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一章
42、夜の庭【2】
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「だから、その。最後に俺に会いたかったと……言っていただろう?」
レナーテからの返事はない。というか、ぴくりともしなくなってしまった。
「レナーテ?」
「し、知りません。覚えていません」
「いや、確かに聞こえたのだが」
細い腕のどこにそんな力があるのだと思うほどに、レナーテは俺の胴にしがみついてくる。
彼女の顔が当たっている胸の辺りが少し熱い、ような気がする。
風が出てきたせいで雲に月が隠れたのだろう。辺りが闇に沈んでいく。湖の波の音が遠くから幽かに聞こえる。
波が寄せては返す浜辺にいた白鷺や青鷺は、今は眠っているのだろうか。鳥はどんな夢を見るのだろう。
「レナーテ。顔を上げてくれないか? 顔を見せてほしいんだ」
「嫌です。恥ずかしいの」
「どうして?」
「だって、頬が熱いんですもの。きっと林檎みたいに真っ赤な顔をしているわ」
うん。それは最後に俺に会いたいと言った言葉が、間違っていないと自覚したからだよな。
「じゃあ、無理は言わずにおこう。だが、月も雲に隠れたし、顔だけは見せてほしいんだ」
「わたしの顔、見えませんか」
「ああ、ずいぶんと暗いからなぁ」
レナーテが安心するように呑気な口調で答えたが、実際は見える。
すでに暗闇に目が慣れてしまっているのだから。
だが、俺は今は悪い大人なので、平然と真実を伏せる。
おずおずと顔を上げるレナーテ。さすがに頬が朱に染まっているのまでは、判別できないが。恥ずかしさに潤んだ瞳と、下がった眉。その頼りない表情が愛おしい。
俺は少し膝を屈めて、彼女のひたいにくちづけた。
「確かに熱いな」
「熱が出たんです、きっと。もう部屋に戻ります」
「うん、そうだなぁ。じゃあ、明日はレナーテは一日寝ていた方がいいな」
「え?」
おや? さっき熱があると言ったばかりじゃないか。困った子だな。悪い大人を騙そうだなんて。
「先に寝室に戻っていなさい。俺は薬の用意をしてくるから」
「く、薬はいらないんです。わたしは林檎を食べているから、平気なんです」
林檎にそこまでの病気予防の効果はないと思うが。君の通っていた教会学校の主神は林檎なのか?
「熱を出している妻を放っておくわけにはいかないな。夫として、そんな白状なことはできない」
「……ごめんなさい。熱なんてないの」
レナーテが小さく白状したから、俺は苦笑した。
簡単にばれる嘘をついてはいけないな。君みたいな素直な子は、嘘をつきとおせないのだから。
「俺の姿が見えなくて、不安になったのかい?」
「……はい」
「俺は何処へも行かないよ」
頷きながらも、レナーテは俺の寝間着の袖をきゅっと引っ張る。
「本当にわたしを置いて、何処かへ行ってしまわないでくださいね」
ああ。誓うよ。
君は俺の花嫁であり、家族だ。実家を後にして、ほとんど面識のない俺を信じて嫁いでくれた。
そんな君をどうして置いていくことができよう。
夜は、昼のように蒼穹に覆われていないから。白く潔癖な雲と、清い青空に見張られていないから。
きっと素直になってしまうのだろう。
レナーテは背伸びをして、キスをせがんできた。
「珍しいね。レナーテからとは」
「……いいの」
軽く唇を何度か触れさせた後、俺は深いくちづけを交わした。
柔らかな唇。彼女の頬はまだ熱い。だが、これはさっきの照れではなく、今自分からキスをしたことに対する羞恥心だろう。
まったく、困った子だ。恥ずかしさをこらえても、俺にキスがしたかったとは。俺に触れたかったとは。
「今夜はするつもりはなかったんだよ? レナーテも疲れているだろうし。君に負担をかけたくないんだ」
「わたしが、それを望んでも?」
レナーテ。そんな煽るようなことを言うもんじゃない。でないと、紳士でいられなくなるから。
レナーテからの返事はない。というか、ぴくりともしなくなってしまった。
「レナーテ?」
「し、知りません。覚えていません」
「いや、確かに聞こえたのだが」
細い腕のどこにそんな力があるのだと思うほどに、レナーテは俺の胴にしがみついてくる。
彼女の顔が当たっている胸の辺りが少し熱い、ような気がする。
風が出てきたせいで雲に月が隠れたのだろう。辺りが闇に沈んでいく。湖の波の音が遠くから幽かに聞こえる。
波が寄せては返す浜辺にいた白鷺や青鷺は、今は眠っているのだろうか。鳥はどんな夢を見るのだろう。
「レナーテ。顔を上げてくれないか? 顔を見せてほしいんだ」
「嫌です。恥ずかしいの」
「どうして?」
「だって、頬が熱いんですもの。きっと林檎みたいに真っ赤な顔をしているわ」
うん。それは最後に俺に会いたいと言った言葉が、間違っていないと自覚したからだよな。
「じゃあ、無理は言わずにおこう。だが、月も雲に隠れたし、顔だけは見せてほしいんだ」
「わたしの顔、見えませんか」
「ああ、ずいぶんと暗いからなぁ」
レナーテが安心するように呑気な口調で答えたが、実際は見える。
すでに暗闇に目が慣れてしまっているのだから。
だが、俺は今は悪い大人なので、平然と真実を伏せる。
おずおずと顔を上げるレナーテ。さすがに頬が朱に染まっているのまでは、判別できないが。恥ずかしさに潤んだ瞳と、下がった眉。その頼りない表情が愛おしい。
俺は少し膝を屈めて、彼女のひたいにくちづけた。
「確かに熱いな」
「熱が出たんです、きっと。もう部屋に戻ります」
「うん、そうだなぁ。じゃあ、明日はレナーテは一日寝ていた方がいいな」
「え?」
おや? さっき熱があると言ったばかりじゃないか。困った子だな。悪い大人を騙そうだなんて。
「先に寝室に戻っていなさい。俺は薬の用意をしてくるから」
「く、薬はいらないんです。わたしは林檎を食べているから、平気なんです」
林檎にそこまでの病気予防の効果はないと思うが。君の通っていた教会学校の主神は林檎なのか?
「熱を出している妻を放っておくわけにはいかないな。夫として、そんな白状なことはできない」
「……ごめんなさい。熱なんてないの」
レナーテが小さく白状したから、俺は苦笑した。
簡単にばれる嘘をついてはいけないな。君みたいな素直な子は、嘘をつきとおせないのだから。
「俺の姿が見えなくて、不安になったのかい?」
「……はい」
「俺は何処へも行かないよ」
頷きながらも、レナーテは俺の寝間着の袖をきゅっと引っ張る。
「本当にわたしを置いて、何処かへ行ってしまわないでくださいね」
ああ。誓うよ。
君は俺の花嫁であり、家族だ。実家を後にして、ほとんど面識のない俺を信じて嫁いでくれた。
そんな君をどうして置いていくことができよう。
夜は、昼のように蒼穹に覆われていないから。白く潔癖な雲と、清い青空に見張られていないから。
きっと素直になってしまうのだろう。
レナーテは背伸びをして、キスをせがんできた。
「珍しいね。レナーテからとは」
「……いいの」
軽く唇を何度か触れさせた後、俺は深いくちづけを交わした。
柔らかな唇。彼女の頬はまだ熱い。だが、これはさっきの照れではなく、今自分からキスをしたことに対する羞恥心だろう。
まったく、困った子だ。恥ずかしさをこらえても、俺にキスがしたかったとは。俺に触れたかったとは。
「今夜はするつもりはなかったんだよ? レナーテも疲れているだろうし。君に負担をかけたくないんだ」
「わたしが、それを望んでも?」
レナーテ。そんな煽るようなことを言うもんじゃない。でないと、紳士でいられなくなるから。
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