星空のボレロ

相原伊織

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2016年3月31日

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〈ふと、名付けようのない感情が心に浮かび上がってくることがある。



 それは一般的には哀しみなのかも知れないし、ただの孤独感なのかも知れない。僕にはわからない。



 でも僕にはその感情を描写して、自分なりの言葉で表すことはできる。



 それはまるで、石を投げ込んでから水面を打つまでに何秒もかかるような深い深い井戸の底で、膝を抱えて座り込んでいるような。



 井戸の底においては、明かりはまるで冬の満月のように高く小さく浮かび、僕には手の届かない安らぎを体現したような光を投げかけて。



 に手をかざし、僕は取り返しのつかないとうに過ぎ去ってしまった時間のために涙を流す。



…そんな感情だ。哀しみなのだろうか。孤独感なのだろうか。僕にはわからない。こんな感情を抱くのは僕だけなのだろうか。あるいは、みんなそうなのか。




 ただ、もしみんながーーー僕以外のあらゆる人々がーーー僕と同じように、それぞれの水の枯れた深い井戸の底に座り込んでいたなら、我々はどのようにして分かり合ったりつながり合ったりすることができるというのだ? 



 今の僕に思いつける確かなことはひとつしかない。



 



 ダンテも、カントも、フィッツジェラルドも。とうに滅びた王国の王女も、伝説の英雄も、おそらくは僕らの百年後を生きる人々でさえも。



 あるいは、そこには救いなんてものは何ひとつとして無いかも知れない。



 それでも僕は、夜のベランダにひとり立っては、何かを求めて空を見上げるのだ。



 そしてふとこう思う。僕らは同じ月を見ている。それだけでつながっているのだ、と。〉






 この物語の始まりは七年前にまで遡る。



 たけると、七海ななみと、白石しらいしちゃん。



 こので僕らはそれぞれ違う場所で生まれ、互いに引き合うようにつながり、そして再び離れてゆく。



 この物語は我々四人(僕と、親愛なる三人の男女)のつながりを描いた物語である。



 健は大学時代の一つ下の後輩で、僕の知るかぎり最も誠実な人間だった。



 七海は当時同棲していた僕の恋人で、魅力的な女性だった。



 白石ちゃんはシルバーアクセサリー好きで健の恋人、名前を百合子といった。



 僕らは皆同じ大学で出会い、多くの時間を共有した。そしてそれぞれに夢を持っていた。



 健は将来作家になりたいのだと話してくれた。



 白石ちゃんは彼の妻となり家庭を築くこと。



 七海は僕が音楽の仕事を安定してこなせるようになるまで働き、三十半ばくらいまでには子どもが欲しいと言っていた。



 僕はスタジオ・ミュージシャンとなるべく楽器演奏の腕を磨くかたわらバンド活動も行なっていた。



 両親は僕が音楽の道に進むことには反対で、高校時代の進路相談では色々と揉めたが、「大学を卒業すること」と「卒業後二年以内に結果が出ないようなら潔く諦め就職すること」を条件に渋々承諾してくれた。



 大学二年の夏、健が僕と七海の住むアパートに引っ越してくると、前にも増して四人で行動を共にすることが多くなった。



 嫌いな教授の講義をすっぽかしてレンタカーを海までとばしたり、動画共有サイトで一日中『ボレロ』を観たり(我々は出会った頃から一貫してジョルジュ・ドンの踊るボレロが大好きで、シルヴィ・ギエムの公演に揃って足を運んだこともあるくらいだった)、僕の行きつけのバーで朝まで飲み明かしたり。



………いや、そうではなかった。健とは彼が僕の住むアパートにのだ…! 



 そうだ。今思い出しても笑えてしまうくらい、彼の第一印象は奇妙で掴みどころのないものだった。本当に、我ながらよくもまああんな奴と仲良くなったものだよなと思う。





             ❇︎





 日当たりの良い昼下がりのラウンジで我々は出会った。



 僕はちょうど、売店で買ったぱさぱさとした口あたりのサンドウィッチを生温い泥水のような味のコーヒーで流し込んでいたところで、学生たちが行き交うラウンジの喧騒の中、ただ立ち尽くしてこちらを見ている一年生が健だった。



 きちんと梳かされた髪が額で七対三に分けられ整髪料で固められており、必要以上に清潔な印象を与えようとしているみたいだった。



 それは服装も同じで、物の良さそうな純白のワイシャツにベロア生地のベストを合わせ、しわ一つないベージュのチノパンツという出で立ちだ。足元もまた上等な茶色のローファーで、馬鹿な学生ばかりのラウンジの中にあってはいささか目立ちすぎていた。



 お互いの距離は十メートルばかりだったが、間断なく行き交う学生の波に視線は繰り返し遮られた。



 僕がその酷い、食事とも呼べないような代物を平らげるまでの時間、彼はずっとそうしていた。急ぎ足の学生が勢いよく彼にぶつかり、怒鳴り散らしては去っていった。忌々しい最後の一片が僕の食道をつたって胃に収まったところで、彼はようやくこちらに向かって歩き出した。



「お食事中に悪いかと思いまして。それで、その…待ってたんです。あの、アマガタさんでいらっしゃいますよね?」



「食事って呼べるほどのもんじゃなかったよ。そうだけど、きみは?」



 青年は緊張の糸がほどけたように、ぱっとはにかんだ。その表情にはどことなくゴッホの描く向日葵を想起させるところがあり、不思議な奥行きと掴みどころのなさが共存している。でも、綜合的に見て感じの悪い微笑ではなかった。



「失礼しました。ぼく、タケルっていいます…一年のシンドウ・タケルです、英文科の。あの、アマガタさんとは一度お話ししてみたくって…。ぼく、先輩と同じアパートに住んでるんです」





 それは廃墟も同然の安アパートである。



 何十年前に建てられたのかも分からない木造二階建てで、もちろん風呂なし。今時珍しくなった共同便所と共同電話機…さびれた廊下の突き当たりだ。その廊下には便所の臭いと黴臭さと古い油のような臭いが均一に混ざり合い、細かい塵となって漂っている。



 所々腐った木の床には、化石のようにこわばったチューインガムのかすやら潰されたゴキブリの死骸やらがいたる所にこびり付いている。



 建っているのが不思議なほど建物はとにかく傷んでおり、すぐ隣には古めかしい小さな神社と小学校の二十五メートル・プールがある。



 小学校が目と鼻の先にあるし、治安は悪くないだろうと予想していたがその建物周辺だけは別で、どう好意的に見てもまともな人間の住める物件ではなかったと思う。



 ごく控えめに表現してスラム的廃墟、あるいは関東の尻の穴…そんなところだ。



 僕がそんなスラム的廃墟及び関東の尻の穴に居住していた理由はただひとつ、家賃がべらぼうに安かったから。



 入学にあたり実家を出たかったが僕には貯金がなく、両親は例の約束を守ってくれるならと家賃面での金銭的援助も申し出てくれた(そう仕向けたのは当然、僕だったわけだが…)。



 音楽活動には金が必要だったが、割かれる時間や煩わしい職場関係のことを考えると極力アルバイトはしたくなかった。大学の単位を落とさないためにも…と両親を口説き落とし、出世払いで毎月の援助が決まった。その直後の部屋探しだったので贅沢は言えなかったのだ。



 実家とアパートは同じ市内なので、引っ越しも両親の車を借りるだけで事足りた。



 僕の部屋は二階の一番手前、いつ崩れ落ちてもおかしくない階段を上りきってすぐの角部屋だった。



 一階と二階それぞれに三部屋ずつ、合計六部屋あるのだが、信じられないことに僕が入居したときには満室だった。



 僕の隣の部屋の住人は頭のおかしい初老の背の高い痩せた男で、自分はUFOと交信できるのだと本気で信じていた。何度か部屋に通され、その怪しげな儀式を目の前で見せてくれたことがある。赤みがかった薄気味悪い茶を出され、それを三口すすった後で交信が始まる。



「私のことはイラ-48イラ ヨンジュウハチと呼んでください」



 と男は言った。



「信じるのです。コスモの力を!」



 交信のとき、いつも部屋にはピンク・フロイドのレコードがかかっていた。なぜレコードをかける必要があるのか、イエスのレコードではいけないのかについては教えてくれなかった。



「信じなさい。コスモの力を!」



 他には二人暮らしと思われる若い男女と一階の廊下ですれ違ったことがある。



 女の両腕にはリストカットと煙草を押し付けた火傷の痕が無数に残っていた。それ以外の住人とは顔を合わせたことはない。



 僕が大学生活一年目を終える直前の三月に、失踪していた一階の住人がどこぞの樹海で変わり果てた姿で発見され部屋がひとつ空いたらしいというのは耳にしていた。そこに新たに入居してきたのが健だった。





「きみみたいなのがあんなぼろアパートに住む気になるなんて…信じられない」



 僕は口に出したとおりに心からそう思った。そして組んでいた足を組み直して質問する。



「やっぱり、家賃が安いから?」



「いえ…その、なんていうのかな…。アマガタさんをお見かけしたものですから、はい」



 健はテーブルを挟んで僕の正面に座っていた。僕たちの周りでは相変わらず誰もかれもが大声で怒鳴り合っていて、健の声はそれにかき消されつつもその響きに不思議な重心を保っていた。



「同じアパートに住めたらいいなと思いまして、はい」



「どういうこと? 俺が住んでるから、あそこにしたの?」



「その、憧れていたんですよ、アマガタさんってぼくに無いものを持ってますから。お近づきになれたらなと思って」



 そう言った後で彼はまた例のゴッホ的微笑を浮かべ、照れ臭そうにはにかんだ。



 こちらとしてはわけが分からなかった。突然目の前に現れた身なりの良いーーー必要以上に清潔で身なりの良いーーー青年が、僕に憧れていただのお近づきになりたいだの言ってるわけだ。



 おまけにその理由から僕と同じアパートにすでに部屋を借りていて………そのアパートときたら、彼にはまるで不釣り合いの不潔極まりない関東の尻の穴なのだ…!



 頭が混乱してきたので、適当にその場を繕って席を立った。





 その後で冷静に考えてみると、新手の詐欺か、新興宗教か何かの勧誘と思えなくもなかった。



 しかし彼のもの言いや雰囲気には、そう疑うことを許さないまっすぐな誠実さのようなものが含まれていた。人の心を掴むある種の魅力があったのだと思う。



 午後の最初の講義のとき七海にその話をすると、彼女はいたずらっぽくやさしく微笑んだ。



「よかったわね。人気者じゃない」



「これっぽっちもよくなんかない。さっきだって席を立つとき、黙ってついてこようとしたんだぜ? 金魚の糞みたいにさ。まったくもって気持ち悪いよ」



「かわいい後輩ね。ねぇ、あなたもっと、自分のことを好いてくれる人のこと、大切にしたほうがいいわ」



 七海とは大学に入って出会い、その年の六月に付き合い始めた。



 僕より一歳年上だが、込み入った事情があって大学に入るのが一年遅れたため僕と同学年だ。



 七海は自分に似合う服装や化粧を(といっても、よくすっぴんと間違われるようなナチュラルメイクなのだが)心得ていて、格別の美人とまでは言えないかも知れないがすらりと背が高く、一つひとつの所作が美しい。生まれ持った自然体の魅力を輝く鱗粉のように無意識に周囲に振り撒いている、といった感じだった。



 彼女が通り過ぎると多くの人は振り返り、まるで雪山で原色の蝶を見たかのような錯覚じみた光をその目に浮かべ立ち尽くすことになる。その鱗粉はあらゆる人間の心の無防備な領域に密やかに忍び込み、媚薬みたいに熱を上げさせる。そこに残った火照りは長い間消えることはなく、慢性的な微熱のようにその人の心に居座り続ける…。



 男はなんとしても彼女をものにしようと躍起になり、女はそれぞれのやり口で彼女をつなぎ留めようとあらゆる手段を講じる。猫でさえ彼女の気を引くことに夢中になってしまう。七海は、そんな女性だった。ひとことで言えば……、とにかく魅力的だった。人気者は、まさに彼女のほうだったのだ。



 女や猫の場合を想像するのは僕には難しいけれど、男として思うにその火照りから解放された唯一の人間が僕だ。つまり七海の生涯において彼女をは僕一人だ。



 七海を初めて抱いたとき、僕はそれまで経験したことのない興奮をーーー心の震えをーーー覚えた。



 身の内に沸き立つ海面を荒れ狂う暴風雨がいかづちをともなって掻き乱すような、圧倒的な交わりだった。



 僕は彼女を求め、彼女は僕を受け入れていた。そこにはひとつの間違いもない完璧な一体感のほかには何もなかった。



〈もし〉も〈例えば〉も〈これまで〉も〈これから〉もなかった。僕がそれまでに経験したどんなセックスとも違う、神秘的とか奇跡的とか、そういう言葉すら通用しない次元で僕と七海は結合していた。



 それは素敵な結合だった。





             ❇︎





 そうだ。健と初めて会ったあの日の午後、僕はすぐに七海に彼のことを話した。あのぼろアパートが建て直されたら同棲を始めるつもりだったから、当時その数ヶ月後には隣人となるであろう風変わりな青年に、七海は強く興味を抱いた様子だった。



 どういった経緯があったのか細かいことは忘れてしまったけれど、健が引っ越してきて一年も経たないうちに、その建物は取り壊された。



 代わりにできたのは彼に(そしてもちろん、七海にも)似つかわしいと言えるような、小ぎれいで洒落た外装の三階建ての新築アパートだった。



 建て替えの話が持ち上がって、僕も健もいったんそれぞれの実家に身を寄せることになった。彼の実家も市内にあり、通った小中学校こそ違ったものの同じ地元民としての話題も尽きなかったことを憶えている。



 ともあれ着工から三ヶ月程度で新居は完成し、僕は晴れて七海と同棲を始めることになった。



 胡散臭いかつての住人たちは残らずいなくなった。おそらく十倍近くまで跳ね上がった家賃やら火災保険やら、その他もろもろの費用が捻出できなかったのだろう。



 イラ-48と名乗っていた男の202号室を健が新たに借り直し住むことになった。



 部屋数は以前と同じ六部屋だったが、その造りは大きく異なっている。浴室乾燥と追いだき機能付きの風呂に、ウォシュレット便座のトイレ、リビングと寝室にそれぞれエア・コンディショナーが一台ずつ。きわめつけにかねてから欲しかったベランダまである。



 建物全体は左右対称になっていて玄関はすべて一階にあり、両端から二階・一階・三階のドアとなっている。階段が家の中にあるのだ。共同の電話機などもうどこにも無い。残りの部屋もすぐに埋まり、満室御礼となった。




 僕と健はお互いの部屋を頻繁に行き来していた。白石ちゃんはもともと都内にアパートを借りていたのでこちらに引っ越してくるのはまだ先の話だったが、授業がない日は健の部屋に泊まることが多かった。僕たちはそれぞれに部屋の合鍵を持っていた。だから実質的には、四人で共同生活を送っている感覚に近いものがあった。




 僕と七海の201号室と健の202号室はちょうど反転した造りになっていて、彼の部屋は道路側、僕たちの部屋は神社側だった。



 小学校の二十五メートル・プールは神社の敷地内にあるのだが、それは僕らの部屋の、文字どおり真隣だった。201号室のベランダからはその全景が一望でき、フェンスで囲まれたその中にはシャワーやら目を洗うための水道やら、壁がコンクリート製の小さな納屋やらが見受けられる。神社の向こう側に細い道路を挟んで小学校の校庭と校舎がある。それは健の通った小学校だった。



「結構うるさいですよね」と、健はよく僕に言ったものだった。その校庭では小学生の体育の授業が毎日行なわれていたし、夏になればそれこそプールが大変な騒がしさになる。土日は少年野球のチームが甲高い声を響かせていたので、小説を書いている健にしてみたらたまったものではなかっただろう。



 だがおかげで気兼ねなく家でギターをかき鳴らすことができたし、僕にとってはむしろありがたいくらいだった。



 僕には当時、自分は音楽で食べていけるはずだという漠然とした自信があった。



 おもにギターを弾いたが、ポピュラーな楽器は大抵扱うことができた。中でもドラムは手数の多彩さとリズムの正確さに自信があったし、まずまずの腕前だったと思う。



 作詞も作曲もした。高校時代には学校の友人とライブハウスで仲間を募り、バンド活動もした。でもすぐに、その活動は僕にはお遊びのように思えてきた。彼らの愛好する音楽は音楽とも呼べないような酷すぎる代物だったし(いったい誰のためのカルチャーなんだ?)、連中は自分たちのバンドの将来などそもそもの初めから考えてもいなかったのだ。大学に入ってからもしばらくは活動を続けていたが、僕は最初のうちは我慢できていた些細なこともだんだん許せなくなってきて、ついには顔を合わせることさえできなくなった。



 僕の「同志」はどこかにいるはずだったが、それを見つけ出すことより自分の内的世界に深く潜っていくことを優先した。



「the Personal Space(ザ・パーソナル・スペース)」という名のバンドを立ち上げ(メンバーは僕一人)、作詞・作曲・演奏・録音・ミックス作業等すべての工程を一人で行ない音源を制作しまくった。最新の機材やソフトを揃え、PCを駆使した。いわゆるデスクトップ・ミュージックというやつだ。僕はアルバム・アートワークさえデザインしたが、それだけだった。だったのだ。



 結局のところ漠然とした自信はただの漠然とした自信でしかなかった。



 僕は努力というものを知らなかった。



 積み重ねるべきものを積み重ねてこなかった。



 七海と将来について語るとき、僕は大言壮語するばかりだった。たぶん彼女は薄々気付いていたのだろう。



 四人で遊びまわること、彼女自身もそれを楽しんでいた。でも僕はとばしすぎたのだ。かまける、という言葉がしっくりくる。



 我々の大学時代は僕の中では永遠に引き延ばされ、先に待ち受けるものは「明日」だけだった。



 ミュージシャンの僕も作家の健も良妻賢母の白石ちゃんも「明日」の人ではなかったのだ、もちろん死者である七海も。




 西暦2016年なんて年がまさか「明日」として自分を待ち受けることになろうとは、当時の僕は考えもしなかっただろう。



 そしてあくまでソリッドでリアルな現実として、明日は2016年4月1日である。あの日から四年の歳月が経とうとしている。




 今日までの間に他の部屋では幾度か住人の入れ替わりがあった。でも202号室は健と白石ちゃんの部屋だし、僕は今でも201号室に住んでいる。



 彼らは二十五歳になり、僕はもうすぐ二十六歳になろうとしている。七海だけがいつまでも二十三歳のままだった。



 僕は未だ何も成し遂げられずにいる。両親との約束の期限はとうに過ぎていたが就職もしていない。援助が途切れるのも時間の問題だろうが、そうなってしまっては音楽を続けてゆくことなど到底できまい。



 折半する相手のいない家賃と生活費を稼ぐための日雇い仕事の日々。スタジオ・ミュージシャンとしての仕事の口は無く、パーマネントなバンド活動も無い。衝動は僕の中でただ渦巻くばかりで、そんな折にはこうして夜のベランダで月を見上げているのだ。



 負け犬、と僕は口に出して言ってみた。そして月明かりに照らされた小学校のプールを見下ろしながら、健の書き上げた小説の冒頭部分を思い出している。






〈月は時代をまたぎ続け、いったい幾つの命を見送ってきた? 



 それは我々がグリフィス天文台から見下ろすロスの夜景のように。



 南極の空高くに降る星々のように。



 灯籠流しの蝋燭の灯火のように。



 彼女の眼下をちらついては消えていったのだ。



 幾つもの王国が滅び、大陸は形を変え、英雄の最期を見届け、潮は満ち干を繰り返した。



 そして今、まったく同じように、我々に太古の光を投げかけている。



 青白い月光をうけて、あなたは何を思うだろう?〉






 また四月が来る、と僕は思う。



 明日には大切な音楽会をひかえている。



 そこで僕はこの生涯で最高の演奏をしなくてはならない。



 二十七歳を迎えることができない七海の、安らかな眠りのために。



 そして二十五歳を迎えたばかりの親愛なる二人との、さよならのために。


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