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2012年3月31日
しおりを挟む「いらっしゃいませ……なんだ。今日は早いね」
マスターは読んでいた本を慌てて閉じたが、客が僕だと分かるとにやりと笑ってウインクした。
今日は土曜日だったが、まだ開店して間もない時間帯で店内に他の客の姿は見当たらない。入り口に一番近いカウンター席に着いておしぼりを受け取った。
「どうも。健たちと落ちあうことになってるんです。ところで何読んでたんですか?」
マスターは僕のために瓶ビールをグラスに注ぎながらBGMに合わせてハミングしている。
「マグロンヌ・トゥーサン・サマ。『世界食物百科』だよ」
オット・エ・メッゾは線路沿いにある小さなバーである。
地図上は朝霞市なのだが志木駅から徒歩数分とほど近く、同じ朝霞市内でも僕のアパートは反対側の端でかなり離れている。
美味い酒を出すことでつとに有名であり、二十年以上も前から営業を続けている云わば老舗であった。
広くはないが木を基調とした落ち着いた店内では、分厚い一枚板のカウンターテーブルを筆頭に趣味の良い調度品の数々が温かくもクールな空間作りに一役買っている。
中でも片隅に置かれた年代物のチェンバロは博物館級に価値の高い逸品であるらしく、空間との調和を保ちながらも厳かな雰囲気を醸し出していた。
マスターは仲良くなってみるととてもお茶目な人だったが、多くの客を満足させるプロとしての一面を持っていた。
四十歳を越えていたが実年齢よりも十歳は若く見える。なんでもオット・エ・メッゾがオープンした当初はウエイターとして働いていたそうで、それまでも夜の世界でバーテンダーとして修行の日々を送っていたらしい。三十歳のとき以前のオーナーから店を買い取り、以来ずっとマスターひとりで切り盛りしている。
「健くんなら先週一人で来たよ。なんていうの? こう…初々しい感じでねぇ。ほんとかわいい子だよな。今どき珍しい…」
誰かさんと違ってね、という目付きでこちらを見たので僕は笑った。
「何か相談でも受けたんですか? あいつ、酒飲めないでしょう」
「コーラありますかって聞くからさ、まあもちろんコーラはあるんだけれど、ノンアルコールのカクテルを作って出したよ。イチゴが旬モノだったからね。うちではそういうのもやってる」
マスターは誇らしそうにメニューの最初のページを開いて僕に渡す。あなたのお好みをお申し付けください。
「ちょっとおしゃべりしただけかな。あと自家製ピクルス盛り合わせを大盛りで注文してくれたね」
「確かにここのピクルスは絶品ですからね。じゃあ次ボウモアのロックと……自家製ピクルス、大盛りで」
「あいよ」
健を初めてこの店に連れてきたのは昨年の十二月のことで、そのときは七海も一緒だった。三人でカウンター席に並び、時折マスターも交えながら談笑していたが、健は終始緊張しているように見えた。七海や僕は例外的なケースであり、彼は基本的には極度の人見知りなのだ。しかも下戸である。
その後も白石ちゃんを含めた四人では幾度となく店に来ていたものの、健が一人で足を運ぶなんて僕にはちょっと考えられなかった。
「マスター、さっきの話ですけど…。健、ほんとに変わったところありませんでした?」
「そうだねぇ…。まあ悩みってのは多かれ少なかれ誰にでもあるものだしさ。たまには一人、静かなバーに入って落ち着きたいときがあるんじゃないかな? よほどうちのピクルスがお気に召したのかも知れないし、あるいは」
マスターはいたずらっぽく微笑んだ。
「美味い酒を出すバーテンダーほど守秘義務を負うものなんだよ」
「なるほど」
僕は妙に納得して、ウイスキーのオン・ザ・ロックをすすった。新しい二人連れの客が入ってきてマスターに挨拶をし、奥のカウンター席に座った。外では雨が降り始めているようだった。
店が賑わい始めたので早めに四名席に移らせてもらった。このまま混み続けると席を取っているのが申し訳なくなるところだったが、幸いすぐに三人はやって来た。
「駅を出たら急に降ってきちゃって…けっこう土砂降りよ」
七海だけが傘を持っており、白石ちゃんと一本の傘に入ってきたらしい。健はジャケットを傘代わりにしたようで背中がびしょ濡れだった。忙しい中マスターがおしぼりと一緒にタオルを持ってきてくれた。我々はそろって礼を言い、とりあえず三人の最初の飲み物と簡単なつまみを注文した。
「さて」
各々にスツールに腰かけたところで、いつものように僕から話し始めた。今度の夏休みに四人でどこへ出掛けるか、壮大な旅行計画の話題だ。
「旅行? いいねぇ。俺は個人的にはウイスキーの蒸留所巡りを強くおすすめするね。スコットランドにいい島があるのよ。良かったらパンフでも取り寄せて……」
飲み物を運んできてくれたマスターが割り込んだので四人とも笑った。
「ありがとう。でもマスター、それをしたがるのはこの人だけよ」
七海が僕を指して言う、「私たちのグループは民主制でやってるから。それは否決ね」
「残念ながらね」
両肘で頬杖をつきながら、重そうな銀製のブレスレットを着けた白石ちゃんも僕を見て言う。すがるように僕は健のほうを見る。
「アマガタさん…そういうことです」
そして今度は五人とも笑う。
「ごゆっくりな」
マスターはみんなに向かってそう言うと、こないだはありがとうなと健の肩を叩きカウンターの中へ戻っていった。
健がトイレに立ったとき、白石ちゃんが改まった様子で僕に言った。
「アマガタさん。ちょっと個人的に相談があるんだけどいいかな。今日、この後」
「相談って、俺に?」
いきなりのことで驚きながら、僕は親指で背後の化粧室を指し示した。
「もちろん構わないけど…あいつは?」
「タケルに関することなんだ。七海ちゃんには話したことだけど…男性として、あたし、どうしてもアマガタさんの意見も聞きたいの。ここじゃ言えないことなの」
彼女はそれなりに酔っているようではあったが、真顔だった。七海に目配せで助けを求めても、ゆっくりとただ一度頷くのみだ。
七海はその個人的な相談とやらの内容を知っているようだったし、お酒が入った女の子を一人電車で帰らせるのもまずかったので(なにより健の代わりに僕が送っていくことを彼女自身が強く希望したので)、結局僕が白石ちゃんを三軒茶屋のアパートの部屋まで送り届けることになった。
白石ちゃんのアパートは田園都市線の池尻大橋駅と三軒茶屋駅の中間あたりにあった。
大学進学と同時に上京し、同じ学部の健に一目惚れして交際を始めた。
彼女の実家は静岡県にあり、我々四人の例に洩れずまずまず裕福な家庭だった。静岡産の女の子は日本一胸が大きいというのが持論らしく、その情報ソースは不明だったものの彼女の乳房は持論に違わず見事なものだった。
彼女は、歳が二つほど離れていたこともあってか「頼りになるお姉さん」以上の存在として心から七海を慕っていた。
二人はよく一緒にいたので、彼女の官能的な体躯はすらりと背の高い七海とは好対照をなすように美しく映えた。まさにグラマーとスレンダーといった感じで。
また、どちらかというと西洋的な端正さを備えた七海の顔立ちに対して白石ちゃんは日本的な童顔美人だった。しかも彼女はシルバーアクセサリーが大好きで、いつも骸骨の連なったごついブレスレットとクロムハーツの喜平チェーンのブレスレットを重ねて愛用していた(骸骨のものは、なんでも作者の生前の作品か没後の作品かで価値が違うらしい。真贋判定が難しいらしく、このスカルブレスは生前ものの本物だと僕に自慢してきたことがある)。二人の対照的な雰囲気や白石ちゃんの趣味嗜好のギャップも相まって彼女らのツーショットは学内でも目を引く存在だった。
部屋に着くと白石ちゃんはすぐ冷蔵庫から缶ビールを出しふるまってくれた。まずはひとつ飲み直しましょう、ということなのだろう。そしてブラの締め付けが堪えられないの、と目の前でいきなり服を脱ぎ始めたので慌てて隣の寝室へと連れていかねばならなかった。
彼女がだっぽりとしたパーカーとスウェット・パンツに着替えてくるのを待ち(彼女は楽な服装に着替えてもじゃらじゃらと重ね着けした銀のブレスレットは外さなかった)、我々はとりあえず缶ビールで乾杯した。
「アマガタさんは不公平だと思わない? おんなばっかりブラジャー着けなくちゃならないなんてさ。こんなのってね、ちょっと優しめの拷問みたいなものだよ。メイクも、セイリも、全部おんなばっか。おとこの人は楽でいいよね」
そう吐き捨てると彼女はふくれっ面のままビールをぐいっと飲み下した。
「ねえ。アマガタさんはどう思ってる? そのことに関して。男性代表としてはさ」
「世の男性を代表して意見を言える立場じゃないけど、きみの言ってることは概ね正しいと思うよ」
僕もビールをぐいっと飲み下して答えた。
「そしてそれはきっと、今日の本題とも関わりの深いことなんだろうね」
彼女は大きくため息をついた。
「そうだよ。今日の本題とも関わりの深いこと。でもひとつだけ、あらかじめことわっておきたいのはね。あたしは今日これから、もしかしたらへんなことをするかも知れないけれど、それを誤解しないでね。ということなの」
僕は黙って話の続きを待っていた。しかしどうやら彼女は、まずはここで僕の同意を求めているようだった。
「分かった。きみは今日これからへんなことをするかも知れないけど、それについて誤解はしない。…つまりどんなことをきみがしたとしても、俺たちの関係は変わることはない。そういう解釈でいいのだろうか?」
「うん。ある意味ではそれでいいの。さすがアマガタさん。あたまがいいね。でも付け加えるなら、それはあたしたち二人のではなくて、七海ちゃんもあわせた三人の関係ってことかな。逆に言うとね、タケルとあたしの関係は、それによっていい方向へ変わると思うの。というか、変わらなくてはいけないの。だからはっきり宣言するけど、あたしはタケルのことが一番大事。世界でいちばん、愛しているのよ」
僕は肯き、お互いに必要な分の沈黙を推し量った後で口を開いた。外の雨はもう止んだみたいだ。
「それはよく分かってるよ。だからこそ立ち入ったことを聞くけど、きみはおもに性生活のことを言おうとしているのかな、もしかして?
白石ちゃんは健と家庭を持ちたい、それは前々から公言してたよね。でもそのことに関係する何らかの問題が、今きみたちの間で持ち上がっている。対処できなければきみの夢は壊れかねない…それを恐れているんだね?」
僕は注意深く言葉を選びながらゆっくりとしゃべった。デリケートな話題だし、成り行き次第では僕も無傷では帰れないかも知れない。
心地良い四人の関係を壊したくないし、それは彼女にとっても最優先事項であるはずだ。
しかし僕の脳内では危険を伝える耳障りな警報音とそれを遥かに凌駕する甘美な誘惑とが対立している。まもなくノイズは波に呑み込まれることを知っている。舵を失うことに昂っている。新しいコンパスは彼女の最優先事項はタケルだと甘く囁く。彼女は薄っすら涙さえ浮かべているーーー僕の一言ひとことを、反芻するかのように大きく肯きながら聞いている。
「そのとおりだよ、アマガタさん。あたしはね、知ってしまったんだ。タケルの本心を……待ってね、ちゃんと話す」
彼女は本格的に泣き始めていたので、その腕を伸ばしティッシュの箱を手もとに手繰り寄せた。改めて座り直したとき、僕との距離は会話が中断する前よりもずっと近いものになった。僕は彼女の肩を抱いた。それは一瞬はっとさせられるくらい、柔らかくて温かかった。ゆっくり擦ると、それに合わせるようにして静かに、言葉を区切るように話し始めた。
「気付きたくなかったことだけど、後からわかったの。
知ってしまってから、あたしの中でそれを認めたくないって気持ちがどんどん脹らんでいった。
だけど思ったんだ。誰のせいでもないんだってこと。ううん、最初からわかっていたんだ、誰も悪くないってことくらい。
でもあたしの中で脹らんだ感情は、どこかに責任の所在を求めはじめた。怒りの矛先を向けるべき相手を。
結局それは、よく知りもしないことをただ否定するだけの人たち。それを横目に見て、『わたしは無関係だ、ああ良かった』って安心してるたくさんの人間たちだよ。
けどね、その怒りはすぐに、自分のほうに向き直ってきた。タケルの心に気付けなかったという目の前の事実に腹が立った!
それを認めたくないって一瞬でも思っちゃった、あたしの心にも腹が立った! 自分自身に腹が立ったの!
ずっと一番近くにいたのに。どうしてなの? 隠す必要なんてないのにね。きっとタケルはつらかったんだと思う。今でもタケルはつらがっているんだよ。世の中の誰よりもね、苦しんでるの」
「健は」
それは自分でも驚くくらい乾いた声だった。重力の均衡が失われた声だ。それに、まるで体温というものが感じられない。
「きみのことを愛していなかった?」
彼女は声を上げて泣き出し、最後に「わからない」とだけ答えた。
そして僕から離れ立ち上がると、着ている服を全部脱いだ。部屋の蛍光灯をうけて鈍く光るブレスレットだけが、彼女の身につけているものの全てだった。
彼女はよく見て欲しいと言った。このからだをよく見て欲しいと。
きめ細かな肌は白く透きとおるようで、まるで生まれたての石膏像のように滑らかで張りがあった。乳首は綺麗に上を向き、きわどい薄ピンク色の乳輪が周りを大きく縁取っている。
一方でその肉感的な曲線美はむせ返るほどに生々しく、細く柔らかな陰毛は不完全な美を増長していた。その生々しさは紛れもなく有性生殖の対象物であり俗物的な性の記号そのものだった。
彼女のからだは芸術的であり同時に俗物的であった。
それはこれから数秒後には我々が性行為に及ぶことを宿命づける呪詛のようなものだった。
彼女のヴァギナはどろどろにぬめり、僕のペニスを即座に受け入れた。僕たちは立ったままで、腰を何度も何度も打ち付けあった。彼女の中はとても浅く、その新鮮な子宮をペニスが強く突き上げた。彼女は恍惚の声を上げた。衝撃で手が電灯のスイッチに触れ、部屋が真っ暗になると同時に勢いよくその場に二人で倒れ込んだ。収縮したヴァギナは硬直したペニスを咥え込んだまま離さなかった。僕も彼女も我を忘れたように夢中で腰を打ち続け、僕は熱く火照ったその溜まりの奥に激しく射精した。その脈動は永遠を想わせるほどに長く力強かった。僕のペニスは彼女の膣奥で絶え間なく脈打ち、一番深いところへと精液を吐き出し続けていた。
僕たちはそのままで朝を迎えた。彼女の中はいつまでも熱く湿っていて、僕はいつまでも硬いままだった。時折訪れる射精の度に彼女の膣は小刻みに痙攣して、ちぎれるくらいの強さで僕を搾り上げた。
彼女はうわ言のように何度も、健の名前を僕の耳元で囁いていた …。
白石ちゃんはその朝、昨日の話の続きだと言って僕に一枚の封筒を差し出した。
「これはつまり…、俺に対する手紙か何かなのだろうか?」
僕は気になってその中身について訊ねた。
「ううん。そうじゃないよ。タケルが小説を書いてることはアマガタさんも知ってるよね? それは彼の作業机の抽斗の一番奥から、あたしが見つけ出したものなの。できればタケルには内緒で、一人のときに読んであげて」
僕は黙って肯き、家に帰るべく玄関に向かおうとしたが一つ思い出して立ち止まった。
「ねえ白石ちゃん。健とのこと、俺に話す前に七海にも相談したって言ったよね。…七海はなんて答えたの?」
「うん、話したよ。七海ちゃんには全部、言葉で話した。でもねアマガタさん。それは今あたしの口からは、聞かないほうがいいと思う。その封筒の中身を見たら、きっと分かるはずだよ」
彼女の表情からは、その言葉以上の意味を汲み取ることはできなかった。
「そうか…。ありがとう。それじゃあ…」
「待って! 何か食べていきなよ、お腹すいてるでしょ?」
彼女は眩しく笑って僕を引き止める。
「なんでも作ってあげるからさ。あたしこう見えて料理けっこう上手いの」
食欲は湧かなかったので少し躊躇したが、その笑顔に押されて今食べたいと思える料理の名前を思い浮かべてみた。
「じゃあ、鯖の味噌煮なんか作れないかな」と僕は言った。
「お安い御用だよ。さあさ! そこに座って待っててね」と、彼女は言った。
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