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19、名前で呼んで
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(欲しいものと尋ねられても、なにかしら)
ミリアムには思いつかない。
レオンと毎日いっしょにいられることが、うれしいし。花なら、屋敷の庭にたくさん咲いている。レースのついた白い手袋も、フリルのついも日傘はおとなっぽくて憧れるけれど。
日頃は麦わら帽子をかぶっている十二歳のミリアムにはまだ似合わない。
「そうだわ」
ひらめいた。いちばんほしいもの。
「おっ。思いついたか?」
「はい。ぜひお兄さまにお願いしたいことがあります」
「貴重なものかな、それは」
レオンが背筋を伸ばす。
「もし舶来の品なら、取り寄せるのに時間がかかるかもしれないが」
「いいえ、すぐに用意できるものですよ」
「海岸通りの店に売っている?」
ふるふるとミリアムは首をふった。
ベリーがふんだんにのったケーキはすでに食べ終わり、銀のフォークはお皿にのせてある。
ミリアムは深呼吸をした。
「名前で呼んでいただきたいの」
「ストランド男爵令嬢」
即答だ。
「ちがうの。それは家名のほうでしょ。わたしが呼んでほしいのはファーストネーム、です」
「いや、さすがにそれは。たしかに以前も、きみはそう言っていたが」
寄宿制の男子校出身のレオンには、女性を名前で呼ぶという考えがそもそもないらしい。
「でも、いちど名前で呼んでくださったわ」
「いつ?」
「男が乱入してきたときです」
「あー、ああ」
今日の昼間のことは、すでに遠い記憶になってしまっているのか。テラスの天井に答えでも書いてあるものなのか、レオンは視線を上げた。
(ほんとうは寝言でも呼んでくださったけれど、それは数のうちに入らないと思うから、内緒)
「呼んだかな?」
「呼びましたよ」
「あれは非常事態だからな。とっさのことだ」
「まぁ。なんでもいいってお兄さまはおっしゃったわ。ミリアムの頼みを聞いていただけないの?」
「うっ」
レオンはくちごもった。
おさない少女が、強面の青年に詰め寄っているものだから、道行く人たちが興味深そうに視線をむける。
店員さんは、素知らぬふりをしてくれているけれど。
(でも、この機会をのがすわけにはいかないもの)
「わかった……わかったから」
そう答えてからも、レオンの口はなかなか動かなかった。
すこし唇をひらいたかと思うと、すぐに閉じてしまう。
退屈したのか、足もとで丸まっているブルーノが、ふあぁと大きなあくびをした。
まるで「なーんでそんな簡単なことができないの?」と、呆れているかのよう。
(がんばって。お兄さま)
心のなかで応援しているつもりが、ミリアムは両手をお祈りの形に組んでいた。
「ミ……ミリ」
(あとすこし。もうすこし)
「ミリア……」
(あとは「ム」だけです)
とうとう道行く人たちが、立ちどまってしまった。けれど緊張しているレオンは、テラス席から海が見えなくなったことにも気づかない。
きつくまぶたを閉じて、レオンは左右のこぶしをテーブルの上で握っている。
「ミリアムっ」
「はいっ」
まるで怒鳴るような大声だったけれど。ミリアムの目には、うれしい涙がにじんでいた。
まるでさざ波のように、観衆の拍手が聞こえる。
まだ目を開けることのできないレオンの顔は赤い。
きっと通りすがりの人たちに見られていることを知ったら、恥ずかしくて悶え死んでしまうかもしれない。レオンの心が。
でも、今だけは。必死に照れを隠そうとしているお兄さまを見ていたい。
「これで……いいですか? ストランド男爵令嬢」
「あら、ミリアムですよ」
「……ミリアム」
今にも消え入りそうな声だった。
きっとこんなレオンを誰も知らない。自分しかレオンを困らせることもないし、照れさせることもない。
(レオンお兄さま。なんてお可愛らしいの)
いつもお人形のように愛らしいと褒められるばかりのミリアムにとって、初めての感情だった。
カップの底に砂糖がいくつも溶け残っていることに、レオンは今になって気づいたようだ。
常々、ベルガモットなどの香りをつけた紅茶に、砂糖やミルクをいれるのは無粋だと考えているレオンなので、新しいカップを店員に持ってきてもらった。
それと、ミリアムのぶんのケーキをもうひとつ注文する。
カウンターでミリアムが迷いに迷っていたミラベルのタルトだ。
「ひとつ、俺からの頼みも聞いてもらってもいいかな」
次の注文の品が運ばれる前に、レオンがまじめな面持ちで話しはじめた。
ミラベルのタルト。ああ、おとなのお味。
きらめく黄金色の果実のことを考えると、ミリアムの心ははずむ。
「はい、いいですよ」
上の空で返事してしまったのが、間違いだった。
「お兄さま、ではなく、レオンと呼んでほしいのだが」
「えっ? レオンお兄さまとお呼びしていますよ。ほら、お名前じゃないですか」
「まぁ、そうなんだが。ちょっと違うんだよな」
新しいカップが運ばれてきて、レオンの前に置かれる。青い花もようの描かれた磁器は、白く濡れたような光を宿している。
ミリアムの目の前には、念願のミラベルのタルトが。
温めなおしてあるのか、甘く芳醇な香りがふわっと鼻をくすぐる。
「レオンさま、でどうですか?」
「うーん。よそよそしいというか」
「でも、年長者に対して呼び捨てというのは気がひけます」
「俺も、年の離れたお嬢さんを呼び捨てにするのは勇気がいるぞ。ほら、俺のことを名前で呼ばないと、タルトが冷めてしまうぞ」
「う、ううっ」
形勢逆転だ。
なかなか言葉を発することのできないミリアムは、レオンは涼しい顔をして紅茶を飲みながら眺めている。
その琥珀色の瞳は、とても楽しそうに細められた。
ミリアムには思いつかない。
レオンと毎日いっしょにいられることが、うれしいし。花なら、屋敷の庭にたくさん咲いている。レースのついた白い手袋も、フリルのついも日傘はおとなっぽくて憧れるけれど。
日頃は麦わら帽子をかぶっている十二歳のミリアムにはまだ似合わない。
「そうだわ」
ひらめいた。いちばんほしいもの。
「おっ。思いついたか?」
「はい。ぜひお兄さまにお願いしたいことがあります」
「貴重なものかな、それは」
レオンが背筋を伸ばす。
「もし舶来の品なら、取り寄せるのに時間がかかるかもしれないが」
「いいえ、すぐに用意できるものですよ」
「海岸通りの店に売っている?」
ふるふるとミリアムは首をふった。
ベリーがふんだんにのったケーキはすでに食べ終わり、銀のフォークはお皿にのせてある。
ミリアムは深呼吸をした。
「名前で呼んでいただきたいの」
「ストランド男爵令嬢」
即答だ。
「ちがうの。それは家名のほうでしょ。わたしが呼んでほしいのはファーストネーム、です」
「いや、さすがにそれは。たしかに以前も、きみはそう言っていたが」
寄宿制の男子校出身のレオンには、女性を名前で呼ぶという考えがそもそもないらしい。
「でも、いちど名前で呼んでくださったわ」
「いつ?」
「男が乱入してきたときです」
「あー、ああ」
今日の昼間のことは、すでに遠い記憶になってしまっているのか。テラスの天井に答えでも書いてあるものなのか、レオンは視線を上げた。
(ほんとうは寝言でも呼んでくださったけれど、それは数のうちに入らないと思うから、内緒)
「呼んだかな?」
「呼びましたよ」
「あれは非常事態だからな。とっさのことだ」
「まぁ。なんでもいいってお兄さまはおっしゃったわ。ミリアムの頼みを聞いていただけないの?」
「うっ」
レオンはくちごもった。
おさない少女が、強面の青年に詰め寄っているものだから、道行く人たちが興味深そうに視線をむける。
店員さんは、素知らぬふりをしてくれているけれど。
(でも、この機会をのがすわけにはいかないもの)
「わかった……わかったから」
そう答えてからも、レオンの口はなかなか動かなかった。
すこし唇をひらいたかと思うと、すぐに閉じてしまう。
退屈したのか、足もとで丸まっているブルーノが、ふあぁと大きなあくびをした。
まるで「なーんでそんな簡単なことができないの?」と、呆れているかのよう。
(がんばって。お兄さま)
心のなかで応援しているつもりが、ミリアムは両手をお祈りの形に組んでいた。
「ミ……ミリ」
(あとすこし。もうすこし)
「ミリア……」
(あとは「ム」だけです)
とうとう道行く人たちが、立ちどまってしまった。けれど緊張しているレオンは、テラス席から海が見えなくなったことにも気づかない。
きつくまぶたを閉じて、レオンは左右のこぶしをテーブルの上で握っている。
「ミリアムっ」
「はいっ」
まるで怒鳴るような大声だったけれど。ミリアムの目には、うれしい涙がにじんでいた。
まるでさざ波のように、観衆の拍手が聞こえる。
まだ目を開けることのできないレオンの顔は赤い。
きっと通りすがりの人たちに見られていることを知ったら、恥ずかしくて悶え死んでしまうかもしれない。レオンの心が。
でも、今だけは。必死に照れを隠そうとしているお兄さまを見ていたい。
「これで……いいですか? ストランド男爵令嬢」
「あら、ミリアムですよ」
「……ミリアム」
今にも消え入りそうな声だった。
きっとこんなレオンを誰も知らない。自分しかレオンを困らせることもないし、照れさせることもない。
(レオンお兄さま。なんてお可愛らしいの)
いつもお人形のように愛らしいと褒められるばかりのミリアムにとって、初めての感情だった。
カップの底に砂糖がいくつも溶け残っていることに、レオンは今になって気づいたようだ。
常々、ベルガモットなどの香りをつけた紅茶に、砂糖やミルクをいれるのは無粋だと考えているレオンなので、新しいカップを店員に持ってきてもらった。
それと、ミリアムのぶんのケーキをもうひとつ注文する。
カウンターでミリアムが迷いに迷っていたミラベルのタルトだ。
「ひとつ、俺からの頼みも聞いてもらってもいいかな」
次の注文の品が運ばれる前に、レオンがまじめな面持ちで話しはじめた。
ミラベルのタルト。ああ、おとなのお味。
きらめく黄金色の果実のことを考えると、ミリアムの心ははずむ。
「はい、いいですよ」
上の空で返事してしまったのが、間違いだった。
「お兄さま、ではなく、レオンと呼んでほしいのだが」
「えっ? レオンお兄さまとお呼びしていますよ。ほら、お名前じゃないですか」
「まぁ、そうなんだが。ちょっと違うんだよな」
新しいカップが運ばれてきて、レオンの前に置かれる。青い花もようの描かれた磁器は、白く濡れたような光を宿している。
ミリアムの目の前には、念願のミラベルのタルトが。
温めなおしてあるのか、甘く芳醇な香りがふわっと鼻をくすぐる。
「レオンさま、でどうですか?」
「うーん。よそよそしいというか」
「でも、年長者に対して呼び捨てというのは気がひけます」
「俺も、年の離れたお嬢さんを呼び捨てにするのは勇気がいるぞ。ほら、俺のことを名前で呼ばないと、タルトが冷めてしまうぞ」
「う、ううっ」
形勢逆転だ。
なかなか言葉を発することのできないミリアムは、レオンは涼しい顔をして紅茶を飲みながら眺めている。
その琥珀色の瞳は、とても楽しそうに細められた。
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続きが読みたいです。是非!
canaさま、感想ありがとうございます。そう仰ってくださると、とてもうれしいです。
なんだか可愛いお話でほこほこします。海辺の素敵なレストランと年の離れた婚約者。翻弄されるのは実はどちらなのか。続きが楽しみです。
松竹梅さま、感想ありがとうございます。これは、なかなか鋭くていらっしゃいますね。
読みながらホッコリしてます(*'▽'*)
ブルーノは、お利口さんなワンちゃんですね😊
サラサさま、感想ありがとうございます。ブルーノは、周囲の雰囲気を察して気をつかうタイプなのかも。