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第三章 嫌われた王子様と呪われた乞食
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しおりを挟む何もかも馬鹿らしいというように椅子を引っ張り、ザルゴ公爵は腰掛けた。懐をさぐり、葉巻を取り出すと先端を切ってマッチで火をつける。
紫煙が蛇のように管を巻く。
「それとも何か。お前はこう言いたいのか? お前は俺達の知る歴の外から来た存在だと」
混乱しているのは私の方だ。なぜ、不満げに責められなくてはならないのか。
どういうことだ? この世界は、背の皮の記述を大神が書き換えた世界なのではなかったのか。
てっきりこのザルゴ公爵も、私と同じだと思っていた。なにせ仕掛けた側だ。
何もかもを承知だとばかり思っていたのに。
ザルゴ公爵は何も知らないのか?
ザルゴ公爵は女神よりも自分の方が上手くいくと思っていたとこぼしていた。書き写された背の皮の記述では過去の復元は不可能だと、彼は言っていた。
だが、そもそも、背の皮の記述自体を書き直すことが可能なはずだ。だからこそ私はここにいる。
この男は女神が書き写したと言った。だが、それは不可解だ。神であるのならば、元々ある記述を書き直す方が容易だろう。
自分の伴侶候補が死んだのならば、死なないように書き換えればいい。
発狂したと言っていたから最初は女神が慌てただけだと思ったが、違うとしたら?
背の皮の記述を書き換えることはかなわないとザルゴ公爵自身は思っているのでは。
つまり、起こった過去は変えられない。過ぎ去った今日は戻ってはこない。
……ザルゴ公爵の主観では何も変わらなかった、ということでは?
そもそも、ザルゴ公爵は、書き写しただけでは過去に戻らないと実感していたはずだ。過去は書き写したものはたとえ近似値であったとしても、歴史をなぞるようであったとしても、欲していた過去じゃない。
ザルゴ公爵は人を探している。名前も覚えていない女性を。だが、彼女は蘇らない。過去に戻れないからだ。
彼は背の皮の記述通りに進む世界の人間だ。私もそうだったが、私はなぜか記憶を持ったままこの世界にきた。私の主観では、世界はがらりと変わってしまった。
見知らぬ人に、死んでしまった人。関係性が変わってしまった人。私だけ認識している記憶の歪み。
――これはどういうことなのだろう?
私とザルゴ公爵。知っている情報はほぼ同じだろうに、何かが決定的に違う。私は違う世界を知っていて、彼は知らない?
「私が狂っていないのならば」
「狂人らしいがな。格好が格好だ。――そのようなもしもがあるとするならば、俺は大神に謀られていたということになる」
「お前と大神は、話したことがあるの?」
「俺は背の皮でもある。大神の眷属のようなものだ。意志は、何も言わずとも伝わる……のだが。実際のところ話したことはない。大神は寡黙で、秘密主義だ。背の皮の記述を書き換えた時とて、言葉を交わさなかった」
紫煙が広がる。煙の臭いがきつかった。肺の中が煙で満たされるような感覚がした。
「元の世界、か」
「妄想だと思っている?」
「そうだな。……だが、そういうこともあるのかもしれない。所詮、俺は大神ではない。同じ権能を有してるわけでもない」
疲れたように、目蓋を閉じて、ザルゴ公爵は煙を吐きだした。
「人形師を殺すのか」
「元の世界に戻すことが出来るのならば」
声は震えていた。本当にこれが正解なのだろうか、と思う。
ここにきても、何の覚悟も決まっていないのだ。
「人形師の首を落とせば、この世界から目玉は消えるだろう。そうすれば、ヴァニタスも死に神も地上に戻り、世界は洛陽を迎える」
「お前は止めるの」
「どうしようか、と考えていたところだ。結局この世界は終わる。俺達の計画は最初から破綻していた。今更、どこにも行けない。幸せな終わりなど、ない」
唾を飲み込む。
「背の皮を、お前に戻したい」
どうしてか、そうしたいと思った。そうしなくてはならないと、思った。
「そんなことをしても意味はない。この体は人形だ。背の皮の役割を抜け出すために体を変えた。もう、背の皮は俺の背中には戻らないだろう。……元々、大神が背の皮の記述を書き変えずとも、死んだ人間を甦らせるつもりだった。人形師は、その実験に俺を使った。もう、すでに俺だった男の体は腐っている。俺という背の皮は本当に死んでいる」
「え」
義手ではなかったのか。もう、体ごと、人形になり果てた?
それではいけない。焦りが走る。背の皮は今、ただの本になっている。背の皮は生き物を介することで、世界を変えるのではなかったか。
ニコラ達がどうにかしてくれるのか?
――もしどうにかできるのならば、もうすでに世界は元に戻っているのではないか。
「何だ、お前もつんでいるのか? ならば、ここで世界の終わりを気長に待つことにするか」
「お前と一緒にしないで」
「では、殺すか。人形師を。案外簡単だぞ。抵抗もない」
そう言って、ザルゴ公爵はリストをちらりと見た。
「剣を借りては?」
「……」
思い出すのは、死に神の眷属だったイヴァンのことだ。あいつのことも、私が殺した。ギロチンの刃が重く支えきれなかったからだ。手を離してしまった。
今度は、自分の手で人形師を殺すのか。
……もう、ここまで来たのだから、そうするべきだ。
目を瞑りながら息を吐きだす。
私が、やるんだ。
「リスト」
リストを振り返り、剣を見つめる。
彼は、服で剣を隠した。
「お前が剣を持つぐらいならば俺が殺してやる」
「……お前に、これ以上人を殺させたくない」
「今更だ。そもそも、言っただろう。軍人とは人殺しと何も変わらない」
「お前には、関係のないことよ。これは私のせいなのだから、私がやるべきなの」
「お前のせいで世界が終わると? そもそも、誰からそんなホラ話を聞かされた。お前がおかしいのは知っていたが、誰かの夢物語を鵜呑みにするな。世界がどうのと、俺にはよく分からなかったが、お前が騙されていることだけはわかる」
「騙されているわけじゃない! 私は確かに、別の世界から来たの。記憶がないと言ったのも、元の世界の記憶との齟齬を誤魔化すためだった。本当は、きちんと記憶はあったの。この世界のものではなかったけれど」
やっと、言えた。
リストに、本当のことを言えた。
「お前のことを騙していたのよ」
「なるほど。記憶が戻ったというのは? お前が別の世界の住人であったというのならば、こちらのお前が俺とお前のやり取りを知っていたのはおかしいだろう」
「それは……。信じられないとは思うけれど、こちらの私と記憶が混ざったというか」
自分でも言っていて分かる。こんなの、嘘っぽい。
「意味が分からない。……本気で自分でそうだと思い込んでいるのならば救えない」
「り、理解なんて、求めていないわ」
それと言って剣を指差す。
リストが私の代わりになる必要はない。
……私はもう、はやくこんな世界を元に戻したいのだ。何もかも、はやくなかったことにしてしまいたい。
「私が人形師を殺すの」
はあとリストはため息をついた。長く、重い、黒く澱んだ音だった。
剣を鞘から取り出すと、彼はゆっくり人形師の首筋にあてた。
止める暇もなかった。
リストは剣を振り下ろし、首を刎ねた。
首がころりと転がる。本の上に。頬がページについた瞬間、血で顔の半分が真っ赤に染まった。
見開かれた瞳が、ゆっくりと閉じていく。
「り、リスト!」
「おい、ザルゴ公爵。どうして俺はエヴァ・ロレンソンと呼ばれた?」
「……人の首を刎ねておいて、その質問とは恐れ入る」
「人形の首を刎ねたところで罪悪感はかけらもないものでな。それよりも、だ。エヴァ・ロレンソンという男と俺に何の関わりがある」
「顔がそっくりだ。数百年前のエヴァ・ロレンソンという男に」
「それだけか。人違いで絡んできたと?」
「純粋な人違いというわけではない」
床が震えた。地震だと思ったが、違った。
遠くから、うおぉん、うおぉんと音がした。
ヴァニタスの鳴き声だ。声で、この建物を揺らしてみせた。
化物が近付いてきているのだ。
「まあ運命の悪戯で、俺の名前を名乗っているんだ。その人生、有益なものにしろ」
「誰が俺の名前だ。リストというのは俺の名前に他ならない」
「間違えるな。名にこそ意味がある。特に背の皮の記述にとってはな。お前自身がどうであろうと、リストという人間がいることにこそ、意味がある。そこにある、ということこそ、整合性がとれる」
「どういう意味だ?」
答えを聞く暇はなかった。
再び地面が揺れた。今度は鳴き声がない。
本物の地震だ。天井が崩れ落ちていく。ザルゴ公爵は、瓦礫に押し潰された。とっさにリストが私の頭を抱えてうずくまる。
人形師の頭から血が泉のように湧き出て、やがてそれが文字となった。地面に黒々とした文字が流れ出してきた。
文字が体へまとわりついてくる。意識が飛びそうになった。
体が痺れた。
リスト、リスト。リスト!
名前を呼んだはずなのに、声が出ない。
リストの腕が私をがっちり抱き止めている。それだけが頼りだった。
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