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act.6
しおりを挟む「どうしたの、ロイド」
メィリの出した紅茶を口に含んで一息ついた後、ジュディは尋ねた。ロイドは紅茶を一口飲むと、まずはカドックに視線を向けた。
「この間は失礼な真似をしてしまってごめん……」
「この間? ああ、オペラ座のことですか? そんなの気にしなくてもいいのに」
「僕、帰って反省したんだ。こっちから事情を聞いたのに、気後れしてしまって……」
「……そう思い悩まずとも。ロイド、俺は貴方のこと嫌いじゃないっすよ。むしろ好きな方です。律儀で、誠実ですから。……またお喋りしてくれます?」
ロイドは目を光らせ、頬を高揚させた。
「勿論。僕、嬉しいよ」
「ならばよかった。それで、今日は謝りにこられたんすか?」
「……ううん。それとは別なんだ。ジュディ達に話を聞いて欲しくって」
両手を合わせて、縋るようにロイドは上目遣いに見つめてきた。
「マリアナのことなんだ。二人以外、誰に相談したらいいのか、本当に分からなくて」
「マリアナのこと?」
マリアナとはろくに手紙のやり取りもしていなかった。
カインとアベルが言っていたことを確認するとカドックには言っていた。だが、彼女と本当にこれまでのように付き合ってはいけないだろう。
そうならば、もうここで疎遠になってしまったほうがいいのではないかという怠惰な気持ちがあった。
「あ、あのね。マリアナは、舞台役者のガイと恋仲なのかもしれないんだ」
「え!」
ガイといえば、この間見たオペラの闘牛士役の男だ。
バリトンの歌声は勇ましく、うっとりとしてしまう。ジュディも好きな俳優だった。
恋仲になりたいと思っていたわけではないが、憧れていただけにマリアナと恋仲であるかもしれないという言葉だけで衝撃が走った。
「ガイって誰っすか? 俺、知ってる?」
「あっ、カドックはそういうのにあまり詳しくはない?」
「そうっすね。観劇とか、この間のが初めてみたいなところあるので」
「そうなんだね。この間の舞台にも闘牛士役として参加していたと思うんだけど、覚えているかな?」
「あー、お嬢がいい声だって言ってた役者ですか? そういえば、そんな奴もいたような……?」
カドックはあまり検討がついていないようだった。ジュディは机の中からブロマイド集を取り出し、ガイのブロマイドを見せた。
男らしく顎髭を蓄えた中肉中背の男の肖像画が印刷されていた。ファン向けに劇場が販売しているもので、マリアナと観劇をするようになって熱心に集め始めたものだ。
「こんなの集めてたんですか」
カドックは、ブロマイドを集めていたジュディの方に驚いたようで、ブロマイドの束の方を見て、そわそわしていた。
「カドック、この人。ロイド、それでどうしてマリアナとガイが恋仲だって?」
「僕の父さんの知り合いが、娼婦役の歌姫の大ファンなんだ。僕達の行っていた日にも見に来ていたらしいんだけど、舞台が終わたあと、彼女に花を届けるために楽屋前で待っていたんだって。そこで見たらしいんだ、マリアナを」
「え!?」
当日、マリアナは病気ということで来なかったはずだ。けれど、見に来ていたのか?
「父さんの知り合いがいうにはガイの部屋から出てきたようだったって。髪が乱れていたから、その……」
「行為があったのではないかと言うわけっすか」
声が出せない。婚前交渉なんて。
そう思って、さっきほどの自分の淫らさに鳥肌が立つ。カドックと何をしようとしていたのか。
「それを聞いて、父さんが詳しく調べてみたら、前からガイに言い寄っていたこととか、援助をするから抱いてくれって言っていたこととか、そういうのが分かって。ガイにも直接聞きに行ったんだ。そうしたら、そうですがって開き直られたりして」
ロイドは手の平で顔を覆い隠し、壊れたオルゴール用にぽつり、ぽつりと話はじめた。
「淫売を婚約者にした、間抜けな馬鹿。女を満足、させられない、朴念仁。女の、い、い、陰部も濡らせない脳無し。そう言われて、ぼ、僕、言い返さなくて」
何と答えを返したものか分からなかった。けれど、ロイドが誰にも相談できないと言った理由が分かる気がした。こんな個人的なことを、親には相談したくない。ロイドの自尊心の問題だ。一方的に詰られて帰って来たなど知られては、ロイドだって立つ瀬がないだろう。
「ガイって嫌な奴ですね。お嬢もそんな奴のブロマイド持っていたんすか」
「ロイド、このブロマイドびりびりに破いていいから!」
ロイドはばっと顔を上げると、本当にブロマイドをびりびりに破いてしまった。優しそうな瞳には涙が浮かんでおり、ぽろぽろと零れ落ちてくる。
「僕が不甲斐ないから……? でも、こんなのって酷い。父さんも怒って婚約破棄だって息まいているし」
「えっ!? 破談になるかもしれないの?」
「他の男と密通していたんですから、それぐらいされても文句は言えませんよ」
カドックはジュディに意味深な視線を投げて、ロイドに視線を戻す。
「酷い女っすね。マリアナって人。俺はすっかり、ロイドの味方をしてやりたくなりました」
「ほ、本当に? 僕が悪いって言わない?」
「言うわけない。むしろ、貴方は被害者で、酷いのは間男と不義理を交わしたマリアナの方っすよ? 何を怖気づいているんすか。口汚く罵ったのだって、ただ、そうするしかないって追い詰められただけですよ」
カドックは、するりと猫のようにロイドの隣に移動すると、破り捨てた紙の残りを手から取り上げた。
「不道徳で、世間に指をさされるのはあっちの方っすよ。それなのに、調子に乗って、ロイドを責めるだなんて。懲らしめてやるべきぐらいですよ」
「懲らしめて……」
ロイドの言葉にどろりとした怨念が混じる。
「恥ずかしく、消え入りたくなるような思いをさせてやりましょう。もう二度と、軽はずみなど出来ないように。ロイド、貴方を軽んじることなんて出来なくなるように」
「僕を、軽んじないように」
見る見るうちに、ロイドの顔つきが変わっていく。
「で、でも、僕は……。マリアナにそんなことをしても、きっと意にも返されない」
「そんなことはないですよ? やり方ならいくらでもあります」
「ど、どんなことをしたら……?」
ごくりと唾を飲み込む。
目の前でなにが行われているのだろう。カドックが慰めているはずなのに、どんどんとおかしな方向に傾いている。
「ロイド、その、一度落ち着いて」
はっとした顔をして、ロイドに見つめられた。
「すぐに復讐だなんだと考えるのは駄目だよ。確かにマリアナは悪いことをしたし、ガイは最低だわ。でも、もう無視してしまえばいいんだよ。婚約を破棄して、関わらなきゃいい」
ロイドの顔が緩む。ぎこちないが、優しい笑みを浮かべてそうだねと頷かれた。
カドックはロイドの顔をじっくりと観察すると、目を細めた。
「そうっすね! お嬢の言う通り。マリアナのことなんて無視しましょう」
「カドック、悪いことを誘っちゃ駄目だよ」
さっきのカドックは危うかった。ジュディの父と一緒にいるときのような、遠く、手の届かない存在になったような気がした。
「悪いことになんか誘ってないですって。ほら、話しっぱなしで喉渇いたっすよね? 紅茶を飲んで」
ロイドは言われる通りにカップに口をつける。
ふふとロイドが笑った。
どこか憑物が落ちたような、晴々しい顔をしていた。
ロイドが帰って、メィリがカップを片付けた。飲みかけの白ワインは、カドックが全て彼女に渡してしまった。
飲まれないように隠していた癖にと悪態をつきたくなったが、メィリは飛び上がるほど喜んでいたのでその気持ちも萎えてしまった。
メィリが去ったあと、部屋の中に二人きりになる。髪の毛先を何度も触って、緊張を紛らわす。
ロイドが来るまで、ジュディはここでカドックと口付けをしていた。あのまま、誰も来なかったら、体を預けてしまっていたに違いない。
それぐらい、カドックに対してたまらなくなっていた。もっと触れて欲しい、口付けて欲しいと、淫らな思いに駆られていた。
けれど、この肉欲は、ロイドとカドックが唾棄すべきものと扱っていたマリアナと変わらない。きっと、ジュディとマリアナの違いなどほとんどない。
マリアナは体を許し、ジュディは運良くまだ許していない。薄皮一枚ほどの境界線でしかない。
「お嬢?」
「カドック、今日あったことは、忘れて欲しいの」
「ロイドのことっすか?」
からかうような口調なのに無表情で見下ろされ、鳥肌が立った。
「違うわ……。口付けをしたこと」
「どうして? 気持ち良くなかった?」
「そうじゃなくて……! やっぱり秘密の恋人なんて、無理だよ」
ジュディにはガイのように居直る度胸も、マリアナのように隠そうという気概もない。
そうなのでは? と勘繰られただけでぼろが出てしまう。
家の恥だと言われ、詰られるのを想像するだけで頭を掻き毟りたくなる。
「カドックは何も悪くないし、私が一方的に……その」
「口付けは俺からしましたが」
「そうじゃなくて! ともかく、忘れて。こんなこと、もうしないから」
「俺はしますよ?」
ジュディは片唾を呑み込んだ。
そうさせる迫力がカドックにはあった。彼はもう、何か別の生物に変異してしまったように、纏う雰囲気や仕草まで別のものとなっていた。
「俺はジュディに口付けますよ。これから先、ずっと」
逃げようとした体を壁に押し付けられ、無理矢理唇を合わせられた。カドックの体は重く、ジュディの力ではびくともしなかった。
苦く、甘い口付けだった。激しく、口内を蹂躙された。オペラや小説で見たような、優しい口づけではなかった。
何もかもを奪うと宣言されているような、容赦のない蹂躙だ。
呼吸が出来なかった。溺れる人間のように、空気が肺の中からなくなっていくのが分かる。
どこにいっても、分厚い舌が追いかけてくる。子供のように思うがままにされていた。
突然、息継ぎを許されたのは、なんてことはない、カドックが許したからだった。
彼は恍惚そうに頬を赤らめ、ジュディの頬を指で擦ると、そのままもう一度唇を合わせて来た。
今度は抗うことが出来た。入ってきた舌を思い切り噛んだのだ。
ばっと、カドックの体が離れる。
肩で息をしながら、唇を押さえるカドックを見つめる。
知らず知らずのうちに瞳から涙が溢れてきた。嬉しいからなのか、驚いたからなのか、ジュディには分からなかった。
あまりにも突然過ぎた。今日あったことの一つ一つが、ジュディには大きな意味を持ったもので、それが積み木のようにつまれて、一気に崩壊してしまった。
頭の中がごちゃごちゃで、まとまった考えなど思い浮かばなかった。
「――お嬢」
突然泣き出したジュディにカドックは酷く動揺してしまったようだった。お嬢と呼ぶカドックの声に今までのカドックの優しい声色があった。それに縋り付きたくて、涙を拭い、視線を合わせる。
「今日は何も考えられない。ごめんなさい、カドック。ちゃんと考えるから、もう、一人にして……」
拳を握って憐れっぽく懇願した。こうすることでカドックが引いてくれると昔ならば確信していた。
だが、今のカドックに通じるかは分からず、神に祈るように目を閉じる。
果たして、カドックは小さく「ジュディ」と名前を呼んだ。
それでも、顔を上げないと分かると、足音を響かせて部屋から出て行った。
足音が聞こえなくなって初めて、ジュディは体を弛緩させる。
――とんでもないことになってしまった。
こんなこと、誰に相談すればいいのだろう。
そもそも、どんな風にカドックと顔を合わせればいいのだろう。
部屋の外が突然、暗闇で覆われてしまえばいいのに。
そうしたら、何も考えずに済む。
椅子に縋り付いて何とか立ち上がる。
カドックのジュディという呼び声が耳の中にこびりついていた。
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