星空のボレロ

相原伊織

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黄緑色の包丁・目的地で見たもの

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 人の姿が見えないということを別にすれば、街は表面的には以前とそれほど変わりがなかった。



 鳥たちはさえずりながら木々を渡り、太陽は薄手のシャツ越しにぼくの肌をじりじりと焼こうとしている。まだ四月だというのに、暑い一日になりそうだった。ぼくは肩からぶら下げた水筒の蓋を開け、その冷たい水をコップ一杯飲み干した。



 のことでもうひとつ不思議だったのは、それができるはずなのにライフラインをすべては押さえなかったということだ。ぼくの家ではまだ電気を使うことができたし、水道も止められてはいなかった。おかげでこうして氷入りの水を飲むこともできるし、背中のリュックに詰めたCDを楽しみにすることもできるわけだ。しかしガスはいつからか使えなくなっていたので、すでに元栓を閉めて危険を回避している。



 考えれば考えるほど、のすることには不可解な点が多かった。いずれにしてもその姿の見えない相手から、いざというときに身を守るための武器が必要だった。現在のところ、武器と呼べるものは腰に通したベルトに差している心許ない黄緑色の包丁一本だけだ。



 それはぼくの恋人であり同居人でもある彼女の趣味だった。ぼくたちの部屋のあらゆるものは、どれも同じ黄緑色で統一されている。芝生のようなラグや、トイレマットや、カーテンやシーツから壁掛け時計まで。彼女は料理が好きで腕もなかなかのものだったが、調理器具としての性能に目を瞑ってまで、こんなおもちゃのような包丁や使い勝手の悪いぺらぺらのまな板を買い揃えていた。すべては黄緑色であるという理由だけで。




 世界のが引かれたとき、彼女は仕事をしていたはずだ。ぼくはインフルエンザの診断をうけていて、高熱で朦朧としながら朝家を出る彼女を玄関まで見送った。



「無理して降りて来なくていいよ。ちゃんと寝てなさい」



 階段は家の中にあったので、手すりに力なくしがみ付きながら降りて来るぼくを見てそう言った。



「うん……。気をつけて」



「ありがと。いってきます」



 彼女はぼくのマスクを下にずらすと唇にキスをして家を出た。うつるよ…? とぼくは言ったが、もう玄関のドアは閉まっていた。それが我々の交わした会話の最後だった。



 ぼくは下って来たときと同じようにのろのろと階段を上りきると寝室まで壁をつたって戻り、ベッドに倒れ込んだ。目が覚めたときには熱は下がっていて、世界は変わり果ててしまっていた。彼女がどこへ行ってしまったのかも、無事でいるのかどうかもわからない。ただそれがの仕業であり、奴らがぼくをフェイリュアと呼び憎んでいるということのほかには。




 国道254号線に出ると、ぼくは右に向かって歩を進めた。左にずっと歩けば池袋で、そこには彼女の職場である大きなオフィス・ビルがある。国道沿いに建つそのビルを通り過ぎ、さらにずっと歩けば新宿・渋谷まで出られる。



 人が消えてからそちらの方面へ行ったことはまだないが、いずれは行かねばなるまい。そのためには心の準備と、でき得る限り万全の装備をして臨まなければならない。黄緑色の包丁一本では、未来を切り開くことはできないのだ。





 目的地である大型スーパーマーケットは以前と変わらぬ外観でそこにあった。例えるならアメリカのそれのような超大型の倉庫を思わせる建物だ。大規模な駐車場があり、子どもが二人乗ってもまだたっぷり品物を詰め込めそうな、カゴと一体型のカートがある。



 ぼくは車を持っていなかったので一度しか訪れたことはなかったが、建物内にはホームセンターのような一画もあり武器として使える物が手に入るかも知れない。カートが残っていれば大量の物資を持ち帰ることもおそらく容易だった。問題はその大量の物資が現存しているかどうかだ。



 ぼくはその巨大な倉庫の入り口に立つと、験でも担ぐみたいに包丁の切っ先で十字を切った。特に理由はないのだが、いつも大きな建物に足を踏み入れる際には必ずそうしている。



 入り口は二重扉で、扉と扉の間の空間に例の巨大なカートが大量に並べてあった。包丁を腰に戻し手のひらの汗をズボンで拭うと、ぼくは一台のカートと共に二枚目の扉を抜け店内に入った。



 そこは想像していたとおりの状態だった。高い位置に取り付けられた窓から差し込む陽光は、あたかも世界中の時間が停止してしまったかのような…ある種の絵画的印象をぼくに与えた。入り口近くの食料品売り場は棚だけが残されていて、その上には薄っすらと埃が積もっている。すべては奪い去られた後で、何も残されてはいないようだった。



 ぼくはいったんカートを放し、時間をかけてジグザグにすべての棚を回ってみた。見事に綺麗に何も無かったが、酒類のコーナーで棚と棚の隙間に一本売りのカルパスを見つけることができた。埃を被っていたがきちんと密閉されているし、けっこう重量感もあった。たった一本ではあるがこれは収穫だ。ぼくは丁寧に埃を払いそれをリュックに仕舞うと、カートに戻り店のさらに奥へと進んだ。



 建物は巨大なL字型をしている。入り口からまっすぐ続く大きな通路があり、左右それぞれに細い通路となって無数に枝分かれしている。その大きな通路は入り口正面の突き当たりで直角に左に折れ、そのまま最奥まで続く。角を曲がる手前までが食料品、先がそれ以外の売り場となっている。



 ぼくの記憶が正しければ、その一番最後の突き当たりは自転車売り場で、最奥の壁一面には高そうなマウンテンバイクが飾られていたはずだ。そこに辿り着くまでの間にホームセンターのような一画があり、園芸用品や台所用品や日曜大工に使うような工具まで置いていたはずだった。ぼくはカートを押しながら、その大きな通路を左に曲がった。



 左右を見回しながらゆっくり進んでいたがやはりどの棚も空っぽで埃が蓄積している。ふと正面に視線を移したとき、ぼくはとっさにカートから離れ棚の影に隠れた。距離は五十メートル以上あると思う。遥か先の突き当たりで、何かが動いているように見えた。



 ぼくは包丁を取り出しの部分を強く握りしめると、小走りに中央通路を進んだ。だんだんと近づいていくに連れ、それが何であるのかがわかった。それは脚立に乗った人間だった。壁側を向き、右手にバケツらしきものを持ち、左手を動かしていた。どうやら何かを壁に塗り付けているようだ。そしてその背中越しに赤い文字のようなものが見える。壁一面に。



 ぼくは全身の毛穴が収縮するのを感じる。脇の下からは嫌な汗が噴き出す。今ぼくの目の前にいるのは、の仲間であるかも知れないのだ。

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