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第一章 夜の女王とミミズク
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しおりを挟むありえない。
誰にも告げていないが、視力が前より低下したままよくならない。加えて、足に怪我をしており、いまだに完治はしていない。しかも、走りづらいドレスと踵の高い靴!
全力疾走したギスランに追いつけるはずがない。その後、簡単にギスランを見失った。
普通ならばお茶会に戻り、事情を説明するべきなのだろう。しかし、私一人で戻り、なにを説明できるというのだ。ギスランに靴を舐めさせたので、怒って走り去ってしまいました。
なんて言いに戻れる?
そんな無謀なことをしたら、サラザーヌ公爵令嬢に嫌味を言われ、屈辱的な時間を過ごす羽目になる。
はあとため息を吐いて、とぼとぼ回廊を歩く。ギスランは、校舎側に走り去った。
私も同じように校舎へ向かう。
ギスランの影を探すが、見つからない。
お茶会には戻りたくない。できれば、このまま部屋に戻り、今日一日をなかったことにしてしまいたい。
なんであんなことしでかしちゃったんだろう。
大失態だ。人生に一度、あるかないかの。
きっと、ギスランは王族の血をひく替えの婚約者を見繕って、私を秘密裏に暗殺する。
今日、部屋に戻ったらギスランの手の者が私を待っていて、ナイフでぐさり。
うわあ、ありそう。
きっと、そうだ、よくもギスラン様に恥をかかせやがったな、もがきながら死ねとかなんとか言われて、血溜まりのなかで息絶えるんだ。やっぱり部屋には戻らないでおこう。
どうせなら、鳥人間に殺されておくべきだったのかもしれない……。
未来の自分の酷い末路に悶絶していると、鼻先を花弁が掠めた。
花園から風に乗ってここまで来たらしい。
花園は学内のサロンの正面に広がっている。校舎は大きく三棟にわかれている。いつも使うサロンのある棟は東にあり、大理石の大きな柱を中心に建てられている。天界まで続く生命の樹を模したものだ。柱には聖書の様々なシーンが彫られている。最上階まで伸びる柱の先には天帝の宗教画が天井一面に描かれている。
天帝は『花と天帝』に出てくる、初々しい恥ずかしがり屋な神様だ。四季や晴雨を運ぶ天の神様。聖書では花と結婚の約束をしたと記されている。
だから、東棟には花園がある。天帝が、いつでも花を愛でにいけるように。
死ぬならば、せめて花に囲まれて死にたい。
自暴自棄になりつつ、私は花園へと歩いた。
春爛漫だというのに、心だけは雨季のように沈んでいた。花の匂いは芳しく、泥の臭いを霞ませる。地面に倒れこんでしまいたくなるような、虚脱感に襲われた。黄色い花をまじまじと見つめつつ、とげとげした茎の突起を触る。
蜂の針ように尖ってはいない。軽く丸みを帯び、優しく触ると刺さることはなかった。
花園の奥。だれもこないような奥まった場所で膝を抱え、座り込む。時折吹く風がまどろむように暖かい。
花の香りに意識を取られ、意味のないことを滔々と考える。
自分が圧倒的に優れていたら。そんな人間は私ではないだろうが、もし、比類するものがいないぐらい自分が圧倒的な存在だったら、きっと矮小な悩みを抱いていなかっただろう。
いや、たとえば、リストのように秀才であれば、あのお茶会で、驕り高ぶらずにいれたかもしれない。誠実に、冷静に振る舞えたのかもしれない。男性的な我慢を知っていたら、泰然とお茶を飲み、花を愛でるような気持ちでいられただろうか。
目を覆いたくなるような大失態をした私のような存在は、心根から愚かなのだろう。どうすれば改善出来たのだろうか。今更、改善したところで結果は変わらないのに、どうしても固執する。いまだに権力の魔力に囚われているのだ。どうしようもなく。
出来ることなら、今でも恩恵を授かりたい。なかったことにしてしまいたい。
欲深いこの心を先に浄化しないと駄目なのだろうか。だが、権力への執着は生への渇望だと定義していい。絶対的な身分階級が存在するこの国では高い身分がなくては人間として生きていけない。
他人の命を貪りながらも王族であり続ける理由はそこにある。貧民に落ちることはできない。
自尊心もあるが、貧民の生活がいかに非人道的であるか知っているからだ。知があるとは、そういうことだ。当たり前の権利さえ主張できない恐ろしい場所があると認識するということ。
平民とて同じだ。貴族や王族でなければ、人ではなく家畜と蔑まれる。
泥と汗の臭いをさせ、家具にされる自分を想像する。耐えられない、死んだほうがましだと思うだろう。
でも、最初から貧民だったとしたら。
着飾ることも、人を踏みつけることも知らない、貧民に生まれていたら。
泥と汗の臭いを普通だと思っていたら?
彼らはなにに感動するのだろう。毎日汗塗れで、忙しなく、宝石や絵画を鑑賞しない。本も読まないし、お茶会もしない。
喜びも悲しみも怒りも、感じる場所が違うのではないだろうか。
きっと、心のどこかで貧民を家畜だと思っている。同じ人間のように感じていない。
ーーああ、だから貧民や平民に軽んじられても平気だったのか。
商家の女や貧民の男に無礼を働かれても怒りもしない。なのに、貴族に軽んじられれば、怒り狂う。
同じ人間と思っていないから、心に響かないのだ。嘲笑も罵りも、異国語をきいているよう。
聞き取れないし、気にもしない。
このまま王族として生活できるわけがない。死しか待っていないのだとしたら、いっそ、この学校から逃げ出してしまおうか。だが、王族を捨てて、貧民になる覚悟がない。汗塗れは醜いことだ。王都に出て、商人の真似はできないだろう。私は王族でないと生きられない惰弱な存在だ。
どうして私は花として生まれてこなかったのだろう。できることならば、毎日日の光を浴び、風に揺れるだけの存在になりたかった。『花と天帝』の花のように。
甘い考えだ。私は人間でこの国の第四王女。
花にはなれない。
ギスランに頭を下げてみる?
許してと、みっともなく。
そんなことをするぐらいならば、舌を噛みきって死んだほうがましだ。
だいたい、ギスランが悪いのだ。他の女にうつつを抜かすなんて、婚約者失格だ。
嵐にあっているかのように心がひっちゃかめっちゃかだ。
夜がこなければ、ずっとここにいられる。そんな馬鹿なことまで考えはじめた。
「ねえ、あんた、また来たの?」
声の主に顔を向ける。
もっさり頭の猫背の貧民が、呆れたようにホースを抱え、こちらを見下ろしていた。
「俺のこと、鞭打ちにでもきたの?」
貧民はホースに繋がったタンクの様子を見ながら、私に話しかけてきた。馴れなれしい。どうやら、私のことを覚えていたようだ。
堂々とした振る舞いに、こいつは鞭打ちしないと侮られた気がした。私は貧民にも馬鹿にされるのか。
急に仕置きしたくなった。この男の驚く顔が見てみたい。
ーー馬鹿だな。
これでは、お茶会と同じ轍を踏むだけだ。
それに、よく貧民を観察すると、堂々としているわけじゃない。諦めているんだ。鞭打ちを当たり前だと容認している。顔と鼻に熱が集まった。顔が、足跡のついた沼地のように歪む。
貧民になれば、鞭打ちも当たり前。体をしなる鞭で叩かれる。人ではない。家畜に対する所業だ。
「お前は、馬?」
「……そうじゃないけど。お貴族様は俺らを馬みたいに扱うのが好きだから」
「私は貴族じゃない」
「誤魔化さなくてもいいよ。あんた、平民には見えないから」
ホースから出る水の量を調節し、私を一瞥する。視線が衣服に止まる。
「仕立てのいい服だね」
お茶会のまま飛び出してきたから、紅茶のシミがそのままだ。羞恥を抱き、体を丸める。
せっかくのドレスなのに、汚してしまった。
品のない女だと思われただろうか。
「でも、似合わない。あんたはこのあいだ着てた、古いくたびれたやつ方が似合ってる」
ばっと顔を上げる。そうだ、この前着ていたのは古いドレスだった。私は可愛くて綺麗なドレスは似合わない。だから、地味な目立たないドレスを侍女に用意させたのだ。
ギスランが私と一緒にいるようになって、服が豪華になった。ギスランの隣に相応しいような格好をしなくてはいけなかったからだ。私もそれに合わせた。ギスランの隣にいることで自分が力を持っているのだと喧伝したかったからだ。
どうしてだろう。古いくたびれた方が似合ってると言われるのが嬉しい。
「……とか言ったら、怒る?」
「いいえ。私もそう思う。こんな服着て、馬鹿みたい」
裾をつかむ。ギンガムチェック調のひらひらした女性らしいドレスだ。可憐な令嬢が好きそうな。華やかで、目をひくような派手な衣装。それにあわせた、濃ゆい化粧。まるで人形になった気分だ。
「どうしてここにいるのよ」
「それ、こっちの台詞。なんでいんの、こんなとこ」
「誰もいないから」
貧民はホースで花達に水遣りをはじめた。水が散っていく。霧雨のような優しい水音がきこえる。
花達がかすかに春の色を空気に放っているような淡い暖色が水を染めた。風雅だった。息を忘れそうになった。日常の一瞬なのに、目を奪われる。
宝石より何倍も、綺麗だ。この光景を切り取って、着飾ることができたらどんな美女も敵わないのではないか。
「俺も。人いないから、ここにきた」
水遣りをする貧民から泥と汗の臭いがぷんとした。この男は貧民なのだと再確認する。
「水遣りにでしょ」
「別に、仕事とかじゃない。俺が好きでやってるだけ」
「そうなの?」
こくりと頷かれる。てっきり仕事の一環だとばかり思っていた。
だからホースを直すために清族を呼ぼうとしたら断ったのか。正式な仕事ではないのにと責められるのが恐ろしかったのだろう。
「貧民のこと、みんな嫌いだから。普通に花見てたら、あっち行けって言われる。逆らっても面倒。だから、水遣りして口実作ってんの」
ーー貧民風情が花を愛でるなって言いたいの?
貧民は、花が好きかと尋ねた私にそう言った。それは、言われたことがあるから?
それに水遣りだと偽って口実を作っているのに、どうして人気のない場所を選ぶのか。
もしかして、水遣りをやっていても、邪魔だ、消えろと言われる?
毎日、どれだけ罵倒をされているのだろう。
道具を消耗するように気兼ねなく、罵りを浴びせかけられているのか。
「お前の水遣りで、花が綺麗に咲くのね」
「俺のおかげじゃないよ。花はもともと綺麗に咲くもの。水遣りなんてしなくても、いい」
「一つ一つならばね。でもこの花園はすべての花が美しい。丁寧に手入れがされている証拠よ」
体が疲れてきたから、膝を腕で抱え込む。少しだけ息がしやすくなった。
「私、宝石のような硬質な美しさしか知らなかった。ここの花は、生き生きとした、活気ある美しさだわ。愛されている。お前、もしかして天帝?」
誤魔化すように軽口をたたいたのは、貧民が困った顔をしていたからだ。やっぱり、顔に出やすい。賛美されるとどうしていいのかわからないのだと思う。
「そんなわけない」
「そうよね。ねえ、この花、なんて名前なの?」
「……ゴドレ」
「ゴドレ! 『月と貴族』に出てくる夜の花ね。日が昇るうちは黄色なのに、夜になると赤く変色する」
夜を待望する処女の花とも言われている。純情な生娘のような花だからだ。本で名前だけは知っていたが、初めて見た。確かに月のように黄色だ。この花が赤面する様子を見てみたい。
私のはしゃぎように貧民は戸惑いを隠せないらしい。
びっくりしたためか、ホースを下げ、足元を水まみれにしてしまう。
「こちらの赤い花はなんというの」
「マリー」
マリー。女の名前?
なぜか、花は女の名前が多い。花のような女に育って欲しいと親がつけるのか、それとも女のような可憐さで育って欲しいと花を育てる人がつけるのか。どちらが先だったのだろう。
『花と天帝』にはこんな話がある。
天帝は花に求愛するときまずその花をなんと呼ぶか、迷った。できるならば、花の名前を呼びたいが、あいにくと花の名前を知らなかった。天帝は他の神々に花の名前をきいて回ったが、誰も知らないという。恥を忍んで直接尋ねると、花は名がないと言った。だから、天帝はあらゆる言葉のなかでもっとも気に入っている文字で名をつくり、花に与えた。
ただ、天帝が世界のあらゆる文字を集め過ぎたせいで、その名を発音できるのは一握りだけ。
そのうち、その一握りも灰に変わり、花だけ残されたという。
だから今でも、天帝の愛した花は名前は分からない。
「こっちの青色の花は?」
「ギル」
名前を唱えながら、花の特徴を観察する。色や形だけじゃなく、葉っぱの形や花弁の枚数で違う種類だとわかる。
奥深いな、植物。
しげしげと見つめていたのが宝石を狙う盗賊の顔にでも見えたのか、貧民が笑うのを誤魔化すような変な顔をした。
「ここの花盗ってもお金になんかなんないよ」
「このあいだは触ってるだけで怒ったくせに」
「あのときのあんたの顔も今と同じような顔してた」
ぺたぺたと頬を触る。この花、お金になりそうという顔をしていたのか。なんて顔を晒しているんだ。
蒼白になりながら、なおも頬を触っていると、貧民が小さく笑った。
「お、お前ね!」
「ごめん、嘘」
「私をからかうなんて!」
地団駄を踏みそうになる。貧民にからかわれるなんて初めてだ。
そもそも、貧民とこんなに長く話したことがなかった。彼らはいつも頭を下げ、おどおどしているか、ギスランが飼う貧民の冷徹な態度か、どちらかだった。この貧民はその二つとも当てはまらない。
「あんた、やっぱおかしい人だね」
「私はお前の方がおかしいと思うわ」
貴族が貧民ごっこでもやっているのかというぐらい、飄々としている。
諦念しているのに、絶望はしていない。
不思議な貧民だ。
「俺の花がそんなに気に入った?」
「ええ、花はお前のように無礼ではないもの」
「そう? 俺が育ててるんだから、俺に似てるのかもしれないよ」
花が無礼ってなに。
むすっとしていると、今度は声をたてて笑われた。
唸りそうになる。頭をぐちゃっとかき混ぜてやろうかと企んだとき、頭の上が陰った。渡り鳥かと、空を見上げる。
ころっとした丸っこい体つきの鳥だ。羽を広げ、高速で森の方へ飛び去っていく。
「あれ、ミミズクだ。初めて見た。本当にこの森にいるんだ」
「ミミズク!」
「『夜の王とミミズク』だっけ。夜の王から加護を受けているから、夜行性になったって。昼間起きているのは、珍しいな」
あれ、ミミズクなのか。
目を凝らす。挿絵のようにもふっと眠そうな顔しているだろうか。ぬいぐるみのように愛くるしい?
遠目だからか、視力が低下しているからか、別の生き物に見える。
夜の王に物語をきかせた物知りな動物。
会って、物語をきいてみたい。夜の王は、ミミズクの話が楽しすぎて七日間寝ずにねだったほどだ。
「ちょ、ちょっと!」
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