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第五章 お紅茶は如何かしら?
ジムの看板娘
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「妖怪お紅茶ババアだろ?」健悟は痺れを切らして先を急いだ。「さっき会議室で聞いたサイレンがそれだ」
「さすが親分——」柳川が笑いながら云った。「耳が早い。で、どこで聞いたんです?」
「くノ一さ」
「おっと。ひょっとして、くノ一小雪ですかい?」柳川がお道化て返した。「しかして、その正体は町娘の小柳美雪。江戸一番の器量良しときたもんだ——」
移動車が停車した。
「すみません。赤信号です」マネージャーが健悟に顔を向けた。「親分も隅に置けねえなあ」
健悟は柳川とマネージャーを交互に見渡しながら、
「何でぇ何でぇ。おまえら、ふたり揃ってこの俺を揶揄いやがって」
と凄んだ。「まあ、この辺にしておいてやるか」
柳川とマネージャーが同時に笑った。健悟もつられて思わず笑った。
移動車がまた発進した。
その後は信号で止まることなく移動車はすいすいと進み、あるビルの地下駐車場に這入った。
三人は移動車から降りた。マネージャーがセキュリティーの前で名前と用件を伝えるとガラスのドアが開いた。三人はビルに這入り、どんつきのエレベーターに乗った。
ドアが閉まると、健悟が云った。「ずいぶんセキュリティーがしっかりしているんだな」
「会員制のジムなんです」マネージャーが階数表示のパネルを見ながら云った。「ここに通っているのは、芸能人とかアスリートとか、あとは富裕層ですね。一般の方々の目を気にせずにトレーニングできますから」
健悟が訊いた。「だけど妖怪お紅茶ババアも、金さえあれば会員になれるんじゃないのか?」
「入会には審査があるので——」マネージャーはその先を濁した。
アラームが鳴ってドアが開いた。
「さあ、着きました。せっかくですから親分も一緒に汗を流していきませんか?」マネージャーが開延長のボタンを押して先に降りた。
「お、俺がか?」エレベーターから降りながら健悟が云った。
柳川が後ろから健悟の背中を押した。「消防士の軀を作るんだから、お手本を見せてくれないと」
「会員からの紹介ということで無料体験ができますから」マネージャーが柳川に加勢した。
健悟は曖昧に頷いて、廊下を歩いた。ジムの入り口はすぐそこだ。さて、どうしたものか。
相棒が健悟に語りかけた。
——上脱いで柳川に見せつけてやれよ。好いチャンスだ。最後にシャワーも一緒に浴びて……。
——だけどな。トレーナーのなかに昔の女がいるんじゃないか? さっきもそうだったろ。悪い予感がする。
——一日にあんなことが二度もあるかよ。それに昔の女に雄のフェロモンは効かないんだぜ。愛理がそうだったろ。
自動ドアが開く。健悟は、伏目がちに前に進んだ。受付に、いかにも健康そうな若い女性スタッフがひとりいた。見覚えのない女だった。
「こんにちは」
受付の女性スタッフが健康的な声で三人を出迎えた。
ここで反応してはマズい。健悟は、なるたけ受付嬢と目を合わせないようにした。ちくしょう。よりによって可愛い声をしてやがる。小雪ほどじゃねえが……。
「お連れ様は、無料体験でいらっしゃいますか?」受付嬢が健悟に訊いた。
「ああ、体験入店——」健悟は、それが風俗店での用語であることにハッと気づいて、口ごもった。慌てて周囲を見回す。柳川は、いつの間にかこの場を離れてトイレに這入ろうとしているところだった。健悟は観念して続けた。「無料体験をお願いしたいのだが……」
マズい。相棒が反応しはじめている。何でこんな綺麗どころがジムにいるんだ? 健悟は焦った。
横からマネージャーが云った。「それじゃあ、ここでビジターカードを書いていてください。柳川のようすをちょっと見てきます」
健悟はひとり受付に残された。受付嬢が、頬を赤らめながら、ビジターカードとペンを健悟に差し出す。きれいな指をしていた。
おいおい。やめてくれ……。
健悟は、ビジターカードに名前と連絡先を走り書きして受付嬢に渡した。
そのときだった。
「おや、健坊。ここで何してんだい?」
大家のスミ婆ぁが声を掛けてきた。トレーニングを了えて出てきたらしく、頬がほんのり火照っている。スミ婆ぁはスポーティーな服装をしていたが、案外似合っていた。
一瞬にして相棒が大人しくなった。
受付嬢の顔に緊張が疾った。「無料体験でお見えになったのですが、お知り合いですか?」
スミ婆ぁは受付嬢に向って、
「まあね。古い附合いだ」
と云うと、こんどは健悟に向って云った。「ちょうど好い機会だ。四の五の云わずに入会するんだね、健坊。家族会員でどうだい?」
「ちょっと待ってくれよ。俺は独り身だぜ?」
「あたしの息子みたいなものじゃないか」
受付嬢が会員証の準備を始めたらしく、ビジターカードを見ながらコンピューターに何かを打ちこんでいる。
健悟は焦った。
「なあ。ここって審査があるんだろ? 金さえあれば誰でも入会できるわけじゃないって聞いたぞ。それにこんなに立派なジムだ。公務員の俺が——」
スミ婆ぁが笑って、
「審査も会費も何も、このジムの看板娘が入会しろって云ってんだ。素直に云うことをお聞き」
「看板娘?」
健悟は受付嬢を見た。
健悟と目があって、受付嬢がぎこちなく手のひらを上にしてスミ婆ぁを指し示す。「こちらが当ジムのオーナーです」
スミ婆ぁは健悟の反応を楽しむかのように、
「どこに目をつけてんだ。煙草屋の看板娘がジムの看板娘もやってるんだよ」
と云うと、バッグから水筒を取りだして一口飲んだ。「そうだ。健坊のお嫁さんの分も今のうちに作っておこうかねえ。好い人がいるって話じゃないか。名前は何ンてんだい?」
「さすが親分——」柳川が笑いながら云った。「耳が早い。で、どこで聞いたんです?」
「くノ一さ」
「おっと。ひょっとして、くノ一小雪ですかい?」柳川がお道化て返した。「しかして、その正体は町娘の小柳美雪。江戸一番の器量良しときたもんだ——」
移動車が停車した。
「すみません。赤信号です」マネージャーが健悟に顔を向けた。「親分も隅に置けねえなあ」
健悟は柳川とマネージャーを交互に見渡しながら、
「何でぇ何でぇ。おまえら、ふたり揃ってこの俺を揶揄いやがって」
と凄んだ。「まあ、この辺にしておいてやるか」
柳川とマネージャーが同時に笑った。健悟もつられて思わず笑った。
移動車がまた発進した。
その後は信号で止まることなく移動車はすいすいと進み、あるビルの地下駐車場に這入った。
三人は移動車から降りた。マネージャーがセキュリティーの前で名前と用件を伝えるとガラスのドアが開いた。三人はビルに這入り、どんつきのエレベーターに乗った。
ドアが閉まると、健悟が云った。「ずいぶんセキュリティーがしっかりしているんだな」
「会員制のジムなんです」マネージャーが階数表示のパネルを見ながら云った。「ここに通っているのは、芸能人とかアスリートとか、あとは富裕層ですね。一般の方々の目を気にせずにトレーニングできますから」
健悟が訊いた。「だけど妖怪お紅茶ババアも、金さえあれば会員になれるんじゃないのか?」
「入会には審査があるので——」マネージャーはその先を濁した。
アラームが鳴ってドアが開いた。
「さあ、着きました。せっかくですから親分も一緒に汗を流していきませんか?」マネージャーが開延長のボタンを押して先に降りた。
「お、俺がか?」エレベーターから降りながら健悟が云った。
柳川が後ろから健悟の背中を押した。「消防士の軀を作るんだから、お手本を見せてくれないと」
「会員からの紹介ということで無料体験ができますから」マネージャーが柳川に加勢した。
健悟は曖昧に頷いて、廊下を歩いた。ジムの入り口はすぐそこだ。さて、どうしたものか。
相棒が健悟に語りかけた。
——上脱いで柳川に見せつけてやれよ。好いチャンスだ。最後にシャワーも一緒に浴びて……。
——だけどな。トレーナーのなかに昔の女がいるんじゃないか? さっきもそうだったろ。悪い予感がする。
——一日にあんなことが二度もあるかよ。それに昔の女に雄のフェロモンは効かないんだぜ。愛理がそうだったろ。
自動ドアが開く。健悟は、伏目がちに前に進んだ。受付に、いかにも健康そうな若い女性スタッフがひとりいた。見覚えのない女だった。
「こんにちは」
受付の女性スタッフが健康的な声で三人を出迎えた。
ここで反応してはマズい。健悟は、なるたけ受付嬢と目を合わせないようにした。ちくしょう。よりによって可愛い声をしてやがる。小雪ほどじゃねえが……。
「お連れ様は、無料体験でいらっしゃいますか?」受付嬢が健悟に訊いた。
「ああ、体験入店——」健悟は、それが風俗店での用語であることにハッと気づいて、口ごもった。慌てて周囲を見回す。柳川は、いつの間にかこの場を離れてトイレに這入ろうとしているところだった。健悟は観念して続けた。「無料体験をお願いしたいのだが……」
マズい。相棒が反応しはじめている。何でこんな綺麗どころがジムにいるんだ? 健悟は焦った。
横からマネージャーが云った。「それじゃあ、ここでビジターカードを書いていてください。柳川のようすをちょっと見てきます」
健悟はひとり受付に残された。受付嬢が、頬を赤らめながら、ビジターカードとペンを健悟に差し出す。きれいな指をしていた。
おいおい。やめてくれ……。
健悟は、ビジターカードに名前と連絡先を走り書きして受付嬢に渡した。
そのときだった。
「おや、健坊。ここで何してんだい?」
大家のスミ婆ぁが声を掛けてきた。トレーニングを了えて出てきたらしく、頬がほんのり火照っている。スミ婆ぁはスポーティーな服装をしていたが、案外似合っていた。
一瞬にして相棒が大人しくなった。
受付嬢の顔に緊張が疾った。「無料体験でお見えになったのですが、お知り合いですか?」
スミ婆ぁは受付嬢に向って、
「まあね。古い附合いだ」
と云うと、こんどは健悟に向って云った。「ちょうど好い機会だ。四の五の云わずに入会するんだね、健坊。家族会員でどうだい?」
「ちょっと待ってくれよ。俺は独り身だぜ?」
「あたしの息子みたいなものじゃないか」
受付嬢が会員証の準備を始めたらしく、ビジターカードを見ながらコンピューターに何かを打ちこんでいる。
健悟は焦った。
「なあ。ここって審査があるんだろ? 金さえあれば誰でも入会できるわけじゃないって聞いたぞ。それにこんなに立派なジムだ。公務員の俺が——」
スミ婆ぁが笑って、
「審査も会費も何も、このジムの看板娘が入会しろって云ってんだ。素直に云うことをお聞き」
「看板娘?」
健悟は受付嬢を見た。
健悟と目があって、受付嬢がぎこちなく手のひらを上にしてスミ婆ぁを指し示す。「こちらが当ジムのオーナーです」
スミ婆ぁは健悟の反応を楽しむかのように、
「どこに目をつけてんだ。煙草屋の看板娘がジムの看板娘もやってるんだよ」
と云うと、バッグから水筒を取りだして一口飲んだ。「そうだ。健坊のお嫁さんの分も今のうちに作っておこうかねえ。好い人がいるって話じゃないか。名前は何ンてんだい?」
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