白苑後宮の薬膳女官

絹乃

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一章

13、猫化計画

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 瑞雪ルイシュエは自分が五歳の頃のことを思い出した。

 雨が激しすぎて、辺りが白く煙って見える初冬の午後であった。瑞雪の実家の軒で雨宿りしていたのが天雷ティエンレイだ。
 びしょ濡れで、やせ細ったてんの子供はひどく震えていた。瑞雪も最初はイタチだと思ったのだ。

 イタチは魂を運ぶといわれている。イタチを殺した家族には不幸が訪れると。瑞雪はそのような伝承を知らなかったが、とにかく凍える貂を助けてあげたい一心だった。

 幼い瑞雪は家から大量の手巾てぬぐいを掴んで、外に飛び出した。貂は門扉の下をくぐって庭に入り込んできたのだろう。薬草畑を兼ねる庭の植物はすでに枯れ、茶色い葉や茎が氷雨に叩かれていた。

『どうしたの? 瑞雪』

 帰省していた叔母の欣然シンランが、傘を手に慌てて外に出てきた。

『あのね、イタチがいたの。さむいってふるえてるよ』

 小さな貂を瑞雪は抱き上げた。あまりにも軽くて、もし貂が濡れていなければ実体がないのかと思えるほどだった。

『なかにはいって、あたたかくしようね』

 貂はかすれた声で『……ぁ』と、か細く鳴いた。そして小さな体に見合わぬ爪で瑞雪の服にしがみついたのだ。

『イタチじゃなくて貂みたいね。うーん、山羊の乳なら飲むかしら。山羊の乳なら消化もいいし、体にも障らないわ。私が搾ってきてあげるから、待っていなさいね』

 欣然シンランが、土砂降りの中を家畜小屋へと向かってくれた。
 嵐の日に拾ったことと、強く育ってほしいと願いを込めて、瑞雪と欣然は白貂しろてんに「天雷ティエンレイ」という雄々しい名前を付けた。

 天雷は元気に育ち、瑞雪と一緒に屋根に上っては月を眺め、寒い朝は瑞雪の首に巻かれてもおとなしくしていた。

『天雷が白貂であることがばれると、まずいぞ』

 重々しい表情でそう告げたのは兄だ。五歳上の兄は薬舗の仕事を手伝っているから、博識だ。

『薬を買いに来た人に白貂って知られたら、きっと皮を剥がれてしまう』

 瑞雪は悲鳴を上げた。

『どうしたらいいの? イタチってごまかせばいい?』
『うーん、イタチが店にいるとお客さんが嫌がるしなぁ』

 なにしろイタチを殺せば不幸が舞い込むのだ。けれどイタチも貂も似た姿なのに、毛並みや毛づやが違うとこうも扱いが違うのか。

『それに天雷の姿を見れば貂って分かる。お客さんの噂を聞いた奴が狙うかもしれない』

 十歳の兄と五歳の妹はひたいを突き合わせて、うんうんと打開策を考えた。
 ただ一匹、状況が分からない天雷が瑞雪に体をすり寄せている。その様子が、まるで猫のしぐさに見えた。

『わかった。ティエンレイは人がきたら、かくれてて、ねこのふりをしたらいいんだよ。ねこってすぐにかくれるから、なんとかなるよ』

 子供って怖い。突飛もない解決策を思いついた上、兄は瑞雪の考えに「名案だ」と賛成したのだから。

『いーい? ティエンレイ。ルイシュエはね、ティエンレイとずっといっしょにいたいの。わるい人にねらわれないように、がんばるんだよ』

 天雷の軽くて長い体を抱き上げて、瑞雪は説明した。黒水晶の濡れた瞳に、真剣な面持ちの瑞雪が映っている。
 かくしてその日から天雷の猫化計画が実行された。

 
「あのね、テンのあやかしがいないか探してみますね」

 葉青イェチンが、巻物や書物がぎっしりと詰まった書棚へ向かう。

 令嬢の趣味嗜好として怪談はどうなのだろう。混乱する瑞雪をよそに、葉青は書物を引き抜いた。『岷国図経みんこくずきょう』だ。
 そう、少し前に説明されたばかりなので覚えている。この岷国に存在する妖怪や鬼神を集めた書物。
 さっきまで風前の灯火のようであった葉青はいきいきと目が輝き、頰は紅潮している。

 うん、知ってた。葉青さまの不調の大半は、心理的なものが占めているって。

『岷国図経』には載っていなかったようで、葉青は次の一冊、さらに次の一冊をめくっていく。

「これかしら、妖じゃないけど」

 机の上で開いた頁を葉青は指さした。

 ——貂能非常巧妙地変身

 貂はとても上手に化ける。その一文に続いて、いたちを殺すと不幸が舞い込み貂を殺すと火災に見舞われる、と書かれている。

「うまく化けることができるから、猫の鳴き声を真似できたのかしら」

 瑞雪は呟き、天雷に目を向けた。天雷は飽きたのかあくびをしている。暢気なものだ。
 ふいに葉青が咳き込んだ。

「横になってください、葉青さま」

 体調も考えずにはしゃいでしまったせいだろう。瑞雪は葉青を寝台に連れて行った。もし部屋に宋舞がいたらこっぴどく叱られていたことだろう。

「ごめんなさい、ルイシュエさん。つい楽しくて」

 力なく咳を繰り返しながら、葉青は笑顔を浮かべた。

「わたし、こんなだから。あたらしいお母さまにきらわれていて」

 瑞雪に布団をかけてもらいながら、葉青はぽつりとこぼした。人ではないもの、普通の動物ではないものが葉青には見えるし分かる。

「でもね、まだ赤ちゃんなんだけど、妹にはきらわれたくないなぁって思うの」
「葉青さまはお優しい方ですから。きっと妹さんも好きになってくださいますよ」
「ほんと? うれしい」

 冷たくてほっそりとした葉青の手に、瑞雪は手を重ねた。
 この子を守ってあげたい。その気持ちが、泉の底から湧く水のように生まれてきた。
 
 南家を辞した瑞雪は歩きながら、葉青の薬膳料理のことを考えていた。

「葉青さまの乾いた咳は、体力不足で肺の機能が低下しているのかもしれない。梨のしぼり汁が咳には効くけれど、まだ時季じゃないし」

 咳は体力を奪う。虚弱な人ならなおさらだ。
 長い塀の続く通りを歩く瑞雪の隣には、天雷がいる。本当に迎えに来たかのように、ぴったりと瑞雪に寄り添って進む。
 通りを行く婦人たちが「あら、かわいい」「短い脚で一生懸命について行ってるわね」と目を細めた。
 富裕な人たちの居住区だからだろうか。白貂と分かっても目の色を変える人はいない。天雷もそれを分かって、姿を現しているようだ。

「よかったね、天雷。かわいいって言われてるよ」

 瑞雪が話しかけても、天雷は素知らぬ顔だ。

「ねぇ、天雷。あなた、どうしていなくなっちゃったの? わたし、ずっと探してたのよ」

 宮城きゅうじょうほりにかかる橋を渡りながら、瑞雪は問いかけた。
 天雷が立ち止まった。何かを言いたそうに口を開くが、人語を解するといえど話せるわけではなさそうだ。もどかしそうに「うにゃうにゃ」と声を出している。
 猫化計画の結果がしみついているようだ。

「あなたまでいなくなって。寂しかったのよ」

 叔母の欣然が追放された悲しみと寂しさは、数年たっても癒えることはなかった。そんな瑞雪を置いて、天雷も家を出たのだ。
 まだ小さかった瑞雪は物音がするたびに、天雷が戻って来たんじゃないかと紙窓しそうを開けた。雨が降りはじめる土の湿った匂いがすれば、傘を持って外に走り出た。空気さえも凍りつくような朝には、襟巻である圍巾ウェイジンを握って表に出た。

『ごめんね、ティエンレイ。ルイシュエが首にまいたから、いやだったんだよね? こんどからは、ティエンレイをえりまきでつつんで、あたためてあげるから』

 どんなに呼びかけても探しても天雷は見つからず、いつしか瑞雪は諦めたのだ。
 どこかの空の下で天雷が凍えているんじゃないか、瑞雪のことを呼んで鳴いているんじゃないかと考えると苦しくて。

「母さんは、雄猫はなわばりを広げるために家を出るって言ってたけど。貂もそうなの?」

 ふるふると天雷は首を振る。
 すごい、本当に意思の疎通ができるんだ。瑞雪は感心した。

「ねぇ、触ってもいい?」

 瑞雪の問いかけに、天雷はドングリのように大きく目を見開く。後ろ脚で立ち上がって、緊張しているのが伝わってきた。

「あー、嫌ならいいんだけど。ほら、わたしは天雷が大好きだったから。つい、ね」

 橋の中ほどでイタチのような動物に話しかけている瑞雪を不思議そうに見ながら、何人もが宮城の門へと向かう。

 ——イヤなわけでは……

 濠の水面を渡る風のいたずらだろうか。天雷が答えたような言葉が聞こえた。
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