星空のボレロ

相原伊織

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終末思想・彼女はなぜ笑ったのだろう?・夜空の住民権

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 世界のが引かれてから何ヶ月が経つだろう。



 人が消え、この街で電気を使う者がいなくなって以来、夜空の星々はその本来の輝きを取り戻していた。電気のない街というのも、これはこれで悪くはないものだ。ぼくとオサキは月光しか降るもののない道を、オット・エ・メッゾに向かって歩いていた。



「なんだか世界に二人だけしかいないみたいな夜ね」



 そしてちょっといたずらっぽく彼女は言った。



「何か話すことはないわけ? この上なくロマンチックな状況で」



 ぼくは少し戸惑いながら、隣を歩くその美しい女に笑いかける。



「気の利いた話はできそうにないな……。でも、とても綺麗な夜だ」



 ぼくたちは中ノ渡先生の助言に従ってそのバーへと向かっていた。彼の独特でクセのある言い回しは難解さを極めたが、オサキが都度「叔父さん、ビスケット」と諭すようにして茶々をいれる度に多少噛み砕かれた表現に言い直され、そのおかげでぼくにもなんとか理解することができた。



 先生は昼間あの薄暗い書斎でぼくに、大事なのは音楽をかけることだと言った。ある曲を、でき得る限りの大音量で、街中に響き渡らせるのだ、と。そんなことをしてどんな意味があるのか、ぼくにはわからなかった。しかしそれを伝える先生の表情は真剣だった。ぼくにはそんな先生の言動をあざけり無視することはできなかった。不器用ながらも彼なりに一生懸命に、ぼくにそうするべきだと強く勧めてくれているのがわかったのだ。



 街中に響き渡るかどうかの確証はなかったが、でき得る限りの大音量と聞いて真っ先に思い浮かんだのはオット・エ・メッゾのスピーカーだった。それでぼくは、店の扉を開け放ち、音量を最大にまで上げてその音楽を流すことに決めた。曲はモーリス・ラヴェルの『ボレロ』、オサキが持っているシャルル・デュトワ指揮、モントリオール交響楽団演奏のCDだ。





「そうだ、どことなくキーツ的な夜よね。ナイチンゲールに寄せるうた。第四連。『けれどもここに、光はない』」



「『緑樹の薄闇とうねる苔道をとおして、夜空からそよ風に吹かれ来る光のほかには』。まさかこの世界になってキーツを語れるとは思わなかったな」



 思わずぼくは笑った。嬉しかったのだ。



「うん…。やさしい夜ね」



 四月の夜の外気はひんやりと肌に心地良く、昼間の暑さはもうどこかへ消え失せていた。隣でうつむき歩く彼女の横顔は、漠然とではあるがぼくに何かを思い起こさせる。


 それはたまらなく懐かしく、それでいてどこまでももの哀しい記憶の断片に結びついているように思えた。



「私の両親はね、私が大学に入学するはずだった年に死んだの。私の周りではそれまでにも、沢山の人たちが死んでいった。今生きてるのは叔父さんだけ。たった一人の家族なんだ」



 彼女は相変わらずうつむきながら、ぼくのほうを見ずに話を続けた。



「ある日突然、私の知らないところで何かが起こって、理由はわからないけど沢山の人たちが消えた。私はそれに気が付いたとき、大声で笑ったわ。あれ? 人が誰もいない、あんなにひしめき合ってた人間たちはどこへ消えてしまったの? ってね。



 怖かったのよ、たぶん。だから大声で笑ったのね。あんなに笑ったのなんて久方ぶりだったわよ、ほんとに。



 でもね。私は思うんだけど、笑いっていうのは言ってみれば、恐怖に対する純粋で生理的な反応なんじゃないかな。



 そして今、私が最初は恐れていたこの世界は、実は底抜けにユーモラスなの。だって馬鹿げていると思わない? 



 インターネットが普及して、みんながパソコンやらスマートフォンを持っていて、自発的に調べる時代に突入した先進国が、こんなことになっているなんてさ…。



 だから今度は少しシリアスな話がしたくなったのよ。



 そして彼女はぼくの手を握った。



「さ。今度はあなたの番よ。少しだけシリアスな話をするの」



 ぼくはしばらく黙ったまま、彼女に手を握られていた。その手はぼくよりも冷たくさらさらとしていて、長い指がぼくの汗ばんだ左手に絡んだ。左側を歩く彼女の腰元ではキー・ホルダーが乾いた金属音を響かせていた。



「話して」






 人を殺したんだ。厳密に言えば手をくだしたわけじゃない、でもぼくが殺したも同然だ。



 ぼくには薄々わかっていた。彼女がいつかはそうするであろうことが。そしてそれはぼく以外には止めることはできなかった。ぼくしか知らない彼女の秘密があったんだ。



 彼女は同性愛者だった。しかし男性の恋人を持ち、彼と同棲していた。その男性とはまさにぼくが宿命的に恋をしている相手だった。



 でも、ぼくにも女性の恋人がいたーーー彼女とぼくは同じ部屋に住んでいて……世界のが引かれた朝、いなくなってしまった。ぼくたち四人は隣同士で部屋を借りている二組のカップルであり、仲のいい親友同士でもあった。きみの叔父さんの言葉を借りるなら「表層的には」ということになるだろうけれど…。



 死んでしまった彼女とは、よく二人きりで話をした。



 ぼくは交わされた会話の連なりを、一つひとつ細部まで克明に憶えている。



 最後の日、ぼくたちは星空の話をしたんだ。ぼくは小説家を目指していて、彼女も本に詳しかった。好みの傾向が似ていたし、読書体験を分かち合える相手はぼくには彼女一人しかいなかった。



 その星空の話というのは、ジョン・キーツの残した詩の話題から枝分かれした話で、ぼくたち四人の関係を大切に想う彼女がその心の内面を初めて打ち明けてくれた会話だった。その夜バーを出たぼくと彼女は、店の前を通る線路のフェンスにもたれて星空の話をした。





「ねえ健くん、私ね。実は今夜あの人が、百合子ちゃんと寝ればいいなと思っているの。ひどい女でしょう」



 彼女は自分を軽く蔑むように、苦々しく笑って見せた。



「それはぼくも…たぶん同じだと思います。でも百合子のことは愛しているし、しかもアマガタさんの気持ちが自分以外の人間に向くことは正直悔しいんです、堪えられないくらい。彼が女性に対してのみ発揮する傲慢さのようなものが、ぼくには決して向けられないことが悲しい…。



 ぼくこそひどい。百合子に対する愛しているという感情は、アマガタさんに対してのそれとはまったくの別物なんです。同じ言葉という容れ物に容れてはいけないものだという気がする。だけど代わりになるような別の言葉が、どうしても思いつけないんです」



「うん。すごくよくわかるわ……それはきっと」



 店に入る前に降り始めた激しい雨はもう止んでいた。でもそのときの彼女の表情は、まるで何年も降り続く雨のように捉えようのないもの哀しさを秘めて、ぼくの心に滲み込んでくるのだった。



「それはきっと、星空のようなものね。『愛してる』というよりは、『星空』なのよ、それ」



 ぼくはその深意がすごく気になって、それはどういう意味ですかと訊ねた。彼女は時々とてもミステリアスで、それでいて機微をうがった言葉の選び方をした。ぼくはそんな彼女の言葉が大好きだったーーー彼女はその質問に、見せたことのない表情で答える。



「私たち四人の関係。それは私にとって何よりも大切なものだし、これまでそのつながりの強さを信じてきたわ。



 だけど私たちはこうして、それぞれに秘密を抱えている。健くん、あなたが百合子ちゃんにを打ち明けられないように。私があの人だけには、未だ明かせないように…。



 口にすることで壊れること、あるいは何かが決定的に損なわれてしまうこと…そのことを恐れているのね。この地上では残念ながら、その疑念を取り払うことは不可能なの。



 それなら私たちのつながりとはいかに、どこにあるべきなのか? それはね、きっとあの星のように、夜空にあるべきなのよ」



 そう言うと彼女はその左手を掲げ空を指差した。



「私たちは四つの星となって、ただそこに在る。『愛している』なんて言葉も、他のどんな言葉も必要ないの。そこでは私たちはただ『星空』の一部で在ればいい。それだけ」



「……それは素敵なことですね。星空か」



 ぼくは自然とこの口もとに微笑みが浮かぶのがわかった。何も解決してはいないのだけれど、穏やかな気持ちになることができた。



 その部分だけを切り取ったらしらけそうなくさい台詞でも、七海さんが口にするとその文脈においては魔法のような効力を発揮する。いつもそうだった。



「年功序列で言ったら私が最初よね。あそこの住民権を取るのは」



「夜空の住民権ですか。さすがにくさいですよ」



 ぼくは静かに笑った。そして七海さんも笑い、最後にぽろっと言う。



「早いほうがいい気がするけどね」




 その夜彼女は逝ってしまった。ぼくの机の上の、印刷したばかりの原稿に最期の言葉を残して。










 線路沿いを歩きオット・エ・メッゾの扉の前に着くと、オサキは月明かりを頼りにキー・ホルダーの中から一本の鍵を選び出し、それを鍵穴に差し込んだ。という重い音と共にその扉は開く。なぜきみがその鍵を持っているのかと、ぼくは彼女に訊ねなかった。ぼくにはもう、それを確かめる必要はなかったのだ。



 ぼくはカウンターの中に入り、持ってきた懐中電灯の明かりを頼りに見つけだしたブレーカーを上げる。店内の電力は復旧し、懐かしい間接照明たちがあるべきオット・エ・メッゾの内装を浮かび上がらせる。チェンバロは片隅で気高くその息を吹き返し、あの日四人で掛けたテーブルがそのままの姿でよみがえる。



 彼女は無言のままCDをぼくに手渡し、ぼくはレコード用ターンテーブルの隣に置かれたその機材の電源を入れ、ディスクを中に滑り込ませる。再生ボタンを押したら音量を最大にして、扉を開け放ち、二人で外に出る。



 曲のイントロはとても静かに、かつ力強い予兆を秘めたスネアドラムから確実に始まっている。フルートのメロディも聴こえ始める。ぼくたちは線路のフェンスにもたれ、夜空に吸い込まれる大音量のボレロに耳を澄ませる。



「マスターのルペ・ベレスの話だけど」



 彼女はまた、ぼくのほうを見ずに話し始める。空には幾つもの星が瞬いている。星たちはただそこに在るだけで、でもそれだけで確かにつながりあっているような。そんな風に見えた。



「あなたじゃなくて、私が聞くべき話だったみたいね」



 ぼくはそれに対して何も答えなかった。まだぼくは、言葉を探していたのだ。



「もし真実の愛みたいなものがあるとしたら、それは生殖にあるわけではない。これは私の言葉よ。表層的なだけのつながりになんて何の意味も無いもの。私はそんなものより、もっと潜在的なつながり方を見出して貫きたかったの。例えば『星空』みたいなね」



 そう言うと彼女はぼくを見て笑った。



「住民権は取れたんですか?」



 ぼくは言ってみた。見当違いな言葉だったかも知れない。



 彼女はやはり笑顔で、その質問をはぐらかす。



「さあ…どうかしら。でも試そうなんて考えちゃだめよ。



 いい? 大丈夫なんだからね。ちゃんとつながっているから。



 言葉はもっと、特別な人のためにとっておいてあげて」



 どこか遠くのほうからも音楽が聴こえる。それに混ざる騒がしい声や、がたがたのドラムライン、そして『ボレロ』のメロディ…。



 店内から響くボレロとは最初のうちずれて聴こえていたが、それらは徐々に重なり始める。



 遠くから聴こえる音楽が大きくなるにつれ、時間のせせらぎはそれに呑み込まれるように衰弱してゆく。時が死にゆくのを感じる。まだぼくには彼女に確かめなければならないことが残っているような気がする…でもぼくは、その意思とは関係なしに瞼をそっと閉じてしまうのだ。彼女の声がこだまする。



 いい? 大丈夫なんだからね。



 言葉はもっと、特別な人のためにとっておいてあげて。



 あの人のためにねーーーーー








を引いた犯人は、あなたのことを憎んでなどいないのよ。


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