どうやら私はバッドエンドに辿りつくようです。

夏目

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閑話 無辜の人々

金曜日は死人が蘇り。

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 カルディアは部屋のなかで横たわっていた。
 小さな声でぶつぶつと呟いている。部屋のなかは饐えた臭いがしていた。鼻をつまみたくなるような悪臭だ。
 サガルが近付いても見向きもしない。熱心に腕の中にいるものに話しかけていた。

「兄様のために、ショートケーキを貰ったのよ。甘くて、たまらないの。ほっぺが落ちそうなぐらいなの」

 掠れた声でカルディアが熱っぽく呟いた。

「私ね、きっと兄様に嫌われたのだと思ったの。だからこうしてまた会ってくれて、嬉しい」

 嬉しそうな声が埃を震わせる。

「本当に? 兄様にそう言われると嬉しい」

 くすくすと箍が外れたようにカルディアは笑っている。ここにいるのに、別の場所に意識だけ飛んでしまっているようだった。
 おそるおそる肩を掴んで揺らす。
 カルディアが兄様と呼んでいるのはサガルが作ったペンギンのぬいぐるみだった。出来が悪く、いたるところから綿が飛び出ている。糸もないものだから、サガルの髪で代用した部分がある。透けるような金髪が、ぬいぐるみに縫い付けられている。

「サガル兄様……」

 頬擦りをする姿に、目を丸くする。カルディアはぬいぐるみをサガルだと認識しているのだ。
 もう何日も食事をしていないのか、カルディアの頬は窪んでいた。白い頬がもっと白くなり、指先から爪先まで魚の骨のように細い。凝然と見つめた。今にも死にそうだったからだ。

「カルディア、僕を見て」

 細い体に腕を絡めて縋る。力を入れすぎると折れてしまいそうだ。そっと触れた肌は凍っているように冷たい。

「カルディア、聞こえているの?」
「私ね、もしかしたらここから出ちゃいけないんだと思うの。もう誰とも、会わないほうがいいのかもしれない」
「どうして、そんなことを……」
「ずっと、兄様は一緒にいてくれる?」

 折れてしまっても構わない。細い体を、ぎゅうと抱き寄せ、耳朶に直接声を吹き込む。抱きたいという欲が頭を擡げる。酩酊するカルディアを凌辱したい。
 一緒にいる。側にずっといる。ここにいて構わない。
 寸前のところで、カルディアの唇から体を離す。この想いは殺すべきだ。

「カルディア、僕を見て。それは、僕じゃないよ。僕はここにいるよ」

 しとしとと頬が濡れる。兄として振る舞うべきだ。少なくとも、この獣性の抑えがきかなくなるまでは。
 カルディアの頬に涙が溢れる。カルディアの幸せだけを考えてあげたかった。自分が無下に扱ったことも、無視したことも謝りたかった。
 すると、今まで何の反応も示さなかったカルディアはぴくりと頬を動かした。

「ごめんね、カルディア」
「にい、さま……?」
「……うん。僕は、ここだよ」

 カルディアは夢から覚めたように微笑んだ。腕の中にあるペンギンが変な顔をしてサガルを見つめている。

「ずっと、名前を呼んで欲しがった気がする」
「カルディア」
「うれしい……。ねえ、兄様。お誕生日おめでとうございます。一番に祝えなくて、ごめんなさい」
「いいんだよ」
「許してくれる?」

 許しを乞うのはサガルの方だ。
 ショートケーキには虫が集っている。手を払って落としたケーキが、クリームが、皿にこびりついていた。全裸にされ、塗りつけられたクリームの臭いを思い出して吐きそうになる。けれど、無理矢理表情筋を動かし、笑顔を繕う。
 これはカルディアの祝福の気持ちだ。欲望が詰まった卑猥なものではない。

「お腹、空いていない? 何か食べた方がいい」
「お腹……? そうだ。兄様に、ショートケーキをあげなくちゃ。カリギュラに貰ったんです。そうだ、どこにいったのかな……?」

 視線を彷徨わせたカルディアはそのままゆっくりと眠りに落ちた。相当疲れていたらしい。ずっと寝る間を惜しんでぬいぐるみをサガルに見立てていたのではないかと思うと心が絞られるようだった。
 サガルは眠るカルディアの隣に横たわり、同じように目を閉じる。安らぎが体を軽くした。カルディアに向けていた劣情がどこかに消えていた。
 すうっと柔らかな気持ちで眠りにつく。

 このまま死んでしまえたらよかったとすら、サガルは思った。

 何も口にしていないカルディアに食事をさせて、塔から出して別室に部屋を用意させたのはサガルだ。
 カルディアの誕生日会を計画したのもサガルだった。カルディアこそ、誕生を祝われるべきだと思ったのだ。誕生日を祝いたいと願ってしまった。
 リヒテルはその純粋な願いを許さなかった。それどころか利用した。
 気が狂った彼女は愛人である自分の姉の殺害を計画していた。サガルは勿論止めた。倫理的に問題がある。それにカルディアの誕生日の席でやることなのか。そう詰め寄った。だが、説得はできなかった。それどころか、脅しをかけられた。邪魔をするようならば、カルディアも殺すと。
 させないと首を振ると、リヒテルは婉然とした微笑をこぼした。ぞっと背筋が凍った。目の焦点が合っていない。彼女は本気だった。狂人が権力を持っていた。
 拒否すればカルディアを巻き込んで殺す。そう目が言っていた。
 計画だけで溜飲が下がると祈っていた。熱弁の温度が下がるものだと信じていた。
 誕生日を祝うお茶会の日まで、愚かにも考えないようにしていたのだ。
 襲いかかったリヒテルを止めることはできなかった。近くにいたカルディアを抱き寄せて、側に縛り付けることしか出来なかった。嫌いになる、なんて子供の言い分だ。きちんと危険だと伝えるべきだった。

 ゆっくりと思案から意識が戻ってくる。
 昔のことを思い出すと幼い自分に苛立ちが募る。
 なぜあの時我慢してしまったのかと理性を働かせた自分に腹が立つ。
 兄妹という関係ではなく、ほかの関係を結べていたら、また違ったのだろうか。そんなもしもに思いを馳せてしまう。
 こんこんと扉が叩かれる。またリストかと思ったが違った。扉から覗いたのはトーマだった。
 白いローブで頭をすっぽりと覆っている。険しい瞳は、サガルを捉えた瞬間、隠すように閉じられた。

「失礼いたします」
「お前が来るなんて珍しいね」
「……そうですか? まあ、俺は伝書鳩ではないので、お会いする機会はないですけど」

 相変わらず慇懃無礼な態度に笑みがこぼれた。頭はいいのに、飾らない男だ。打算を知っているのに、時間の無駄だと切り捨ててしまう。サガルとまるっきり真逆だ。厭わしく、羨ましい。

「王妃様から伝言です」
「……そうか。トーマがライの跡を継いだんだったね」
「押し付けられただけですよ。……サガル様、あんたの証が欲しいそうです。これ以上裏切らないという確約が」
「あの人も、馬鹿だな。死にかけたのにまだ僕を従わせたがるの?」

 馬鹿にした態度で恐怖を紛らわせる。そうしなければ、震えが止まりそうにない。あの女はまだサガルを支配下に置こうとしている。サガルさえいれば何とかなると思っているのだ。すでになにもかも、取り返しがつかないところまで来ているというのに。

「やらないならば自殺すると言っていました」
「っ……!」

 やはりか。覚悟していたとはいえ、声に出されるとたまらなかった。リヒテルの死はカルディアの死に直結する。リヒテルに手を出してはいけなかった。
 出したとしたら、カルディアとこの国を出なくてはならなかったのだ。どんな犠牲を払っても。
 カルディアはサガルを置いて行ってしまった。だが、リヒテルは生きている。最悪の事態は免れた。だが、それだけだ。

「あの女が死ねば、実験の被験体はカルディアになるんだよね?」
「既に予備として登録済みですよ。ご承知でしょうから、包み隠さず言いますけれど、ダン様もそのつもりで俺とあの馬鹿女を近付けたんです。大切なスペアの体調をなるべく近くで観察させるために」

 国王が執り行っている死者を蘇らせる研究は、最終段階に移行しつつある。つまり人体実験の域に辿り着いてしまったのだ。国王は、カルディアの母を蘇らせるために、リヒテルの体を使おうとしている。姉妹である彼女の体を使えば、魂の定着が期待出来ると本気で信じているのだ。
 それが正確かどうかは関係ない。王がそうだと決めれば、間違いも真実になる。
 リヒテルの次に血が近いのは、カルディアだ。リヒテルになにかあればカルディアが次の被験体となる。

「王妃様が死ねば、順番が繰り上がる。死人が入ったあとのことは俺達ですら、予測がつかない。カルディアとしての自我が残っているかも不明です」
「だからこそ、脅迫材料になり得る。僕は乗るしかないか」
「よろしいのですか」
「選択肢なんてないのと同じだからね。……ああ、どんな無理難題なんだろう。蠍王と寝てこいとか? それともアルジュナの女王を口説いて来いとか? まさか、国王陛下と一夜を共にしろなんてことじゃないよね?」

 絶望がひたひたと忍び寄ってくる。殺そうとしたのだ、それ以上の責め苦を負わせられるに決まっている。だが、耐えなくてはならない。元はと言えばサガルの軽はずみな行動が原因なのだ。

 ――まだ、大丈夫だ。耐えられる。僕は、まだ正気だ。

「サガル様の目が欲しい、と」
「――は?」
「目です。その完璧な顔から瞳を取り出してみたいと。飴玉のように美味しそうだから」
「あは、は、はははっ……」

 あの女はサガルがのたうちまわり、苦しむ姿が心底見たくてたまらないらしい。でなければ、走馬灯を見て性壁が歪んだのだ。
 目がなくなる。視界が暗闇に完全に閉ざされるのだ。塔のなかにいた時とは比べ物にならない孤独を感じるはず。カルディアの顔がもう二度と見れなくなる。胸が掻き毟られるような痛みが走る。

 ――それでもいい。目なんていらない。カルディアが死んだら、どうせサガルも死ぬのだ。

「いいよ。トーマがとるの?」
「いえ、俺はしません。……本当にやるんですか」
「あの人はやると言ったら、本当に自殺してしまうよ。そうなれば、カルディアに危険が及ぶ。それは看過できない。どうか痛くしないでくれると助かるな」
「痛いですよ。きっと」

 トーマは渋面をしたまま黙り込んだ。サガルは怯懦を隠すように笑みを深くする。
 カルディアは王都で生きている。サガルの側にいなくとも、呼吸をして、懸命に生きている。ならば、サガルがカルディアを守るのは当たり前だ。
 この思いはなんという言葉で飾られるのだろうか。
 愛情か、劣情か、恋情か。

 目を抉り出したサガルを誰かが抱いた。王妃だったのか、それとも王妃の手の者なのか。それともただの野蛮人なのか。誰にも分からない。滑稽なほど、されるがままだった。
 野蛮な行為は時に魅力的だ。永遠にサガルをとらえて離さない。暗闇で、誰かがサガルの唇を貪る。
 地獄は続く。投げやりな自我をなんとか繋ぎとめる。いつか救われると信じて、いつものように底なしの愉悦に落ちる。

 いつか、いつか。
 サガルはいつか、必ず報われる。そう信じなくては息が出来ない。





 ーー終わらない夢を見る。
 それは、地獄とよく似ていた。





 戦争で失くした腕を取り戻すために、父は義肢職人になった。
 戦争は憎悪の坩堝だ。
 そう父から聞かされてきた。
 肌で味わう殺意と殺意。そして、無慈悲な上官からの命令。
 もう二度と戦争はいらない。
 父は日々そう口にしたが、酒を飲むとその主張は一変した。
 何人、人を殺した。この手で! 上官は、それを大変偉いと言ってくれた。勲章もくれたんだぞ!
 戦争は矛盾した人間を数万と生み出す。人殺しは嫌だと言いながら、人殺しは善だと信じる人間を作る。
 父は死んで、ロデオは義肢職人を継いだ。
 戦争は遠のき、事故や事件で失った人々のために四肢を作る日々。
 時には、戦争から逃げてきた移民達に足を与えた。
 王都の貧民街に近い宿屋に店を構えているので、それほど金はとらない。
 だが、質にはこだわっていた。悪辣なものばかり売ると、暴徒が店を荒らして回る。警察が見回っても、治安がよくならない。それが、貧民街だ。
 ロデオはメンテナンスで食いつなぐような惨めな生活を送りながら、毎日勤勉に働いた。
 だからだろうか。彼の前にずどんと置かれた金貨は、恐ろしいほど重く感じられた。

「足りなかったかな?」

 ぶんぶんと首を振る。これだけの金があれば、残り一生遊んで暮らせる。
 よく見れば、男はかなり身なりがいい。天鵞絨のローブに、宝石のついたブローチ。指先には青々とした指輪。貴族だと一瞬で分かった。
 貴族を生で見るのは初めてだった。
 戦場では貴賎の差はない。だから、父は何度も貴族の隊長に声をかけてもらったのだと誇らしそうに話していた。
 ロデオは頭を下げる。
 父の話に出てきた貴族とは似ても似つかない。
 格の差というものをまざまざと感じる。同じ人間だという気がしない。
 身につけているものも、纏う雰囲気も、置かれた金貨も、別の国のことのようだ。

「こ、こんなにいただくわけには……!」
「気にしないでくれ。亡くなったお父上に縁があってね。これは、彼に最期の挨拶も出来なかった詫びだ」
「父の……?」
「ああ。君のお父上の上官だったんだ」

 とくりと胸が弾む。
 父が言い聞かせてくれた無敵な上官が目の前にいる! そう思うと、体が震える。

「父からお話は聞いていました。ザルゴ公爵様ですよね?」
「マルコから? それは照れる。そこまでいい上司じゃなかった。悪口だっただろう?」
「まさか! 公爵様が武勲を上げられたことばかりでした」
「そうか。……やはり照れるな」

 艶のある唇がゆっくりと弧を描く。老いを感じさせない壮健さに、ロデオは震えが走った。貴族とはこんなにも気高く、人離れしたものなのだろうか。
 皺やシミひとつない。肌のたるみなど以ての外だ。
 大切に育てられた人間だけが醸し出す高潔さを肌に感じる。

「も、申し訳ございません。つい、話を膨らませてしまいました。……それで、ご用件は?」
「こちらこそ、話し込んでしまった。この男の腕を作ってやって欲しい」

 そこでロデオは初めて、ザルゴの後ろにいる男の存在に気がついた。
 かなりの巨漢だ。ガタイもよく、貧民街によく出没する腕自慢のような厳つい風貌をしていた。
 なにより、男には片腕がなかった。

「旦那。俺は別に……」

 必要ないと続くつもりだったのだろう。
 男は眉を顰め、信用ならないと言わんばかりにロデオを見つめる。
 ロデオは肩にかけたロープを手に握り、男の腕の付け根に手をやる。
 関節より肩側のところで骨ごとなくなっている。
 応急措置はしてある。だが、壮絶な痛みだったことは腕の残りを見ても明らかだった。

「こりゃあ、獣にでも喰われたんですかい」
「……はっ。まあ、そんなものだ」

 男の唇が歪に引き攣る。
 ロデオはすぐに目線を逸らした。荒くれ者特有の饐えた臭いがする。無闇に近寄ると破滅する。不幸の臭いがする人間には近寄らないに限る。彼らは自暴自棄になって、周りを巻き込んで死んでいく。

「とりあえず測らせてもらいますよ。……腕は動けるようにしますか?」
「ああ、そうしてくれ。神経を繋げる清族はこちらで用意するよ」
「分かりました」

 清族の術は万能に近い。腕の神経を取り出し、義手と繋げることが出来るのだ。義手が壊れる時、痛覚が走るのが欠点だが、生身と違い取り替えがきくので一部では大変人気が高い。
 もちろん、そんな芸当が出来る清族は限られているし、義手も細工が必要で値が張る。
 だが、公爵は顔も広く、金を持っている。懸念材料はない。
 あらかた採寸し終わり、紙に書き留める。

「一ヶ月ほど時間をいただけますか」
「悪いけれど、二週間にしてくれ。ゾイデックに行く用事があってね」
「は、はあ……。では、急ぎでご用意いたします。ただ、うまく動かせるようになるには、数ヶ月はかかりますよ」
「そう。……だってさ。お前はどう思う? カンド」

 カンドと呼ばれた男は、ますます怖い顔をしてロデオを睨みつける。

「別に、構いやしません」
「だってさ。じゃあよろしく頼むよ。また、二週間後に」

 馬車まで送り届けて、ロデオはすぐにランファに材料を届けて貰うように呼び出した。
 王都の貧民街にいつのまにか巣食うようになった彼らは、いつ何時であろうとも仕事を請け負う。
 鉄やチューブ、それにかまどを燃やす薪。ネジは足りているか。工具に不備はないか。
 呼び笛で飛んできたランファの者に、多めの駄賃と紙を渡す。こうすれば、朝方には商品が届く。
 まずは設計図を書かなくてはならない。
 忙しくなりそうだとロデオは腕まくりをした。


「あいつ、殺さなくていいんすか」
「殺す?」

 まるで始めてその言葉を聞いたと言わんばかりの態度に、カンドは静かに苛立ちを募らせる。
 クソみたいな場所から連れ出してくれた恩人。それは確かだ。だが、それ以上にこの男はカンドが嫌いな恵まれた人間特有の臭いがする。それが気に触って仕方がない。

「喋りますよ、あいつ」
「そうだろう。人の口に鍵はつけられない」
「バレちまう前に殺せばいい」

 悪事の鉄則だ。空賊として活動していた頃、何度となく目撃者を殺した。あとあと、仕返しされても困る。禍根は断つ。憂いは消す。リュウから学んだことだ。

「そんなことしていったい何になる?」
「何って……そりゃあ、腕は作ってもらわなきゃならないけど。それが終わったら殺して構わんでしょ」
「殺すならお前を殺した方がはるかに簡単で、危険がないと思わないのか?」

 息ができなくなるぐらい器官が詰まった。
 この男は今、なんと口にした?
 信じられない気持ちで目を見開く。
 淡い水色の髪を引っ張りたくてたまらなくなる。今ここで優劣をつけて、マウントをとりたい。
 そうしなければ、カンドの自尊心がぐじゅぐじゅと溶けてなくなっていきそうだ。

「どうかした?」
「あんたは、俺を助けただろうが」
「別に殺さないとは言っていないだろう。興味があると言っただけ。勘違いされると困る」
「お、俺のことを殺すのか!?」

 少なくとも今のカンドには目の前の男を倒して逃げ回ることは出来ない。腕もないし、金もない。奪うことが出来ればいいが、護身術を身につけているのか、男には全く隙がなかった。

「殺さない。今は、ね。だが、時間の問題だ。リストは――軍は間抜けではない。いずれ、お前を見つける」

 何でもないことのように言われ、カンドは呻いた。軍に捕まれば、命はない。死刑宣告となにも変わらないではないか。

「そんなの、そいつも殺せばいい!」
「それだけでは済まないと流石に分かるだろう。殴って、殺して、脅して、犯す。お前が住んでいた暴力的な世界ではそれだけで生き残れた。だが、そうはいかない。お前の住んでいた世界は所詮、ぬるま湯だった」

 ぬるま湯? 
 見当違いな意見にむかっ腹が立つ。
 カンドが産まれた王都の貧民街は秩序とは無縁の場所だった。飢えて死ぬぐらいならば死体を貪る。誰を騙しても、自分が裕福になれば満足。そんな人間しか生き残ることが出来なかった。
 苦労を知らないお坊ちゃま育ちになにが分かるのだと荒んだ気持ちのまま睨みつける。

「おや、おれを睨みつける元気はあるのか。厄介だな。腕が用意できる前に反抗してこないでくれると助かるのだがね。せっかく、三不管に口添えして、お前をいれてもらえるのだから」

 三不管。東方の言葉で、無法地帯を意味する言葉だという。悪徳栄えるゾイデックで活動するマフィアの一つで、移民コミュニティの元締めでもある。
 移民を憎むカンドにとって地獄のような組織だ。だが、お尋ね者になってしまった今頼りになる逃げ場であることはよく分かっていた。他国への亡国も斡旋してくれるともっぱらの噂だからだ。
 感情的に言い返したが、カンドだって、軍を敵に回してやすやすと逃げおおせるとは思っていない。憎き空賊を倒せと、大合唱をする貴族達の期待に応えるためにも、執拗に追い回してくるだろう。
 いつまでもこの男の後ろ盾があればいいのだが、そう都合よくはいかない。すでに放りだそうと、三不管に話を通しているぐらいだ。三不管についたあと、カンドの身がどうなろうとも彼は気にも留めないはずだ。

「彼らの国には、九竜城と言われるゾイデックよりもひどい場所があるらしい。まあ、ゾイデックも外面はいいが、中身は爛れているしな。王都の貧民街がどれほど安全だったか、身をもって知るといい」
「……あんたはほんと読めねえ人だな。ゾイデックに行ってあんたの言葉を覚えてたら思い出す」

 だが、今この瞬間だけはカンドの味方だ。この先、敵にまわろうが、今のカンドには関係のない話だ。

 ――ゴミ虫のように這いずっても生き残ってやる。

 もはやカンドの胸で燃えるのは、強烈な生存意欲だけだ。

「そうそう、あの技師を間違っても殺しにいかないように。腕がいいらしいから、いなくなると困るのはお前だよ」
「ゾイデックに行くのに、王都のあいつの世話になれないじゃないすか」
「馬鹿だなあ。王都にこなくても、見てもらう方法はいろいろあるだろう?」

 ファミ河のように清らかな水色の髪の毛がさらりと揺れる。
 女のように長い髪を切ってしまいたい衝動に駆られる。不愉快でたまらなかった。
 何もできないカンドを笑うように、男は笑った。

「さて、次は服か。屋敷に戻ろうか」

 仕立て屋が屋敷になってきて、服の採寸をする。そんな馬鹿みたいな贅沢に、この男は慣れ親しんでいる。カンドには想像すらできなかった世界にひたひたと浸かっている。
 男の後ろをカンドは追い掛け馬車に乗る。
 馬車に乗ることすら、カンドにとっては一大事だ。
 金持ちの道楽だと噛みしめながら、いつかさめる夢を見続けている。
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