を崩したのでは。
  髪の毛をつかみ、水を絞ってやる。ギスランの髪の毛は、濡れると輝きを増す。積雪のように純白な銀の髪だ。

「ギスラン、寒いわ」
「はい、私の女王様」

  ギスランのうきうきした声とともに視界が暗転する。夜空のような深淵な闇。だが、人を突き放すような冷たさはなく、夏の日差しの下で流れる川水のように生温い。ギスランの指が私を強く掴んだ。
   一瞬の目眩。そして、瞬きのうちに、ギスランの部屋に来ていた。
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