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第三章 嫌われた王子様と呪われた乞食
134
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レゾルールの地下から逃げ出した私達は、フィリップ兄様に助けられた。
馬車で揺られて三日ほど経ったときには、既に王都から遠く離れた土地にいた。ここがどこで、どれくらい王都と離れているのか、私には判断がつかなかった。
与えられた屋敷はまるで美術館のように荘厳だった。
絵画は王族が描かれた肖像画のみ飾られ、その他にはレオン兄様が狩った鹿や熊の剥製が並んだ。
フィリップ兄様は、この屋敷を好きに使っていいと言ってくれた。ただ、外には出るな、出られると思うなと釘を刺された。
サガルに抱かれたのは、家を見て回った次の夜だった。
天蓋付きの寝台は宝石が埋められていた。夢のように豪奢な褥に押し倒され、処女を散らした。
気持ちが良かった。恐ろしいぐらい。
男を熱を知った。体を広げられる快楽を味わった。もう、戻れないと、快楽に耽溺した体が訴える。
それから、サガル兄様は箍が外れてしまった。
私の正気の紐も外れてしまった。
四六時中、どこででも睦み合った。体が一つに溶け合ってしまったのではないかと錯覚するほど、夜も昼もなく。
サガルの長い足は私の股の下を通り、肉棒で貫かれた女陰の真下にあった。私の左足はサガルの背に絡み、右足は奔放に空に突き出す。
サガルの首に爪を立て、喘ぎ声をあげる。
二人でいるとまるで四つの足、四つの手、そして二つの顔を持った化け物のようだった。
フィリップ兄様がたまにやって来て、私達の享楽に混ざる。兄様はいつも硝煙の臭いがした。そのうち覇気のない目をしたマイク兄様を連れてきて、そして、腕と足をなくしたレオン兄様がやってきた。
お嫁に行ったはずの姉様達も屋敷にいつのまに姿を現すようになった。
性の臭いが屋敷には充満していく。フィリップ兄様は誰よりも楽しそうで、たまに帰ってきては体に纏う野卑な臭いを消すように享楽に溺れた。
「フィリップはおかしくなってしまった。もう、女神でさえ許しはしないだろう」
虚ろなマイク兄様の言葉は泡のように嬌声にかき消され、弾けて聞こえなくなった。
「二人っきりになろうか」
しばらくすると、サガルは大人数で行うことに飽きて、二人っきりになりたがった。私は拒まない。拒んでいたら、そもそもあのときギスランを置いてサガルについていかなかっただろう。
どうしてサガルについてきたのか、今でも分からない時がある。けれどきっとこれで良かったのだ。頭を空っぽにして、手を引くサガルについていく。
部屋に鍵がかかる。
嵐が窓を叩きつけるように吹いても、獣の檻にいる私達は熱い吐息をこぼすだけだ。それが幸せだ。幸せということだ。
そうして私はまた別の誰かになった。
逃げて、逃げて、逃げた。
人を殺し、獣を喰らい、人を喰らい、獣を殺し。
永遠に悪行を繰り返した。
盗みも、人殺しも、数え切れないほど行った。
生きるためにやった。やり尽くした。
逃げてどうすると誰かが問う。
自分の前に死んでいった者達だ。血塗れの顔をして、睨み付けてくる。
ーー大丈夫。まだ、大丈夫。
あの子の顔を、泣きそうで、今にも涙が零れ落ちそうな瞳を覚えている。
罵声を浴びせられても、毅然としていたあの顔を覚えている。
また会おうと言われた。
約束をしたのだ。その約束は必ず果たさなくてはならない。
腕が取れた。
腕を取り付けた。
顔が爛れた。
顔を変えた。
目がこぼれた。
目を入れた。
足がちぎれた。
足を継ぎ接ぎ、繋いだ。
継ぎ接ぎして、体を作る。決して捕まるわけにはいかない。
体を取り替え、入れ替えながら王都から逃げる。逃げ回る。
雨が降る。世界を飲み込むほどの大雨だ。
王族を殺したから女神が怒り、嵐を起こしているのだともっぱらの噂だった。
事実、王族の人間がいなくなってからずっと頬を伝う雨水は増すばかりだ。
作物は腐り、畑は水に浸かる。動物は弱り果て、泥に塗れて人が死んでいく。
水溜りに浮かぶ虫の死骸のように、当たり前に人が水にのまれて死んでいた。
その混乱に乗じれば逃げれた。もちろん、殺された。
頭を砕かれ、骨を折られ、頭蓋を開かれ、首を落とされ、目玉をくり抜かれ、舌を引きずり取られ、腕を切り落とされ、足をばらばらにされ、土に埋められ、火に焼かれ、水に沈められて、鎖で絞め殺され、獣に噛み殺された。
もう十分、殺された。
知っていた、自分は死なない。生き残る。どうしてなのか分からない。ただ、死なない。死ねない。
ーーどこにいけばいいのだろう。
継ぎ接ぎながら、自分を再生させる。
泥水をすすりながら生き返る。
地獄の日々のなか、約束だけを胸に生きる。
ああ、ここは、どこで、いまはいつで。
あの約束から、どれくらい時が経っているのだろう?
ーー男が自分に問い掛ける。
彼の姿は見るたびに変わっていく。老いた老人、年端もない少年。精悍な顔立ちの青年。異国の男。どれも彼なのに、彼ではない。
この男は、誰なのだろうか。
ふと彼と目があった。目の奥は赤く、憤怒の炎を宿しているように思えた。
痛みが走る。身体中が千切れ、また付け直される痛み。火に炙られ、水に沈められ、息も絶え絶えになる。人は獣のようだった。
斧で頭をかち割られた。目玉をスプーンでくり抜かれた。
痛い。
痛い。痛い痛い痛い痛い痛い!
もうやめて、何もしてない。お前を殺すけれど、憎たらしいわけじゃない。死にたくないから殺すのだ。殺して、殺して、殺せばもう殺されないはずだ。痛いのはもう耐えられない。人が負っていい痛みじゃない。代わりに死んでくれ。頭をかち割られて、目を抉られて、燃やされて、炙られて、死んでくれ。
私は、男になっていた。逃げ惑い、殺しまわり、蹂躙された。
もう助けてくれ。救ってくれ。頭がぐちゃぐちゃでどうにかなりそうだった。
何が私で、どれが私なのか分からない。私という箱の中から溢れ出しそうなほどいっぱい情報が、押し寄せてくる。
自己が情報に塗り潰されていく。濁流に押し寄せられるように、自我が崩壊していく。
空っぽになる。カルディアという私がなくなる。
また、意識がーー。
「っと! 僕凄い、偉い、神の中の神! みんなから崇められるべき神! ユリウス僕のこと褒めるべきじゃない? 褒めていい案件だよ、むしろ積極的に褒めるべき!」
「はなおとめ、ご無事ですか?」
頭を振って、割れんばかりの痛みから目を開ける。
そこにいたのはエルシュオンとユリウスだ。この間と同じで、神の背の皮の前にいるようだった。今まで見てきたリストやハル、サガルの姿は何だったのだろう。
冷や汗をかきながら、ユリウスに手を掴んでもらい起き上がる。
「私は……」
「大神の寵愛を受け取ったくせに拒む素振りを見せたでしょ。狭心な神は怒るに決まってる。君達が思っている以上に神様って無慈悲だから気をつけた方がいいんじゃない? これは忠告。そしてここからは警戒だよ。君は大神に何をおねだりしたの? その身に過ぎたるというのは神様が与える恩寵の常だけど、流石にその権能は異常だ」
権能……?
いや、その前に、大神におねだりなんかした覚えはない。こんなことを進んで願うものがいるものか。まるで、私の中に何人も別の人間がいるようだった。あのままずっと流され続けていたら、正気を保っていられるとは決して思えない。私だったのに、私じゃなかった。私以外の人間にもなった。
あんな感覚を欲する人間がいるとしたら、それは馬鹿か自殺志願者だ。
「君に与えられている権能は、千里眼や予知夢の類を大きく逸脱している。大神の大盤振る舞いと断じるには流石に寵愛を受け過ぎだ」
「このままでは、いずれ必ず正気を失います。はなおとめ、今のうちに目を抉り取るぐらいのことはしませんと……」
「そんなことをしても、意味ないよ。大神の寵愛に浴しているという事実があれば権能は作用し続ける」
「拒絶を示すためにだ。嫌だと示せば、少しは手加減してくれるだろう?」
「ああ、優しい神様ならね。でも、大神は、違う。そもそも、その善意とやらを切り離した機構のようなものだからね。人を利用する心はあっても、愛でる心は持っていないものだとばかり思っていたけれど。どうしたんだか。この間だって、わざわざここに降臨してくるぐらいだ。ご執心なのは間違いないのだろうけれど、どうしてこんな壊すような権能を与えたのだか」
エルシュオンの言葉に違和感があったのだが、深く訊くことが出来なかった。善意を切り離した、機構?
くそ、頭が上手く回らない。まだ、自分の存在がふらつくように揺らいでいる。
「はなおとめ、私の魔眼を試してみてもいいでしょうか。少しは楽になるかもしれません」
「ユリウスも、魔眼を……?」
「はい。こちらを見ていて下さい」
黄色の瞳が、空のように綺麗な碧色に変化していく。
「――っ!」
頭の中にある渦の向きが反対になったような感覚がした。ぐるりと世界が反転する。脳にあったものが、逆流していく。炎症した箇所を風が過ぎるように、ひりりと痛む。だが、その痛みにもやがて慣れが来た。
ほうと胸を撫で下ろす。ふわふわとした浮遊感は緩和されつつあった。
だが、すぐに目が火をつけたように熱くなる。
「こ、れは……っ」
「っ、どいて、ユリウス!」
先ほどまでユリウスがいた場所に火炎があがった。ぱちぱちと音を立てて、ユリウスを庇ったエルシュオンの腕を焼く。
炎の中から現れたのは、リストの顔によく似た完璧な美貌だった。赤髪の隙間から、男は私を見つめていた。
「……っ、ここにいらっしゃるとは、この間といい随分とこの人間に執着していらっしゃるようだ」
エルシュオンに目線を向けた瞬間、もう片方の腕も火に包まれた。ユリウスがエルシュオンの腕の火を消そうとする。だが、火の勢いはおさまらず、腕が燃え尽きる様子もなかった。
永遠と燃え盛る業火。地獄のようだと思った。
「エルシュオン、腕が」
「気にしなくてもいいよ、ユリウス。この方が本当に僕に死を望むならば、すぐにこの身が霧散している。それをしないということは、はなおとめとの邪魔をされたくないだけだ」
「だが!」
一言言ってやらなければ気が済まないほどの痛手なのだろう。
ユリウスの焦り様からしても、こうやってエルシュオンが痛めつけられるのは初めてのことなのではないか。
彼はユリウス達の言い争いが耳に入らないのか、それとも耳に入ってなお無視しているのか。ゆっくりと私に近付いてくる。
「――寵愛を受け入れろ。何故、拒む」
麗しい声だった。聞き惚れてしまう。エルシュオンの傷も考えられなくなるほど。目の痛みが消えていくほど。
――このあいだの、リストに似た男。
こくりと神妙な顔をして頷く。まるで私の心を見たようなタイミングだった。唖然と彼の顔を見つめる。
邪魔そうに目にかかる赤い前髪を払いのける。
幼さが滲む仕草には神聖さがあった。
「どうして、花は枯れる?」
また、この質問か!
思考が動き出す。答えのない問いに、答えを出す。その難しさ。哲学者ではない私が、どんなに考え込んでも、ろくな答えには辿り着かないだろう。
――花が枯れるのは。
ひらりと紫色の花弁が舞った。小指の爪より小さな欠片のような花だった。
鼻先に触れ、落ちていく。
見上げるとあたりずらりと一面、藤の花が咲き誇っていた。
長い尻尾のような房が垂れ下がり、目の前を暗くさせる。
藤の花が咲き乱れるこの光景を、私はよく知っていた。水の中、死に神の領域に確かに、この美しい花はあったのだ。
「……っ! 死に神! この領域に、どうやって」
エルシュオンもすぐそのことに気がついたようだった。殺気立った瞳で辺りを見渡す。
「エルシュオン?」
「ユリウス、この場所から離脱するよ。反論は受け付けない。このままでは神気にやられて、僕達まで元に戻されかねない」
「だが、はなおとめが……っ!」
ユリウスの言葉が途中で搔き消える。藤の影に二人は消えた。霧のように、濃紫の花があたりに充溢する。小さな花の塊が、さわさわと揺れる。
「――その花は枯れない。俺の想いが枯れない限り」
後ろから真っ白な手が私の目を隠す。
そのまま、後ろに体を引き倒される。手の指先に黒い文字が踊った。魚のようにぐるりと回ると、そそくさと逃げていく。
「ああ、でもなぜ、花は枯れるのだろう?」
――さあ、もうすぐだ。世界は終わり、運命は流転する。皆死に絶え、この世は海で満たされる。
別の誰かの声が混じる。するりと耳に入り込む抗いがたい声だった。
――これは俺のもの。俺の花。誰にもやるものか、誰にも手折らせるものか。たとえ、天帝が唾をつけ、名をつけようとも、結ばれるのは俺とでしかありえない。
金楽器のような声で、誰かが声を詰る。男は高笑いし、罵詈雑言を並べ立てる。神々しい声とは正反対の俗物的な応酬を繰り返す。
そして、声は消えた。
残されたのは、深い暗闇と、真っ白な手。
馬車で揺られて三日ほど経ったときには、既に王都から遠く離れた土地にいた。ここがどこで、どれくらい王都と離れているのか、私には判断がつかなかった。
与えられた屋敷はまるで美術館のように荘厳だった。
絵画は王族が描かれた肖像画のみ飾られ、その他にはレオン兄様が狩った鹿や熊の剥製が並んだ。
フィリップ兄様は、この屋敷を好きに使っていいと言ってくれた。ただ、外には出るな、出られると思うなと釘を刺された。
サガルに抱かれたのは、家を見て回った次の夜だった。
天蓋付きの寝台は宝石が埋められていた。夢のように豪奢な褥に押し倒され、処女を散らした。
気持ちが良かった。恐ろしいぐらい。
男を熱を知った。体を広げられる快楽を味わった。もう、戻れないと、快楽に耽溺した体が訴える。
それから、サガル兄様は箍が外れてしまった。
私の正気の紐も外れてしまった。
四六時中、どこででも睦み合った。体が一つに溶け合ってしまったのではないかと錯覚するほど、夜も昼もなく。
サガルの長い足は私の股の下を通り、肉棒で貫かれた女陰の真下にあった。私の左足はサガルの背に絡み、右足は奔放に空に突き出す。
サガルの首に爪を立て、喘ぎ声をあげる。
二人でいるとまるで四つの足、四つの手、そして二つの顔を持った化け物のようだった。
フィリップ兄様がたまにやって来て、私達の享楽に混ざる。兄様はいつも硝煙の臭いがした。そのうち覇気のない目をしたマイク兄様を連れてきて、そして、腕と足をなくしたレオン兄様がやってきた。
お嫁に行ったはずの姉様達も屋敷にいつのまに姿を現すようになった。
性の臭いが屋敷には充満していく。フィリップ兄様は誰よりも楽しそうで、たまに帰ってきては体に纏う野卑な臭いを消すように享楽に溺れた。
「フィリップはおかしくなってしまった。もう、女神でさえ許しはしないだろう」
虚ろなマイク兄様の言葉は泡のように嬌声にかき消され、弾けて聞こえなくなった。
「二人っきりになろうか」
しばらくすると、サガルは大人数で行うことに飽きて、二人っきりになりたがった。私は拒まない。拒んでいたら、そもそもあのときギスランを置いてサガルについていかなかっただろう。
どうしてサガルについてきたのか、今でも分からない時がある。けれどきっとこれで良かったのだ。頭を空っぽにして、手を引くサガルについていく。
部屋に鍵がかかる。
嵐が窓を叩きつけるように吹いても、獣の檻にいる私達は熱い吐息をこぼすだけだ。それが幸せだ。幸せということだ。
そうして私はまた別の誰かになった。
逃げて、逃げて、逃げた。
人を殺し、獣を喰らい、人を喰らい、獣を殺し。
永遠に悪行を繰り返した。
盗みも、人殺しも、数え切れないほど行った。
生きるためにやった。やり尽くした。
逃げてどうすると誰かが問う。
自分の前に死んでいった者達だ。血塗れの顔をして、睨み付けてくる。
ーー大丈夫。まだ、大丈夫。
あの子の顔を、泣きそうで、今にも涙が零れ落ちそうな瞳を覚えている。
罵声を浴びせられても、毅然としていたあの顔を覚えている。
また会おうと言われた。
約束をしたのだ。その約束は必ず果たさなくてはならない。
腕が取れた。
腕を取り付けた。
顔が爛れた。
顔を変えた。
目がこぼれた。
目を入れた。
足がちぎれた。
足を継ぎ接ぎ、繋いだ。
継ぎ接ぎして、体を作る。決して捕まるわけにはいかない。
体を取り替え、入れ替えながら王都から逃げる。逃げ回る。
雨が降る。世界を飲み込むほどの大雨だ。
王族を殺したから女神が怒り、嵐を起こしているのだともっぱらの噂だった。
事実、王族の人間がいなくなってからずっと頬を伝う雨水は増すばかりだ。
作物は腐り、畑は水に浸かる。動物は弱り果て、泥に塗れて人が死んでいく。
水溜りに浮かぶ虫の死骸のように、当たり前に人が水にのまれて死んでいた。
その混乱に乗じれば逃げれた。もちろん、殺された。
頭を砕かれ、骨を折られ、頭蓋を開かれ、首を落とされ、目玉をくり抜かれ、舌を引きずり取られ、腕を切り落とされ、足をばらばらにされ、土に埋められ、火に焼かれ、水に沈められて、鎖で絞め殺され、獣に噛み殺された。
もう十分、殺された。
知っていた、自分は死なない。生き残る。どうしてなのか分からない。ただ、死なない。死ねない。
ーーどこにいけばいいのだろう。
継ぎ接ぎながら、自分を再生させる。
泥水をすすりながら生き返る。
地獄の日々のなか、約束だけを胸に生きる。
ああ、ここは、どこで、いまはいつで。
あの約束から、どれくらい時が経っているのだろう?
ーー男が自分に問い掛ける。
彼の姿は見るたびに変わっていく。老いた老人、年端もない少年。精悍な顔立ちの青年。異国の男。どれも彼なのに、彼ではない。
この男は、誰なのだろうか。
ふと彼と目があった。目の奥は赤く、憤怒の炎を宿しているように思えた。
痛みが走る。身体中が千切れ、また付け直される痛み。火に炙られ、水に沈められ、息も絶え絶えになる。人は獣のようだった。
斧で頭をかち割られた。目玉をスプーンでくり抜かれた。
痛い。
痛い。痛い痛い痛い痛い痛い!
もうやめて、何もしてない。お前を殺すけれど、憎たらしいわけじゃない。死にたくないから殺すのだ。殺して、殺して、殺せばもう殺されないはずだ。痛いのはもう耐えられない。人が負っていい痛みじゃない。代わりに死んでくれ。頭をかち割られて、目を抉られて、燃やされて、炙られて、死んでくれ。
私は、男になっていた。逃げ惑い、殺しまわり、蹂躙された。
もう助けてくれ。救ってくれ。頭がぐちゃぐちゃでどうにかなりそうだった。
何が私で、どれが私なのか分からない。私という箱の中から溢れ出しそうなほどいっぱい情報が、押し寄せてくる。
自己が情報に塗り潰されていく。濁流に押し寄せられるように、自我が崩壊していく。
空っぽになる。カルディアという私がなくなる。
また、意識がーー。
「っと! 僕凄い、偉い、神の中の神! みんなから崇められるべき神! ユリウス僕のこと褒めるべきじゃない? 褒めていい案件だよ、むしろ積極的に褒めるべき!」
「はなおとめ、ご無事ですか?」
頭を振って、割れんばかりの痛みから目を開ける。
そこにいたのはエルシュオンとユリウスだ。この間と同じで、神の背の皮の前にいるようだった。今まで見てきたリストやハル、サガルの姿は何だったのだろう。
冷や汗をかきながら、ユリウスに手を掴んでもらい起き上がる。
「私は……」
「大神の寵愛を受け取ったくせに拒む素振りを見せたでしょ。狭心な神は怒るに決まってる。君達が思っている以上に神様って無慈悲だから気をつけた方がいいんじゃない? これは忠告。そしてここからは警戒だよ。君は大神に何をおねだりしたの? その身に過ぎたるというのは神様が与える恩寵の常だけど、流石にその権能は異常だ」
権能……?
いや、その前に、大神におねだりなんかした覚えはない。こんなことを進んで願うものがいるものか。まるで、私の中に何人も別の人間がいるようだった。あのままずっと流され続けていたら、正気を保っていられるとは決して思えない。私だったのに、私じゃなかった。私以外の人間にもなった。
あんな感覚を欲する人間がいるとしたら、それは馬鹿か自殺志願者だ。
「君に与えられている権能は、千里眼や予知夢の類を大きく逸脱している。大神の大盤振る舞いと断じるには流石に寵愛を受け過ぎだ」
「このままでは、いずれ必ず正気を失います。はなおとめ、今のうちに目を抉り取るぐらいのことはしませんと……」
「そんなことをしても、意味ないよ。大神の寵愛に浴しているという事実があれば権能は作用し続ける」
「拒絶を示すためにだ。嫌だと示せば、少しは手加減してくれるだろう?」
「ああ、優しい神様ならね。でも、大神は、違う。そもそも、その善意とやらを切り離した機構のようなものだからね。人を利用する心はあっても、愛でる心は持っていないものだとばかり思っていたけれど。どうしたんだか。この間だって、わざわざここに降臨してくるぐらいだ。ご執心なのは間違いないのだろうけれど、どうしてこんな壊すような権能を与えたのだか」
エルシュオンの言葉に違和感があったのだが、深く訊くことが出来なかった。善意を切り離した、機構?
くそ、頭が上手く回らない。まだ、自分の存在がふらつくように揺らいでいる。
「はなおとめ、私の魔眼を試してみてもいいでしょうか。少しは楽になるかもしれません」
「ユリウスも、魔眼を……?」
「はい。こちらを見ていて下さい」
黄色の瞳が、空のように綺麗な碧色に変化していく。
「――っ!」
頭の中にある渦の向きが反対になったような感覚がした。ぐるりと世界が反転する。脳にあったものが、逆流していく。炎症した箇所を風が過ぎるように、ひりりと痛む。だが、その痛みにもやがて慣れが来た。
ほうと胸を撫で下ろす。ふわふわとした浮遊感は緩和されつつあった。
だが、すぐに目が火をつけたように熱くなる。
「こ、れは……っ」
「っ、どいて、ユリウス!」
先ほどまでユリウスがいた場所に火炎があがった。ぱちぱちと音を立てて、ユリウスを庇ったエルシュオンの腕を焼く。
炎の中から現れたのは、リストの顔によく似た完璧な美貌だった。赤髪の隙間から、男は私を見つめていた。
「……っ、ここにいらっしゃるとは、この間といい随分とこの人間に執着していらっしゃるようだ」
エルシュオンに目線を向けた瞬間、もう片方の腕も火に包まれた。ユリウスがエルシュオンの腕の火を消そうとする。だが、火の勢いはおさまらず、腕が燃え尽きる様子もなかった。
永遠と燃え盛る業火。地獄のようだと思った。
「エルシュオン、腕が」
「気にしなくてもいいよ、ユリウス。この方が本当に僕に死を望むならば、すぐにこの身が霧散している。それをしないということは、はなおとめとの邪魔をされたくないだけだ」
「だが!」
一言言ってやらなければ気が済まないほどの痛手なのだろう。
ユリウスの焦り様からしても、こうやってエルシュオンが痛めつけられるのは初めてのことなのではないか。
彼はユリウス達の言い争いが耳に入らないのか、それとも耳に入ってなお無視しているのか。ゆっくりと私に近付いてくる。
「――寵愛を受け入れろ。何故、拒む」
麗しい声だった。聞き惚れてしまう。エルシュオンの傷も考えられなくなるほど。目の痛みが消えていくほど。
――このあいだの、リストに似た男。
こくりと神妙な顔をして頷く。まるで私の心を見たようなタイミングだった。唖然と彼の顔を見つめる。
邪魔そうに目にかかる赤い前髪を払いのける。
幼さが滲む仕草には神聖さがあった。
「どうして、花は枯れる?」
また、この質問か!
思考が動き出す。答えのない問いに、答えを出す。その難しさ。哲学者ではない私が、どんなに考え込んでも、ろくな答えには辿り着かないだろう。
――花が枯れるのは。
ひらりと紫色の花弁が舞った。小指の爪より小さな欠片のような花だった。
鼻先に触れ、落ちていく。
見上げるとあたりずらりと一面、藤の花が咲き誇っていた。
長い尻尾のような房が垂れ下がり、目の前を暗くさせる。
藤の花が咲き乱れるこの光景を、私はよく知っていた。水の中、死に神の領域に確かに、この美しい花はあったのだ。
「……っ! 死に神! この領域に、どうやって」
エルシュオンもすぐそのことに気がついたようだった。殺気立った瞳で辺りを見渡す。
「エルシュオン?」
「ユリウス、この場所から離脱するよ。反論は受け付けない。このままでは神気にやられて、僕達まで元に戻されかねない」
「だが、はなおとめが……っ!」
ユリウスの言葉が途中で搔き消える。藤の影に二人は消えた。霧のように、濃紫の花があたりに充溢する。小さな花の塊が、さわさわと揺れる。
「――その花は枯れない。俺の想いが枯れない限り」
後ろから真っ白な手が私の目を隠す。
そのまま、後ろに体を引き倒される。手の指先に黒い文字が踊った。魚のようにぐるりと回ると、そそくさと逃げていく。
「ああ、でもなぜ、花は枯れるのだろう?」
――さあ、もうすぐだ。世界は終わり、運命は流転する。皆死に絶え、この世は海で満たされる。
別の誰かの声が混じる。するりと耳に入り込む抗いがたい声だった。
――これは俺のもの。俺の花。誰にもやるものか、誰にも手折らせるものか。たとえ、天帝が唾をつけ、名をつけようとも、結ばれるのは俺とでしかありえない。
金楽器のような声で、誰かが声を詰る。男は高笑いし、罵詈雑言を並べ立てる。神々しい声とは正反対の俗物的な応酬を繰り返す。
そして、声は消えた。
残されたのは、深い暗闇と、真っ白な手。
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