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オサキという女・「ルペ・ベレス」の話
しおりを挟むそれは若い女だった。
ぼくは棚に隠れながら左から回り込んで、建物の最奥の角からその人物を見た。お互いの距離はおそらく二十メートルばかり。ベースボール・キャップを被ったその横顔は端正で、汗をかきながら一心不乱に刷毛のようなもので壁に何かを塗り付けている。足の付け根くらいの丈のデニムパンツにTシャツという格好で、腰にぶら下げた鍵束がちゃりちゃりという金属音を響かせる。それはまるで看守が持っているような大きな輪っかが付いたキー・ホルダーで、帽子の後ろから出ているポニーテールの髪がその動きに合わせるように優雅に揺れていた。
ぼくは声をかけるべきか迷った。黄緑色の包丁を握った右手のひらの汗は、さっきまでの敵を目の前にしたときのような緊迫感とは違う種類の緊張によるものだった。
その人物の左手は例の文字を殴り書きしているわけではない、その落書きを消していたのだ。
ぼくは包丁を下ろしゆっくりと近づいて、彼女がこちらに気付くのを待った。
「人に会うのは久しぶりだわ」
女は作業を休めることもなく、突然そう言い放った。ぼくは唾を飲み込み、ただ黙ってその脚立の背後に立っていた。
「叔父以外の人間に会うのは、ということだけどね。私は国道沿いにずっと住んでる。あなたはこの辺の人じゃないわよね? 残念だけどもうマウンテンバイクは無いわよ、あいつらが全部持って行っちゃったから。代わりにこの落書きを残してね」
「連中のことを知っているの?」
思わずぼくは訊ねた。彼女は脚立を降り、バケツと刷毛をその上に置くと初めてこちらに視線を向けた。やはり美しい顔立ちをした女だった。
「そのことは私の叔父が詳しいわ。国道沿いにね、二人で住んでいるの。小さな整骨院だけど、とても腕が良いことで評判だった。叔父はそこの院長よ」
彼女は「オサキ」と名乗り、ぼくも簡単な自己紹介をした。そして人を探していること、この世界になってからずっと一人で生きてきたこと、ぼくがどこから来て、自宅付近がどのような状況になっているか等、ぼくの素性のほか知っている情報もすべて話した。
我々は彼女の掃除用具を乗せたカートを押しながら、国道四車線の真ん中を整骨院に向かって並んで歩いた。太陽は高く昇り、アスファルトの路面の照り返しが目に眩しかった。
「なんだかウォーキング・デッドの世界みたいだ」
ぼくは同居人の趣味でよく一緒に観ていた海外ドラマを思い出して、そう言った。
「そうね、ゾンビがいないだけまだマシ…。でもたちが悪いのは、これが紛れもなくソリッドでリアルな現実だってことよね。あなたこの世界になってから映画観たことある?」
まだ無い。と答えながら、ぼくは今朝方のレンタルビデオ・ショップのことも思い出していた。それで、「でもレンタルDVDなら選び放題の場所を知ってるよ。ちょっと散らかっているけれど」と言ってみた。
「散らかっているかは知らないけど、それってひょっとして線路向こうの朝霞にある店のことかしら? 商品が全部そろっていて気味が悪かったから、私がCD一枚だけ拝借してそそくさ帰ってきた、あの朝霞店…?」
「なんだって?」
ぼくは驚いて、立て続けに三つのクエッション・マークにおびただしい数のエクスクラメイション・マークを添えてオサキに浴びせた。
「なぜあの店にきみが? なぜあの店をきみが? 待って……」
彼女はその目を大きく見開いてこちらを見つめている。
「…『ボレロ』を借りていったのは、きみなの?」
それからぼくたちは互いに大きな声を上げて笑いあった。
物資調達の際それぞれがたまたま立ち寄ったレンタルビデオ店で、片や全部の商品が返却済みで気味悪がり、片やたった一枚を除いて返却済みで気味悪がり立ち去ったこと。片や一枚のCDだけを持ち出し、片や望んでいた一枚だけが貸出中だったこと…。奇妙で壊滅的な世界におけるその奇妙でささやかな偶然は、それだけで二人の距離を大きく縮めるに充分な出来事だった。
我々は愛好する音楽について語らい、小説について語らい、映画についての感想を述べあった。彼女はフェデリコ・フェリーニの作品を溺愛しており、中でも『8 1/2』を偏愛していた。ぼくは自分もそれがフェリーニ作品で一番好きであることや、そのタイトルと同じ名前を持つバーにかつて通っていたことを話した。彼女はとても強く興味をそそられた様子で、ぜひ行ってみたいと言った。そして朝霞のレンタルビデオ・ショップの二階の落書きを消し、一緒に綺麗にすることを提案してくれた。
「ところできみの家はまだ遠いのかな? 結構歩いたよね」
まくり上げたシャツで額の汗を拭いながら、ぼくはオサキに訊ねた。
「警察署の手前で路地を左に入るの。だからもうすぐよ。それにしてもそのバーのマスターにぜひお会いしてみたいわ。きっと私、仲良くなれそうな気がする。ほかにはどんな話をしたの?」
彼女は興奮した面持ちでぼくに質問した。このペースで歩くと警察署までは十五分とかからない。整骨院に着くまでの時間を逆算しながら、ぼくはオット・エ・メッゾのマスターと交わした会話の中で最も手頃なエピソードを選び出し、彼女に話した。
「うん…。さっききみに話した、デートコース・ペンタゴン・ロイヤル・ガーデンというバンドをぼくに教えてくれたのはマスターなんだ。そのバンドのリーダーが率いるまた別のバンドの曲で、『ルペ・ベレスの葬儀』っていうものがあってね、ぼくはその曲に今でも強く心を惹かれる。
そのバーにはいつも、ぼくにとって云わば宿命的な人に連れて行ってもらっていたんだけれど、その日初めて一人で訪れた。
当時ぼくは付き合っていた彼女との間に問題を抱えていて、そのことですごくナーヴァスになっていたんだね。昂った神経を鎮めるために、一人静かなバーに入って落ち着きたかった。生まれて初めてお酒が飲みたいと思った。
それまでマスターとは二人きりでしゃべったことはなかったのだけど、なぜだかその日は自分でも驚くくらい、色々なことをマスターに打ち明けた。遅い時間でお客はぼくしかおらず、閉店にはまだ早かったけれどマスターは店を閉め、ぼくのためにその曲をかけてくれた。そして、ルペ・ベレスの話を聞かせてくれたんだ。
ルペ・ベレスはメキシコ出身の実在したハリウッド女優で、とびきりセクシーな若き日の彼女はその持ち前の美貌と奔放さで多くの人を虜にした。しかし星の数ほどの女優たちが辿ったように彼女もまた、時の残酷な洗礼をうけて忘却の坩堝へと葬り去られてしまう。女優としての人気は尻すぼみ的に低迷してゆき、私生活でもどんどん落ちぶれていった。人々は彼女のことなんか忘れてしまったんだ。
あるとき、ルペ・ベレスはついに自殺を決意する。三十代も半ばに差しかかっていた彼女はせめて美しいままで死にたいと考え、大量の睡眠薬を服用しベッドに横たわる。朝になれば望みどおり美しいままの死体となって発見されるはずだった。
しかし実際には、彼女は便器に頭を突っ込んだ状態で発見された。猛烈な吐き気で目を覚ました彼女は、最後の晩餐であったメキシコ料理の残骸を部屋中に撒き散らしながら、辿り着いた便器に向かってなおも吐き続け、そしてそのまま息絶えた。吐瀉物にまみれたその最期は、彼女の求めた美しさとは対極の醜怪な死に様だった」
「なんていうんだろう……。皮肉ね、まさに」
「まさにね。滑稽さを通り越して、ただただもの哀しい…。そんな彼女の葬儀というタイトルが付けられた曲なんだ」
「なんだか、ひと口には言えない複雑な教示のようなものが感じられるわね。あなたにもそれが感じられたんでしょう? そのためにマスターは二人きりであなたにその話をし……その曲をかけた。何かを伝えようとしたのね」
彼女はそこで立ち止まり、ここを曲がるのだとその左手で示した。路地を入ってすぐに見えてきたその庭は手入れの行き届いた見事な日本庭園で、その門ではどことなく男性的な斜幹の赤松が久方ぶりの来客を威風堂々と出迎えていた。
「これがきみの言う小さな整骨院?」とぼくは言った。
「叔父さんはちょっと変わった人だけど、そんな風に驚かないでね」と、彼女は言った。
「院長は整体よりUFOがお好きなの」
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