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夏目

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act.5

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 ジュディの部屋の中に入ると、カドックが鍵を閉めた。
 どきりと心臓が跳ねる。ソファーに腰を落ち着かせながら、カドックの一挙一動に注視した。
 カドックは膝掛けを持ってきて、ジュディの膝に乗せた。そして汗をかいた額をぐりぐりと手のひらで撫でる。

「お嬢、そんなに見られると困るんですけど」
「ん。ごめんなさい。まだ、頭がついていかなくて……」

 本当に頭がぼんやりとしていた。何も考えなくていいと誰かに言われるのを期待する酩酊感があった。

「まあ、そうですよね。旦那様達は強引過ぎます。婚約を解消する、だなんてこちらだけで決めていいことではありませんし」

 すうっとそのまま指が頬をなぞる。
 くすぐったい感触に目を細めつつ口を開く。

「そうよね。ノーシャーク家の皆様に、不誠実だもの」
「ノーシャーク家に打診もせず言われた放言でしょうし、あまり気にされない方がいいですよ」

 うんうんと頷く。父達は本気ではないかもしれない。

 ――でも、それだけでマーシャル兄様のことまで話し合うかしら。

 ジュディを女主人に据えると言っていた二人の気持ちが分からない。マーシャルより、ジュディの方が領主に向いているなど欠片も思っていないはずだ。

「シャーク兄様はマーシャル兄様のことが嫌いだから、私に跡目を継がせたいのかな」
「それもあるでしょうね。お二人は生まれた時から反目していましたから。今更、手に手を取ってというのは無理がある」

 血が繋がった実の兄弟なのに。
 和解の道はないのだろうか。ジュディには思い浮かばないけれど、カドックならば。縋るようにカドックを見上げると、彼は諦めろというように首を振った。

「こればかりは時間が解決するとしか言えません。お二人に入った亀裂は一朝一夕のものじゃありませんからね」
「でも、時間に任せていたら、取り返しのつかないことになりそう」

 実際、マーシャルを他家に養子に出そうと言う話まで持ち上がっていたのだ。
 シャークは相当マーシャルを恨みに思って、排除したいと思っているのではないだろうか。

「どうしたらいいんだろう、カドック。私に何か出来ることはないのかな」
「……お嬢には難しいと思います」

 カドックは私を真剣な顔をして覗き込んだ。

「お嬢は女で、この家のことは男が決めます」
「そう、だね」

 そうだということは知っている。何を思い上がっていたのだろう。
 カインとアベルとの婚約だって父が決めたことだ。
 今更、無力感に襲われるなんておかしい。カドックは気の毒そうな顔をした。

「……そんな顔しないで。その方がいいの。だって、自分で決めるのは難しい。間違ってしまったら取り返しがつかないもの。間違うぐらいならば父様に決めてもらった方がいい」
「……そうですね。お家のことに、お嬢は首を突っ込まない方がいい。変に意見を出してシャーク様の機嫌を損ねるのも問題です」

 頭では分かっていても納得は出来なかった。家族のことなのに、無関心でいろというのか。家族間の情は希薄だ。
 両親も政略結婚だし、幼い頃にシャークとマーシャルを家から出したので、親子の関係もあってないようなもの。
 ジュディに対しても、扱いはぞんざいだ。いずれ嫁ぐからと一線を引かれている。
 それでも、と期待している自分がいることにジュディは気が付いている。家族が仲良く晩餐を囲む夢を見ている。

「それとなく、俺が旦那様に意見しておきます。こういうのは正面きって言うよりも絡め手の方がいいんですよ!」
「無理はしないで。父様が一目置いているのは知ってるけど、生意気だと言われないとも限らないし」
「大丈夫ですって。いざとなったらお酒飲ませてご機嫌取りをしますから」
「父様とお酒を?」
「まあ、嗜む程度ですけどね」

 少しだけ妬心が顔を出す。どうして、ジュディではなく、父とばかり楽しそうなことをするのか。
 ジュディはたまらなく喉の奥が渇いて、酒を飲みたくなった。アルコールのつんとした臭いを嗅ぎたい。
 あまり嗜む方ではないが、弱いわけではない。
 幼い頃から、ならして来ているので悪い酔いもしない。
 父と兄の会話に心底疲れた。少しは息抜きをしてもいいはずだ。

「カドックだけ、狡い。貯蔵庫から当たり年のワインを取って来て!」
「お嬢、まだ昼ですよ」
「今日は社交界に行く用事もないからいいの。ワンピースを買いに行く気分でもなくなってしまったし……」

 カドックは頑なに飲ませたくなかったようだったが、やがて諦めたのかそろそろと立ち上がり、部屋の日陰に置かれた机の中を探り始めた。
 体を起こしたとき、彼の手には一つの瓶があった。中は薄黄色の液体のようだ。

「なあに、それ」
「いやあ、実はこっちに来るときに親父に渡されたものなんですけど、使用人室に置いてたら飲まれそうで」
「カドックの部屋があるのに?」

 カドックは使用人の一人だが、領地一の豪農の息子でもある。他の使用人達とは扱いが違う。だから、個人の部屋も持っている。馬車だって、自由に使っていい。
 他の使用人に飲まれたくないならば、自室で管理すればいいのに。

「お嬢は分かってないなあ。俺の部屋を掃除するのは同僚の侍女ですよ? 掃除するときに見つかって飲まれてた経験があるんです。その点、お嬢の部屋はいい。隠し所がいっぱいあるし、掃除も乳母がやるでしょう?」
「勝手に人の部屋を隠し場所にしないでよ、もう」

 口振りからして、何度も勝手にカドックのお酒の隠し場所になったのではないだろうか。
 頬を膨らませながら訴えると軽く頭を下げられる。

「すいませんって。お詫びに一口どうぞ」
「一口だけで済ませる気?」
「ご無礼を。全て飲み干してもらって構いませんよ。でも、一滴ぐらいは残しておいて下さい」

 カドックが素早くソムリエナイフを取り出して、コルクをぽんとあけてしまう。水が入っていたグラスを空にして、そこに注いでみると芳醇な香りが漂ってきた。白ワインだ。赤ワインより、淡い香りがする。
 味わうように一口、含み、舌で堪能する。

「美味しい……」
「それはよかった。親父からはいいワインだと言われて居たんですが、なかなか飲む機会がなくて」
「カドックも飲んで。美味しいから」
「じゃあ、お言葉に甘えて」

 カドックはジュディの手からグラスを盗むと、そのまま口に運んだ。
 心臓が変な音を立てる。
 だって、カドックが飲んだ場所にさっきまでジュディが口をつけていたのだ。
 髪を耳にかけると、何度も顔の上に落ちてくる。それを忙しなく耳の後ろに戻しながら冷静を装う。
 カドックはジュディの気持ちなどお構いなしに楽しそうに酒を味わっていた。
 一人でどきまぎしているのが馬鹿みたいだ。

 ――ワンピースのことを考えよう。その方が気が紛れる。

「あれ、お嬢」

 一人でぐびぐひと八つ当たり気味に注いで呑んでいたら、カドックが急に真剣な表情が見つめてきた。
 視線の中心にあるのは、ジュディの唇だ。
 熱がぶり返し、顔がかっかと赤く、熱を帯びる。
 どうして唇を見つめるのだろう。自分の唇が、ぽってりとした肉感的なものに変化してしまったのではないかという錯覚に陥る。
 カドックの指が唇にあたる。顔が寄せられて、芳醇なお酒の香りを吹きかけられる。

「な、なに」
「お嬢の唇の色が綺麗な気がして。口紅をつけています?」

 会話に集中出来ない。カドックはどうしてそんなことを聞くのだろうか。

「つけてなんか…っん……!」

 生温かい何かが、唇にあたった。舌が歯を割って入り込んでくる。
 頭を抱えられ、じっくりと歯の裏をなぞられた。
 くちゅりくちゅりと淫靡な音が頭の中に響いている。

「あれ、本当だ。でも、なんか凄く甘い」

 目の前にカドックの瞳が見える。焦げた肌がゆっくりと離れていく。

「なっ、なにをしてるの!?」
「何ってお嬢の唇を奪っただけですよ。……気持ち悪かった?」

 咄嗟に唇に指をあてる。
 さっきまでの行為が嘘でなかったことを示すように濡れていた。

「き、気持ち悪くはなかったけど」
「ならいいじゃないっすか。俺はお嬢として気持ちよかった」
「そんな風に言わないで……!」

 羞恥心を煽るような物言いに、顔が熱くなる。
 カドックは婚約者じゃない。幼馴染だが、従者だ。間違っても愛人や恋人ではない。
 それなのに、唇を合わせてしまった。

「私達、恋人じゃないのに」
「……じゃあ、恋人になります?」

 きっとからかっているに違いないと思ったのに、カドックの視線は真剣そのものだった。

「秘密の恋人ってことで。貴族には多いじゃないですか」
「それは結婚したらの話だよ! 結婚する前にそういうのを作ったらふしだらだって言われる……」

 父にも、母にも愛人や恋人がいる。だけど、それは結婚してから初めて許されるものだ。貴族の結婚に恋や愛は必要ない。そんなものは、後から手に入る。

「言われたっていいじゃないですか。だいたい俺だって、こうみえて爵位を貰った家の男なんですよ」
「カドックは家を継がないじゃない」
「……それはそうですが」

 爵位を継いだのは、長兄であるカドックの兄だ。カドックはいずれ独り立ちをして、家庭を持つことになるはず。
 嫌な沈黙が走る。冗談だと笑い飛ばして欲しいのに、カドックは真剣な表情のままジュディを見つめている。

「俺じゃあ、駄目?」

 息をのむ。唾が舌の上に溜まっていく。
 思考が停止して、答えが出せない。カドックは家族だ。恋人ではない。
 けれど、この胸の高鳴りは何なのだろうか。熱くて、燃えているのではと錯覚するような顔の火照りは。
 心臓が疼いている。
 息を詰めると、カドックの顔が近付いて来た。避けられなかった。
 唇を食まれるように合わさった。一瞬のことだったのに、心臓が中から溢れてしまうのではないかと思うほど、ばぐばくと音を立てる。
 待ち望んでいたものだった。オペラ座からの帰りに、星空の下、カドックにして欲しかったもの。
 離れていく顔が寂しくて、服を掴む。
 どうしてこんなことをしているのか分からない。
 けれどジュディはずっとこうなるのを望んでいた気さえしていた。
 カドックが微笑んだ。再び顔が近付いて来る。


 こんこんと扉を誰かが叩いた。
 そっとカドックの視線がジュディから逸らされた。
 詰めていた息を吐き出し、自分が大胆で、不埒なことをしたことに蒼ざめる。
 唇を拭い、何もなかったことを装う。
 こんこんと、しばらくしてまた扉が叩かれた。
 カドックが誰何の声を上げる。だが、答えはなくまたこんこんと叩かれた。

「誰なの?」

 こんこんという音が大きくなる。何度も、何度も、執拗に繰り返される。ドアノブを回す音がする。鍵をかけているから、開かない。
 カチャカチャと何度も音がする。
 怖くなって、ジュディは立ち上がった。手がグラスにあたってワインが溢れてしまう。

「お嬢、大丈夫?」

 手にワインがついた。透明な小さな泡が指先についた。
 カドックの声のあと、音が止んだ。
 しぃんと静まり帰っている。こちらの動きを伺っているのだろうか。
 扉を開けるべきか迷う。
 悩んでいるうちに再び扉を叩くこんこんという音がした。今度は叩く音が優しくて、すぐにメイドが名前を名乗る。
 カドックが鍵を開けるとゆっくり扉がひらく。

「メィリ、さっき何回もノックした?」

 カドックの言葉に、メイドのメィリは不思議そうに首を振る。

「いえ。あの、ノックの回数多かったですか?」
「こんこんって、かなり強く叩かなかった?」
「まさか! あの、不手際がありましたか? 叩き方が雑だったり……?」

 顔を見合わせて、首を傾げる。確かに何度も誰かがノックしたはずだ。

「メィリが来た時、誰かいなかった?」
「いいえ。……あの、お嬢様。お客様がお越しです。お通ししても構いませんか?」
「ええ……。どなた?」

 メィリの後ろからひょっこり顔を出したのは、ロイドだった。

「ごめん、お邪魔だったかな?」

 意外な人物の登場に、ジュディとカドックは困惑しながらも椅子をすすめた。
 ロイドは肩身が狭そうに腰掛けると、へらりと愛想笑いをした。

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