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第三章 嫌われた王子様と呪われた乞食
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しおりを挟む薄雲が空に蜘蛛の巣のように張り巡らされた日だった。私はあのうるさい車に乗って王宮内にあった天を貫くような長細い建造物――『聖塔』へと足を踏み入れた。
私の世界にはないものだった。千切れた雲が、頂上を隠すほど背が高い。まるで天帝に会うために作られたと言わんばかりそれは空へ伸びている。
入るとすぐに階段が見えた。くるりくるりと回る螺旋階段だ。
出迎えた清族は杖をついていた。白濁した瞳で私を見上げるとか細い声で後ろをついてきてと言った。隣にいるクロードにエスコートされながら、『聖塔』の長い階段を上がっていく。
途中で不思議な音が聞こえてきた。
ピアノのような、ハープのような、独特の澄んだ音色。上の方から降ってくるようだ。雨や雪のように。
誰かが演奏しているのだろうか。
目が回りそうな階段を上りながら、どこにあるかも知らないサガルがいる部屋を目指す。
この建物自体はかなり質素なものだった。装飾が一つもない。ただ、上からたまにやってくる風が髪を少し揺らすぐらいだ。
そこには案外早くたどり着いた。その階は丸ごとサガルのために使われているようだ。扉は一つしかなかった。杖をついた彼が清族が呪文を唱える。
扉が勝手に開いた。
部屋の中へ入れと促される。清族は中には入らないらしい。クロードが先に入り、あとに続く。扉が閉まった。閉まる瞬間、大きなため息を清族がこぼしたのが聞こえた。
大きな硝子張りの窓がある部屋だった。隣の部屋がここから一望できる。
こちらの部屋には机や椅子が乱雑に設置されていた。多分、食事を差し入れるためにあるのだろう。腕がギリギリ入るぐらいの小さな扉があった。
硝子を通して見える隣の部屋は私達が入った部屋の何十倍の広さがあるようだ。
床も壁も天井も真っ白なクッションのようなもので出来ていた。まるで幼児のために用意された部屋だ。
転んでも、怪我をしないように作られているみたい。ぬいぐるみや毛布、枕、本棚は全部同じ真っ白だった。
だから、物と物の境が見えづらい。全部が繋がった一つの大きな塊に見えた。
硝子がジリジリと震える。
何事かと思って視線を彷徨わせて、体が震えた。硝子の向こう側から、碧い瞳がこちらを覗いていたからだ。
「カルディアだ」
クロードが私の口を塞いだ。
くすくす笑いながら、綺麗な形をした唇が動く。
「いるんでしょう? 音が聞こえた」
部屋のモノと同化するような真っ白な肌。髪は透けるような金色だ。暴力的な美しさは全く変わっていなかった。目が潰れてしまう。本気でそんな風に思った。それぐらい、サガルは完璧だった。
――ああ、でも、何故だろう。何かが、違う。
汗が肌を滑り落ちていく。手汗が酷い。酷い違和感が体を襲う。姿はサガルだ。けれど、何か別のものにも見える。
繊細な妖精を思わせる長い睫毛が何度も瞬いた。
「おかしいな。確かに音がしたのに」
しばらくして、サガルが硝子の前から興味を失ったように去っていく。
――翼を羽ばたかせて。
聞いていた通り、サガルの背には大きな翼がくっついていた。一度バサリと羽を動かすと、ビリリと硝子が振動で震えた。大きな鳥が鳥籠で飼育されているみたいだ。
あちら側からはこちらが見えていないのだろうか。目線が会うことはなかった。
「言った通りだっただろう」
私の耳の中に唇をいれるような姿でクロードが囁いた。
「何を言っているのかさっぱりだ。ただ唸っているだけ」
「……?」
クロードは何を言っているんだ?
サガルは私の名前を呼んでいた。言っていることも理解できた。クロードが言うように唸り声なんて聞こえなかった。
こんこんとさきほど入ってきた扉から音がした。清族の声がした。
「至急お伝えしたいことが」
首を傾げて扉を開けようとしたその瞬間、扉から腕が伸びてきた。クロードが掴まれた。彼は、力任せに扉に引っ張り込まれていく。
手を伸ばしたけれど、届かなかった。衣服の切れ端だけが、手に残る。
顔から血の気がひいていく。扉を何度も触る。確かに、クロードがこの中に入っていった。あるいは貫通した?
けれど、私が触っても引き摺り込まれない。扉は人一人を飲み込んで黙り込んでしまった。
どんどんと叩いて、声を出す。確かに清族の声がしたはずだ。
けれど、何度繰り返しても応えはなかった。焦燥感だけが膨らんでいく。
どうしてこんなことになったんだ。何が起こっている?
もしかして、ジョージのときのようにどこかの清族が私を殺しにやってきたのか?
警戒しながら周りを見渡す。いつ誰が来てもいいように。緊張で体が強張る。指先が冷たくて動かしにくい。クロード。どこにいるの。
「こっちにおいでよ、カルディア。隠れてないで、出ておいて」
「……っ」
硝子の向こう側で、サガルが真っ白な机の上で膝を立てながら言った。粗野な仕草に違和感が増す。サガルがあんな仕草をするだろうか。
「来ないつもりなの。ならば、僕の方から行こうか? 硝子、割れてしまうよ。お前が傷ついてしまう。それでいいの?」
静かな、子供を窘めるような声だった。あるいは言い聞かせるような、やんわりとした命令の声。
「……やっぱり、僕はお前に嫌われているのかな」
ごくりと喉を鳴らす。硝子越しに彼は悲しそうに顔を伏せた。
眉間に皺を寄せながら、硝子に手をあてる。
「サガル?」
「……カルディア」
机から飛び降りて、サガルが近付いてくる。羽は使わず、足を使って。
徐々に近づいてくる彼は硝子の前で膝を開いて座り込んだ。爪を噛んで、こちらを見つめてくる。
「やっぱり、お前だ。どうして応えなかった? 僕の声が聞こえていただろうに」
碧い瞳が熟した果実のように甘く腐った色を見せた。
「こっちに入っておいで。来ないならば、この硝子を割って入ってこようか?」
「ど、どうやってそちらに行けば?」
隣に繋がっているのは小さな扉だけだ。
あちらへ行くための扉はない。
「扉はない?」
「見当たらないの」
がりがりと爪を歯で削る音がする。
人差し指を曲げて、間接の部分でかつかつと硝子を叩く。サガルは、にやと笑って、手をめいっぱい広げた。
その開いた状態のまま、硝子を掴むと、そのまま指をめり込ませた。
「少し、後ろに下がって」
サガルの言われるまま、後ろに下がった。いや、正直に言うとめり込んだ指を見て、恐ろしくなって後ろに下がってしまった。
サガルが、腕を自分の体に向けて徐々に引いていく。硝子の近くにある椅子ががたがた小刻みに動いた。
硝子が、瘡蓋を取るように剥がれていく。硝子がはめられていた枠ごと、あちら側にーーサガルの白い部屋へ動いていく。
完全に、硝子が外れ、あちらとこちらの境界がなくなる。
「ほら、こっちにおいで」
掴んでいた硝子を横にゆっくりとおいて、サガルが四角い窓から手を差し出してくる。
真っ白な手はさっき硝子を素手で外したとは思えないほど華奢だった。
「僕の声、聞こえている?」
急かされ、慌てて窓に手を掴む。
私はおろおろしながら、境界を飛び越えた。
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