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眠る虹 第一話
しおりを挟む幼い僕に祖母はよく言ったものだった。
「あの虹はね、起きている虹なんだよ。
虹というのはそこかしこに、数え切れないくらいたくさんあって、普段は眠っているんだ。
目覚めたときにだけ、ああやって七色の姿を現すんだよ」
僕は訊ねる。
「あの虹に登れる?」
祖母は笑いながら首を振る。
僕は、なお訊ねる。
「あの虹をくぐれる?」
祖母は言う、あの虹はくぐれない。でも、方法が一つだけある。
「いいかい、ジョー。そうしたいんなら、眠る虹を見つけることさ。誰にでもできることじゃあないけどね」
スマートフォンのアラーム音で目覚めた僕は、見ていた夢の残像を引きずったまま職場へと向かう支度を始めた。幼い頃の、祖母といる場面の記憶を元にした夢だった。
僕は衣類を扱う工場でピッキングの仕事をしている。職場では「派遣さん」と呼ばれる。
「派遣さん」と呼ばれることに、最初のうちは抵抗があった。あたかも「あなたの代わりはいくらでもいる」と言われているような。「きみに任せている仕事は誰にでもできる簡単なものだよ」と言われているような。大袈裟に聞こえるかも知れないけれど、やった仕事に対して正当な評価を下されない扱いを受けているような。そんな気持ちになった。
確かに最初のうちはその呼び方への抵抗感が強かった。それでも僕は、与えられた仕事を手を抜かずにやった。よく休む人や辞めていく人はたくさんいたけれど、僕は休まず毎日出勤を続けた。名前を憶えてもらい、「ジョー君」と呼んでもらえるようにもなった。少しずつ、社員の方たちの信頼を得られていく実感のようなものも湧いた。でもやっぱり、まとめて呼ばれるときやとっさに声をかけられるときは「派遣さん」のままだった。僕は少し、少しだけ、そのことにがっかりした。
自分の存在意義は無なのではないかと思ったこともある。真面目に勤めていても、越えられない垣根のようなものが職場にはあった。それを除けば取り立てて不満というようなものはない。僕はここではいつまで経っても「派遣さん」のままであるという、ただそれだけのことだ。
職場には一人だけ、僕の理解者のような人がいた。那須さんというその社員さんは、みんなには「ナスビ」と呼ばれよくいじられていた。とても気弱な印象の小柄な男性で、白髪混じり。とても物腰柔らかく優しい人で、声は小さくて滑舌が悪かった。そのことでも他の社員さんからはよく馬鹿にされていた。
那須さんの上司に美由紀さんという中年の女性がいるのだけれど、この人がまたとても気の強い人で言葉遣いも荒く、取り立てて那須さんには厳しくあたるのだった。
那須さんは僕に、そのことでよく愚痴を言ってくれた。「言ってくれた」というのは、他に適当な表現が思い当たらなかったからで、那須さんはそんな美由紀さんのことでさえ、悪く言ったりはしないからだ。
那須さんが人の悪口を言っているところを見たことがない。僕は内心、那須さんのことが大好きだったし、仕事を続けられたのも彼がいてくれたからだと言っても過言ではない。那須さんは本当に穏やかな人で、僕とも波長が合った。でも、那須さんのそんな人間性を正当に評価する社員さんは一人もいないみたいだった。僕はそのことで那須さんを気の毒に思った。
誰か一人でもいい。那須さんの優しい人柄を認めてくれたら。その丁寧な仕事ぶりを認めてくれたら。そう思う。
でもここではいつでも、優しさは弱さで、丁寧さは鈍さだった。そういう現実を、まるで僕たちは雨宿りでもするみたいにやり過ごした。雨の後には虹が出るものだと聞いたことがある。でも僕は、その虹をずいぶん長いこと見ていない。僕の周りの虹たちは、ずっと眠ったままでその姿を見せてはくれないようだった。
仕事を終えて帰路についた僕は、多恵ちゃんにLINEでメッセージを送り、ほとんど満員の電車に揺られた。僕の正面にいる乗客が僕の足を踏み、なぜか舌打ちをして僕に悪態を吐いた。足を踏まれたのは僕のほうなのだし、どうしてその人が悪態を吐いたのかはよくわからなかった。人の足なんか踏みたくなかったのかも知れない。その人は「踏ませるんじゃねえよ」とでも言わんばかりに、僕の目を睨みつけた。世の中には色んな人がいる。足を踏まれたことで腹を立てる人もいれば、足を踏んだことで腹を立てる人もいていいはずだ。僕は謝って、おとなしく両足を合わせた。
多恵ちゃんと結婚して五年が経とうとしている。
僕みたいな人間にとって驚くべきことかも知れないのだけれど、僕は結婚している。多恵ちゃんという人が僕の妻だ。そしてその出逢いこそ、更に驚くべき出来事だった。
初めて多恵ちゃんと接点を持ったのは、僕があるコールセンターへ電話をかけた時だった。
「お忙しいところ恐れ入ります。スマートフォンが使えなくなってしまって…」
「お問い合わせありがとうございます。使えなくなってしまったということでございますね。大変恐れ入りますが、具体的にどのようにお使いになれないのでしょうか。発着信、インターネットへの接続、アプリの起動など、お差し支えなければお聞かせ願えませんか?」
「インターネットとアプリ全部です。電話はできるみたいです、その電話からかけているから」
「かしこまりました。ご不便をおかけし、まことに申し訳ございません。つきましてはご本人様の確認を取らせていただいたうえで、ご契約内容等の確認をし詳細なご案内ができればと存じます。恐れ入りますが該当の携帯電話番号とご契約者様のお名前をフルネームで、お聞かせ願えませんでしょうか」
「はい。菊地条と申します。電話番号はーーーーーーー」
「菊地様。ありがとうございます、確認が取れました。ご契約内容をお調べいたします、お電話をお切りにならず、このまま一分少々お待ちいただけますでしょうかーーーーーーー」
…と、いった具合だった。僕は客で、彼女は受電者だった。
言葉遣いが恐ろしく綺麗で手際もよいオペレーターの女性だと思ったけれど、僕だってまさかこの相手と結婚することになるなんて夢にも思わなかった。
「ーーーーーーーご案内は以上でございますが、ここまででご不明な点はございますでしょうか?」
「いいえ、ありません。ご丁寧にありがとうございます、助かりました」
「とんでもないことでございます。お力になれて光栄です。ここまで田口がご案内いたしました。また何かございましたら、どうぞいつでもお気軽にお問い合わせください」
僕はその丁寧な応対に心を打たれた。
携帯キャリアへの電話だったので、僕の個人情報を彼女は一度は目にしている。とはいえ多いときで一日に百件以上の応対をこなす彼女にとって、僕を相手にしたことなど記憶の片隅にも残らないだろうと思われたがそうではなかった。
再会…というか、初対面の機会がすぐに訪れた。
僕は当時、今と同じ派遣会社から今とは違う派遣先へ勤めていた。勤務先は一人暮らしのアパートから一時間半くらいで、JR線と地下鉄を乗り継ぐため定期券を二枚持っていた。その二枚を財布に一緒に入れてしまうと、改札機が正常に反応せず通ることができない。そんなわけで僕は、一枚を財布に、もう一枚をコートのポケットに入れて通勤していた。
仕事を終え帰りの電車を待っている時だった。僕はコートのポケットに入れていた眼鏡拭きを取り出して、マスクをしているせいで曇ってしまった眼鏡を拭いた。そしてホームに入ってきた電車に乗り込もうと歩き出したのだが、その時ポケットに入れていた一枚の定期券を落としたらしい。それを拾ってくれたのが多恵ちゃんだった。
その時は僕はお礼を言い、それ以上の何事もなくお互い電車に乗り込んだのだが、次の日もその次の日も全く同じことが起こった。
僕は三日連続で眼鏡拭きを取り出す際に定期を落とし、彼女は同じように拾ってそれを僕に渡した。
同じようにと言ったけれど、三日目だけはそれまでと少し違っていた。
三日目、彼女は拾い上げた定期を渡す際に僕に「落としすぎですよ」と笑いながら言った。僕は恥ずかしさと妙な嬉しさが入り混じった気持ちで、「すみません。いつもありがとうございます」と言った。
その日、僕たちは初めて隣り合って、吊り革につかまっていた。僕は彼女に何か話しかけようかと迷っていたが、なんと彼女から僕に話しかけてきたのだ。
「スマートフォンの調子はいかがですか?」
僕は彼女が何を言っているのかよくわからず、一呼吸ぶんばかりの沈黙があった。
「失礼? ぼくのスマートフォンのことでしょうか?」
僕はすぐに、自分のスマートフォンがつい最近まで不調だったことを思い出した。コールセンターに電話して、トラブルシューティングをしてもらったのだ。幸いその日のうちに復旧して、今は何の問題もなく使えている。あの時のオペレーターの女性は本当に丁寧な対応をしてくれたな…、とそこまで思い出して、はっとした。
「すみません、違ってたらごめんなさい。もしかして、あの時の…」
彼女は少しだけ口角を上げ目を細めて、慎ましやかに笑った。
「本当はいけないんです。なんていうのかな、コンプライアンス的に。でも、まさかこうしてお会いできるなんて思ってもみなかったから。だって三日連続ですよ。私も、違ってたらごめんなさい。失礼ですけれど、キクチ・ジョウさんでしょう? 定期券のお名前を拝見して。ごめんなさい、見るつもりなんてなかったの」
「えっと…。タグチ、さん?」
僕はとても驚きつつもはにかみながら、彼女の名前を思い出した。
「はい。タグチ・タエと申します」
二人で隣り合って吊り革につかまりながら電車に揺られていると、なんだか不思議な気持ちになってきた。誓って下心は無かったけれど、彼女のことをもっと知りたいと思った。一日に何人もの利用者を相手に仕事をこなしながら、中にはクレーマーのような人だっているだろう、ノルマだってあるかも知れない。大変な仕事のはずだ。その中で、どうしてわざわざ僕のことなんて憶えていてくれたんだろう。それで、僕からも色々と話をした。どの辺りに住んでいるとか、普段何をして暮らしているとか、そういうことだ。
彼女は僕の利用している沿線に住んでいた。実家暮らし。猫と、お母さんとおばあちゃんと暮らしていると教えてくれた。
彼女が駅に降りる少しばかり手前で目の前の席がちょうど隣り合って二席空いたので、我々は座った。そこで、どちらからともなく連絡先を交換した。
「あのね菊地さん。明日は私、お休みなんです。だから、定期落としちゃダメだよ」
ぼくはまたはにかんで、わかりました。ゆっくり休んでくださいね。と、答えた。
彼女とはこの日のことがきっかけで、たまに二人で会うようになった。二週間に一度くらい。それが、一週間に一度くらいになり、シフト制のお互いの仕事の所定休の希望を合わせて休みの度に会えるようになり、やがてどちらからともなく、恋人同士となった。それほど長い時間はかからなかった。
我々は、付き合い始めてからちょうど一年で結婚した。式は挙げられなかったが、小さなアパートに二人で住み、それなりに幸せだった。それなりに、と言えど、多恵ちゃんは僕と二人で暮らせることを一番に幸せと思ってくれていたし、それは僕にとっても同じことだった。
結婚して二年が経つ頃、住んでいたアパートの更新のタイミングで、二人で貯めていたお金を元手にほとんどワンルームであったそのアパートからずっと広いマンションへ引っ越した。後からでも敷金を多く入れれば、猫と暮らすこともできるマンションだった。それは我々二人の念願でもあった。
間も無く僕たちは縁がありたまたま出逢った子猫の女の子を引き取り、三人での生活が始まった。彼女の名前はデイジーという。多恵ちゃんが付けた。
「ジョーくん。デイジーの花言葉って知ってる? たくさんあるし、色によってもそれぞれあるんだけどね。特に好きなのは、平和や、希望。ありのまま。そして、『あなたと同じ気持ちでいる』」
「素敵だね。でも、『あなたと同じ気持ちでいる』? それが、デイジーの花言葉なの?」
「そうだよ。あなたと同じ気持ち。わたしたちは、ちゃんと、同じ気持ちでいられるのよ。嬉しい時はもちろん、つらい時もね。かわいいおまじないみたいな名前でしょ?」
そう言うと彼女はくすくすと小さく笑った。デイジーは僕らを交互に見て、大きなあくびをした。
多恵ちゃんと結婚してからもうすぐ五年経つ。産まれて間も無かったデイジーももう三歳だ。時が経つのは早い。
祖母が亡くなってからどのくらい経つだろう?
今の職に就いてどのくらいだろう?
那須さんと出逢ってどのくらいだろう?
我々は、このままどこに向かって生きてゆくのだろう?
僕は、僕の愛するすべての人たちと、いつか。どこかに眠る虹を潜った先で、みんなで会えるだろうか。みんな同じ気持ちで、会えるだろうか。
僕は、どこかに眠る虹をいつか、探し出せるだろうか?
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