白き檻の落園

兎守 優

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癒えぬ傷痕

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 この台をお借りします。視界の端に映ったのは、金属片の光。振り下ろされる切っ先。あの男は、寸刻前と違わぬ涼しげな声で断りを入れ、俺でなければ止められなかったであろう、凶行を流れるように行おうとした。
「なんのつもりだ。部屋が汚れる」
 台の上に己の左手を押しつけ、あろうことかこの男、指でも切り落とそうとしていたのだろうか。
「ここ、指輪の痕が消えなくて」
 肉付きの頼りない、左手の薬指がピンと伸ばされる。
「俺は吸血鬼だ。貴様が不意に出血しようものなら、本能のままに食い殺すぞ」
 脅しを含めた静かな怒声を浴びせても、彼は来たときと変わらぬ、魂の抜けきった冷涼な表情を崩さない。
「あなたは素直でいいですね」
 男が気怠げに、こちらに視線を寄越してきた。阿呆が。吸血鬼の目を見るなど、襲われても仕方のない愚行だ。
「死にたいのか?」
「いいえ。要らないものを捨てたいん、です……」
 術にかかり、力の抜けた体を抱きとめる。
「貴様の要らぬもの、全て俺に寄越せ」
 台の上で男を仰向けにする。彼の上に乗り上げ、左手をさらう。捨てようとした薬指を唇で食む。噛みやすい場所を探り当て、己の牙を突き刺した。
 台の上の獲物が、ビクリと跳ねた。構わず、指から血を啜る。生き血を飲むほどに、男の記憶が流れこんできた。

 男──沢代さわしろグレン。ハーフ。容姿は薄灰色の髪、白銀色の瞳、薄灰褐色の肌を持つ。生まれは本国。親の仕事で幼少期は海外で育つ。
 義務教育は本国で修了済み。海外の大学を卒業後、本国へ戻り、警察学校へ。警察学校を卒業ののち、刑事となり、海外のチームに配属される。
 本国へ転属となり、再び帰国したのは数年前。帰国後、妻子を得る。そして、妻子は数週間前に死亡。沢代さわしろグレンは停職処分中。

 彼の妻子に少々見覚えがあった。定かではないが、数週間前、血液の提供の代わりに、ある親子を殺すよう命じられた。
 その後の処理は興味もなかったが、この男、沢代さわしろは、妻子が死んだことを心中と片付けられ、納得がいかず、勝手に捜査を進め、咎められての停職処分という流れだろう。
 冷えた台の上で目を閉じる、沢代さわしろを見下ろす。こいつの妻子に手をかけ、こいつが求めて止まない犯人がここにいる。俺だ。何も感じなかった。
 沢代さわしろの記憶を辿る限り、依頼者は沢代さわしろが所属する組織、つまり警察だ。彼の妻子の罪状は知らん。だが、人間が合法的に人を殺せるのは死刑のみのはずだ。
 俺が吸血鬼で、ヒトではないから、依頼すれば自分たちの手は汚れないと?
 人間とはこういう愚かしく不合理な生き物で、なぜ他人をおとしめ、脅し、上に立とうとするのか理解できない。俺は殺しで食欲を満たせるが、果たして人間は殺人で腹が膨れるのだろうか。

 記憶操作を施して帰したが、あろうことか数週間後にまた沢代さわしろはやって来た。
「せっかくなのでここでお昼を食べようと思って」
 完全なピクニック感覚で、俺の洞穴にやって来たこの男。サンドイッチや握り飯を寄越すが、俺が人間の食事を食べられるわけがない。
 俺の腹が求めているのは血液。二週間ごとに送られてくるはずのものが、さらに一週間過ぎた。渇きと飢えで、俺を玩ぶ人間どもを切り裂きたい激情が渦巻いていた。
「僕の血、吸っていいよ」
 生身の人間からの血の供給という提案。理解はできた。ペロリと沢代さわしろは自分の指を舐めて、広げた包みを折りたたみ、台の上に横になる。
 行動の意味が分からない。記憶も操作した。今は術もかけていない。吸血鬼について覚えていない上に、魅了にもかかっていないはずだ。通常の状態である人間が、自ら血を差し出すなど、聞いたことがない。
「何を企んでいる」
 足を組み、誘うように体をくねらせ、彼は答える。
「お前の血を吸わせてやれって言われたから」
 ほおを膨らませ、投げやり気味に放たれた言葉。俺はその答えだけで全てを理解した。俺を利用したい奴らの思惑は、次の花嫁をコイツにしろということだ。
 吸血鬼の本能は、血と花嫁を求めて止まない。見定めた対象と三十日間、性行為を行い、性器や体液を挿入し続け、花嫁とする。さらに吸血鬼が有する、漆黒の荊で花嫁と冥約を結び、永久に我が物とすることができる。
 しかし人間は、花嫁を奪う。吸血鬼に見初められた花嫁が、何らかの理由で性行為を中断せざるを得なくなった場合、日の下にさらされていくほどに、全身が石灰化していき、そして、終いには花化し、硬度のある白い花を咲かせ、絶命する。
 花嫁が咲かせた白い花こそ、吸血鬼にとっての弱点である、人間はそう味を占めた。
 幾度も花嫁を奪われてきた。摂取する血液の量が十分でないため、俺は花嫁を奪い返すことができない。
 また奪われるのに。俺の本能は花嫁を求めて止まない。
 「どこからがいい?」と探っている沢代さわしろの手を退かし、覆いかぶさる。
「今、吸血、したら。抑制が……利かなくなるッ!」
「でも、お腹、空いてるんでしょ?」
 目が眩む。柔肌から匂いたつ、その皮膚の下を流れる生き血に。
「いいよ、何でも。したいこと、して」
 伸ばされた手に、頭が引き寄せられるのと同時に、肩口に噛みつく。ろくに術もかけなかった。夢中で貪り啜った。
 食欲が満たされ、気づけば、互いに裸の状態だった。沢代さわしろの目は閉じられ、涙で目元が濡れている。肩口の噛み痕が痣のように浮いている。力を失った性器の周りに、白い液体が飛び散り、俺の腹にまで跳ねくり返っていた。
 俺の性器はぬらぬらと濡れており、沢代さわしろの肛門の入り口が大きく開いており、いやらしくヒクついて、腸液をこぼしていた。
 本能が満たされる興奮を覚えつつも、冷ややかな感情が下りてくる。
 俺は彼を花嫁にしてしまったのだ。
 朝が近づくニオイがしていた。気が急ぐ。沢代さわしろの身支度をろくに整えてやらぬまま、イスに移動させる。小さく声が上がったが、気にしてなどいられなかった。
 すぐに台のフタをズラし、中に横たわり、再度フタをした。日が落ちるまでこの台──棺の中で眠らなければならなかった。
 どのぐらい時が過ぎたか、棺の向こうからくぐもった声がする。不規則なぼやけた声と、リズミカルに軋む音だ。
 段々と脳内で鮮明さが増していき、その不穏な物音の正体に行きつく。
 吸血鬼の精気は人間には強すぎるのだ。今、沢代さわしろは注がれすぎた精を放つため、自慰にふけっているにちがいなかった。収まるまで何度も。
 閉めきった棺の中にいても、俺の鋭敏な鼻は、精のニオイを嗅ぎとる。生臭さと花の蜜のような甘さを含む濃い精のニオイが、体を疼かせる。
 花嫁にされたばかりの体から放たれる、相手を誘う、たまらない、みずみずしい香り。性行為を重ねるごとに、鼻に粘ばりつくように濃く、増していく、花嫁の色香は吸血鬼にとって極上の蜜だ。
 花嫁の蜜を啜り、花嫁に精気を注ぐ。感覚が狂って枯れている吸血鬼が感じる至福のひととき。
 全身が甘く痺れ、寝つけない。今、棺の外へは出られない。蜜の香りに、陽の匂いが混じる。陽が恍惚のときを踏みにじって邪魔をする。
 欲に火のついた花嫁が、俺の手で舌で、よがっている。小刻みに体を震わせ、甘くきながら、腰を浮かせてのけ反る。
 想像の中でかき抱くぐらい欲望が膨れ上がる。陽の匂いさえしなければ、外に飛び出し、乱れる花嫁を襲っていたかもしれない。
 生殺しの状態で、焦げる臭い、花嫁の乱れる声と音、発するニオイに支配されていた。


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