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第一章 夜の女王とミミズク
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『ライドル王国史上最悪の天災! 天帝の怒りか!?』
新聞の見出しは大仰なものだった。
載せられた写真には、清族の術がかかっているのか、ファミ河の氾濫の様子を一部始終映像で見ることができた。
家がのまれ、人が流されていく。散り散りになる木材さえ、荒れ狂う波が全てをさらっていった。
濁流にのまれ、ぶくぶくと気泡を上げて深い水の奥へと沈んでいく。そんな幻が見えた気がした。
水は人がたどり着く、最後の場所だ。
気まぐれにうちよせ、栄華も平穏も滅ぼしていく。死神とは水の形をしているのではないかと、ふと思った。
記事には、天帝を賛美するラサンドル派の会見は記されていた。
ライドル王国は、女神カルディアを崇拝している。故に、天帝を賛美するラサンドル派は聖職者のなかでも異端扱いだ。だというのに、国内有数の新聞に彼らの思想が潜んでいる。
天帝の怒り。そんな言葉で、信者を増やそうとしているのか。
時代は留まることを知らない。移り変わっていく。昨日確かだったものが、今日はまがいものになるかもしれない。時代に取り残されないようにするためには、自分で歩まなければならない。
ラサンドル派の勢力の拡大は、ヴィクター・フォン・ロドリゲスの影響だろう。彼は、熱心なラサンドル派の信徒だときく。
新聞を折りたたみ、テーブルのうえに置く。
いつものサロンに、ギスランはいない。コリン領で空賊退治の指揮をとっているからだ。
リストは、朝方、被災状況を確認するために学校を出ている。
カップに注がれた紅茶が振動で円状の波をつくる。
あんぐりと口を広げて、数秒間待つ。自分がやっていることに気がついて羞恥心でうずくまりたくなった。
ギスランに給仕されることに慣れていたせいで、口を開けばあいつが運んでくれるものと思ったのだ。
無性に悔しいので、クッキーを掴んで噛み砕こうとして、駄目だった。
――これ、毒見してあるのだろうか。
クッキーを皿のうえに戻す。
急に食欲がなくなった。
紅茶を啜ろうとしても、同じ理由で硬直してしまう。
ギスランめと叫びたくなった。
あいつのせいで、紅茶をまったく楽しめない!
テーブルの上は、嫌味なほど飾り付けられている。
赤い薔薇の入った花瓶。カップにソーサー。スプーン、ガラス製の砂糖入れ。クッキーのいいにおいまでするのに。
ギスランの手のひらの上でダンスを踊っているみたいだ。
あいつがいなければ、食事もままならないのではないか。
背筋が凍った。そういえば、貧族達の家で食べて以来、なにも口にしていない。
下唇を噛む。あいつがいないことで、弊害が現れるなんて!
まるで、私があいつに依存しているようではないか。
否定したいのに、私は硬直したまま、クッキーを食べることも、紅茶を飲むこともできなかった。
ギスランの不在が私に打撃をあたえるものになるなんて。
だって、あのギスランなのだ。
被虐趣味で、時に乙女より可憐で口がうまく、女狂い。いなくなって清々するはずなのに。
あいつの存在が私の心に根付いている。由々しき事態だ。
もし、ギスランが私の命を狙っていたとして、きちんとした罰を受けさせることができるのだろうか。
「お聞きになりまして? カルディア様の」
「ええ、ギスラン様に恥をかかせたのでしょう?」
「王族の恥さらしですわねえ」
「まあ、そこまで言うのはかわいそうよ。ほら、あそこにいらっしゃるのだから、聞こえてしまうわ」
ーー聞こえているわよ。
この前まで、大声で泣いていた令嬢達が、私の悪口大会だ。
元気になってよかった。王族を貶せるまで回復したのだから、心配いらないようだ。
「ギスラン様は愛想を尽かしてしまわれたのでしょう?」
「サラザーヌ公爵令嬢が次の婚約相手とか!」
「お似合いですわ。気品の高さも、お美しさも」
「カルディア様は、ねえ?」
「醜女ではないけれど、ねえ?」
ギスランがいなくなった途端、この扱いだ。
不愉快千万だ。
落ち目の王女は貶してもいいらしい。
ギスランがいなければ、軽んじられる。
いつか想像した通りに。
サラザーヌ公爵令嬢と婚約。そんな放語まで飛び出している。
だめだ、落ち着かない。
ギスランが他の女のものになる。そう思うと、頭がずきずきしてなにも考えられなくなる。
サラザーヌ公爵令嬢に渡すなんて、癪だからだ。なぜ、ギスランをあんな女にやらなければならないんだ。
息を吐き出して、愚かな考えに頭を抱えたくなる。
なんで、ギスランをもののように扱うのだ。
あいつは、私のものでもなければ、鳥人間のような命令を実行するだけの機械でもない。
彼を支配しているのはロイスター家だけだ。一族の繁栄のためだけに、私との結婚を望んでいる。
だから、私に一滴たりとも情を注いだりしないし、ロイスター家が婚約破棄を望めば唯々諾々と従うだろう。執着しているのは、王族という身分だけ。
そう思いながらも、違和感があった。なにもかもが、崩れていくような。水の中に飲まれていくような。
艶々の赤林檎を口いっぱいに頬張って飲み込んだように、喉に言葉が溜まっていく。
眩暈が苛む。知ってはいけない真実を嚥下してしまった。
ギスランは、もしかして私のことをーー。
「カルディア姫?」
「お前は……」
ぼんやりとした意識に、商家の娘が入り込んできた。
心配そうに顔を覗き込まれる。
やはり、十一歳には見えない。私と同じか、少し上に見える。発育が良すぎる。胸だって大きい。
「リナリナです。あの、大丈夫ですか? 顔色が……」
「ええ、大丈夫」
ぼんやりとした意識が、だんだんと日常的な感覚に戻っていく。
「よかった。あの人達が酷いことを言っていたから。陰口ぐらい、本人がいないところで言えばいいのに」
そういって、令嬢達を睥睨した。
「あの人達だって、言われたら嫌なくせに。その、本当に大丈夫ですか? ああいうので落ち込む気持ち、分かるから。心配になっちゃって」
ハルと一緒にいた時間があるからか、リナリナを馴れ馴れしいとは思わなかった。
肩を摩る手をひっそりと外して、私はきちんと彼女の顔を見た。
やはり、女神カルディアの像とよく似た顔の形をしている。
「なぜ、お前がここにいるの?」
「だって、このサロン、別に貴族専用とか王族専用って書かれてないから。私もここでお茶しようと思って」
「このサロンで?」
こくりと頷くリナリナに、絶句した。
平族がこのサロンでお茶するなんて、見たことも聞いたこともない。
彼女はなにも変わらず、身分なんて気にせず、平等であると言わんばかりに振舞っている。
私が脅しをかけたこともなかったかのように。
「なにを馬鹿な」
「馬鹿じゃあ、ありません! 王族、貴族と富を独占するのはよくないです。この国の人口比率がどんなものか、カルディア姫はご存知ですか? 王族が一番少なく、貧族が一番多い。数は力だというのに、貧族を蔑ろにし過ぎている!」
力説に、ひいっと声をあげてしまいそうになる。気迫に満ちているのだ。ギスランの母、女性の地位向上を目指しているロイスター公爵夫人だって、こんなに闊達じゃない。
「貧族の食事をご存知? 彼ら、いつも馬の肉を食べているんですよ。身分による食べ物の差なんて、前時代的過ぎる! 今だに、王族は羊、貴族は牛、清族は鶏、平族は豚を食さなければならないなんて」
身分による食事制限がそんなにおかしいことだろうか?
「おかしすぎます。それを遵守するなんて、馬鹿げているわ。わたしが教典を作った時代に生まれていたら、書き記そうとした人の頭を石で殴っている!」
「過激過ぎじゃない!?」
「あと、男女による服装の違いだっておかしい! 女だからスカート履いて大人しく、なんて、男の理想押し付けられてるだけだもの。女性だってズボンぐらい履いていいはず!」
今も足の形が出る、びっしりとしたズボンを履いている。
男性の為の服なのに、洒脱だ。前も思ったが、足を見せると足が長く見えて、とっても似合っている。
「平等をうたいながら、全く平等じゃない。カルディア姫、貴女はわたしが潔白じゃないと言ったわ。自分が傷付けられそうだから権利を主張しているって。それはその通りだと反省しています。わたしは確かに、貧族をどこかで見下していた」
リナリナは一旦、言葉をきって唾を飲み込む仕草をした。
「でも、だからって、わたしのなかで平等への渇望はおさまらなかった。むしろ、いっそう深まった。貧族とか王族とか貴族とか、そんな垣根を壊してしまいたいって」
「なにを言っているの」
彼女の言葉をきちんと理解したくない。
「わたし達は生まれたときから、性別という区別があります。なのに、それ以外で生まれの差がある。これって、酷いことだと思うんです。だって、二重の差別がある。貧族の女性なんて、本当に酷くて。身売りするのが基本なんです」
口に髪が入ったのか、唇の先を払いながら、リナリナは続けた。
「なのに、貴族の男性は、女を取っ替え引っ替えにして、自慢話のように語る。侍女に手を出しても、既婚者と不倫しても。性別、身分、この二つでまるで他の生き物みたい」
「だったら、どうだというの。平族で、しかも女のお前になにが出来るというの」
「勿論、わたしだけじゃなにも出来ません。でも言ったでしょう。数は力だって」
リナリナは私に顔を近付けて、息を浴びせた。
そして、囁く。
「わたしは王都で地下新聞をつくっている組織の一員です」
ぎょっと目を剥いた私に、リナリナは少し笑った。
「昨日、貧族と仲良く朝帰りしたところを見かけました。貴女はきっと、わたし達に賛同してくださるでしょう」
まさか、花園にハルと一緒にいくところを見られていたのか。
さあっと顔から血の気がひいた。
「王族が活動を支援してくれる。それは、これ以上ないほど強烈な意味合いを持つことになる。わたし達の悲願に、平等に近付ける」
彼女の背中を撫でる手を、今度は振り払えなかった。
「わたし、ギスランと結婚したいんです。カルディア姫と婚約解消して、身分が釣り合うから、なんて理由でサラザーヌとかいう人と婚約されたくない。はやく、身分制度を打開したい」
一言一言が、身を切られるような切実さを孕んでいた。
好きな人と身分が理由で結ばれない。その悲しみは、私には分からないけれど。だが、少しならばその意味を知っている気がした。ああ、でも、この女は。私のことが、見えていない。ギスランの婚約者は私なのに。サラザーヌ公爵令嬢のことしか見えていないのだ。
「貴女を利用するようで、悪いと思っています。でも、あの貧族と身分の差を気にせず付き合えるようになる。それって、素敵なことだと思いませんか」
「それは」
ハルと普通に話せる。そのことは、とても魅力的だった。
でも、おそらく、彼女が身分的に隔たりがなくなったとしても、ギスランは彼女を選ばない。
だって、ギスランはーー。でもこれは私の誤解なのかもしれない。だってそうなってしまえばギスランの行動全てが変化してしまう。
体が溶けるように熱かった。
脅されているのは分かっている。
リナリナは、私に対して貧族とのことをばらされたくなければと暗に警告している。
私とハルは恋人同士ではない。
それは貧族の家にいた人間達が証明できる。だけど、その証明をした瞬間、ハルに王女だとばれてしまう。
それに、なぜ貧族の家にいたのかと貴族達に非難されるだろう。下位のものが寵愛されることを、貴族は嫌う。
地下新聞をつくる、革命を唱える人々。目の前にいるリナリナはそのメンバーだという。
ギスランがリナリナに近付いたのは、メンバーだという情報を嗅ぎつけたからではないのか。
「それに、わたし達は別に悪いことをしてるわけじゃないんです。ついて来てください。わたし達が作っている新聞を見せます」
彼らが作っている新聞。そういえば、どんな記事が載っているのだろうか。
いけないと思いつつ、興味が惹かれて仕方がない。
ハルが貧族の家に来ないかと言った時のように、胸が高鳴っている。
いけないことって楽しい。
貴族の享楽的嗜好が頭を掠めた。
リナリナに手をとられ、椅子から立ち上がる。奇異の視線が私を貫いた。
「本当に王族の恥さらしね」
「ギスラン様に愛想を尽かされるわけだわ」
「豚と懇意にするなんて、なにを考えているの」
なんだか、無性におかしかった。
王族といいつつ謗られるのも、平民を豚と言って乏しめるのも。
彼女達は身分がなくなったとき、ああやって嘲ることができるのだろうか。
「ねえ、どこに行くの」
リナリナの手をといて、横に並ぶ。
外野はうるさいが、気にしていたら何も知ることは出来ない。
それに、一人っきりでサロンにいるというのは苦痛だ。
「わたし達の寄宿舎にお招きします」
新聞の見出しは大仰なものだった。
載せられた写真には、清族の術がかかっているのか、ファミ河の氾濫の様子を一部始終映像で見ることができた。
家がのまれ、人が流されていく。散り散りになる木材さえ、荒れ狂う波が全てをさらっていった。
濁流にのまれ、ぶくぶくと気泡を上げて深い水の奥へと沈んでいく。そんな幻が見えた気がした。
水は人がたどり着く、最後の場所だ。
気まぐれにうちよせ、栄華も平穏も滅ぼしていく。死神とは水の形をしているのではないかと、ふと思った。
記事には、天帝を賛美するラサンドル派の会見は記されていた。
ライドル王国は、女神カルディアを崇拝している。故に、天帝を賛美するラサンドル派は聖職者のなかでも異端扱いだ。だというのに、国内有数の新聞に彼らの思想が潜んでいる。
天帝の怒り。そんな言葉で、信者を増やそうとしているのか。
時代は留まることを知らない。移り変わっていく。昨日確かだったものが、今日はまがいものになるかもしれない。時代に取り残されないようにするためには、自分で歩まなければならない。
ラサンドル派の勢力の拡大は、ヴィクター・フォン・ロドリゲスの影響だろう。彼は、熱心なラサンドル派の信徒だときく。
新聞を折りたたみ、テーブルのうえに置く。
いつものサロンに、ギスランはいない。コリン領で空賊退治の指揮をとっているからだ。
リストは、朝方、被災状況を確認するために学校を出ている。
カップに注がれた紅茶が振動で円状の波をつくる。
あんぐりと口を広げて、数秒間待つ。自分がやっていることに気がついて羞恥心でうずくまりたくなった。
ギスランに給仕されることに慣れていたせいで、口を開けばあいつが運んでくれるものと思ったのだ。
無性に悔しいので、クッキーを掴んで噛み砕こうとして、駄目だった。
――これ、毒見してあるのだろうか。
クッキーを皿のうえに戻す。
急に食欲がなくなった。
紅茶を啜ろうとしても、同じ理由で硬直してしまう。
ギスランめと叫びたくなった。
あいつのせいで、紅茶をまったく楽しめない!
テーブルの上は、嫌味なほど飾り付けられている。
赤い薔薇の入った花瓶。カップにソーサー。スプーン、ガラス製の砂糖入れ。クッキーのいいにおいまでするのに。
ギスランの手のひらの上でダンスを踊っているみたいだ。
あいつがいなければ、食事もままならないのではないか。
背筋が凍った。そういえば、貧族達の家で食べて以来、なにも口にしていない。
下唇を噛む。あいつがいないことで、弊害が現れるなんて!
まるで、私があいつに依存しているようではないか。
否定したいのに、私は硬直したまま、クッキーを食べることも、紅茶を飲むこともできなかった。
ギスランの不在が私に打撃をあたえるものになるなんて。
だって、あのギスランなのだ。
被虐趣味で、時に乙女より可憐で口がうまく、女狂い。いなくなって清々するはずなのに。
あいつの存在が私の心に根付いている。由々しき事態だ。
もし、ギスランが私の命を狙っていたとして、きちんとした罰を受けさせることができるのだろうか。
「お聞きになりまして? カルディア様の」
「ええ、ギスラン様に恥をかかせたのでしょう?」
「王族の恥さらしですわねえ」
「まあ、そこまで言うのはかわいそうよ。ほら、あそこにいらっしゃるのだから、聞こえてしまうわ」
ーー聞こえているわよ。
この前まで、大声で泣いていた令嬢達が、私の悪口大会だ。
元気になってよかった。王族を貶せるまで回復したのだから、心配いらないようだ。
「ギスラン様は愛想を尽かしてしまわれたのでしょう?」
「サラザーヌ公爵令嬢が次の婚約相手とか!」
「お似合いですわ。気品の高さも、お美しさも」
「カルディア様は、ねえ?」
「醜女ではないけれど、ねえ?」
ギスランがいなくなった途端、この扱いだ。
不愉快千万だ。
落ち目の王女は貶してもいいらしい。
ギスランがいなければ、軽んじられる。
いつか想像した通りに。
サラザーヌ公爵令嬢と婚約。そんな放語まで飛び出している。
だめだ、落ち着かない。
ギスランが他の女のものになる。そう思うと、頭がずきずきしてなにも考えられなくなる。
サラザーヌ公爵令嬢に渡すなんて、癪だからだ。なぜ、ギスランをあんな女にやらなければならないんだ。
息を吐き出して、愚かな考えに頭を抱えたくなる。
なんで、ギスランをもののように扱うのだ。
あいつは、私のものでもなければ、鳥人間のような命令を実行するだけの機械でもない。
彼を支配しているのはロイスター家だけだ。一族の繁栄のためだけに、私との結婚を望んでいる。
だから、私に一滴たりとも情を注いだりしないし、ロイスター家が婚約破棄を望めば唯々諾々と従うだろう。執着しているのは、王族という身分だけ。
そう思いながらも、違和感があった。なにもかもが、崩れていくような。水の中に飲まれていくような。
艶々の赤林檎を口いっぱいに頬張って飲み込んだように、喉に言葉が溜まっていく。
眩暈が苛む。知ってはいけない真実を嚥下してしまった。
ギスランは、もしかして私のことをーー。
「カルディア姫?」
「お前は……」
ぼんやりとした意識に、商家の娘が入り込んできた。
心配そうに顔を覗き込まれる。
やはり、十一歳には見えない。私と同じか、少し上に見える。発育が良すぎる。胸だって大きい。
「リナリナです。あの、大丈夫ですか? 顔色が……」
「ええ、大丈夫」
ぼんやりとした意識が、だんだんと日常的な感覚に戻っていく。
「よかった。あの人達が酷いことを言っていたから。陰口ぐらい、本人がいないところで言えばいいのに」
そういって、令嬢達を睥睨した。
「あの人達だって、言われたら嫌なくせに。その、本当に大丈夫ですか? ああいうので落ち込む気持ち、分かるから。心配になっちゃって」
ハルと一緒にいた時間があるからか、リナリナを馴れ馴れしいとは思わなかった。
肩を摩る手をひっそりと外して、私はきちんと彼女の顔を見た。
やはり、女神カルディアの像とよく似た顔の形をしている。
「なぜ、お前がここにいるの?」
「だって、このサロン、別に貴族専用とか王族専用って書かれてないから。私もここでお茶しようと思って」
「このサロンで?」
こくりと頷くリナリナに、絶句した。
平族がこのサロンでお茶するなんて、見たことも聞いたこともない。
彼女はなにも変わらず、身分なんて気にせず、平等であると言わんばかりに振舞っている。
私が脅しをかけたこともなかったかのように。
「なにを馬鹿な」
「馬鹿じゃあ、ありません! 王族、貴族と富を独占するのはよくないです。この国の人口比率がどんなものか、カルディア姫はご存知ですか? 王族が一番少なく、貧族が一番多い。数は力だというのに、貧族を蔑ろにし過ぎている!」
力説に、ひいっと声をあげてしまいそうになる。気迫に満ちているのだ。ギスランの母、女性の地位向上を目指しているロイスター公爵夫人だって、こんなに闊達じゃない。
「貧族の食事をご存知? 彼ら、いつも馬の肉を食べているんですよ。身分による食べ物の差なんて、前時代的過ぎる! 今だに、王族は羊、貴族は牛、清族は鶏、平族は豚を食さなければならないなんて」
身分による食事制限がそんなにおかしいことだろうか?
「おかしすぎます。それを遵守するなんて、馬鹿げているわ。わたしが教典を作った時代に生まれていたら、書き記そうとした人の頭を石で殴っている!」
「過激過ぎじゃない!?」
「あと、男女による服装の違いだっておかしい! 女だからスカート履いて大人しく、なんて、男の理想押し付けられてるだけだもの。女性だってズボンぐらい履いていいはず!」
今も足の形が出る、びっしりとしたズボンを履いている。
男性の為の服なのに、洒脱だ。前も思ったが、足を見せると足が長く見えて、とっても似合っている。
「平等をうたいながら、全く平等じゃない。カルディア姫、貴女はわたしが潔白じゃないと言ったわ。自分が傷付けられそうだから権利を主張しているって。それはその通りだと反省しています。わたしは確かに、貧族をどこかで見下していた」
リナリナは一旦、言葉をきって唾を飲み込む仕草をした。
「でも、だからって、わたしのなかで平等への渇望はおさまらなかった。むしろ、いっそう深まった。貧族とか王族とか貴族とか、そんな垣根を壊してしまいたいって」
「なにを言っているの」
彼女の言葉をきちんと理解したくない。
「わたし達は生まれたときから、性別という区別があります。なのに、それ以外で生まれの差がある。これって、酷いことだと思うんです。だって、二重の差別がある。貧族の女性なんて、本当に酷くて。身売りするのが基本なんです」
口に髪が入ったのか、唇の先を払いながら、リナリナは続けた。
「なのに、貴族の男性は、女を取っ替え引っ替えにして、自慢話のように語る。侍女に手を出しても、既婚者と不倫しても。性別、身分、この二つでまるで他の生き物みたい」
「だったら、どうだというの。平族で、しかも女のお前になにが出来るというの」
「勿論、わたしだけじゃなにも出来ません。でも言ったでしょう。数は力だって」
リナリナは私に顔を近付けて、息を浴びせた。
そして、囁く。
「わたしは王都で地下新聞をつくっている組織の一員です」
ぎょっと目を剥いた私に、リナリナは少し笑った。
「昨日、貧族と仲良く朝帰りしたところを見かけました。貴女はきっと、わたし達に賛同してくださるでしょう」
まさか、花園にハルと一緒にいくところを見られていたのか。
さあっと顔から血の気がひいた。
「王族が活動を支援してくれる。それは、これ以上ないほど強烈な意味合いを持つことになる。わたし達の悲願に、平等に近付ける」
彼女の背中を撫でる手を、今度は振り払えなかった。
「わたし、ギスランと結婚したいんです。カルディア姫と婚約解消して、身分が釣り合うから、なんて理由でサラザーヌとかいう人と婚約されたくない。はやく、身分制度を打開したい」
一言一言が、身を切られるような切実さを孕んでいた。
好きな人と身分が理由で結ばれない。その悲しみは、私には分からないけれど。だが、少しならばその意味を知っている気がした。ああ、でも、この女は。私のことが、見えていない。ギスランの婚約者は私なのに。サラザーヌ公爵令嬢のことしか見えていないのだ。
「貴女を利用するようで、悪いと思っています。でも、あの貧族と身分の差を気にせず付き合えるようになる。それって、素敵なことだと思いませんか」
「それは」
ハルと普通に話せる。そのことは、とても魅力的だった。
でも、おそらく、彼女が身分的に隔たりがなくなったとしても、ギスランは彼女を選ばない。
だって、ギスランはーー。でもこれは私の誤解なのかもしれない。だってそうなってしまえばギスランの行動全てが変化してしまう。
体が溶けるように熱かった。
脅されているのは分かっている。
リナリナは、私に対して貧族とのことをばらされたくなければと暗に警告している。
私とハルは恋人同士ではない。
それは貧族の家にいた人間達が証明できる。だけど、その証明をした瞬間、ハルに王女だとばれてしまう。
それに、なぜ貧族の家にいたのかと貴族達に非難されるだろう。下位のものが寵愛されることを、貴族は嫌う。
地下新聞をつくる、革命を唱える人々。目の前にいるリナリナはそのメンバーだという。
ギスランがリナリナに近付いたのは、メンバーだという情報を嗅ぎつけたからではないのか。
「それに、わたし達は別に悪いことをしてるわけじゃないんです。ついて来てください。わたし達が作っている新聞を見せます」
彼らが作っている新聞。そういえば、どんな記事が載っているのだろうか。
いけないと思いつつ、興味が惹かれて仕方がない。
ハルが貧族の家に来ないかと言った時のように、胸が高鳴っている。
いけないことって楽しい。
貴族の享楽的嗜好が頭を掠めた。
リナリナに手をとられ、椅子から立ち上がる。奇異の視線が私を貫いた。
「本当に王族の恥さらしね」
「ギスラン様に愛想を尽かされるわけだわ」
「豚と懇意にするなんて、なにを考えているの」
なんだか、無性におかしかった。
王族といいつつ謗られるのも、平民を豚と言って乏しめるのも。
彼女達は身分がなくなったとき、ああやって嘲ることができるのだろうか。
「ねえ、どこに行くの」
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