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結
呪いの言葉
しおりを挟む窓の外は白く染まり、雨脚が強まっていた。湿気のこもる重々しい廊下に、慌ただしい足音が響き渡った。病室のドアが盛大に開け放たれる。
「咲麻!」
大きく呼んだその声はむなしく響く。中はもぬけの殻だった。サイドテーブルに出しっぱなしであった、名前の縫われてあるお守りがない。
自分の愚かさに志音はいつも腹を立てていた。咲麻が目を覚まして向かう場所など決まっている。雨で視界が悪かったせいもあるが、途中で会わなかったということは、彼は遠回りをしていったにちがいなかった。
急げ、今なら間に合う。今度こそ、川を越える前に、間に合わなくてはいけなかった。志音は病院を飛び出し、走った。
走っている間、考えるのは咲麻のことばかりだ。『シノさま、シノさま』と慕う彼はどこまでも純真でいじらしくて、何度も心が死んで干からびていた志音にとって潤いをもたらす者であるのと同時に、新たな傷を生み出す者でもあった。
もう、抉られる痛みには耐えられない。何度、何度失っても、慣れることはない。愛する者の真名が記憶から抜け落ちて、姿形は覚えているのに、かつて愛した者の名前をもう呼べない苦しみ。真名を捧げてしまった者たちはもう、志音のことを覚えていない。自分だけがつらく苦しい地獄だ。
視界が開けた。地獄の終わりはまた地獄の始まりでもある。しかし、もうどんな地獄がその先に待っていようと志音はどうでもよかった。
「咲麻!」
「シノ……様」
咲麻は川の飛び石に足をかける前だった。志音は息を切らし、涙を流しながら乞うた。
「行かないでくれ」
どうせ同じ地獄なら、君と一緒がいい。地獄へ向かう無垢なる者を彼は呼び止める。
「僕は供物です。それはできないとシノ様は知っているはずです」
ささげものはなにも知らない。無知ゆえに、永遠の別れに、引き裂かれる痛みに苦しむことはない。供物として捧げられることを知らないまま、幸せそうに死に向かう彼らのことをうらやましいとさえ思っていたことが志音にはあった。
「分かったでしょう? 名前が呼べなくなっても、愛がなくなるわけじゃないって」
あの川を渡ってお社に行くまで、彼らがどんな思いで、真名の縫われたお守りを抱えて歩いていくのか。志音には分からない。しかし、ささげものの役割を悟って、泣きながらお社に向かった者もいるかもしれなかった。
現に、ささげものとして真名を失ったのに、志音の元へ戻ってきた者もいた。志音のことを覚えていた者も。彼らは志音と同様に、失う痛みを感じた。結果、真名を失ったあと、歪な神約を結び、志音と同じように地獄を生きているかもしれないのだ。
「また会えたら、僕に名前をくださいね」
それは呪縛だ。僕も苦しむ。君も苦しむ。忘れてしまうかもしれない約束を交わすなんて残酷だ。
「愛してる、シノ」
ささげものたちは皆口を揃えて志音に、『好き』だの『愛してる』だのと簡単に口にする。好きも愛もぜんぶ、真名に結びつく感情だ。志音にはそれが痛いほど分かっている。志音だけがはっきりと、覚えている感情。行き場を失った愛は、毒となって心を深く、深く蝕んでいく。
「咲麻……俺を置いていかないでくれ」
ささげものは、悲嘆に暮れる主を慰めようと戻ることはしなかった。彼の言葉を聞き届けてから、川を渡っていった。
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