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三章

3、薔薇の香りの庭

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 私は、マルガレータを横抱きにして立ち上がった。薔薇の入った籠ごとだ。
 朝の爽やかな風にふわりとひらめく淡い水色のスカートの裾。まるで早朝の空気をまとっているかのようだ。

「危ないから、ちゃんとしがみついていなさい」
「あの、どこを持てばよろしいんですか?」
「首に手を回すといいのかな? 私もよく分からないのだが」

 考えてみれば、手の甲にキスをするという敬意を払う挨拶のキスしか今までしたことがないな。
 ちょっと緊張してきたぞ。

 だが、いつまでも「わぁ、蝶が飛んでいる」とか「はー、清々しいですねぇ」と護衛に白々しい演技をさせるのも心苦しい。
 宮殿の庭だから、私たちから離れていても問題はないのに。どうしてそんなに仕事熱心なんだ。

 しかもマルガレータは、頬ではなくて唇にキスをしてほしいと願っているのだ。それを聞き届けずに無視をすることはできない。

 そう、いずれ妻となる人が恥じらいながらも「キスを……」と申し出てくれたのだ。
 ああ、勇気がいっただろうに。
 大丈夫だ、その気持ちにはすぐに報いよう。安心しなさい。

 私は少し顔を下げて、軽く触れるだけのくちづけをした。

 柔らかい。なんと柔らかなんだ。マルガレータの唇は。
 ふわっとして、これが同じ人間の唇なのか?

 すぐに唇を離すと、マルガレータは碧の瞳が零れんばかりに目を見開いている。
 これは驚きの表情だよな?

 あれ? もしかして……。
 
「えっと、あなたのお望みのキスとは、もしかして違うのかな?」
「……キスが、頬のキスが、びっくりして恥ずかしくて……そう言おうと、して」

 え? 唇にキスをしてほしいという意味ではなかったのか。

「もしかして私は間違えた?」

 こくりとマルガレータがうなずく。しかも涙目で。
 なのにこう呟いたんだ。

「とてもとても恥ずかしかったですけれど、でも、光栄です」と。

 今度は私が涙目になる番だった。無論、嬉しさで。
 朝日が滲んで見える。庭に咲き誇る薔薇も、まるで水彩画のように淡くぼやけているんだ。
 なぜか離れた場所で、護衛が「うんうん」と大きく頷いている。

「徐々に慣れるようにします。結婚すれば、二人きりの時はクリスティアンさまのことを『あなた』と呼べるように、しますから」

 それは今ではなく、いつかの約束だ。
 だが、腕の中にいるマルガレータが、少し震えながらそう呟くのがとても愛おしくて。さっき重ねたばかりの唇から「あなた」という言葉が、聞こえてきたのが余りにも幸せで。

 私は彼女の言葉を、何度も噛みしめた。
 
 身一つで、国境を越えて私に嫁ぐ決意をしてくれたマルガレータ。
 彼女の家族は爵位を剥奪され、今は残されたあの森の小屋で暮らしているようだ
 使用人を雇うことも出来ず、何を生業にしているのかは知らぬ。

 傲慢だった父親も妹も、ようやく身の回りのことを自分でできるようになったのだろう。マルガレータにそのことを伝えると「そうですか」と、少し安心したような、それでいて寂しい笑顔を浮かべた。

「早朝で体が冷えてしまったな。そろそろ中に戻ろうか」
「はい。でも、自分で歩けますよ?」
「ん? 何か鳥が囀ったようだ」
「クリスティアンさまっ」
「ああ、何の鳥だろうか。私は狩りをしないので、鳥は詳しくないんだ」

 マルガレータの言葉を無視して、私は歩き出した。無論、彼女を抱き上げたまま。
 でなければ、存分にあなたを甘えさせることができないだろう?

 控えめなあなたには、強引なくらいがちょうどいいのだ。多分。
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