白苑後宮の薬膳女官

絹乃

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一章

12、白貂の名は天雷

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「ルイシュエさん、今日はありがとうございました」

 父親が部屋にいるときは表情の硬かった葉青だが、ようやく纏う空気が柔和になった。

「ひつようなものがあったら、このソンウーに言ってください。用意してもらいますから」
「お気遣いありがとうございます、葉青さま。食材は市場で購入いたしますから、大丈夫ですよ」
「でも、もってくるの、おもくないですか?」

 ためらいがちに口にする葉青を、瑞雪は見つめた。
 まだ八歳なのに、薬命司に気が遣える優しい子だ。思わず抱きしめたくなり、瑞雪は手を伸ばしかけた。

(いやいや、初対面だって。馴れ馴れしくしちゃダメだって)

 日々、白苑後宮で陰口を叩かれ孤独であるから、瑞雪も寂しいのかもしれない。唯一事情を分かってくれている斉一桐は上官なので、甘えるわけにもいかない。

「お心遣いありがとうございます。包丁や鍋などの道具はお借りしますが、食材は自分の目で見て選ぶのが一番なんですよ」

 自分の手が勝手に葉青を抱きしめてしまわないように、瑞雪は右手で左手を封じる。

「そういえば夏瑞雪さん。白苑後宮は新しく変わっていますが、かつての妃嬪はどうされていますか?」

 尋ねてきたのは侍女の宋舞ソンウーだ。

「奥の宮でお暮らしの方もいらっしゃいます。ご実家に戻られた方や、出家なされた方は存じあげませんが」
「まだ入宮なさった令嬢はいらっしゃらないのでしょう? どの宮も無人でしょうし、私がいた頃とは、ずいぶんと変わって寂しくなったんでしょうね」

 宋舞が遠い目をする。葉青は疲れてしまったのか、椅子の肘置きに上体をもたれさせている。「お嬢さま!」と、宋舞の叱責する声が飛んだ。

「宋舞さまは、先帝の白苑後宮をご存じなんですね」

 宋舞の注意を葉青から逸らせるために、瑞雪は話題を振る。
 父親や継母だけでなく、この宋舞が侍女として常に葉青の側にいるのも良いことではない気がする。

「え、ええ。それはもう。侍女として働いておりましたからね。それも前皇后の侍女ですよ」

 宋舞はうっとりと夢見るような瞳になった。その目には華々しいかつての白苑後宮が見えているのだろう。
 なるほど、だから葉青の侍女に選ばれたのか。
 けれど次の瞬間、宋舞は視線を落とした。

「この足が悪くならなければ、今頃は皇太后の侍女になることができたのに……先帝が存命の時に認めてくだされば、私とて……」

 どういう事情があって足を悪くしたのか。病か怪我か、あるいは事故か。そんな踏み込んだことを瑞雪は尋ねることはできなかった。

「では、葉青さま。お体に効く薬膳料理を考えて、すぐにお伺いいたします」

 葉青は慌てて椅子から降りた。だが、返事がない。
 揖礼をした瑞雪が顔を上げると、背の低い葉青がじっと瑞雪を見つめていた。そして視線を横に流す。
 その先に何かいるようだ。

「あの、ルイシュエさんのおむかえがきています」
「わたしに迎えなど」

 けれど葉青は池に面した戸を指さした。隔扇門窗かくせんもんそうといわれる格子窓が開いた床に、白い貂が一匹座っている。黒水晶のつぶらな瞳が、じっと瑞雪を見つめていた。

 天雷ティエンレイ? まさか、そんなはずはない。あの子が大きくなったら、似た風貌だろうけれど。貂の寿命は野生で三、四年ほどだ。天雷がどこかで飼われていたとしても、十五年が限界。
 もし本当に天雷なら、こんな風に若々しい姿でいるはずがない。

 期待してはダメだ。かけがえのない存在は叔母であれ、天雷であれ消えてしまったではないか。

「出て行きなさい、この汚らわしいイタチめ」と、宋舞が手で追い払う。

「イタチじゃないわ、テンよ。ほら、毛がちがうもの」

 葉青は白貂を指さした。イタチよりも毛が密で、ふわふわしている。しかも背後から差し込む陽射しを受けて、銀色に輝いて見える。なんという美しさだろうか。

「ずっととおいところから来たんですって。ルイシュエさんに会いたかったそうよ」

 動物と意思の疎通ができるかのように、すらすらと葉青は言葉を紡ぐ。

「はくえんこうきゅうは、よくよくシロテンにえんがあるのねぇ」
「お嬢さま、変なことをおっしゃらないでください。いつもいつも奇妙なことばかりで私を困らせて。宋舞はもうお相手できません!」

 癇癪を起こした宋舞は部屋から出て行ってしまった。
 バタンと閉まる扉を眺め、葉青は肩をすくめる。

「ソンウーもね、お父さまもあたらしいお母さまも、わたくしがへんだからイヤなんですって。ルイシュエさんもそう思う?」
「いいえ。変だとは思いません」

 瑞雪は首を振った。
 これがもし猫が入り込んだとかなら、葉青の話を信じることはできなかっただろう。けれど白貂だ。そうそう街にいるものではない。いや、天雷以外の白貂を瑞雪は見たことがない。
 貂の尻尾は、皇帝の冠の装飾に使われることがある。美しく密な毛皮は襟飾りにもなる。毛皮が高値で取引されるからこそ、天雷が白貂とばれぬように家族は必死だったのだ。

「その子に名前はあるのでしょうか」

 尋ねる瑞雪の声はかすれていた。聞くのが怖い。けれど確かめておきたい。
 葉青はうなずいて、隔扇門窗かくせんもんそうの方に進んだ。

「お名前はなんていうの?」

「にゃあ」と短く白貂は鳴いた。

 ほんの小さな声だったのに。もうそれだけで瑞雪は胸がいっぱいになった。この世に、他に猫の鳴き真似ができる白い貂なんていない。天雷意外には——

「ティエンレイだそうよ」
「はい……ありがとうございます」

 目頭が熱い。喉が塞がったように苦しい。どうしたのかと驚く葉青の顔も、きょとんと首をかしげる白貂の姿もすべてが水の中にいるように滲んでいく。

 天雷が戻ってきてくれた。十数年ぶりに。生死も分からなかったのに、元気な姿で——

「はくえんこうきゅうまで遠いから、ルイシュエさんをおむかえにきたんですって」
「賢い子なんです」

 溢れる涙を手の甲で拭いながら、瑞雪は微笑んだ。

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