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第一話
惑わす森の
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ヨクルはランプのついた枝を杖にして、霧の中を進む。
彼の歩みは飛ぶように早い。まるで地に足がついていないかのようだ。
体力を温存しなければならないとわかっているが、走らないとついていけない。自分が体力のある方で助かった。
ヨクルを見ると、息一つ上がっていないように見える。一体、どういうことなんだ。
「異形が現れた地点はわかってるんですか?」
霧の中を迷いなく進んでいくヨクルに、俺は息を切らせながら尋ねた。
「ええ、大体は。鐘の音でわかります」
「鐘を鳴らす時のルールがあるんですか。一人で暮らしてると聞きましたが、見張りの番はいるんですね」
「いませんよ」
「え? じゃあ、さっきの鐘は誰が……?」
「ふふ。あの鐘にはちょっとした仕掛けがあるんですよ。おかげで、僕が常に森を見ていなくても良くなりました」
森を進んでいると、どんどん紫色の霧が濃くなってくる。
『──誰か助けて!』
静かな森の中、何処からか、女性の声が響いた。
俺は驚いて足を止めた。
「フロスティ辺境伯、今、人の声が」
「幻聴です。妖霧の中ではよく聞こえるんですよ」
「幻聴だって……?」
それにしてははっきりと聞こえた。
ヨクルは足を止めず、どんどん先へと進んでいく。
彼を追いかけながら、俺は耳を澄ませてみた。
『そこに誰かいるの!? 助けて! 異形に襲われてるの!』
『ママー!』
『もう大丈夫よ……! 助けが来たみたい!』
女性の声と一緒に、子供の声も聞こえてきた。親子だろうか。
「これ……本当に幻聴か……? 一度確かめに行くべきでは」
「異形の殲滅が最優先です」
ヨクルは冷たくそう言った。
「今は異形を倒すことが最優先だ」──分隊長の言葉が蘇る。
俺はあの時、指示に従わず、親子を助けた。だから今、この場にいる……。
『きゃああああああああああ!』
女性の悲鳴が響いた。
『異形、異形……! 嫌っ! 来ないで!』
『ママー!』
『お逃げなさい……! 人がいる方に走るのよ!』
『ママ! やだよ、ママ!』
『お願い、言うことを聞いて……! ねえ、そこに誰かいるんでしょう!? お願い! この子だけでも助けて!』
俺はヨクルの肩を叩いた。
「異形があっちの方にいるみたいですよ……!?」
「気を引くための妄言です。耳を貸してはなりません」
「だがっ!」
──行ってみないとわからないじゃないか。
幻聴だったら、それで良い。しかし、そうでなかったら……? 手遅れになる前に向かわなければ。
「ティルヴィングさん、何が聞こえますか?」
「女性と子供の、助けを求める声だ」
「そうですか。僕には雪の声が聞こえます。尊厳を踏み躙られ、怒りの中、身を溶かした雪達の悲鳴が……」
「今は冗談を言ってる場合じゃない!」
俺は声を荒げてしまった。
ヨクルはただ黙って、俺が落ち着くのを待っていた。
「幻聴はそれぞれ聞こえ方が違うものです。貴方の幻聴を、貴方以外の人が聞くことは出来ません。何故、貴方が焦っているのか、僕にはわからないのです」
「本当に……この声が聞こえないのか……?」
「ええ」とヨクルは頷いた。
「か弱い者の助けを求める声……貴方の気を引くには十分なようですね」
悲痛な声が聞こえる度、体の中心部から冷え切っていくような感覚がする。
俺は銀竜騎士団の騎士だ。
異形に襲われている人を助けなければならない。
はやる気持ちが抑えられない。
俺は……俺がすべきことは……。
「ティルヴィングさん?」
俺はハッと我に返った。
「……これと同じような声が、この森では〝よく聞こえる〟のか?」
「ええ。聞き慣れた僕にとっては、子守唄のようなものですよ」
女性の悲痛な声と泣き叫ぶ子供の声がまだ聞こえてきていた。
これは幻聴だ、と自分にそう言い聞かせる。
目を瞑ると、声が先程よりも鮮明に聞こえて、俺はすぐに目を開けた。
目に映った光景に、俺はハッと息を呑んだ。
木と木の間に、異形に襲われている親子の姿が見えたのだ。
「あそこにいる……! 俺には見える! 助けを求めてる人が!」
「ああ」とヨクルはなんてことのないように言った。
「それは幻影です。幻聴と同じ、貴方を呼び寄せるための手法に過ぎません」
「確かにいるんだ! 異形に襲われてるの親子が……!」
「こんなに濃い妖霧の中、どうして遠くの風景を見ることが出来るんです?」
ヨクルは肩をすくめて言った。
「もう良い……! 俺が助ける! ……おーい! 今行く! もう少しの辛抱だ!」
止めるヨクルを振り切って、俺は親子の元へ駆け出した。
だが、いくら走っても、親子の元に辿り着けなかった。
異形に襲われている親子の姿は、逃げている訳でもないのに、俺と一定の距離を保ち続けている。
一体、どうなってるんだ……?
依然として、親子の叫び声は聞こえている。
異形に襲われているのなら、そろそろ、声が途切れても良いはずだ。
俺は……騙されたのか?
ハッとして、後ろを振り返った。
ヨクルの姿はない。
俺は助けを求める親子に背を向け、来た道を引き返した。
……体が鉛のように重かった。
「フロスティ辺境伯! 聞こえますか!」
ヨクルの名前を呼ぶが、返事はない。
当たり前だ。彼の言うことを信じず、幻影に惑わされた俺のことを待っているはずがない。
彼は一人で異形の群れの元に向かっているだろう。
──「もし森で僕と逸れたら、来た道を引き返して下さい。僕の足跡を辿れば、屋敷に戻れるはずですから」
ヨクルの言葉を思い出した。
「そうだ。足跡!」
足跡を辿れば、ヨクルに追いつけるかもしれない。
俺は視線を下に向けて、ヨクルの足跡を探した。
雪は積もり続けているのに、足跡はくっきりと残っていた。
それも、ヨクルの足跡だけ。
幻聴や幻影で惑わせたかと思えば、「追え」と言うかのようにヨクルの足跡を残す。
奇妙──この森はあまりにも奇妙だ。
踵の方へ向かえば、フロスティ邸に戻れるだろう。
俺は迷うことなく、爪先の向いた方へと走り出した。
彼が異形と相対する前に──もの言わぬ骸となる前に。
どうか間に合ってくれ、と心の中で願った。
彼の歩みは飛ぶように早い。まるで地に足がついていないかのようだ。
体力を温存しなければならないとわかっているが、走らないとついていけない。自分が体力のある方で助かった。
ヨクルを見ると、息一つ上がっていないように見える。一体、どういうことなんだ。
「異形が現れた地点はわかってるんですか?」
霧の中を迷いなく進んでいくヨクルに、俺は息を切らせながら尋ねた。
「ええ、大体は。鐘の音でわかります」
「鐘を鳴らす時のルールがあるんですか。一人で暮らしてると聞きましたが、見張りの番はいるんですね」
「いませんよ」
「え? じゃあ、さっきの鐘は誰が……?」
「ふふ。あの鐘にはちょっとした仕掛けがあるんですよ。おかげで、僕が常に森を見ていなくても良くなりました」
森を進んでいると、どんどん紫色の霧が濃くなってくる。
『──誰か助けて!』
静かな森の中、何処からか、女性の声が響いた。
俺は驚いて足を止めた。
「フロスティ辺境伯、今、人の声が」
「幻聴です。妖霧の中ではよく聞こえるんですよ」
「幻聴だって……?」
それにしてははっきりと聞こえた。
ヨクルは足を止めず、どんどん先へと進んでいく。
彼を追いかけながら、俺は耳を澄ませてみた。
『そこに誰かいるの!? 助けて! 異形に襲われてるの!』
『ママー!』
『もう大丈夫よ……! 助けが来たみたい!』
女性の声と一緒に、子供の声も聞こえてきた。親子だろうか。
「これ……本当に幻聴か……? 一度確かめに行くべきでは」
「異形の殲滅が最優先です」
ヨクルは冷たくそう言った。
「今は異形を倒すことが最優先だ」──分隊長の言葉が蘇る。
俺はあの時、指示に従わず、親子を助けた。だから今、この場にいる……。
『きゃああああああああああ!』
女性の悲鳴が響いた。
『異形、異形……! 嫌っ! 来ないで!』
『ママー!』
『お逃げなさい……! 人がいる方に走るのよ!』
『ママ! やだよ、ママ!』
『お願い、言うことを聞いて……! ねえ、そこに誰かいるんでしょう!? お願い! この子だけでも助けて!』
俺はヨクルの肩を叩いた。
「異形があっちの方にいるみたいですよ……!?」
「気を引くための妄言です。耳を貸してはなりません」
「だがっ!」
──行ってみないとわからないじゃないか。
幻聴だったら、それで良い。しかし、そうでなかったら……? 手遅れになる前に向かわなければ。
「ティルヴィングさん、何が聞こえますか?」
「女性と子供の、助けを求める声だ」
「そうですか。僕には雪の声が聞こえます。尊厳を踏み躙られ、怒りの中、身を溶かした雪達の悲鳴が……」
「今は冗談を言ってる場合じゃない!」
俺は声を荒げてしまった。
ヨクルはただ黙って、俺が落ち着くのを待っていた。
「幻聴はそれぞれ聞こえ方が違うものです。貴方の幻聴を、貴方以外の人が聞くことは出来ません。何故、貴方が焦っているのか、僕にはわからないのです」
「本当に……この声が聞こえないのか……?」
「ええ」とヨクルは頷いた。
「か弱い者の助けを求める声……貴方の気を引くには十分なようですね」
悲痛な声が聞こえる度、体の中心部から冷え切っていくような感覚がする。
俺は銀竜騎士団の騎士だ。
異形に襲われている人を助けなければならない。
はやる気持ちが抑えられない。
俺は……俺がすべきことは……。
「ティルヴィングさん?」
俺はハッと我に返った。
「……これと同じような声が、この森では〝よく聞こえる〟のか?」
「ええ。聞き慣れた僕にとっては、子守唄のようなものですよ」
女性の悲痛な声と泣き叫ぶ子供の声がまだ聞こえてきていた。
これは幻聴だ、と自分にそう言い聞かせる。
目を瞑ると、声が先程よりも鮮明に聞こえて、俺はすぐに目を開けた。
目に映った光景に、俺はハッと息を呑んだ。
木と木の間に、異形に襲われている親子の姿が見えたのだ。
「あそこにいる……! 俺には見える! 助けを求めてる人が!」
「ああ」とヨクルはなんてことのないように言った。
「それは幻影です。幻聴と同じ、貴方を呼び寄せるための手法に過ぎません」
「確かにいるんだ! 異形に襲われてるの親子が……!」
「こんなに濃い妖霧の中、どうして遠くの風景を見ることが出来るんです?」
ヨクルは肩をすくめて言った。
「もう良い……! 俺が助ける! ……おーい! 今行く! もう少しの辛抱だ!」
止めるヨクルを振り切って、俺は親子の元へ駆け出した。
だが、いくら走っても、親子の元に辿り着けなかった。
異形に襲われている親子の姿は、逃げている訳でもないのに、俺と一定の距離を保ち続けている。
一体、どうなってるんだ……?
依然として、親子の叫び声は聞こえている。
異形に襲われているのなら、そろそろ、声が途切れても良いはずだ。
俺は……騙されたのか?
ハッとして、後ろを振り返った。
ヨクルの姿はない。
俺は助けを求める親子に背を向け、来た道を引き返した。
……体が鉛のように重かった。
「フロスティ辺境伯! 聞こえますか!」
ヨクルの名前を呼ぶが、返事はない。
当たり前だ。彼の言うことを信じず、幻影に惑わされた俺のことを待っているはずがない。
彼は一人で異形の群れの元に向かっているだろう。
──「もし森で僕と逸れたら、来た道を引き返して下さい。僕の足跡を辿れば、屋敷に戻れるはずですから」
ヨクルの言葉を思い出した。
「そうだ。足跡!」
足跡を辿れば、ヨクルに追いつけるかもしれない。
俺は視線を下に向けて、ヨクルの足跡を探した。
雪は積もり続けているのに、足跡はくっきりと残っていた。
それも、ヨクルの足跡だけ。
幻聴や幻影で惑わせたかと思えば、「追え」と言うかのようにヨクルの足跡を残す。
奇妙──この森はあまりにも奇妙だ。
踵の方へ向かえば、フロスティ邸に戻れるだろう。
俺は迷うことなく、爪先の向いた方へと走り出した。
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