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第二章 王子殿下の悪徳
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しおりを挟む「不運な事故が起こったようです、夫人、ギスランを早く休めるところへ」
騒然となった夜会は、サガルの一声で静まり返った。
正気を取り戻した夫人がふらつきながら、執事達に指示を出す。私はギスランに付き添うために、抱えられたギスランの後を追った。
ついて来ようとしたイヴァンの胸を押して、首を振る。
ギスランが起きた時にイヴァンがいたらなにかと厄介なことになる。
当たり前のようにギスランが無事だと思いこんでいた。
そうしないと、頭がどうにかなりそうだ。
「楽しかった。踊ってくれて、ありがとう。でも、奥さん以外ともう踊ったらだめよ。だって、私だったら嫌だもの」
もう一度、イヴァンの胸を押した。踵を返してギスランの後ろを追いかける。呆気に取られたようなイヴァンの顔が印象的だった。
サガルとすれ違った。首筋がじくりと疼いた。
数時間後、落ち着いたインテリアが並ぶ客室でギスランは目を覚ました。
ぱちぱちと目を瞬かせて、一気にむくりと起き上がる。
虚空を見つめてぼーっとしていた。焦点はあっているので、正気ではあるらしかった。
いそいそと近付き、頭や顔を触り、覗き込む。弾力のある肌に触れる。少しだけ冷たい肌に鳥肌が立つ。
顔色は悪いが、瞳には力が宿っている。生気を帯びた紫の瞳に吐息を溢す。
よかった。少なくとも、生きている。息をしている。
ギスランは見つめていた虚空から私に視線を移すと目を丸くして私をじっと見つめ返してきた。
「痛くない?」
「痛い? あ、ああ、少し頭が痛いような気がします……」
「……落ちるところをこの目で見た。あんな場面を見るぐらいならば、私が落ちればよかった」
「そんなこと言わないで下さい。それほど痛くはないのですから」
「本当……? 絶対に?」
ギスランが滑り落ちた時、起こったことが全く理解できなかった。そのあとだって、きちんと対応できた気がしない。ギスランがもっとひどい状態だったら、取り乱してなにもかも手がつかなくなっていただろう。
「階段から落ちたのですね。なんと無様なことだ」
「お前が悪いわけじゃない!」
「あの時のご婦人は無事ですか?」
「……言いたくない」
私は何を言っているんだ。 無事だと一言言えばいいのに、どうして意地悪をしているんだ。
焦る内心とは裏腹に、ひねくれ者の口が勝手に動く。
「お前が起きなかったら、あの女をどうにかしていた」
本音だった。それぐらい嫌だった。ギスランを殺そうとしたことが許せなかった。たとえ殺そうという意図がなくとも、私に恐怖を感じさせた。それだけで、罪深い。
ギスランの胸に手をおいて心臓の鼓動を確認する。とくりとくりと甘い心音に安心した。
ギスランはうっとりとした潤んだ瞳で私を見た。
「いまなら死んでもいいかもしれない」
「そういうこと次言ったら、もう口きかない」
「カルディア姫が心配して下さるのが嬉しくって」
「……婚約者なのだから、心配ぐらいさせなさいよ」
ギスランの口元が緩む。ぐっと力任せに近づくと、躊躇わず唇を奪ってきた。
「お、お前ね!」
「カルディア姫のことを幸せにします」
「いきなりなんなの!?」
冷たい指が私の手に絡んできた。爪の先をくすぐり、指と指の間に冷たい指の先が触れる。
触れているところだけに感覚が集まり、不平不満が喉の奥に隠れてしまった。
狡い男だ。こうやって、女を篭絡してきたに決まっている。
ギスランの思う通りになるのは嫌だ。
それでも口からこぼれたのは、小さな吐息だけだった。
「カルディア姫だけは絶対に幸せにします」
「……馬鹿。ギスランは、大切なことがわかっていないわ」
困ったように、眉根が寄る。
いつだって、そうやって困っているといいのに。
私だけ、幸せになっても困る。私だけが幸せでは意味がない。一人で寝込むギスランを見つめていた。その寂寥感は、幸せになるだけでは埋まらない。ギスランが無事だと言って笑いかけることで、ようやく安心できる。
「お前も幸せにならなければ意味がないでしょう」
絡んできたギスランの指を握る。
もう、階段から落ちないで欲しい。無理をして他の女を助けず、ギスランだけでも無事でいて欲しかった。
こんな考えは間違っている。ギスランを巻き込んだとしても、それが意図的だったとしても、ギスランの行動は高潔で非難されることは一つもないだろう。
それが私には許せない。私は嫌な女だ。あの貧民の女が傷一つなかったことが腹立たしくてしかたがない。憎たらしくて仕方がない。
一人で落ちたらよかったのにと無情にも思ってしまう。
「もう死にそうにならないで。そんなことしたら、絶対に口をきいてやらない」
「……はい、カルディア姫」
愛していますと続いた言葉に胸が締め付けられた。ギスランは明言しなかった。
手錠でもかけて大切に保管しておきたい。ギスランの気持ちが少しだけ分かって嫌になる。
迎えが来たので、男爵夫人の屋敷から出てギスランの屋敷に戻る。ギスランは馬車のなかで最初は饒舌に喋っていたが、ぷつりと意識が途絶えたように眠った。
ギスランを置いて帰るのも憚られた。そのまま部屋のなかに付いて来てしまった。
ギスランの寝室に入るのは初めてだった。いつも私のためにある専用の部屋にしかいかないからだ。皺ひとつないシーツの上に使用人達がギスランを横たわらせる。さっさと部屋から退出する彼らを見送り、吐息を溢す。
室内には寝台以外なにもない。壁紙ひとつ貼られてはいない。ギスランの部屋にはなにもなかった。
ギスランの体を指でなぞり、側の椅子に座る。
眠っているギスランの姿を見つめるのは珍しい。髪留めを外し、銀色の髪を掻き混ぜる。
こんなに綺麗な髪がもしかしたら血塗れになっていたのかもしれない。
奥歯に力が入る。本当にテウがあの女をけしかけたのだろうか。だとしたら、なぜだ。
彼がギスランを亡き者にしようとした理由が分からない。私に関係があるのか? 私を殺したかった? なぜ、私じゃなかったのだろう。
「ギスラン様!」
思考は突然窓から入り込んできたイルにかき乱された。
扉から入れと言いそうになるのをこらえ、イルを見遣り、硬直する。
イルは血まみれだったのだ。
「ぎ、ギスラン様? は? 死んでないよね?」
「え、ええ。眠っているだけよ」
「……う、わあ。うわあ」
イルが寝台の前で崩れ落ちる。体中についた血が床にもついた。
イルは涙を流していた。大粒の涙が、血まみれの頬の上に落ちる。
「死んだかと思った。……うわあ、うわあ」
「ちょっと、涙拭きなさいよ」
「無理。ほんとだ、息してる。ギスラン様生きてる。ちょっとした奇跡みたいだ」
女神に祈りをこめるように胸の前で手を組んで、イルが腰を丸めて前かがみになる。
「怪我をしてない?」
「頭をぶつけたけれど、一応は大丈夫みたいよ」
「よかった。女神のご加護があったんだ」
「イル……」
こんな姿のイルは初めて見た。勿論、全身血塗れだということもある。だが、それ以上にギスランのことを本当に心配していることに驚いた。飄々したいつもの彼とは全く違う人間みたいだ。
「……ギスラン様が生きていて、よかった」
「私も同じ気分よ」
「うん。……カルディア姫、すいません、俺、今、ちょっと頭混乱していて。ギスラン様が殺されそうになったってきいて、心配で。仕事を早めに終わらせて、様子を見に来て。……ああ、ここにいることがばれると半殺しだ」
「秘密にするわ」
イルが振り返って私を見た。髪にこびりついた血が生々しい。
「ありがとうございます。俺って馬鹿だな。頭真っ白になり過ぎた。屋敷に帰ってきたときいたのに、死んでるなんて誤解してしまいました」
「お前にとって、ギスランがそれほど大切だったということでしょう?」
「そう、なんですかね。まあ、そうですね。この人の命令だったら、死んでもいいとは思ってますよ」
屹然とした声だった。
「水浴びしてないせいで、床が血で汚れましたね俺、ほんとなにやってんるんだか」
「そうね、血の臭いがきついわ、イル」
「はい。俺、もう行きますね。この血、あとで拭きにきます」
イルは寝台にいるギスランをもう一度見つめた。そのあと、頬に手を伸ばす。だが、触れる前に手をひいた。
結局、イルは再び触ることもなく、踵を返して窓から飛び降りた。残ったのは、血の赤い跡と生臭い臭気だけだ。
椅子に腰かけて、顔を覆う。
その血は誰のものだったのだろう。尋ねることが出来なかった。きっと、ずっと尋ねることはできないだろう。イルのことが怖い。だが、同じぐらい身近に感じている。
感情の波に心がついていけない。白か黒か、はっきりしないのが人間だと知っている。だが知っているのとそれと付き合っていくことはまた別だ。テウにしろ、イルにしろ、凶悪な部分と可愛らしく、共感できる部分がある。二つは混じり合っていて、テウやイルを構成してしまっている。
このままなあなあで付き合っていけば危機感も恐怖も曖昧になる。暗部に徐々に引き寄せられているのではないのか。
私は今、しっかりと自分の足で歩いて、走れるのだろうか。
ギスランに近付いて、指を握る。少なくとも今だけは自分の意思でギスランに触れていたかった。
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