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第二章 王子殿下の悪徳
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しおりを挟む一週間経っても状況は変わらない。ギスランは相変わらず私に会おうとはしなかった。
気を使ったイルが、ご機嫌伺いを称してギスランの屋敷に帰っていく。
天井まである本棚には、学術書を詰め込んだ。難しい言葉は辞書を、難しい概念は百科事典を参考にして読み進める。
疑問符のオンパレードだ。元素の記号さえ私はろくに知らない。日々の生活には必要ないからだ。一つ一つ、取りこぼさないように口に出して繰り返し覚える。
それは気の遠くなるような反復だった。脳がもう嫌だと悲鳴を上げている。
清族の生態。そもそも魔力とはなにか。清族はいったいどうして呪いにかかってしまったのか。
なにもかも本に書かれているのに、何も分かっていないような気がする。頭の中にきちんと情報として入ってこないのだ。
「悩んでいるお姫さんには俺からいいものをあげます!」
「……! な、蘭王!?」
「お姫さんったら不用心ですよ。俺が声かけても返事一つしないんですから」
本を閉じて、私の部屋に入ってくる蘭王に視線を投げる。手にもっていた煙管を吸いながら、ぽいと埃塗れな本を渡してくる。
かなりの年代物だ。牛革で作られた表紙がぼろぼろになっている。ページはもっと古く、触っただけで、かさりと乾いた音が出た。
「なによ、これ」
「贈り物です。……あっ、俺からのじゃないですよ。そんなに怪しそうな顔をしないで下さい」
「誰かに依頼されてきたということ? お前も暇ね」
「辛口なことを言いわんで下さいよ。依頼人がどうにも変な奴でしてね。まあ、危険がないことを証明するために俺が出向いたんです」
「変な奴?」
表紙を捲って、表題を見る。
『清族の寿命についての論文集』!?
目を見開いて、何度も表題をなぞる。これは、昔の清族達が綴った論文集なのか。
「これを、どこで? 依頼人について教えられる?」
「普通は守秘義務があるんですが、まあいいでしょう。あの姿には俺もびっくりしましたし」
「特徴的な格好をしていたということ?」
「というか、全身焼けたように真っ黒でしてね。俺の部下が言うには、妖怪とも、幻魔とも似ていて違うというか。まあ、人間じゃなかったんですよ。それ自体は自分のことを『冬』だと名乗っていましたがね」
冬?
それは、四季の冬か?
「多大な恩をお姫さんに与えられたのだと言っていました。これはほんのお礼の気持ちだとか。そうして、俺達にこれを届けるようにと。大量な金貨をくれました。金さえくれれば、俺達はどんな生き物の依頼だって受けますので、嫌ともいえず」
「どうしてそいつは私に直接渡さなかったのかしら」
そいつの正体は一旦保留にするとして、だ。
蘭王に預けるよりも、自分で渡しに来る方がよかったのではないか。こいつに依頼しても本当に届けてくれるとは限らないのではないか。
「なにか、急ぎの用があるようでしたが、分かりませんね。所詮、人外でしたし。それより、これってなんの本なんです?」
「中身を見ていないの? 『清族の寿命についての論文集』よ」
「残念ながら、俺には読めなかったので」
そんなに難しい文字が使われているとは思えないが……。読みが得意ではないのかもしれない。
上流階級には文盲に近い存在がいる。使用人達が代筆してくれるので、読みも書きもできないのだ。
蘭王もそういう部類なのかもしれない。
商人として致命的な気もするけれど。
「ああ、そうだ。ベティの件、採用していただきありがとうございました。とっても喜んでましたよ」
「別に。私が決めたわけではないわ。使用人達がいいと思ったから、いれたの」
結局、ベティは雇うことになった。といっても、屋敷の内側の仕事ではない。屋敷にやってくる業者との仲介役だ。この屋敷には、口がきけないものや、目が見えないものが多い。彼らでは業者との連絡がし辛く、粗悪品を売りつけられやすい。
その間に入るのが、ベティだ。使用人達が必要だと思い、採用したに過ぎない。
「それでも雇用主はお姫さんですからね」
「お前、どういうつもりでベティを面接に寄越したのよ」
「他意はないですよ。ベティがうちを辞めたいと思っているようだったので、いいところを探しただけです。強いて言うならば、お姫さんにいいものを見せてもらったお礼でしょうか」
「……いいもの? 何の話よ。……まさか、ギスランとの言い合いのことを言っているの?」
「覚えていないんですか。俺とお姫さんは夢で会ったんですよ。そして、いろいろと衝撃的なものを見たじゃないですか」
「はあ?」
夢のなかで会った? なにかの隠語か? それとも比喩?
こいつと夢で会った記憶はないし、そもそも、夢で他人と会うなんて不可能なはずだ。
「なんの話をしているのよ。寝ぼけているの?」
「あれ? ああ、そういえばお姫さんは覚えてないんですっけ。あんなに劇的なものを見たのに」
「意味が分からない。もしかして、私が夢見をするとかいう話を信じているの。あれは、幼い頃の戯言に尾ひれがついたものよ。真実じゃない。確かに変な夢を見ることはあるけれど、それが現実と結びつくことはないわ」
蘭王は私が夢見をすることに興味を抱いていたことを思い出す。私にはそんな力がないと早めに伝えておかないと変なことになりそうだ。
「そうですかね。まあ、お姫さんが覚えていないんじゃしょうがない。……そうだ。お姫さんにもう一つ伝えたいことがありまして」
「何?」
「不老不死にご興味はおありですか? あるいは、見た目がずっと変わらない少年については」
「……? どういう意味?」
上手く意味が把握できない。なのに、頭のなかが妙に冴えていく。不老不死。過激派のリーダー。そして、王都の顔役。ハルから聞いたそれらが見知らぬ誰かの輪郭を浮かび上がらせる。
「王都にいる商人の一族に、長年そんな噂があるんですよ。曰く、彼は人類が普遍的に焦がれる不老不死の肉体を手に入れたのだとね」
「……その噂、本当なの?」
「さあ、俺は噂だけしか聞いたことはありません。王都の顔役でそれなりの地位にいるんですよ。十年そこらで財を成した成金には顔一つ拝ませちゃあくれません」
誰も顔を見たことがない顔役。そんな存在が本当にいるのだろうか。霧のように、噂が一人歩きしているだけなのでは。
「そう思っていたんですが、なんとここにその不死者様からの招待状があるんですよ。なんか怖いでしょう? 恐ろしいでしょう? お姫さん、俺といっしょに行きません? きっと楽しいですよ!」
「はあ!?」
懐から取り出した手紙をひらひらと揺らして蘭王は笑った。
苦悩に満ちた唸り声をあげて、私は顔を手の中に隠す。
「いつなの、それ」
「来週ですね。社交シーズンが終わった頃にとはなかなかに粋ではないですかね。この王都の暑さといったら尋常じゃないっていうのに。嫌がらせにはもってこいだ!」
「そいつの名前は、なんと言うの?」
手紙に記された署名を、蘭王は楽しそうに読み上げた。
「サンジェルマンというらしいですよ」
全く聞き覚えのない名前だった。
「楽しい晩餐会になりそうですね」
うきうきする蘭王とは裏腹に、私は腹のなかに石を詰め込まれたように気分が塞いだ。
「行くって言っちゃったんですか?」
呆れ顔でイルがため息を落とす。
迂闊だったとは思うが後悔はしていなかった。それぐらい、不老不死の体を持つサンジェルマンのことが気になっていた。
「迂闊すぎる……最悪だ」
「そう言うお前はとてもいい思いをしてきたみたいね。ギスランには会えた?」
イルの顔には、銀色の眼鏡が存在を主張するように鼻の上に鎮座していた。陰険さが消え、利発的な書生のような顔立ちに変化している。
ギスランの選んだものだと一目で分かった。あいつが選ぶものは趣味がいい。
「ええ。案外元気でした。表面的には、ですが。もう少しだけ時間が欲しいとのことでしたよ。人生の終わりを考えるには三週間は短すぎる時間だ。……変わらず、貴女のことを気にしていました。食事をとっているか、とか」
「ギスランはきちんととっていた?」
「いえ。なので、貴女の名義を借りて食べるように言ってきましたよ。駄目でした?」
「そう……。それならいいけど。きちんと食べていれば、いい」
ギスランの悩みを正確に分かるとは言えない。ギスランのように清族の体ではないからだ。
分からないからこそ、一緒に痛みを共有したい。だが、ギスランは一人で悩みたいのだ。そんなときに無理に押しかける勇気は出なかった。
嫌われたり、鬱陶しがられたり、疎んじられることが恐ろしくて、なにもできない。好きという感情は厄介過ぎる。
「それで、貰った本はどうしたんです? 読み終えたんですか」
「いいえ。専門用語が多すぎて、私には読み進められなかった。トーマが時間を作れると言っていたから、そのときに解読してもらうつもりよ」
「そうですか。まあ、トーマ様が読んだことがある文献かもしれませんし、案外読み込まずとも、内容は分かるかもしれませんけどね」
「そうね。かなり古い本みたいだし、図書館の蔵書のひとつに同じものがあるかもしれないわね」
題名を見る限り、多数の人間の論文をまとめたものだろうし、トーマが見聞きしたものがあるかもしれない。
「俺としては、貴女に本を送った主の方が気になりますけどね。奇怪な黒い人外。本当に心あたりはないんですか?」
「あるわけないでしょう。清族みたいに妖精が見えるわけじゃないのよ」
「でも、なにかとそういうのに縁があるのでは? 地面の下。不思議な海の底に俺達はいたんですから」
「……死に神の住処ね」
そういえばイルも巻き込まれる形で、地下の世界に居たのだったか。ハルも、トーマも。それにリストとギスランもか。あれは何の因果だったのだろうか。
「縁があったとしても、やはり覚えはないわ。丸焦げになった知り合いはいないもの」
「じゃあ、ギスラン様かもしれませんね。異形の者に関わるうちに、知らず知らずのうちに恩を売っていたとか。なんかありそうだな……。それとなく尋ねておきますよ」
「仲睦まじそうで結構なことだねえ」
粘着質な声が部屋のなかに反響する。息を呑んだ次の瞬間、世界がぐちゃぐちゃに崩れ始める。立っている床も、座っていた椅子も、何もかもがほころび、泥に変わっていく。
「幻覚です。気をしっかり持って」
そう言うイルの体も、腐って、骨だけになっていく。骸骨が、何かをぱくぱく叫んでいるようにしか見えなくなっていく。
「リュウ! お前なのでしょう!? なぜ、こんなことを?」
声に聞き覚えがあった。一緒にいた時間は長くはない。それでも、声で分かるぐらいには一緒にいた。
「……なぜ? あはは。分からないとでも言うつもりなのぉ? おめでたいよね、相変わらずさあ」
針鼠のように、身を守るために言葉に棘を纏っていた。リュウの怒りが、耳朶を震わせる。
「誰の犠牲の上で、幸せを享受してんだって話だよねえ。ねえ、馬鹿姫様っ!」
頭上から、刃が迫ってくる。きらりと光る鈍色のきらめきはギロチンの刃によく似ていた。
逃げようと、足を踏み出そうとした瞬間、大きな手が私をとらえた。身動きが取れないように崩れていく地面に押し付けられる。
もうだめだと思って、目を瞑った。
ぶんと、何かが振られる音がした。
痛みはいつになっても訪れなかった。ゆっくりと目を開けると、自分の部屋に戻っていた。床や椅子は崩れていない。私だけが床に倒れていた。
「離せっ!」
「離すわけないだろ」
手にナイフを持ったイルが、リュウを地面に押さえつけていた。
さっきまでのは幻覚だったのか。立ちあがり、ドレスの皺を伸ばすように生地を叩く。
リュウは窶れきっていた。仕立てのいい服を着ているのがなおさら虚しい。
「こいつはここで死んだ方がいいんだよ!」
「馬鹿言うな。……凄まじい胆力だね。捕まって、拷問されるのを覚悟で来たのか。正気を疑うよ。主についていなくていいの」
「は、ははは。なあ、こんな奴、本当に大切にする価値があったと思ってんの。自分だけは楽をして生きてさあ。他人になって興味ないんだよ、本当は。自分さえ、よければそれでいいんだろ? なあ」
「あれはそっち主が決めたことだろ。自分を差し出さずともよかったんだ、本当は」
「はっ、そんなことできるわけない! ずっと、ずっと。誰のために、身を削って頑張ってきたと思っているんだよぉ……。死ぬのをむざむざと見過ごせる人じゃない」
「何の話をしているの」
瓶が投げ渡される。
なかはたっぷりと液体が入っていた。瓶の中には、何かが入っている。
最初は二つの飴玉かと思った。
だが、違った。
二つの目玉だった。
視神経がついたままだ。赤い血が、液体のなかに溶けていく。桜色をした液体が覗き込む私の顔を反射していた。
瞳の色は白濁した薄い青。美しいとうっとりするような大きさだ。
叫び声は喉の奥で消えていく。これは。
「何度、傷付くあの人を見たらいいの。笑いながら、いいんだっていうあの人を死ぬまで見続ければいいの? やめてくれ、もうしないでくれって懇願してもやめてくれない。ならもうこの女を殺した方がいいでしょ? そうした方が、幸せになれる。少なくとも、あの人がもう傷付かなくて済む」
血が滲むような叫び声に体が痺れる。リュウが言い分が理にかなっているような気がした。
「どこにいるの」
「学校だよ」
何もかも、起こってしまったあとに駆け付ける。それは自己満足だ。慰めにならない。意味はない。ない、はずなのに。
体が動いてしまった。
心臓の音が聞こえる。どんどんと骨をおして、肌を蹴破り外に出ようとする。
――あの目は。
美しい瞳は。この世でもっとも美しい人の瞳だ。
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