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第三章 嫌われた王子様と呪われた乞食
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しおりを挟む妖精が飛び回る。山羊の肉を食う。声がする。眩暈がするような悪夢の光景だった。
「あれは、何なの」
「知ろうとするな」
「どうして?」
「俺達はここから逃げるからだ。あの馬鹿山羊め」
「――馬鹿山羊」
それが、ルコルスという山羊のことを指しているのは分かっている。だが、まだ実感はない。
私はさっきまでこの世界のカルディアに、意識を乗っ取られていたのだと思う。というか、元に戻ったというべきか。
それなのに、また意識が戻ってきた。何故か。
あの山羊に顔を踏み潰された時、死ぬと思った。その恐怖だけは、しっかりと胸にある。
一度、死んだ?
あるいは、死んだとこちら側のカルディアが思ってしまった?
だから、意識が切り替わったのか。私が戻ってきてしまったのか。
どこかにこの体の意識の痕跡がないかと心を集中させる。だが、どうやっても、元々あった意識は見つからない。そればかりか胸にぽっかりと穴が空いたような気分だった。
そのくせ、記憶だけはあるのだ。彼女がカリオストロとここまでどうやって来たのか。
――クロードが死んだことだって。
あたりを見渡す。クロードの死体に群がろうとしていた妖精達を追い払う。虫のような不気味なそれはケタケタと笑いながら飛び去っていく。ころりと床に転がったクロードの頬が汚れていた。袖で汚れを拭うと、少しだけマシになった。ゆっくりと体を抱える。
さっきよりもずっと体が重く、そして硬くなっているようだ。
「そいつも連れて行くつもりか」
「悪い?」
「――なんだ、さっきよりも生意気になったな?」
顔を背ける。生意気なんて、こんな男に言われたくない。
私はこいつが、クロードを助けなかったことを知っている。口ぶりから何百年も生きている……のだろうが、貧民だと蔑み、クロードを見殺しにしたことには変わりない。
「お前の手など、やはり借りるべきじゃなかった。体はボロボロで、死にかけているのよ。あちこち、痛む。深く息をしようとすると、変な音がするわ。……お前とあの大山羊は知り合いなのでしょう? なのに、私を殺そうとしたのを止めなかった。守る守るとよくも甘言を吐けたもの。偽りを囀る口を、今すぐ閉じさせてやりたいぐらいなのに」
苛烈に言い返すと、カリオストロは目を丸くした。
言い返されると思っていなかったのか、この男。
ぎろりと睨みつけた。痛みがだんだんと感じなくなっている。興奮して声を出しているからかもしれない。
「お前、今、俺を誘惑したのか?」
「はあ?! 何を馬鹿なことを言っているの? 顔にひびが入ったものなんて誰が!」
いいながら、ふと、疑問が浮かんだ。
そもそも、このカリオストロとは一体何者なんだ?
大山羊は分かりやすかった。生き物として、見たことがあるからだ。それが人間と名乗り、言葉を操る。あり得ないことだが、異分子として分かりやすい。
だが、この男は?
首が取れても生きており、こうやって顔にひびが入る。けれど、姿形はほとんど人だ。背中に羽根が生えていることを除けば。
だが、生き物ではない、とは思う。腹を鼠に食い破られてもどこ吹く風だった。
術師であるということを差し引いても、とてもじゃないが人ではない。人間はもっと、脆いものだ。外見を取り繕った人形のような存在。
人形を思い浮かべると、オクタヴィスのことを思い出す。カリオストロに殺されたあいつは、人形師と呼ばれていた。童話に人形を扱うから、そう言われていたのだろうか。いや、あれで人を殺したことがあるのだと言っていた。醜く歪んだ顔を思い出して、眉を顰める。引き攣れを起こしたようなあの顔を。
「ひび?」
初めて気がついたと言わんばかりに、カリオストロが顔に触れる。そのとき、ちらりと首筋に黒子が三つ並んでいるのが見えた。あれ? と疑念が浮かぶ。何かがおかしい。何かが。
そもそも、どうしてカリオストロという名前は私の世界では本だった?
『カリオストロ』という禁書。禁書目録に記された、涜神的な内容の書物。トヴァイスだって言っていた、消して見てはならないし開いてもいけないと。
けれど、開けば人を恐ろしい姿に変化させるものだった。私の髪に花が現れて、ノアの体は蛇のようになった。トヴァイス・イーストンは獣の耳と尻尾が生えた。
この男もその力を持っていた。私の頭を花に変えて、トーマの姿を変化させていた。これは偶然ではないはずだ。同じ能力を持つ、本と人。同じ名前。
「本当だ、割れているな」
そういって、カリオストロは顔を手で隠した。小さく唇が動き、淡い光が広がる。手を降ろすと、その顔には傷一つなかった。つるりとした肌は、血の気が引いたように白い。
……そういえば。
サンジェルマンも、顔に三つの黒子がなかっただろうか。
心臓がわずかに跳ねた。けれど、なぜ?
「流石、ルコルスだな。最期に一矢報いられたか」
「報いた?」
「ルコルスはさっき俺が殺したからな。お前を殺そうとしたから、殺した」
「は?」
何を、言っているんだ。
シャンデリアの上にいる化物に群がる山羊の群れのなかに、確かに大山羊の姿はなかった。部屋の隅から隅まで、視線を巡らせる。けれど、あの大きな姿はない。
私は、不意に思い出す。さっき起き上がった時、顔全体を覆っていた液体のことを。
口の奥から、血の味がしたのは……。てっきり、鼻を何度も踏み潰されたからだと思っていた。だが、違ったとしたら?
思い切って、床を見た。血溜りがあった。
吐き気をこらえながら、血溜りに浮かぶボロボロになった服を見下ろす。あのルコルスという山羊が着ていたものだ。
「――全部、カルディアのせいだ。お前は、俺が知っているカルディアなんだろう?」
「お前が知っている、カルディア? そんなもの、ここにはいないわ」
「まだ、誤魔化すの。ルコルスに会ったことがある風に振舞っていたのに? あの山羊が、突然攻撃的になった理由が分からない? お前が、憎くて、憎くて、たまらなくなったからだ」
「知らない!」
首を何度も振る。あの山羊は夢に出てきた。それだけ。それだけのはずだ。
そもそもあの記憶は私のものであって、この世界のカルディアのものではなかった。だいたい、私のその夢の記憶が、現像を持つなんて、おかしいのだ。だって、山羊が人間の言葉を話すなんて、こんな状況じゃなければ信じられるはずがない。
「黙れ」
殺意がこもった眼差しを向けられ、唇が動かなくなる。
いつだって、殺してやって構わないと、その瞳は訴えていた。
「なあカルディア。俺だってもう精一杯なんだ。友の死を何度見ればいい? お前に怯えられ、軽蔑の視線を向けられなくちゃいけない? 貧民を殺して何が悪いんだ。救ってやることだって、無理だろ。ここは、地獄のような有様だ。心を配っていたら、お前を守れない。――俺は助けてやってるのに、どうして感謝すらされない?」
ぐいっと引き摺るように、腕を掴まれる。
ぽきりと肩から音が鳴った。激痛が走りうずくまろうとした私を、カリオストロは冷ややかに見遣り指を鳴らす。
体が宙に浮いた。腕を掴まれたまま、ゆっくりと扉への運ばれた。
「下ろして」
「嫌だ。腕が折れているぐらいでちょうど良さそうだな。また、逃げられずに済みそうだし」
「なっ……」
みしみしと掴まれた腕に力を込められる。明らかに私を黙らせようとしていた。痛みに呻いて目を閉じる。涙が溢れそうだった。
――再び、目を見開くと、カリオストロは扉を開いていた。
ひ、と声がこぼれた。
山羊の双子の頭が、宙に浮いている。
虚な瞳には珠のような涙が浮かんでいた。
けらけらと笑い声がした。大きな目玉が、ぎょろりと私達を見た。それは透明な硝子のように透き通った存在だった。体には触手が何本も生え、ぐにゃぐにゃと折れ曲がる。大きな黒々とした大きな瞳はぬめりを帯びていた。
「逃げろ!」
どこに。
問答をする暇はなかった。それはまずカリオストロを丸呑みにした。ぐにゃりぐにゃりと肉肉しい音を響かせる。吐き出された彼の血を浴びる。カリオストロが食べられた瞬間から、術が解けて、床に惨めに倒れ伏す。
この、化物は。
――まさか、魔獣、なのか?
答え合わせは出来なかった。触手が伸びて、口が広がりーー。
「開けないで!」
扉を開こうとしたカリオストロに声を飛ばす。
何だ、今のは。今の感覚は。
脂汗が滴り落ちる。殺された。
丸呑みにされた。
腕の痛みは今は気にならない。そんなことより。
「外に何かいるわ」
「何か?」
カリオストロは半開きになって扉の外へと視線を向けた。私は手を伸ばして、扉を閉めようとした、が。
――目玉が、見えた。ぎょろりとした黒目が頭ほどありそうな大きさだった。
「閉めて!」
遅かった。扉をこじ開けるように触手が飛び出てきた。カリオストロが指を鳴らして燃やそうとするが、火の手は上がるのに燃え上がらない。
「っ……!」
這い出てきたのは、大きな触手をいくつも持つ、化け物だった。体内は透けており、山羊の二つの頭が並んでいる。彼らは半開きになった瞳で虚空を見上げていた。食べられたのだと、気がついた時にはぎょろりと死んだはずの四つの眼は床に広がる、血溜まりを見つめていた。
殺したな。
口が、動いた。声が聞こえた。
「――チッ、魔獣か!」
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