魔術師のご主人様

夏目

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恋敵の夢

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「どうして、リジナはマリオと結婚しちゃうんですか!」

 ファン家の屋敷で、酒を浴びるほど呑み、赤ら顔をしている人間がいる。
 彼の周りは、下戸が近寄ればたちまち倒れこむような酒気に満ちていた。
 ムムは客人である彼の隣に腰掛けて、宥める役に努めていた。
 弟と義妹となった少女の結婚式が今日、執り行われた。盛大な披露式には、国中の貴族が集まり、寿ぎの言葉を述べに民達がこぞってやってきた。
 新婚の二人は、新居で、初夜を迎えているはずだ。
 ファン家の屋敷では、親しい貴族や親戚が集まり、宴を開いていた。一族の繁栄を願い、夜通し行われるのだ。
 彼を誘ったのは、結婚式で血縁者から射殺さんばかりに殺気立った視線を向けていたからだ。
 なんだかんだといって、マリオの容態を心配してくれていただけに、放っておくのは忍びない。
 社交界には度々顔を出すし、交友関係は軽んじていないだろう。繋ぎをつくってはどうかとさりげなく誘った。
 彼も最初は社交にこうじていたのだが、老獪な貴族達に酒を無理矢理飲ませられ、潰れてしまった。
 おかげで、今では完全な酔っ払いだ。本音が漏れて、横恋慕している男の顔が現れてしまっている。

「僕、そんなに顔が整っていない? マリオより、優雅で凛々しいと思うのだけど」
「いや、マリオの方が、優雅で凛々しいが」

 赤らんだ顔が、苛だたしげに横を向く。
 しまった、家族愛が溢れてしまった。
 苦笑を噛み殺し、慌てて取り繕う。

「ファウストの顔も整っていると思うよ」

 名を呼ばれたファウストは、頬を膨らませ、ますますそっぽを向いた。
 ここにセドがいたら、殺されていたなと、ムムは思った。
 セドはファウストの命令を忠実に守り、屋敷で帰りを待っているらしい。
 おそらく、最初から、今日は自棄酒をする気だったのだろう。だから、セドを連れていない。


「リジナに一番と言われなければ、意味がない」
「……リジナ嬢は、たとえファウスト以外の男が不細工になる呪いにかかってもマリオが一番だ、というと思うけれど」

 恋はなんとやらだ。見ているこちらが恥ずかしくなるぐらいに仲睦まじい。
 マリオは確実に父親の血を受け継いでいる。死ぬまで恥ずかしいほどの仲の良い夫婦だろう。
 献身的に看病していた彼女が二心を抱く姿が想像できない。

「知ってますよ。知っているからなお、憎々しい」
「業が深いな。なにも、マリオのものに手を出さなくとも」
「……だって、初恋だ。僕には、どうしようもない」

 ファウストは荒々しく杯を一気に飲み干した。
 彼がリジナと出会ったとき、すでにマリオに心を奪われていたはずだ。
 リジナは、こういってはなんだが、絶世の美女というわけではない。魔術師達の華やかな美貌に比べると、やはり見劣りする。ファウストは良き男だ。見目も麗しく、賢い。群がる女の数は片手で足りぬだろう。
 ファウストが何が何でも手に入れたいと思うような美貌の女ではないはずだ。

「リジナは、一途だ。あんな女、僕は見たことがない」

 ぽろりとこぼされた言葉に苦笑してしまう。
 ファウストは、リジナの一途さが好きなのだろうか。そうだとしたら、不毛だ。マリオからファウストに乗り換えた時点で、彼女の美点はなくなってしまう。
 他者を思っているから、奪いたいのか。略奪目的の愛など、上手くいくものか。
 だが、ファウストの表情を見て、考えを改める。ファウストは本当に、リジナのような健気な一途さを持つ女の存在を見たことがないと言いたげなのだ。

 そういえば、ミオール家当主は、艶福家で、愛人の数は天の星より多いときく。
 妻は嫉妬に狂い、男を漁り、愛人を本邸に何人も連れ込んでいる。毎日が乱淫の宴で、甘ったるい男女の性の匂いが満ちているらしい。

 淫乱の血が受け継がれたのか、長男や長女も人間と見れば、猫のように盛り、交わる。動物と交わることも平気で行うともっぱらの噂だ。
 次男は、ムムの天敵で、策謀を巡らすことでしか愉悦を感じぬ人格破綻者。ファウストの一歳下の弟は芸術家気取りのろくでなし。
 そんな家だからか、ムムのなかでミオール家に対する評価は最悪だ。
 そもそも、家族を軽んじる者達をムムは軽蔑している。ムムはファン家が好きだった。自分の一族に誇りがない人間は、平民よりも劣ると考えているぐらいだ。

 ーーそう考えると、可哀想な子だ。

 長男や長女が、彼を襲うことがあったのだろうか。次男には、絶対に刺客を向けられたことがあるだろう。一つ下の弟は、ファウストがセドに選ばれたのが妬ましく、社交に出るたびに彼の批判を繰り返すという。
 ファウストが、弟のために社交界に赴いて、便宜を図っているとも知らずに。

 心根の優しい男だ。貴族にはむいていない。
 長男や長女のような逸楽に浸る淫らさもなければ、次男のように策謀を巡らせるのも好まない。
 セドに選ばれていなければ、腐った木に生えた実のように、じわじわと精神を蝕まれただろう。
 それを考えると、セドは慧眼だ。ファウストを救い出した。
 だが、セドは所詮、魔術師だ。
 ファウストの救世主ではない。
 カシスや双子がそうであるように、セドもまた、ファウストを独占したいだけだ。
 いっそ、ミオール家とも魔術師とも縁を切り、誰も知らない農地で、余生を過ごしたいのではないだろうか。
 マリオとは全く違う性格の男だ。魔術師の主人になったことをじくじくと悩み抜いているのではないか。

「僕のこと、何番目に好きだろう。せめて、五本の指に入って欲しい」
「……女々しい」
「ムムはこれから、何人と女を見つけられるでしょうが、僕はきっとリジナだけですよ。しかも、魔術師の主のコミュニティは狭い。どこに行っても、二人の仲睦まじさを見せつけられる。地獄だ」

 顔に浮かぶのは諦観だ。
 ムムは、口には出さないが、ファウストの心の声が聞こえた気がした。

 ーーファウストは、想い人を一人と決めているのだ。

 たとえそれが叶わぬ恋だとしても、心に存在するのはたった一人。
 両親と兄姉の影響だろうか。心を裏切り、不実な関係を望むぐらいならば、一人にしか愛を注がないつもりなのだろう。
 不器用で、子供のような愛の示し方だ。

「まあ、いいんですけどね。来世、リジナが来世を約束してくれましたし」
「ファウストって、熱心な信者ではなかったか」

 国王が私怨から法皇を嫌ったように、この国で本当の信仰を抱いているものは少ない。しかし、ファウストは別だ。彼は土日は必ず教会に赴き、説法を熱心に聞くし、寄付金の額とて凄まじい。顔を隠して慈善事業に参加することも多い。
 ファウストは敬虔に祈りを捧げる。
 そんな彼が、来世という言葉を口にするのは驚嘆に値するものだ。国教では、来世の概念はない。神は二回もやり直しの機会を与えない。
 来世は熱心な信徒である彼が、忌み嫌う蛮族どもの宗教観だ。毛嫌いしていたはずの異教の教典を信じるのか。

「ええ、もちろん。だが、リジナが、僕に約束をくれた。はじめて」

 ファウストは神に祈るように陶然と天井を見上げた。

「僕は今世では幸せになれない。忌々しい魔術師に囲われ、最期まで付き纏われる。祈りを捧げても、神は僕に報いない。来世も下さりはしない。甘い幻想すら、罪であると否定される」

 ならば捨てると、ファウストは夢を見るように遠くを見つめた。

「僕は、尽くす男ですから」
「……重い」
「はい。リジナへの愛はどちらが重いかな」

 どちらがと比べる相手は一人しかいない。
 ファウストは、眠たくなってきたのか、瞼を閉じた。すべすべとした机の表面に肌を張り付け、へにゃりと笑った。
 ファウストは、ひどく儚いものであるようだった。夏の日に突然降った雪のように淡く消えてしまいそうだ。

「希望がないと、今にでも死んでしまいそう。僕はね、ムム、この世に産まれてきて、本当によかった。リジナと会えた」

 こくりこくりと体を揺らし、ファウストは夢へと堕ちていった。ムムはファウストの頭を撫でた。
 セドが整えているのだろう。さらさらとした髪。魔術師の寵愛が、一房掴んだだけでもわかる。

「マリオが許すわけないのになあ」

 弟の性格をムムは正確に認識していた。
 たとえ来世があったとしてもマリオがリジナを渡すをわけがない。
 ファウストが一途に想っているように、マリオもまたリジナを一途に想っているのだ。

「マリオは怖いぞ。ファウストは、セドにリジナが欲しいとは言わなかった」

 命令を下せば、セドは嫌々ながらリジナの精神を傀儡にして、ファウストに与えただろう。それをしなかったのは、ファウストが心優しいからだ。
 だが、マリオは違う。自分のものにするならばどんな困難も、犠牲も目を瞑る。最後に自分の思い通りになるのならば、冷徹な判断を下せる。
 ファウストはこれから、リジナと会う機会が減っていくだろう。緩やかに時間のなかで徐々に。気がついた時には、もうリジナと会う方法さえなくなっている。
 その時も、ファウストは来世があるからと曖昧な未来に希望を持つのだろうか。

「リジナ嬢も、酷い人だ」

 ムムの目には、ファウストが殉教者のように清貧な者に思えて仕方がなかった。
 だが、手を貸すつもりはない。

 ムムはファウストよりも、マリオの方が大切だ。
 幼い頃、秘密裏に連れていかれた魔術師達の寮で、鳥魔術師に気に入られ、声を奪われた可愛い弟。
 一族はマリオが魔術師に選ばれた。これで我が血族は安泰だと親族達は喜んだ。そして、声なき悲鳴を上げるマリオの肖像画を何人もの画家に描かせた。
 繁栄の象徴として、その肖像画は一族のあらゆるところに飾られた。それはマリオの心を踏み躙る行為に等しかった。声が出せないという苦痛を誰も顧みることはなかった。それは、ムムもだった。
 気がつけば、マリオの心はファン家から遠のいていた。ムムにも心を開かず、熱心に魔術書を読み漁り、自力で声を取り戻そうとしていた。
 だが、声は魔術師に返してもらう他ない。その事実を知ったマリオはひどく憔悴していた。

 そんな時、出会ったのがリジナだ。
 一族は自分の不幸を喜び、声を奪った魔術師に声を返してと懇願せねばならないと知ってしまったマリオが、無邪気に慕ってくるリジナにどれほど心を救われたか。

 ムムは、家族であるマリオを守ってやることが出来なかった。今ではファン家のなかでも発言権を増している父も、当時は一族にいいように利用されていた。誰一人として、マリオに心の安らぎを与えることが出来なかった。ただ一人、リジナを除いて。
 マリオからリジナを奪うことは出来ない。マリオの幸せにはリジナが必要だ。

 ムムは、ファウストの髪を優しく梳いた。
 可愛い弟から、幸せを奪うことは出来ない。マリオかファウストか、どちらかしか幸せになれないのだと言われたら、ムムは迷わずマリオの幸せを願う。だが、ムムはファウストに不幸せになって欲しいわけではない。

 ーーせめて、夢でぐらい、救いがありますように。
 ムムはそう願わずにはいられなかった。






 べろんべろんに酔った頭が、夢を見た。
 自分は、農民だった。
 硬い土を耕していた。手はひび割れたように荒れ、汚れている。土を踏みしめる足も、至る所に傷が走り筋肉質で、大きい。この地に、神の恩寵はなく、実りの雨も降り注がぬ。毎日、不毛な大地に鍬を入れ、豊穣を夢見て、種を蒔く。
 疲れたと家に帰ると、誰かが優しげに微笑みかけてくれた。

「お帰りなさい」

 優しい言葉だった。
 お帰りなさい。なんて、素敵な言葉だろうか。
 すんと鼻を鳴らす。シチューのいい香りがする。ぐうと腹の音が鳴った。彼女に聞かれていたのかと思うと面映い。

「もう、食べる?」

 素直に頷くと、幸せそうに彼女が笑った。
 ファウストはつられるように、彼女に対して笑ってみせた。
 とても、いい夢だ。
 ファウストは沈むように夢の世界へ落ちていった。

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