あかねいろ

杏子飴。

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茜色の空の下で海斗は一人でうずくまっていた。帰宅時間の真っ只中で人通りは多かった。中学二年の男子が一人でうずくまっていようが、気づかれないのも無理は無い。でも気づいて欲しかったのが本音だった。
『家、帰りたくねぇ。』
小声でそんなことを呟いても何も変わらない。現実は一つしかないのだから。小さくしていた体を伸ばして気合いを入れる。通り過ぎる人々にはもう何も期待はしていなかった。
『帰るか、。』
足を一歩、二歩、三歩と順調に同じリズムで進めていく。大通りを抜けると少し小さな道に入り、たくさんの路地の中から自分の家へと繋がる路地を曲がる。もう少しだった。そう思うと海斗の足は途端に進まなくなった。
『うるせぇなぁっ!』
外にまで響くほどの大きな声が聞こえたすぐ後に、重くずっしりと響き渡る変な音が聞こえた。海斗はその音に目を見開き、小刻みに震えた。固まってしまった足をなんとか動かして、家に入った。リビングには一本道の廊下を数メートル進むとたどり着く。その廊下が果てしなく長く感じた。リビングの扉は開かれていて、頬が腫れて口が切れてしまい、髪はボサボサになっている母が倒れ込んでいるのが見えた。母の手の中には声を出さずに涙を流すまだ四歳の妹、七海がいる。母は傷だらけになった体を震わせながら、ただひたすらにごめんなさいと小さく掠れた声で言っていた。助けなくてはならない。海斗は分かっている。だが肝心の足が本当にどうしようもなく動かせないのだ。
『おいっ聞いてんのかてめぇ!』
続けざまに聞こえる怒鳴り声も、その後に響く聞き慣れた音も、それに耐える声も、もう全部が雑音となった。海斗はハイライトを失った目でリビングへ向かった。全てを諦めると急に体は軽くなり、足はすっと進んで行く。リビングへ入ると母が海斗の方を見た。まるで助けを求めているような、悲しそうな顔で。
(お願いだからそんな顔はやめてくれよ。母さんだろ。俺を、守ってよ、。)
本当はそう言ってしまいたかった。でも、苦しめるだけだとわかっているから言わない。父に目をやると怒り狂ったような、“いつもと同じ”目をして海斗を見ていた。
(なんでいつも俺なんだよ、。なんで俺を産んだんだよ。)
そう言ってやりたかったけれど、それを言ったらいつもより倍、殴られてしまうから言わない。
『なんだその目は。おい海斗。誰に向かってそんな態度を取っている。聞いているのか?』
ああ、始まった。
脳内でなにかの糸をプツンと切って、地雷を踏んでしまったのだと理解した。何もしていない。ただ一回だけ父を見ただけ。それでもなにか気に食わなかったのだろう。もう諦めたから。なんでもいいから。だから、俺だけにしてくれよ。母さんと妹はもう、いいだろ。俺だけでいい。でも、本当は、助けて、欲しい。そう言ってしまえたら、なにか変わっていたのだろうか。
(いや、違ぇな。何も変わんない。誰も助けてくれないから。)
目を伏せて、斜め下を見る。母はさっきからずっと床に倒れ込んだまま海斗を見ていて、その方向とは逆の方向に目をやった。小さく息を吐いて伏せていた目を父の方へ向けると目の前に拳が見えた。顔と数センチしか幅がないそれを回避することは到底できない。殴られるにしても目は嫌だった。だから、顔を横に向けた。その瞬間、頬が潰れた気がした。そのまま床に叩きつけられ、投げ捨てられた。口の中には、血の味が広がって気持ち悪かった。ふらつきそうな足で何とか立ち上がり、父の気が済むまで殴られ、蹴られる。
(ああ、これしかないんだ。俺の人生は。)
何度目だろうか。そう思うことで現実を見るのをやめようとしたのは。
来る日も来る日も学校に行っては、帰るのが億劫になる。このままどこかへ消えてしまいたいと思って一度、電車で隣町まで行ったこともあった。その後どうなるのかも分かっていたが家を出ずにはいられなかった。数日して帰ると母親がみすぼらしい顔で力なく立っていた。その時に母に言われた。
『海斗、強くなってね。強くなって、家族を守れる人になってね。お願いだから…。お願い。』
消えそうな声で海斗に縋りながら言う母の姿が鮮明に記憶されている。自分は強くなって守らなくてはならないのだと小さいながらに悟った。中学二年生となった今は、妹も生まれ、守ることを強いられている気がして母に嫌気がさした。そんなことも知らずに父は酒癖が荒く、暴力的になる頻度も昔より増えた。その度に海斗が呼ばれ暴力を受け続ける。悪い時には朝まで殴られ蹴られ続けていることもあった。母はただ、殴られている海斗を見ながら泣くだけだった。傷が多く、学校でもなかなか話をしてくれる人達はいなかった。


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