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閑話 誰が彼女を殺したのか。
誰も本当の罪を打ち明けはしない。
しおりを挟む骨付きの肉。七面鳥。牛のロース肉。豚の丸焼き。一尾まるごと焼かれた金目鯛。鰹の刺身。イカの丸焼き。ゴロゴロとベーコンとジャガイモが入れられたサラダ。黄金の色をしたコーンスープ。コンソメスープ。ソーセージが入った野菜のスープ。潰したジャガイモのスープ。こんがりチーズのグラタン。ニシキのパイ。ボロネーゼソースがたっぷりかかったパスタ。
チーズたっぷりのピザ。
他にも机に乗り切らないほどの食事が、ものの十分で消えていく。
調理場も、食卓も、給仕達も、さながら戦場にいるような有様である。
食べ終わった皿は次々と下げられ、新しい皿が追加される。補充を絶やすことは許されない。それは死に直結していた。
液や肉片が服に飛ぶ。だが、咀嚼音は止まらない。
口についた液を拭いながら、ギスランは止まらない飢えに負けて、次の皿に手を伸ばした。
それを見ながら、イルは嘆息した。
相変わらずの暴食である。
まるで、獣だ。転がってきた骨を足で払いのける。
「驚きましたか、リスト様」
部屋に入ってきたまま動きを止めた客に話しかける。
王族であるリストに貧民のイルから話しかけるの不敬だ。
しかし、主人が理性を飛ばしている。客人をもてなす人間がいないのは良くない。
「あ、ああ……」
リストは未だに信じられないものを見る目でギスランを見つめていた。無理もない。イルも最初にこの儀式を見た時、茫然としたものだ。
「まあ、とりあえず座ります? あれが終わるのは、もっとあとになりそうですし」
「あんなに食べているのに、か?」
「ええ、二時間も前からしてるっていうのに、まだ尽きない」
「二時間だと?」
リストを椅子に座らせる。
イルは傅いて、飲み物を尋ねた。
リストは紅茶を望んだ。イルは、皿を厨房へ戻そうとしていた侍女に命令して紅茶を持って来させる。
「あれとはいつ話せる?」
薫り高い紅茶の匂いが立ち上る。
けれど、リストがコップに口をつけることはない。
まあ、それもそうかと軽く流す。リストにとっては敵陣のなかだ。
リストとギスランはカルディアを巡って対立する関係だ。危害を加えられる理由になる。
「まだ分かりませんね、こればかりは」
「……いつも、ああなのか?」
「まあ、今日は少しばかり長い気はしますが。おおむねあんな感じですね」
ギスランは相変わらず手当たり次第に口に詰めていた。豚の鼻に食いつき、かと思えば魚の身を素手で掴んで口に放り込む。
「カルディア姫と離れた時は特に酷いんですよ。精神的な負荷がますます暴飲暴食に繋がるらしいです」
「何度か晩餐を共にしたことがあるが、ああまでではなかった」
「夜会などでは食べる量を制限してらっしゃるんだと思いますけど」
服も顔も汚れている。ギスランの食べ方はじゅるじゅると音を立てて、全体的に品がない。
ギスランが公に築き上げてきた姿とは正反対だ。これでは百年の恋も覚めてしまう。
「……清族は皆大食らいだと聞くが、やはりギスランもそうなのか?」
イルは逡巡した。リュウという忌々しい男も清族の血をひいているが、トーマやギスランのように大食漢であった記憶はない。
「どうなんでしょうか。俺は、清族に知り合いが少ないから分かりません」
「そうか」
リストはそれっきり黙り込んでしまった。
「……なるほど、そう言うことか」
ギスランは口元を拭いながら立ち上がると独り言を呟いた。
イルは無言で近付き、耳打ちする。
「ギスラン様、リスト様がきてますよ」
「……はあ。ここに? 客室に通せとあれほど……。客人一人出迎えられないのか、お前達は」
「申し訳ありませんが、ギスラン様のお部屋にどうしてもと言われたので」
「懲罰はまたあとでだ。……リスト様、申し訳ないが着替えさせていただいても?」
応えを待たずにギスランは隣の部屋へと移動した。
着替えて出てきたギスランはさっきまでの暴飲暴食のことなど知らないと言わんばかりにすました顔をしてリストに深々とお辞儀をして挨拶した。
「さて、まずはどうしていきなり来られたのか、お聞きしてもよろしいでしょうか」
ギスランの華麗な変身ぶりに、リストは言葉もないようだった。
――まあ、そりゃそうか。
リストはギスランのことをよく知っているようで知らない。
そもそも、ギスランは友好関係が広いが、懐には誰もいれない。
長年の付き合いがあったとしても、この奇怪な食事を知っているのは、ほとんどいないだろう。
それこそ、カルディアも知らない。
「リスト様? 呆けているのならば、お帰り願いたいのですが」
「……お前の胃袋のことを考えていた」
「え? ああ、そうですね。まだ小腹が空いていますね」
そういうことではない、とリストの顔にでかでかと書かれている。
イルは噴き出しそうになるのを慌ててこらえた。
「腹も膨れてないとは。お前も、清族の血が流れているのだったか」
「今更ですか。というか、それが来られた理由と何の関りが?」
「いや、そうだな。お前の胃袋が化物なことは、今は関係ないな。俺が来た理由はフィリップだ」
「第三王子がどうされたのですか」
この国の第三王子。
イルは小さな脳みそのなかを掻きまわして、存在を探し出す。
だが、第三王子という単語は見つかるが、それ以外が難しい。どんな顔をしているのかさえ、よく思い出せない。
「あいつが、サラザーヌ令息の体調が落ち着くまで領土の管理をすることになった」
「……それはつまり、サラザーヌ家を解体するというのと同義ではないですか」
「そうだ。王はフィリップにあの地を与えるつもりらしい」
家具のように棒立ちになりながら、頭を回転させる。
第三王子がどんな人物かよく思い出せないが、サラザーヌ家は腐っても大四公爵家であり、領土は広大だ。それを任せられるぐらいには有能だということだろうか。
第一王子のレオンは次期王候補の筆頭である。
第二王子は王子でありながら、騎士になった変わり者。
第四王子のサガルをイルは見たことがない。ギスランに言わせれば、くせ者らしい。
第三王子は、王としての素質があるとは聞かないし、反対に阿保でどうしようもないという話も聞かない。
ぽっかりと空洞のように第三王子についての情報がイルにはなかった。
「欲しいものを与えず、ですか」
「あれは貪欲に過ぎる。欲しいものを与え続けると、陛下の地位までぐらつく」
「王座は狙っていらっしゃらないとお聞きしておりますが」
「王座など、あれにとっては塵に等しい。むしろ、邪魔で邪魔で仕方がないだろうよ。椅子は一人しか座れず、容易に投げ出すことも叶わないとなるとな」
ギスランもリストも神妙な顔をして見つめ合っていた。
はあとどちらともなく深いため息がこぼれた。
犬猿の仲である二人にしては珍しいことだった。
「俺は補佐として、フィリップについていくことになった。表向きは軍事補佐であるが、陛下は懲罰のつもりだろう」
「お話はきいています。私にも同じような命令がきましたから」
「コリン領の疫病の件か」
「はい。そして、それに伴う治安の悪化について、わが父と協力して解決せよと」
罰、か。
第三王子であるフィリップは、リストにとってギスランの父親のような存在だということだろう。
つまるところ、反目し合う間柄だということだ。ギスランは、父親を蛇蝎のように嫌っているのだから。
「どう、思う?」
「王都でなにかが動いているのは分かりますが、どうにも詳細は分かりません」
「お前でもか」
リストは苦々しく口を閉じて腕組をする。
「お前の部下だった女ーー貧民の女は陛下の手のモノだと言っていたな」
「はい。間違いありません。魔薬を買っていたのは国王陛下の手のモノでした」
「だが、なぜ陛下が魔薬を欲しがる? お前の手のものを経由する意味も不明だ」
「サラザーヌ公爵令嬢から直接は買えなかったのでしょうね。事情がおありだったようだ」
「その事情とはなんだ。いったい何が起こっているというのだ」
ギスランの瞳はリストを見定めているようだった。
リストは軍の人間だ。国王側といっても構わない。
どれぐらいの情報を掴んでいるのかと探りに来た可能性もある。
イルの目には困惑したリストがギスランに情報の共有を求めてきたようにしか見えない。しかし、貴族は政治に強く、駆け引きがうまい。
嘘をついて探りに来ている可能性も捨てきれなかった。見極めどころだ。
「私にも、よくは。ですが、次期王についての噂は耳にしました」
「サガルを担ぎ上げようとする勢力の話か。俺の耳にも届いている。お前はどう思う? サガルを王にするべきだと思うか?」
一瞬、躊躇うような逡巡があった。
「どうでしょうか。歴史が決めるとしか。砂漠の王がどうでるか、隣国がどう動くか、レオン様の采配がどのようなものになるか。それに尽きるかと」
「軍ではサガル寄りの者の方が多い。レオンは騎士団寄りだからな。ただでさえ、軍の影響力がなくなりつつある昨今では、サガルをと望む声も大きい」
「貴族からの人気もおありになる方ですからね。慈善家だから、平民からの人気もある。だが、反面、妙にきな臭い噂をよく聞く」
「……ああ」
ぐっとリストが拳を握った。
リストはサガル陣営ではないかという話はよく聞く。だが、レオンとも親しくしており、宰相の息子として平等に接しているという見方もある。政治的な駆け引きは水面下で行われていることもあり、イルには判断出来かねた。
「リスト様は国王陛下が、サガル様周辺の動きに合わせて動いていらっしゃるとみているのですか?」
「その逆だ。サガルが陛下の身の回りを嗅ぎまわっているように思う」
「なるほど。サラザーヌ公の話がありますからね。国王陛下もサガル様の挙動には目を配っていらっしゃる。では、ますますフィリップ様を遠ざけられたのも道理ですね。あの方は、行動原理が異常で読みづらい。不穏分子は遠ざけたいのではないでしょうか」
「そうだな。フィリップならば、陛下とサガルが争った場合、サガルへ加担するだろう。そうなると、厄介なのだろうな」
「まあ、これがレオン様とサガル様との勢力争いでしたら、もっと違うことになっていたでしょうが」
やめろ想像させるなとリスト様が悲鳴を上げた。
どうしたのだろか。リストの顔が青くなっている。
咳払いをして、リストが話題を変えた。
「……鳥人間事件以来、カルディア周辺では人死が続いている。あいつ自身、かなり追い詰められているくせに、周りにはそのことをまったくばれていないと思い込んでいる。あいつには、心の安らぎになるような存在が必要だ。そうでなければ、あのまま摩耗して壊れてしまうぞ」
ギスランは首を少し傾けるだけで答えなかった。
「はあ。ハルという貧民に近付いていると聞いたときは馬鹿なことをしているのかと思ったものだが、今思えば奴こそ、カルディアのそばに置いておくべきだったのではないか」
「馬鹿なことを。あの貧民とカルディア姫ではいずれにしろ破滅していました。あの貧民は身分以前に人間としての有り様がカルディア姫と全く異なります」
「ほう? お前、あの男と会ったことがあるのか?」
「いいえ。だが、イルが気に入るということは、そういうことです」
いきなり話がこちらに飛んできて白目を剥く。
――ええ、ギスラン様。相変わらず、心臓に悪い。
リストは理解ができないと言わんばかりに眉を顰め、イルをちらりと一瞥した。
肝が冷える思いだ。実際に、ギスランはイルの審美眼が信用に足りると思っているわけではないだろう。
ただ、イルを虐めて喜んでいるのだ。
「……お前、虐めるのも大概にしてやれ」
「かわいがっているつもりなのですが。イルが気に入ったという話はともかく、貧民がカルディア姫と合わないだろうというのは、私の願望でもあります。はあ、カルディア姫に取り入ろうとする奴らは全員のたうち回って死ねばいいのに」
「お前も大変だな、イル。俺だったら、こんな男の道具になるぐらいならば、自決する」
あははと乾いた笑みを浮かべて誤魔化す。
この二人、仲が悪いようで、良いようで悪いはどうにかならないものか。
「……レゾルールの貴族達への挨拶が済み次第王都を離れるのですか」
「その予定だ」
急に、話が変わった。同時に二人の声色も変わった。
「サガルの采配だろう。風邪で倒れたカルディアに合わせて変更された」
「こちらもです。サガル様へ感謝の意を示していいのか、迷います」
リストはそうだなと頷くと立ち上がった。イルはいそいそと預かっていた外套を着せる。
来るのも唐突ならば、帰るのも唐突だ。
襟を直し、リストはギスランの前に仁王立ちした。
「ギスラン・ロイスター。カルディアの従者の話、考えておけ」
「嫌です」
「ならばせめて、カルディアへの投与をやめろ」
「……何の話をしていらっしゃるか分かりません」
「そうか。ならいい」
赤い髪が颯爽と去っていこうとした。その後ろ姿をギスランが低い声で呼び止める。
「リスト様と、いつまでお呼びすればいいのでしょうか」
「……お前が豚みたいに食べることを忘れた日には、呼び捨てでも構わない」
リストがいなくなったあと、ギスランは喀血し始めた。こぼごぼと血が絨毯の上に落ちる。
イルは八つ当たりされてはかなわないとすぐにギスランの部屋から去った。
外は雨が降っていた。
顔に大量の雨が痛いぐらいに降り注ぐ。
傘をさしても、どうせ濡れる。
王都にあるギスランの屋敷は、カルディアが住む中央公園周辺とは離れた場所にある。貴族の別邸が多い地区にあるのだ。
イルは傘もささず、屋敷から出ると馬車も捕まえず貧民街へ向かった。
「――というわけで、王都を騒がせている切り裂き魔は現在も逃走を続けています」
「そう。相変わらず、悪いね」
にこにことしたまま、ジャックはいえいえと首を振った。
濡れた外套が乾くまでの間、王都の情報をイルは彼から入手していた。
なによりも頼りになるのは、実際に体験している生の人間の情報だ。
逃げたレイ族の居場所を突きとめろとはギスランにまだ言われてはいない。だが、事前に知っておけば駒に使えることもあるだろう。
ひいてはそれがギスランのためになる。
ギスランの八つ当たりから逃げるためというのが半分、話を聞きたかったのが半分で、イルはジャックの目の前に立っていた。
「お金いただいてますから!」
「はいはい。いつもどおり、現金支払いだよ。大事に使えよ」
はーいと返事をされたが、どうせ食事代や遊び代に費やされるのだろう。
貯めれる奴ならば、いつまでも貧民街にはいない人材だ。
「馬鹿ジルが自警団組織して貧民街を見回ってるけど、てんで効果なし。そもそも警察の巡回だって意味がないんだもん」
「娼婦ばかり狙われるのは、なにか意図があってのことか?」
「さあ? でも、現場にランファがどうたらって落書きあったらしいよ。おれが行ったときに消されてたけど。ランファの奴がやったのかな?」
「さあね。ランファの奴も多種多様だから。地べた這いつくばって生き延びるやつもいれば、天下極めて豪遊かますやつもいる」
「イル様は、探偵みたいなもんでしょ? 解決してくださいよー!」
「剣奴を何だと思ってるの。しがない雇われ人だよ」
ジャックは貧民街にいる子供の一人だ。生まれたときから貧民街に居て、顔が広い。危険を伴う暖炉掃除から売春婦の斡旋まで幅広い仕事をしている。
彼は孤児だ。今年で十一歳になるが学校に通ってはいない。金がないからだ。貧民街にはそもそも、子供という概念はない。働けるならば、どんな人間だって大人だ。
イルも昔はジャックのように何でもした。体だって売っていた。ギスランに使用人として買われるまでは、毎日体を酷使して馬車馬のように働いていた。
「ほら、イルの坊ちゃん。いつものだよ」
「ありがと、ばあさん」
どんとほとんど油と変わらないジンが置かれた。
ここ、『黄色い貴婦人』はイルが贔屓にしている店だった。店主である女将とも顔なじみである。
「あとで魚の焼いたやつもってきてやるよ」
「やだな。河の魚なんて泡食って生活してるようなもんじゃん」
「黙りな、ジャック。あんたにゃあ一品も出さないよ。さっさとツケを払いな」
「べーだ。業突く張りばばあ。はいはい、今のおれは金持ちですからね。少しは払ってやるよ」
ジャックはよく店を利用している。前にロスドロゥの移民がこの店で暴れたことがあって、それを警戒しているのだ。
ジャックのような貧民街出身者はよそ者には厳しいが、懐にいれると採算度外視で庇護してくれる。底辺どもが慰め合っていると言われればそれまでだが、学校にいる貧民達よりは好きな考え方だ。
「なあ、あそこにいるの、だれ?」
あそこと指差しながら、ジンを傾ける。油が喉に流れ込んで、懐かしい喉越しに目元が緩む。いつもならば、女衒がいる場所だ。だが、今は一人の男しかいない。
周りの労働者階級の人間は遠巻きにして彼を見ていた。
周辺には酒瓶がごろごろ転がっている。男自身も、倒れこむように机に突っ伏している。
「ああ、ありゃあ音楽家様だよ」
「音楽家?」
「なんでも、演奏会を終えたあとだとか。本当かわかりゃしないけどね。金払いはいいんだ」
「どっかの落ちぶれた貴族じゃないかってみんな噂してるよ」
ジャックも女将もよく知らないようだ。
イルはふうんと男を見ながらジンを傾けた。
「一回だけ、ピアノを弾いたことがあるよ。ほら、あそこにあるだろう」
「そういえば、あのピアノ、イル様が買ってやったんですっけ。太っ腹ぁ~!」
「ばあさんがうるさかったから。亡くなった夫がピアノ弾けたんだとか嘘ばっかりついて無理矢理買わせたんだ」
「わたしの夫は本当にピアノが弾けたんだ。いっとくけど、船乗りはみんなそうなんだよ」
「嘘つき夫を持つとばばあも大変だよなあ」
「あの人の悪口だけは許さないよ!」
ごつりと頭に拳を貰ったジャックが憎々し気に女将を見上げた。
「暴力ばばあ!」
「うるさい。そんぐらいどうってことないだろう! あそこの旦那、すごく上手かったよ。その音につられてどっと人が押し寄せてきてね。もう一度弾いてくれって頼んだのだけど、好きな女以外の頼みは一度しか聞かないことにしてるって言われてねえ」
「ふーん。変な旦那だね」
水色の髪をした音楽家の男かとイルは頭の中に記憶した。
「女将! 酒だ、酒。ありったけ持ってこい!」
「うるさいよウッド。今行くから待ちな。じゃあね、イルの坊ちゃん。後で魚もってくるから、きちんと食べるんだよ」
世話焼きだと思いながら曖昧に頷く。
すると、女将は悲しそうに眼を細めてイルに笑いかけた。
「シェリーのところにいくのはもうやめな。あの子は、もうどうしようもないよ」
「俺はシェリーなんて知らない」
触れてほしくないことにも、この女将は入り込んでくる。
「やった金は薬と酒に変わってる。分かってんだろ」
「なんのことか、分からない」
「おいこらばばあはやくしろや」
「はいはい。今行くよ。……いいね、イルの坊ちゃん。あんたはやっと貴族様に努力を認められて、ここから出ていけたんだ。それは奇跡のようなものさ。その奇跡を無駄にしちゃあいけないよ」
「わかっている」
ギスランに拾われたことは幸福だった。きっと、あの時以上に奇跡は二度とない。天使のように美しい貴族が自分に声をかけて、側に置いてくれたのだ。イルだってそのことを分かっている。
ほどなくしてやってきた魚は、ほくほくでうまかったが、肝はどす黒くて、食べると泥の味しかしなかった。
せっかく乾かした外套はまた濡れる羽目になった。
さきほどよりはましになったとはいえ、まだ打ち付けるような雨が続いていた。
さすがの貧民街でもこんな天気に客を取るものはいないので、売春婦達も街頭に立っていない。
――あの人、どこにいるかな。
いつもならば、角に立って客引きをしているのだが、いない。
イルは自分が情けなくなってきた。
女将の言う通り、放っておけばいい。関わるだけ無駄だ。結局、酒と薬に消える。
そうは思っても、感情で探していた。
ギスランがこの場にいたらありとあらゆる言葉で馬鹿にされそうだ。
主人は血のつながりを嫌悪している。ギスランにとって、肉親は家族ではないのだろう。
――それでもって、惨めったらしく縋るのは、悪い癖だ。
勝手知ったる貧民街の迷路のように入り組んだ道を歩き回り、彼女のいそうな場所を探す。まだ男をひっかけていなければ酒場に行っている可能性もあった。だが、梅毒でやられた、潰れた鼻を隠すために明るい場所には極力寄り付かないようにしているはずだ。
「――イル様」
――ああ、こんなところにいた。
さっと足早に駆け寄って、濡れた髪を拭う。
このままでは風邪をひくに決まっている。外套を頭の上からかけてやる。
年相応に皺の寄った顔が媚びるような笑みを浮かべた。
「部屋はとった?」
「まだです」
「そう。これ、今日の分。先に部屋に入って酒でも飲んでいて。俺は仕事が終わったら行くから」
「はい。わかりました。安普請ですけれど、いい店を見つけたんです。けど、いつもより、ちょっと高くって」
「いいよ、出す。いくら欲しい?」
言い値通りに金を出す。相場より随分高い。いろいろと理由をつけて、ふんだくられるのはいつものことだ。だんだんと値段が上がっていることに気づかないふりをしながら、髪を撫でる。
「救貧院には行った?」
「もちろんです。でも救貧院は嫌いだわ。あんなの、汚いだけだもの」
「そっか、えらいね。今日はもう少し、弾んであげる」
さらに金を持たせると、子供のように跳ね回って喜んだ。羞恥の感情もなくなっているのだ。
悔しくて、絶望したくなる。この地獄のような瞬間を繰り返すために仕事をして彼女に金を貢いでいる。
「じゃあ、仕事に行ってくるね。ここらはなにかと物騒だ。ちゃんと部屋に入って寝るんだ」
「はい」
女の体を買うためにお金を出しているのに、仕事があると言ってすぐに去る。どこの店にいるのかと聞いたことはない。
イルには彼女に抱く邪な気持ちはなかった。
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命をかけてとってきた金は彼女に搾り取られ、酒と薬代に消えていた。体を売ったお金も、彼女に全部捧げた。それでも、愛情を与えられたことはない。
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母は死んだことにしている。ギスランの前ではそう振舞う方が都合いい。対外的にもそういうようにしている。
それでも、定期的に売春の体で金を渡している。少しでもいい宿屋にとまって、少しでも長く生き長らえればいいと思っている。
これは自己満足だ。
その証拠のように、金を渡すたびに彼女はますます酒と薬に溺れる。道端で寝転んでいることもあった。なにひとつ、改善などされない。金を渡すことは悪化させることにつながる。
それでも、どうしてもやめられなかった。
「うわー。死にたい」
頭を掻きむしって、眼鏡を押し上げる。
だが、死ねない。少なくとも、彼女がーー母が生きている限り。
雨に打たれながら、貧民街を歩く。遠雷の音が聞こえてきた。靴のなかに入ってくる水につけた嫌悪しながら、前を見てイルは足を動かした。
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