どうやら私はバッドエンドに辿りつくようです。

夏目

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第一章 夜の女王とミミズク

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 何度瞬きをしても、目の前のリストはいなくならない。
 リストの瞳の熱はますます燃え上がって、焦がさんばかりだった。
 前歯を噛みしめる。
 吐き出す息、見つめる眼差し、恐々と触れる指先。逃さないのいうようにびくともしない太い幹のような腕。それらがすべて、私だけに与えられていた。
 ――これは、どういうことだろうか。
 リストと私の関係はこんなものではなかったはずだ。仲がいい従兄妹。甘やかしてくれる優しい同じ階級の人間。決して、恋人のように睦合うような仲ではないはずだ。
 リストが私の上に馬乗りになる。腰は軽く浮かしているようだが、リストの体温が伝わり、息苦しい。

「俺にこう言われるのを考えなかったのか? 性格の悪いお前に、偽善で付き合っていたとでも思っていたとでも? 打算だ、全部。お前が可愛くて、憎たらしくて、惨たらしくひどい目に合わせてやりたかった」

 厚い胸に手を置く。

「どうせばれてしまったんだ。手荒く扱ったところで、構いはしないだろう」
「リスト」

 足の感覚がない。リストの体が乗った部分から先が切り取られようだった。

「カルディアお得意の優越感には浸れたか? 俺が卑しい身分であることはお前にとってご褒美のようなものか。見下す相手が増えて嬉しいだろう」
「わ、私をなんだと思っているのよ!」
「では、俺にどんな感情を抱いていると? まさか、忌々しくも輝かしき王族の一員だと思っているわけではないだろうな」

 喉を圧迫されたような威圧に言い澱む。

「本当に、本当なの。お前が王族の血をひいていないなんて」
「はあ。お前のそのお粗末な頭は口づけしたらましになるか?」
「してもましにならないわよ!?」

 な、ななんなんだ、リスト。さっきから、不埒なことばかり口にしていないか。

「なんて、俺がしたかっただけ。だめか」
「だめに決まっているでしょう!? というか、本当に本当なのね。どうして、そんなことになっているのよ。リストの父親は宰相――王弟でしょう」
「カリレーヌ嬢との会話を聞いていなかったのか」
「あんな極限状態できちんと話を整理しながらきくことができると思っている?」
「それもそうか」

 リストはどうでもよさそうに答えると、目線を逸らした。

「一から説明してやる。終わったら、俺と一晩を共にしてくれるか?」
「そんなことしないに決まっているわよ!?」
「冗談だ。一晩では、短い」

 リストの鳥肌が立つような台詞はすぐに入ってきた言葉の欄から削除する。
 まともに取り合っていたら、ろくにリストの顔も見れない。

「顔が赤いが。どうした、この顔に見惚れているのか。刺青も、好ましく思えるようになった?」
「この刺青は、傷を隠すためだと言っていたじゃない」
「……そうだな。じゃあ、まず、俺がこの刺青を彫る羽目になった原因から話してやる」

 そういうとリストは指の先で私の髪の毛を払いのけながら、顔を近づけた。

「あれは、父に――偽物の父に連れられて、ザルゴ公爵の領地に行った時の話だ」




 ザルゴ公爵の土地――トデルフィ領は、異人達も多く、商業が盛んな土地だ。葡萄と麦がよく取れる美酒でも有名だな。そのせいか、はたまた粋なザルゴ公爵のおかげか、美酒が多く、愛好家達がこぞって買い求める店があった。
 ランファという一族が経営している蘭花という店だ。その名の通り、華やかで香しい酒を売っていた。
 俺の父はその店の酒が一等好みだった。査察よりもその酒を目当てにトデルフィの地を訪れたといっても過言ではないだろう。
 いつやってきたのかも、どこからやってきたのかも知らないが、ランファの一族は総じて顔つきが俺達ライドルの民とは違った。鼻が低く、童顔。丸顔が多く、身長も低かった。肌の色も黄土色で、女は足が萎えていた。纏足というのだったか。足だけ子供のように発達していないんだ。移動するにも誰かの助けが必要なありさまだった。
 さらに彼らとは信仰するものが異なった。彼らは女神カルディアを崇拝せず、金を神格化していた。
 小さな子供のときのことだ。他とは違った彼らを異質だと嫌悪するよりも、好奇心のほうが勝った。
 父がザルゴ公爵家に駐留するあいだ、ランファの息子を呼び出して、俺の話し相手にさせていた。商家の家の子だからか、おべっかも上手かった。俺がおだてられ、気分を良くしたほどだ。
 ますます、俺はその気になって、将来は家臣に取り立ててやるとまで約束してやった。
 今思うと馬鹿なことを約束したものだな。ランファ家が俺に近付いてきたのは、俺のことが好きだからでも踏み台にしてやろうと思ったわけでもなく、売り物として値打ちがあったからだった。
 そう。俺は、ランファの家の奴らに誘拐され、売られた。
 もちろん、表立ってランファの奴らが攫ったわけではない。奴らはとても狡猾だった。足がつかないように他の国の荒くれ者を使っていたし、仲介人も殺されていた。
 俺と一緒にいた息子も顔を焼かれ、疑いが向かないようにしていた。
 王族を誘拐してなんの得があるのか、だと?
 あるに決まっているだろう。人質として使うもよし、飼いならして間者として潜り込ませるもよし、王族の血を求める奇特な成金が買うもよし、嬲り殺しにするもよし。使用意図は無限だ。王子ではないが、うまくすれば王位にだってつけることができる。
 俺は当時、生意気で思い上がった子供だった。
 一人でなんでもできると思い込んでいた。兄よりも有能で、もの覚えもよかった。
 こんな下卑た者ども、いつでもどうにかできると。それどころか、警邏の奴らの手助けをしてやるつもりで、奴隷商人に連れられ、貨物に乗った。

 貨物のなかは馬糞と人の悪臭しかなかった。光のない瞳の子供たち。縮こまり、膝に顔を埋めた女達。鎖にまかれた泥だらけの男達。腹が大きくなった女。――そういう女はすぐに捨てられた。妊婦は売り物にならないから。
 人は商品になる。人権はない。あそこには階級すらなかった。捨てられたもの、売られたもの、連れ攫われたもの。平等に無価値だ。商品として誰かに買われないかぎりな。
 二度、馬を乗り換えた。どこに連れていかれるかは分からなかったが、商人達は目的地が近づくたびに喜色満面になっていった。
 夜になると酒を飲んで、商人がなまった声で歌う。
 ――人の不幸は金になる。人の幸せは金で買える。
 子供ながらにぞくりとした。甘ったれた餓鬼だ。俗世のことなどろくに知らない。階級が通用しない世界があることも、金が世界を動かしていることも、人の経歴も、心も、体も、金で買える恐ろしさも、何一つ知らないのだ。
 それだけに金に恋するような熱っぽい声色に震えた。

 人身売買は法律によって禁じられている。だが、それは規則を破っても受けるだけの恩恵が受けられるということでもある。物事には必ず裏表があった。商人達は、裏表をよくよくそのことを理解していた。需要がある。それは高値で売れるということだ。
 人身売買の市場はザルゴ公爵の領地を越え、国境線近くで開かれていた。こういったものは、常時ではなく、期間を設けて臨時で開催される。ライドル王国中の裏の顔を持った商人共が訪れ、競って人を売り買いする。悪行の見本市だな。見世物小屋に出てきそうな奇形持ちから、俺のような顔と名前が貴族社会に知れ渡っているものまで様々ものが用意された。
 信じられるか、俺達は百貨店に並べられた商品のように値札を立てられたのだ。
 人に値段を定められ、じろじろと無粋な視線にさらされる。

「この子の顔、綺麗」「夜の調教するのが楽しそうだわ」「これがあの有名な宰相の……」

 囁き声が嫌に耳に残っている。矯めつ眇めつ、骨董品を見るような貪欲な眼差し。
 大人達は俺の顔を見て、いくらで落とせるか考え悦に入る。人の顔を見て、価値を換算したことはあるか、カルディア。俺の顔がいくらになるか想像したことは? 
 あるいは、お前の大切な大切な幼馴染であるギスランがいくらで売れるか考えたことは?

 ――ああ、怒るな。別に尋ねただけだろう。

 ともかく、俺は檻の中に入れられ、見世物小屋の奴らよろしく展示されていた。その頃になると、子供らしい傲慢な感情は消え失せていた。
 めらめらと夜を照らす松明の炎を見ながら、もう終わりだと思った。惨めに痴態を晒すぐらいならば死んだ方がましだ。だが、死ぬのはもっと怖かった。俺は天国も地獄も信じていなかった。人は最期腐り、溶ける。真理を知っていて、そしてそれを信じていた。
 死ぬことはできなかった。何度も迷って、自害しようとしたのに、死ねなかった。
 そんななか、そいつらに会った。

 無駄に着飾った夫婦だった。夫人の方は大粒のダイヤを首輪の代わりに首から下げていた。紳士の一張羅は新品だった。この日のために用意したと言わんばかりだった。どう見ても成金の卑しい匂いがした。彼らは人の多さにまず驚いて、出品された人間達を見て、また驚いていた。
 そいつらは俺の目の前に来ると、二人して涙を浮かべて顔をおさえて泣き出した。
 どうしてだと思う、カルディア。俺はそいつらとはなんら関係ない。助けにきた軍の奴らでもなく、昔世話になった侍女でもない。乳母でももちろんない。
 それでも嗚咽を漏らして、周りに構わず、大泣きだ。大人が大泣きしている姿なんて、あれ以来一度だってみたことはない。
 成金だと馬鹿にした奴らは俺の両親だった。俺に縋りついて嗚咽を溢しながら謝った。
 自分達が身分の低い貧民であること。俺がそんな奴らの子供であること。当時の主人に言われて、できたばかりの俺を売ってしまったこと。それ以来仕える人間を転々とし、廻漕店を経営する平民に拾われ、海の向こう側への輸出入でそれなりの稼ぎがあること。
 赤毛赤目の少年が出品されるという噂を聞きつけて、もしかしたら息子がいるかもしれないと思い駆け付けたこと。
 そうして、俺にそっくりな血のように赤い髪を見せられた。女の真っ赤な瞳も見た。左の目元にあった黒子もそっくりだった。
 俺と怖いぐらいそっくりだった。
 俺の父もーー宰相もその妻も赤髪ではない。昔、繁栄を極めた王が俺と同じ髪の色をしていたのだときいていた。俺はその祖先の血が強く出たのだろうと。
 だが、どうだ。実の父親だと名乗る男の容姿も、髪の色も、母という女の目の色も、俺によく似ていた。
 息子と言われて抱き寄せられた。必ず、落札してみせると噛みしめるように言われた。
 胸の温かさを覚えている。汗臭い労働者の臭いも、節の多い働き者の手も。

 俺は商品として、壇上に上がり、入札が行われた。釣りあがっていく値段。俺の肩書にあの夫婦は最初驚いていた。
 俺の売り先を彼らは知らなかったのだろう。
 彼らは他のものに負けじと体を寄せ合いながら懸命に手を上げる。オークショニアの言葉がどんどんと興奮して熱くなる。熱気が買い手の理性を蒸発させ、どんどんと法外な値段へ移行していく。青ざめた二人の顔が見えた。
 払える金はとっくに越えているのだろう。けれど、上げる手は止まらなかった。からかってやるつもりなのか、相対する商人はどんどん値を上げていった。オークショニアはそれを承知で夫妻を煽る。
 下品なオークションだった。お前が参加した夜会のあのオークションよりも数段、下卑たものだった。
 しばらく競り合っていたが、決着はついた。なんと夫妻が高額にもかかわらず俺を落札してしまったのだ。
 落札を告げるオークショニアの顔はにやけ切っていた。予想した数倍の儲けだ。そして、木槌を持ち上げて、そのまま死んだ。
 国王陛下が遣わした軍がその場を制圧したからだ。

 俺は助かった。ザルゴ公爵直々に俺を助けに来たのだからな。
 夫妻は喧騒のなか、死んでいた。誰が殺したのかは分からなかった。ただ。二人仲良く、抱き合って涙で頬を濡らしたまま逝った。
 軍の奴らに保護されたあと、そのことを聞いた。俺は安堵を覚えた。死んだときいて、やっと助かったのだ、今ここに生きているのだという心地がした。
 自分の両親を名乗る奴らの死を聞いて、やっと安心できたんだ。どうしてだか、お前に分かるか、カルディア。俺は王族だ。生まれたときから、傅かれる存在だった。敬われ、敬意を払われる。その俺が、貧民の息子だった? そんなこと、許されるわけがない。それが現実であるはずがない。あっていいはずがない。
 保身だった。あいつらが死んだ今、もう俺を貧民なんかの子だと吹聴するものはいない。
 俺は王族の子であり、宰相の息子だ。誰だって、それを否定することはできない。疑問を持つことはない。
 ザルゴ公爵は安心する俺の耳元で囁いた。おれが彼らの顔をみれなくなるぐらい壊してやろうと。ザルゴ公爵の瞳を仰ぎ見た。何もかもを知っていて、提案する悪人の瞳だった。安心しろ、このことは秘密にしていてやると言わんばかりのその態度。
 ぞっと悪寒が走った。こいつは俺の正体を知っている。こいつは俺がどれだけ醜いか、知ってしまっている。
 軍に入ったのは、ザルゴ公爵を監視するためだった。俺の秘密を誰かに漏らさないか見張るため。そして漏れたとして、その情報が広がらないように防ぐために、彼がいる軍に入った。
 馬鹿げたことだよなあ。俺が貧民の子であることを、俺の親が知らないわけがない。誰かが、俺を王族に仕立てた人間がいることぐらい分かるはずなのに、俺はザルゴ公爵だけを黙らせれば、この秘密が他の誰にも漏れないものだと過信していた。
 刺青は軍の入隊時に入れた。
 父親に似た特徴を一つだって残したくはなかった。傷は建前だ。
 類似点を潰せばなにもかも隠し通せるものだと、過信していた。
 俺はお前にまでこの醜い出自まで知られたというのに、な。




 気が付けば、あたりは真っ白な霧が広がっていた。
 学校に居た時は清族の作った装置が働いていたので、見ることはなったが、王都ライドルはよく霧に包まれる。
 イルが駆け上がった木もなにも見ることはかなわなくなっていた。
 まるで、私の今の意識そのものだ。それぐらい、リストの語る話は雲をつかむようなあやふやなものだった。

「どうして、宰相は貧民の子を自分の子として育てることになったのよ」
「それに関しては、お前とサガルに関係がある」
「私とサガル兄様に?」
「今の王妃は昔から国王に懸想していた。有名な話だな。その類稀なる美貌は隣国にも轟いている。だからこそ、大四公爵の娘という身分ながら、国王陛下と結婚するに至った」

 心臓の柔らかい部分が、話を聞くことを拒んでいる。あの女の話は耳に入れるのも嫌だ。
 けれど、リストのことを知るためには必要なことなのだろう。

「……ええ。けれど、父王様は私の母様のことが好きだった。第三王女であるソフィーナ姉様が産まれてから、母様を愛人のように囲った」
「国王陛下は箍が外れたようにお前の母親のもとに通った。果てには政務室の隣に特別な部屋を作り、そこに軟禁するようになった」
「王妃は恐慌状態に陥った。当たり前よね、自分より容姿の優れていない姉が、愛しい夫を盗み取ったのだから」

 この話を聞いたのは、母があの女に殺されたあとのことだ。
 その時の衝撃は忘れることは出来ない。歪な愛憎が生み出した排泄物が私なのだ。

「その頃から、王妃の様子がおかしくなった。もっと美しくなれば、もう一度寵愛が戻るかもしれないと次々に清族が呼ばれた。清族どもは言った。王妃の美貌は陰りを知らず、まるで地上に降り立った美しき女神です。どれほど、力のある画家であろうと、これ以上の美を描くことはできないでしょう。もっともだ。あの方は、今でも空を飛ぶ鳥が見惚れて落ちるほど美しい。だが、王妃はその言葉では満足できなかった。役に立たない清族はさっさと切り捨てて、出自の知れぬ祈祷師や怪しげな薬に頼るようになった」
「父王様の気を惹くために、なんでもやったと聞いたことがあるわ。父王様はすべて拒絶した」
「思いつめた王妃は伽が稚拙だったのだと思い込んだ。毎日夜通し聞こえる嬌声を耐え忍んで聞いて勉強した」

 ぎょろりと目を回す。これほど濃厚な性的な表現をリストがしたのは初めてだ。
 さっきから感じるリストの視線も合わさって、どうしたらいいのか分からなくなる。

「好いた男が他の女と寝る。想像しただけで地獄だ。俺も、なんだか分かる気がする」
「そ、そう?」

 目を合わせていられない。

「もっと、直接的に言わなくてはならないのか? お前がギスランに抱かれている姿を想像すると、八つ裂きにしたくなる、と言っているんだ」
「はあ。はあ!? な、私と、ギスランはそんなこと」
「しないわけないだろう。お前はあいつの婚約者なのだから」

 頬がだんだんと熱を帯びてきた。リストの言葉に惑わされていた。

「妬心はとどまることを知らない。俺も、王妃も。やがて、王妃は国王陛下以外とも褥を共にし始めた。国内の美男子、醜男、構わずだ。淫蕩にふけり、我を忘れようとしたのだろうな」

 リストの言い方は皮肉げだった。

「俺の父もその誘惑に抗えなかった。父が国王陛下を恋い慕う王妃に懸想していたのも有名な話だ。母も子を孕み、褥を共にしても、寂しい夜が続くだけ。若い父には耐えられなかった。王都では、王妃が開く淫らで煌びやかな宴が昼も夜もなく開催されている」
「宴……」
「今でも定期的に開かれているらしい。汚らわしい宴だ。父はそこで極楽を味わった。放埓の極み、天国を覗き込んだ。現世の天国はここに顕現したのだと。何度となく通った。妻を置き去りにして、毎夜毎夜」

 リストの声はだんだんと侮蔑の響きを持ち始める。

「母は父の毎夜の楽しみを知っていた。だが、何も言えずに耐えるしかなかった。上流階級はそうあるべきだと教え込まれていたからな。だが、悪阻が出る頃だったか、それとも腹の子に内側から蹴られる頃だったか。腹の子は流産になってしまった」

 子供は死にやすい。だから、子供をたくさん産むことが妻には求められていると聞く。童話で読んだことがある。石女が悪魔と契約を交わして子宝に恵まれる。すると、石女に見向きもしなかった人々が媚び諂うようになるのだ。

「母は正気を失った。腹に住んでいた住人が、産声を上げる前に死んでしまったのが堪えたのだろう。しかも夫は夜な夜な人妻のおこぼれを貰いに毎夜いない。縋れるもののいない女が妄想に逃げたとて、誰も責められない」

 ココと同じように彼女も子供を失い、正気を失った。

「だが、母が正気を失い困ったのは父だった。父は、身勝手にも、その正気を失った母を目にして過ちを知ったんだ」

 夫人は私が知る限り塞ぎこむような人ではない。温和で、中庭でゆっくりと紅茶を嗜む女性だ。私が産まれる前と今では、夫人も変わったということだろうか。
 王族の恋愛事情は複雑だ。父は母のことが好きで、あの女は父のことが好きで、宰相はあの女のことが好き。そして、母はザルゴ公爵のことが好きだったときいている。ザルゴ公爵はあの女に焦がれていて。ぐるぐると、両想いにならないのに、思いだけが循環している構図。
 誰かが諦めて、振り返ればこじれることはなかったのだろうけれど、実際ぐちゃぐちゃに絡まってしまっている。

「父は母が正気に戻るためになんでもした。地に頭をつけて謝ったし、欲しいものはなんでも買い与えた。けれど、そんなもので傷が癒えるわけではない。問題は命の喪失だ。そして、それに対する愛情を伴う慰めの欠如だ。表面的な愛撫は傷口を押し広げるだけ。それに、父は幾度目かで気が付いた」

 真っ赤な瞳が黒く濁る。情念とも、憎悪ともとれるほの暗い光がリストの瞳に感化され、胸に灯る。この先、宰相が採用した案が想像できたからだ。

「死んだのならば、蘇らせる。蘇らないのならば、同じ子供を用意すればいい」

 だが、父王も宰相も金髪碧眼の美しい顔立ちをしている。それに似た子供はなかなか見つからない。

「母の瞳は紫色だ。この色はあまり縁起がよくない。清族に多い瞳の色だからな。用意するならば、より疑われず、美しい色がいい」

 リストは一度目を瞑り、開いた。
 金髪碧眼は難しい。母親に似た容姿だと縁起がよくない。

「そうだ、燃える太陽の色がいい。何代か前の王は強く気高かった。彼も燃えるような炎の色をしていた。子供を探せと命令が降りた。数日後には望み通り、赤子が手に入った」

 目をそらすことがかなわない。
 リストは買われた子なのか。代わりを求めて、連れて来られた子。

「その子は死んだ子の名前が与えられた。リスト。すくすく子供は成長してーーそして誘拐された」

 リストの足が、ドレスのなかに入り込んできた。
 生温かい指の感触が太腿をなぞる。

「どうして、こんなことに」
「さあ? 俺は知らない。ただ、運命の歯車は残酷だ。簡単に俺を王族にさせてしまった」

 そのことがあった半月後、サガルが産まれた。本当に国王の子か分からないと言われたまま。
 その容姿は国王の色彩と王妃の美しさを受け継いでいた。人々は宰相の子ではないかと訝しんだ。
 そして、それから一年も経たずに私が産まれた。
 だが、二人揃って、産まれて何年もしないうちに埃と本が積まれた塔に閉じ込められてしまった。

「サガルともお前とも比べられることはなかった。だから、俺も誘拐されるまで出自を気にすることがなかったのかもしれない。お前達は隔離されていたしな。最初に塔に訪れた時は驚いたものだ。二人して、暗闇の中で獣のように身を守る寄せ合っていたのだから。同じ王族か、と信じられない気持ちになったのに」

 からからと空洞があるように笑うリスト。
 ぐっと目の奥から溢れ出しそうになるものをこらえる。

「お前のことが憎たらしいよ、カルディア。王族の血がお前には確実に流れている。希求してやまない俺の悲願が」

 私だったらどうだろう。王族の子でははないと知ってしまったら。
 自分には何も価値がない。けれど周りは王族だと慕って、媚びて来る。毎日が気の抜けない日々だろう。いつばれるかと疑心暗鬼に陥るに決まっている。
 どんどんと地位に執着し、秘密を知る人間を監視して誰かに漏らしてしまっていないか気を揉む。それを真実だという確固たる証拠で破滅させられるまで、死ぬまでやり続ける。
 生き地獄だ。他人の存在をいついかなる時も脅威に感じるだろう。
 リストの唇が近付いてきた。顔を背ける。

「だが、お前は俺の希望でもある」

 こんなどうしようもないことが、リストの真実だというのだろうか。
 リストの瞳には確かに欲情を湛えていた。そしてそれと同じぐらい野望や愛憎が炎のように映し出されていた。
 リストが望むことが手に取るようにわかった。
 口に出すのも嫌になる。
 私は王族の女性の中でたった一人結婚をしていない。ギスランとはまだ婚約者で、あいつのことをこの間まで毛嫌いしていた。
 リストは私と夫婦になりたかったのだ。少しでも、劣等感を払拭するために。
 そうかという気持ちにもなった。
 王族の血が欲しいのだ。私自身ではない。
 昔から優しくしてくれたのも、利益を求めてなのだろう。
 悲しくも苦しくもない。だが、だからこそ落胆した。
 それもそうだ。私は自分のことしか考えていない。ギスランやリストのことも最初に思い遣れない。情のない人間を誰が愛するというのだろう。誰が打算なく優しくしてくれるのだろう。
 いっそリストの望む通りにさせた方がいいのではないか。
 リストの気持ちがそれで満足するのならば。

「カルディア」

 甘い声で名前を呼ばれる。
 目を閉じて、リストの息遣いを感じた。情欲を抱く獣のような荒々しい吐息に恐怖が顔を出した。
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