どうやら私はバッドエンドに辿りつくようです。

夏目

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第一章 夜の女王とミミズク

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  ギスラン・ロイスターの行為はどんどんと苛烈になっていった。
 目を開けると、ギスランの部屋なのはいつもの通りだったが、私にはきちんと夜の記憶が残っていた。私はやっと夢から抜け出すことができたと心の中で喜んでいたのだが、ギスランが妙なことを言い始めた。
 曰く、私はこの部屋から出てはいけないのだと。
 私を狙う不届きものが私の部屋に入り込み、荒らしたのだという。犯人は未だ捕まえていないのだと。
 確かめようとする私を押し留めて、ギスランは部屋から出てはいけないときつい口調で繰り返した。

「私の部屋は安全です。しかし、部屋から一歩でも外に出てしまえば、貴女様は戦地より危険な場所に足を踏み出すことになる。部屋にいて下さいますよう」
「でも、ギスラン」

 やはり実際に部屋を確認したい。私の部屋だ。なにかなくなったり、壊されていたら困る。そう言ったのに、ギスランはきいてくれない。首を横に振り、必要ないと繰り返すばかりだ。
 ならばとせめてリストと話をさせて欲しいと言うと、また瞳を潤ませ、自分だけでは足りないのかとおかしなことを言い始める。こうなると結局、リストにも会わないように約束させられ、そればかりか、誰とも、ギスラン以外と口をきかないように言いつけられた。
 おかしいと警鐘を鳴らす自我が、紅茶を飲むと意識の白濁に合わせて消えていく。
 おかしいと感じなくなったのは、それから四日ほど経ってからだった。


 ぬいぐるみはソファーどころか床まで侵食していた。足元には足置きのようにピンク色の兎や鳥のぬいぐるみが倒れている。
 机の上にはいつものように贅沢な食事。
 私はくてりと寝そべりながら、口に運ばれる食べ物を咀嚼する。
 思考の殆どが役に立たなくなっていた。朝起き上がると、ギスランがソファーに運んでくれ、給餌をしてくれる。紅茶を飲んだ後は、童話を読む。眠くなったら眠り、起きたらまたギスランが世話をしてくれる。
 甘やかされ、なに一つ自分ですることがない。
 自動琴を長時間きいているようだった。ぽろんぽろんと軽やかな音で、脳のなかがとけていくよう。

「カルディア姫、外は危険なんです」

 ギスランは事あるごとに繰り返した。
 外は危険だと。
 そのうち私も外が危険なのだという自覚が生まれた。たとえ、ギスランがいなくても、外に出ようとは思わなくなった。外は危険だ。私はまだ死にたくない。ならば、外に出る必要はどこにもない。

「ええ、カルディア姫。賢い選択です」

 ギスランがそう褒めた。ちょっぴりむかついて、なぜか、誇らしくなった。子供のような感覚に戸惑う。

「ギスラン。嬉しそうね」
「カルディア姫と一緒ですので」
「口ばかり達者だわ。たまに縫い付けたくなる」
「そうなれば、貴女様に捧げる言葉がなくなってしまいます」

 でも、とギスランは瞳をきらめかせた。噴水の水面のようにピカピカしている。

「それが貴女様への愛のかたちになるのでしたら。私はとても寛大な夫ですので」
「なに気味の悪いことを言っているの。だいたい、まだ夫じゃないわ」
「ええ、まだ、ですね」

 ことさら上機嫌なギスランに鼻白む。この頃のギスランは変に機嫌がいい。なにか企んでいるのかと邪推したくなる。

「ギスラン」
「はい、カルディア姫」
「まだ私の部屋を荒らした賊は捕まらないの?」
「口惜しいことに、いまだ。使えぬ者どもばかりで嫌になります。我が家から人を派遣すると進言しましたのに、リスト様がお許し下さらない」
「リストが指揮をしているの?」
「ええ、まあ」

 それもそうか、この学校には私を抜かすとリストより高位の人間は存在しない。私が狙われている以上、リストが指揮するのは当たり前か。

「リスト様はカルディア姫を見殺しにされたいのか。信用できぬ者ばかり起用して」
「お前の家が出てくると厄介なのでは? それに、お前の家の手のものって」

 大丈夫なのだろうか。
 いや、ギスランの目的はあくまで私と結婚することだろうから、私を害するという方面は疑ってはいない。
 ロイスター家といえば、大四公爵家の一つで貴族の花形ともいえるところ。公爵夫人は慈善活動家で、女性の地位向上に努めている思想家でもある。だが、貴族が被る善の仮面を脱ぐと、評価は裏返る。
 あらゆる政敵を誅殺し、陥れてきた物騒な家。
 特にギスランの父である公爵は、その手の疑惑を常に抱えた恐ろしい人だ。流石、ギスランを人形に仕立て上げた男という感じで、地位と名誉と金と妻にしか興味のない異常人。
 妻に対しては常軌を逸した執着ぶり。元は清族の無垢な方だった夫人を浚い三日三晩辱め、生まれた子供がギスランだという。
 そんな家の人材が普通であるはずもなく、一度、私を侮辱したさる貴族の処罰をギスランに命じたら、有能な手下達が、没落まで誘ってくれた。大変有能で、だからこそ扱いが難しい。必ず致命傷を与えられる武器というのも考えものだ。

「カルディア姫の怨敵を誅戮するには我が家のものはうってつけですのに」

 うってつけ過ぎるのでは。貴族にとって没落というのは死ぬよりも不名誉なことだとされる。平民を家畜だと揶揄する貴族が、家畜の身に堕ちるのだ。死よりも凌辱された心持ちになったはず。

「リストも優秀な子飼いがいるでしょう。任せても構わないはずよ」
「リスト様を信用なされているのですか?」
「あいつが私に害をなして利益はないでしょうよ」
「そうでしょうか」

 ひんやりとした冷たい声。
 ギスランは男が嫌いだ。女狂い故に。
 高位のリストを、表面的に阿ることしかしない。

「リスト様、どうして番をみつけないのでしょうか」

 唐突にギスランが眉を寄せ、言った。
 番って……。リストは動物じゃないのだから。

「婚約者だった某国の王女様が、女王にならなければならなくなったから、婚約はなくなったのではなかった? とくに今は国益になりそうな結婚相手もいないし、保留にしているのでしょう」
「それは分かっているのですが……」
「ではなにが不満なの?」
「カルディア姫に頼りにされているので。はやく結婚でもなんでもしてくれればいいものを」
「どうかしらね。リストのことだから、国に身を捧げると結婚しないかもしれないし」

 というか、リストが信用できないという話と関係あるのか?
 なんら関係がないように思うのは私だけ?

「リスト様は気に入らない。貴女様に気安く話しかけ過ぎる」
「私とリストしかこの学校に王族がいないのだから当たり前でしょう」
「カルディア姫は意地悪です。分かっていらっしゃるだろうに」
「なにが」

 尋ねながら、頭の端からぼやけていくのが分かった。意識の混濁だ。頻度が上がっている。でも、もうこの混濁に疑問を抱くことはなくなっていた。ギスランがそれでいいという。だからーー。
 だから?
 ギスランがいいというから、いいのか。

「嫉妬しているのです。カルディア姫と対等で話すなど、罪深い。信頼され、指揮を執る? なぜ、あの男が? 薄汚い野良犬のような男ですのに」

 ……薄汚い野良犬?
 リストのことだろうか?

「衣で肌を隠しても、卑しさは隠せない。貴いのはカルディア姫だけ」
「……え?」

 耳がおかしくなった?
 私だけが貴いと問題発言されたような。

「カルディア姫と私以外、皆滅べばいいのに」

 ギスランはそれがまるで素晴らしいことのように、ぱんと手を合わせた。
 その音が私の意識に穴をあけた。
 暗闇のなかに引きずり込まれていく。
 闇が、広がった。



 朝、目覚めると視力が衰えていた。
 全体的にぼんやりとしていて、明らかに見える範囲に限りがあった。霞がかかったように不明瞭だ。驚いたし、なによりも恐怖があった。
 今まで見えていた景色が全くの別物に変わっている。いつも見上げていた天井は本当に昨日まで見ていたものなのだろうか?
 カーテンから覗く朝の光は、いつもと寸分違わないものだ。だが、光の線の輪郭はぶれており、この部屋の空気ははじめて来た場所のようによそよそしい。
 かんかんと鉄を打ち鳴らす音がした。それはどうやら、幻聴ではなく、現の出来事らしい。
 私は周辺を見渡した。続けて見ていた悪夢と違って、現実ではギスランは側で寝ていることは少ない。今回もギスランはいないようだった。
 寝台から降りると、体の平衡感覚が保てず転ぶ。視界への悪化が原因らしい。地面との距離を上手くつかめなかった。
 苛立ちながら顔を上げると、扉を開けて人影が現れた。ギスランにしてはまろやかな輪郭。ふわっと広がる白いエプロンドレス。侍女だろう。
 寝室に侍女が入ってくる。不思議なことだった。いままで、侍女を寝室まで入らせることはなかった。寝首をかかれてしまうかもしれないからだ。隣の部屋にギスランはいないのか。ギスランがいれば直接起こしに来るはずだ。
 あいつは、知らない人間に私を起こさせるような無作法な男ではない。
 心を落ち着けて、寝台の隙間に入り込む。転んだおかげで入ってきた侍女には私が見えなかったらしい。侍女は辺りを見渡すと、寝台へと歩を進めた。まるで寝ている相手を起こさないようにするように、ゆっくりとした足取りだ。
 粘着性の高い食べ物をのみこんだような不快感。唾を飲み込む音が、心音に負けまいと大きな音を立てる。
 黒い靴に白の靴下が見えた。
 荒い吐息がきこえる。

「ふ」

 笑い声ともうめき声ともとれる囁き。そして、布が引き裂かれる音。その音はだんだんと激しくなり、床にはぱらぱらと白い羽が散らばる。


 寝台をなにかで刺している。
 目を覚まさなければ死んでいた。
 慌てるよりも冷静になる。命を狙われるのはこれが初めてではない。
 標的はおそらく私だ。寝台にいないと分かったら、出て行くか、それとも探すのか。
 探された場合、危機だ。私では対抗手段がない。
 だけど、そんな願いもむなしく、女はなにもないこの部屋を歩き回り、そして寝台の下を覗き込んだ。
 私はぼやけた視界でも、覗き込んだ血走った目をきっちりと見てた。
 手には、私の手よりも刃渡があるナイフ。
 恐怖で固まる体と裏腹に、瞳はきっちりと瞠目する女の姿を捉えた。
 女の唇がにぃと変な形に歪む。

「なぜこういう時は夢じゃないのよ!」

 硬直を取り払い、何度も女の顔を目掛けて足蹴りを食らわせる。こうなったら、なにがなんでも生き残るしかない。今まで図太く生きてきたのだ。今更死ねるものか。
 ぬめりとしたものが足の甲についた。おそらく、女の口に足があたった。女の奇声が上がる。しかしすぐに足に、ナイフがつきたてられた。
 痛いと声を上げる前に片足でやたらめったらに蹴りつけた。気合いだ。興奮作用で一時的に痛みは魯鈍になる。女が悶えているうちに、部屋から脱出しなければ。
 うるさく悲鳴をあげる女の反対側から顔を出し、体を寝台の下から出す。
 ナイフが刺さっているおかげで、血は吹き出していない。違和感はあるが、歩けないことはなかった。転びそうになりながら扉へ。女はどうやらあたりどころが悪かったらしく、頭を突っ込んだ姿で小刻みに体を揺らしている。失神しているのかもしれない。相手が無様な醜態を晒しているうちにはやく逃げるべきだ。なんとか、扉を開けて、隣の部屋に移動する。
 ほっと一息ついたとき、よくない考えが浮かんだ。
 女一人だけでいつ帰ってくるかわからないギスランに怯えながら私を探すだろうか。
 仲間がいない確証なんてどこにもないはずだ。
 矯めつ眇めつ、部屋の中を見回すと、人がいた。どうやら、それは男らしい。魁偉といったらいいのだろうか、岩のようなごつごつとした巨体だ。

「うぅううう!」

 喃語のような呻き声は傷を負った獣の声そのもの。唾液が、私の頬まで飛んでくる。その唾液は人のものとは思えなかった。沼のような異臭がしている。
 なんだ、これは。
 おかしい。なぜ、朝起きたら視力が落ちていて、なおかつ女に襲われ、巨漢と対面しなくちゃならない。これは夢か。これが夢でなくてどうする。これこそ夢だ。
 必死に混乱する思考をまとめようとしたが、後ろから、けたたましいノックがきこえて、それどころではなくなった。女が追いついてしまったらしい。
 昨日まで、穏やかな日々だったじゃないか。ギスランはおかしなことを言うし、全く部屋から出してくれなかったけれど。
 ……もしかして、こいつらが私の部屋を襲った奴らだろうか。
 そういえば、いつだったか、ギスランが私の命を狙う不届き者がいると言っていた。
 ギスランめ、きちんと排除しろ!
 八つ当たり気味にここにいないギスランへ悪態をつく。だいたい、ギスランはなにをしているんだろう。こういうとき、是が非でも駆けつけるのが男というものでは。
 あぁ、もう! 絶体絶命の状態なのだから助けに来てくれて構わないのに!
 のっそりとした動きで、巨漢が私に近付いてくる。前には巨漢。扉を挟んだ後ろには頭のおかしい女。逃げる場所はなく、戦うには体がぼろぼろ。
 数奇な運命を辿ってきたと思っていたが、最期、こんな奇天烈な生物に殺されるなんて嫌だ。これならまだ、ギスランの愛人に後ろからナイフで刺された方が幾分かましだ!
 巨漢の顔はおおよそ人とはかけ離れたものだった。牛の面に鳥の嘴。顔から下は筋骨隆々の男性のものだ。だが、下半身には性器がなく、そこからは草のような毛が生えていた。醜悪な獣人といった風である。
 巨漢の大樹のような腕が私の喉へと伸びる。足に刺さったナイフを抜き取り手のひらに刺す。
 踝にひたりと血が滴る。
 だが、巨漢は痛みを感じていないように、そのナイフごと私の喉を掴んだ。
 ナイフの柄が私の血で赤くぬめっていた。一応ナイフが緩衝材となってくれているようだが、息をするのも苦しいほど、強い力で握られている。
 私の顔と同じぐらいの手。
 おそらくこの大きな手は私の首を捻りつぶすことが容易にできる。
 ーー死ぬ。
 あっけないものだ。
 凝縮された一瞬。苦しみから解放される。
 死んだ母も最後は楽になったのだろうか。
 白から黒へ。
 意識が反転する、その瞬間。
 憤怒に濡れたギスランの双眸がぎらつき、巨漢を吹き飛ばされた。


 そこからは、一方的だった。



 巨漢の首が床に転がっている。

 女は裸体をさらし、のけぞった状態で縄で縛られていた。
 ギスランが巨漢の解体をする前に捕らえたのだ。
 部屋中、男の体液が飛び散っている。
 その体液は血ではなく、唾液と同じ、沼のような臭いのする液体だった。

「ギスラン」

 我を失っているのか、ギスランは執拗に巨漢の腕を踏みつけていた。
 私の声に反応は示すものの、ろくにこちらを見ようとしない。

「ギスラン、こっちを見なさい」

 かすれた声で命令する。
 力強く掴まれすぎたせいか、喉に変調をきたしたらしい。

「カルディア姫」

 ギスランはようやく、私と視線を合わせると崩れ落ちるように私に近寄ってきた。
 異様な臭いを纏ったギスランは、震える手で私の顎を持つと首の筋をなぞった。

「跡が」

 首を絞められた跡が残っているらしい。あれだけ大きな手で絞められたら仕方がないだろうが。

「どうし」

 ぷくりと目尻から涙が落ちる。
 床にぽろんと転がる宝石が、次々量産される。

「ギスラン、泣き止みなさい」

 泣きたいのはこちらなのに、ギスランが泣いたせいで泣けなくなった。昔からそうだ。私よりはやく泣くものだから、立つ瀬がない。
 罪作りな男だ。女に泣かせないなんて。

「もう、申し訳ございません、カルディア姫」
「なぜお前が謝るの」

 つっかえながらギスランが言う。号泣しすぎなので心配になり背中をさすってやる。
 来るのが遅いと責めれば絶望して身投げしかねない落ち込みようだ。

「この部屋が安全だと嘘をつきました。こんなにも、害悪で溢れた場所なのに!」

 責任を感じているのか。
 ぽんぽんと背中を叩いて落ち着かせる。
 なぜ私よりもギスランの方が慌てているのだろう。
 しょうがない男だ。

「痛かったですか。辛かったでしょう。貴女様はなに一つ悪くないのに。私が部屋を出たばかりに」

 ギスランは陰鬱な表情で落ち込んだ。
 朝日が眩しいこの部屋で、よくも鬱々としていられるものだ。さすがに鬱陶しくなって、ギスランの顔を弾こうとしたとき。

「不出来な甥で申し訳ない。カルディア様」

 鮮麗な衣重ねの男が近付いてきた。
 見覚えのある姿に驚愕する。珍奇な事態だった。

「まったく、見ていられぬ。自己反省と自己嫌悪は被害者たるカルディア様の前ですることでもあるまいに。気が利かぬ男は女に好かれぬぞ」

 気落ちしている甥に慰めなのか追打ちなのかわからない言葉をかけたのは、王宮魔術師筆頭。清族の頂点に君臨するナイル家の現当主。ダン・フォン・ナイルだった。

「まずは離れよ、ギスラン。貴様にはカルディア様の足が健常に見えると? ならば、貴様の目玉ごととりかえるほうが先か」
「怪我をなさっているのですか?」

 ギスランが青ざめた。

「紳士の風上にも置けぬな。貴様は、放ってきた作業に戻れ。カルディア様はわたしがみよう」
「信用できません」
「それはこちらの言葉よな。女より先に涙を流す男は不要。疾くに去れ」
「カルディア姫、足の治療を、私に」

 焦ったのか、ギスランが私の足を乱暴につかんだ。小さく悲鳴をあげると、怒鳴られた子供のように萎縮して、また涙をこぼす。

「も、もうしわけ」
「邪魔よ。ギスラン、お前の魔は治術に優れておらぬ。さっさと消えろ」
「うるさい。カルディア姫以外が、私に命令するな! カルディア姫、どうか、私に治療を」

 焦燥するギスランには悪いが、ダンの方が治術に優れているのは事実だ。
 それにダンの口振りから、ギスランはなにかしていたことを投げ出して私を助けに来たらしいことが判明した。危機も去ったのだし、戻って貰って構わなかった。

「ギスラン、するべきことをしなさい」
「ですが」
「これは命令よ。私ならば、命令していいのでしょう?」

 押し黙ると、深々と頭を下げてギスランが部屋から出て行った。入れ違うように入ってきた魔術師達が巨漢の首や腕、女の身柄を運んでいく。

「相変わらず、ギスランの盲愛は怖気が走るものだ。父親とよく似ている」

 吐き棄てるように、ダンは独り言を呟く。

「ダン、お前がなぜこんなところにいるのかしら」

 ダンは王宮魔術師の名の通り、王宮にいる魔術師だ。この学校にいるような人物ではない。

「カルディア様。疑問は後でお伺いいたします。今は足の傷を治さねば。ここまで痛めつけられて、よくもまあギスランを慮ることが出来たものだ」
「あれが子供っぽく泣くからよ。ああもうるさいとおちおち嘆いてもいられない」
「気の強い方だ。しかし、あまり喋らぬほうがよろしい。毒が塗りこまれている」

 心臓がとくりと跳ねた。
 刃先に毒を塗る。たとえ避けられようとかすりさえすれば、仕留めることが出来る。暗殺者が好む代物だ。

「ふむ、痺れを誘発するような代物です。肉をそぎ落とすよりも、術で転移した方がよいな。一度眠られたほうがよろしい。血も流しておられるし」
「ええ、ではダン頃合いになったら起こしてちょうだい」
「御意」

 この数日で、睡魔の呼び寄せ方は手慣れたものだ。
 異臭が広がる部屋がかききえる。
 暗澹とした世界。深く沈んでいく。




 夢を見た。
 おぞましい、夢。

 ーー死を願え。
 ーー人は最期、地獄に堕ちる。女神の叡智も慈愛もそこには届かぬ。
 ーー骸骨を捧げよ!
 頭を何度も振る。
 甘いお菓子。いい香りのする紅茶。姦しい令嬢達の会話。女の悲鳴。強い衝動。温かな体液。男の怒鳴り声。朝と夜とが同時に訪れる。太陽と月が王座を照らす。
 父のーー王の顔が、悦びを湛える。
 ギスランが現れた。小さい小さいギスラン。私の手をひいて、どこかに行こうとする。手を振り払うと、足に痛みが走る。
 振り返る。血走った目の女。牛の面、鳥の嘴を持った巨漢。
 怖い、怖い!
 子供のように頭を抱える。ぽたりぽたりと体液が滴る。
 助けてと声を上げる。
 これは現実? それとも夢?
 分からない。慌てて目の前にいたギスランにしがみつく。
 ギスランは大きかった。小さな小さなギスランじゃない。
 どうしよう。ギスラン。助けて。助けて。
 荒く吐息を吐き出す。
 女神の叡智も慈愛も地獄には届かない。
 女神は万能ではないのだ。
 気がおかしくなってしまったのだろうか?
 きっとそうだ。私は、頭が変になった。きちんと治したはずなのに。どうしたらいい?

「ギスラン、ギスラン!」

 どうして返事をしてくれないのか。
 顔を覗き込む。目を瞑った姿に焦りが起こった。
 死んでいるの?
 じわりと視界が歪む。
 ギスラン、ギスラン。肩を揺らす。
 嫌だ。嫌だ。白い紙に黒いインクを落としたように、ギスランが死んでいるかもしれないという思いが強くなる。
 また死ぬ。
 人がまた。
 私の前で。
 絶叫を上げる。
 それでもギスランは起き上がらなかった。
 私は逃げた。身勝手にも。
 死の足跡から逃れるために。だけど、ひたひたと足音がする。羽毛が飛んだ。床一面が、雪のように白い。
 死ぬのが怖い。
 私は死にたくない。
 走り続けて、辿り着いた先に母の死体が目の前にあった。
 母の腹部には、ナイフが突き立てられていた。




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