星空のボレロ

相原伊織

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ボレロ

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 集合場所である神社の前でイラ-48と落ちあい、二人で小学校のプールの入り口へと向かったが、僕は視界に入ったフェンス越しにその会場を見て驚いた。



 そこには正装した黒服の集団や十数名に及ぶバレエ・ダンサーたちがひしめき合っていたのだ。



 外で警備に当たっている数名に目で挨拶をして中に入ると、それはまさに本格的な音楽会の会場であることが見て取れた。



 打ち合わせしていた内容とは全然違った。綺麗に排水されたプールには、多くのパイプ椅子と共に所狭しと楽器たちが並べられていた。各種木管楽器に金管楽器、大小様々な弦楽器に鍵盤楽器…。そこにはペダル付きのハープまであった。そして赤い色をした円形の舞台が二十五メートル・プールの三分の一を占めている。



「あの鍵盤楽器はチェレスタといいましてな。ホルンにもコルという種類を新たに取り入れ、善きラヴェル式のボレロにならうことにしました、テンポは変えないがね。リズム隊もあんた以外の演奏者を追加で用意したが、かまわんね?」



 それは公民館でのリハーサルのときとはまるで異なる、大編成のオーケストラだった。



「楽器もプロの演奏者込みで借りてきたというんですか? 一体いくら掛けたんだ…。大変な金額でしょう」



「金の心配は必要ない。そんなことより重要なのは演奏を最後まで終えるということだ。だからあなたには、二つある小太鼓のうちの一つに専念して貰うことにした。シンバルにも銅鑼どらにも大太鼓にも、きちんと専任の奏者を振り分けてある。指揮は練習時と同様に私がるから心配するな」



 僕は腕時計を見る。午前八時四十五分だった。プール片隅のコンクリート製の納屋に目をやる。僕の周囲では演奏者を含めた音楽会の関係者たちがせわしなく動き回っているが、納屋には誰も近づいてはいない。



 バンドマスターであるイラ-48が手を叩きながら、各自所定の位置につき演奏準備にかかるようにと声を張り上げる。



 演奏者たちは皆正装していて、全員が本職のプロであるようだった。リハーサルのときに見た顔は一人もいない。



 それに引きかえ僕はザ・ストロークスのバンドロゴTシャツにジャケットを羽織っただけのデニム・スタイルで、尻ポケットに自前のドラム・スティックを突っ込んでいるという格好だった。とてもフォーマルとは言えず、そのオーケストラの中にあっては一人浮いた存在である。



 それで僕は、健と大学のラウンジで初めて会ったときに彼が周囲から浮いていたことを思い出しながら、隣り合ったもう一人の小太鼓奏者に挨拶をし自分の定位置についた。



 僕の位置からはコンクリート製の納屋が正面に見え、レーンの番号が書かれた飛び込み台の上に納屋と重なるようにして指揮者が立った。全員が定位置についたことを台の上から確認すると、彼は声高らかに開演の挨拶を始めた。空の雲行きは怪しく、分厚い雲が太陽の光を遮っていた。



「諸君。これより音楽会を開演する。演奏する曲目は、モーリス・ラヴェルの『ボレロ』。指揮者はわたくし、イラ・ヨンジュウハチが務めさせて頂く。どうぞよろしく」



 会場からはまばらに拍手が起こる。イラ-48はそのうやうやしい挨拶の最後に、念を押すように我々全員に向けてこう言った。



「そして演奏を始める前にひとつ。これが一番重要なことなのだ。。音楽はここに紡がれ続け、踊りは最後まで舞い続けられなければならぬ。たとえ雨が降ろうとも、たとえドラムが暴走して乱れようとも。何があってもです。よろしいかな」



 彼と視線が合い、僕は小さく頷く。そして、九時きっかりに演奏が始まる………僕のスネアドラムから。



 言うまでもないことかも知れないが、『ボレロ』という曲は最初から最後まで同じリズムで、二つのメロディが二回ずつ交互に繰り返される構成である。十六小節からなるその二つのメロディは、それぞれ様々な呼び方ができるだろう。



 パターンAとパターンB。



 パターン1とパターン2。



 明と暗、陽と陰。



 光と陰、陽光と月光。



 あるいは、表と裏…。



 そして二回ずつのその組み合わせを四度繰り返した後で、表を一回、裏を一回、突然の転調が訪れ、フィナーレを迎える。



 クラシック音楽の世界にあっては異端的とも言える単調な構成だが、演奏するとなると難曲である。上手いかそうでないか、聴衆にはっきりと判ってしまう。もちろんこの音楽会は演奏を終えること自体が目的であり、演奏の良し悪しの評価をくだす聴衆はいない。



 しかし今、この音楽会では僕さえきちんと役割を担えば、企画時から抱いていた期待を遙かに上回る素晴らしい演奏を街中に響き渡らせることができるのだ。ジュンさんを筆頭としたバレエ団の踊りも相まって、として申し分のないものになるはずだーーーまもなく午前九時。指揮者はその手を構え、ゆっくりと振り始めるーーー僕の叩くドラムの音が、四月の空に響き始める。










○ 僕の刻むスネアドラムのリズムに、フルートがメロディを乗せる。ピアニッシモ。囁くような音量で。それはまるで嵐の前の静けさ。あやうい予兆を秘めた物語のプロローグだ。



 メロディ・ソロをクラリネットが引き継ぎ、フルートは僕と同じリズムを刻み始める。僕は演奏に集中している。しかし意識の水面下にあって七海のことを想う。彼女との同棲生活のすべてを。そして初めてつながりあった夜の、あの圧倒的な結合を。僕は求め、彼女は受け入れた。完全なる一体感がここに在るすべてだと思った。しかし今、それは単なる僕のエゴイズムだったことが分かる。僕は求めたが、彼女は別の何かを求めていたのだ。僕には与えることのできない、別の何かを…。





● ハープが演奏に妖艶な雰囲気をつくり出し、ソロは艶やかなバソンの音色が奏でる。僕が聴いていたボレロの多くではファゴットのパートだったので印象の違いにはっとさせられる。ほんの一瞬ドラムが乱れそうになるが、持ちこたえる。まだまだ曲は長いのだ。この「裏」のメロディは、安易に例えるなら朝に対しての夜ーーー眠りの中での意識の覚醒だ。僕の意識は眠りの中で覚醒している。あるいは目覚めながらにして夢を見ている。
 


 二まわし目にはエスクラ。僕は白石ちゃんのことを考える。四年前のあの夜、僕は彼女の奥深くへと入っていき、すべての精液を放出した。あのときは彼女がそれを望んだのだと思い込んでいたが、実際には拒んでいたのだと思う。それは逆説的な拒絶だったのではあるまいか。自分の一番大切な部分を他人にあけ渡すことで、健の心がどう傾くのか確かめたかったのかも知れないーーー僕は意識の水面下へ、演奏を続けながらこれ以上深くは潜れないーーー彼女の真意は今でも分からないことの一つだ…。





○ オーボエ・ダモーレが「表」のメロディを吹き始める。複雑なフィンガリングからは想像もつかない、なんという伸びやかな音色だろう? 奏者は表情一つ変えない名手であるようだ。僕は錚々そうそうたるプロ集団の中で演奏していることに思い当たり、それに誇りのようなものを感じる。何かの一部であるということがこんなにも気分の良いものだとは…。僕たちは今、皆で一つの音楽を紡ぎ上げているのだ。舞台ではジュンさんが躍動している。そのしなやかな動きは、はち切れんばかりにみなぎる生命力を四月の朝の曇り空に解き放っているかのように、映える。



 二まわし目はトランペットとフルート。健のことを考える。彼は僕が欲しかった。それは彼にとって宿命的な恋だった。僕は、自分が意図せずして健の内的世界を理不尽に吹き飛ばした一瞬のことを想像する。暴力的に。圧倒的に。そして、宿命的に…。彼の内側にぽっかりと浮かぶ水晶玉のようなものの姿を思い浮かべてみるーーーあるいは巨大なシャボン玉みたいに、と彼が形容するーーーその心の情景を。僕にはそれはとてもシュルレアリスティックな情景に見える。そしてそれ以上の印象を抱くことができない事実を、彼に対して申し訳なく思う…。





● テナーサックスの甘い「裏」のソロ。この奏者は明らかにクール時代のスタン・ゲッツを意識している。同じテーマを吹く中でこうも個性が際立つとは。ここまでくだけたフレージングは、あるいはプロとしては配慮に欠けるある種の背信行為であるかも知れない……しかし僕は、その自由奔放なプレイを心の中でひっそりと支持していた。彼の無遠慮だが不思議に押し付けがましさのない音の連なりは、ごく短い時間であるにせよ僕の心の欠落を穴埋めする滋養をもたらしてくれた。



 ソプラノサックスがより高い音階でそれを引き継ぐ。流れをそがぬように、慎重に。次の「表」へ抜けるまでの十六小節間でテナーの鮮烈な残り香を中和し、物語を辿られるべき正しい軌道へと導く。それは大きな河が静かに流れるように、違和感なく自然に行なわれる。





○ ここでイラ-48の言うコルとチェレスタが前に出てくる。そこにピッコロが音を乗せる。パイプオルガンを思わせる三位一体さんみいったいのその音色は、まるで異国の教会の朝のように、小学校のプールを厳粛な静謐せいひつで満たす。



 オーボエによる二巡目の背面では、弦楽器たちがかすかに複雑な伴奏を編み上げている。空の雲には裂け目ができ、そこから薄日が差し始める。それは小さな奇跡のようにさえ感じられる。まさか晴れ間ができようとは…。そして感情的な高まりからではなく譜面上の指示によって、僕の叩くドラムも少しずつその強さを増していく。





● トロンボーンの紡ぐ「裏」メロディ。雲の裂け目は広がりいっそう多くの陽光が地上に降り注ぐが、舞台には怪しげな雰囲気がたち込める。



 その後を木管楽器たちが一手に引き受ける。





○ 第一ヴァイオリンが木管群と重なるようにして明るい「表」メロディのソロをとる。



 ドラムも伴奏も徐々に大きくなっている。第二ヴァイオリンが加わり重厚なテーマを街中に響き渡らせる。僕はプールのフェンスの周りに人だかりができていることに気付く。





● 木管群による「裏」のテーマ。そしてトランペットが途中でホルンに替わる瞬間がある、あたかもカバーできない音域を自ら悟りその場所をあけ渡すかのように。



 トランペットは戻り、チェロが入ってくる。より重厚な音へと、全体像が変化し始める。僕はまさに次の瞬間訪れようとしているボレロの音楽的絶頂へ、意識を集束させる。





○ そして、音楽的絶頂ーーーラッパ隊にサックスにヴァイオリン……オーケストラの音は完璧に重なり合いながら街中に響き渡る。



 我々はでき得る限りの大音量で、『ボレロ』のテーマを演奏している! もう一名の小太鼓奏者も加わり、僕の叩くスネアドラムと同一のリズムを刻む。



 我々の紡ぎ出す音は今まさに最大の厚みをたたえ、街中に響き渡っている。近所の家々の窓からは多くの人々が身を乗り出し、プールの周りでボレロに聴きいる人だかりは先ほどの数倍にまで増えている。



 円形の舞台では観客の視線を一身に受けた踊り手が、あのジョルジュ・ドンが踊ったボレロを表現力の限りを尽くし再現している。



 僕は七海を、白石ちゃんを、そして健を想う。。そして音楽会が終わったその後で、本当の意味でつながり続けることができる。僕はそのために自ら手をくだす。僕は我々四人の世界のためにを引く。七海と同じこの場所で。僕たちは永遠につながり続けるのだ、まるで夜空に瞬く星々のように。



 だが音楽的ピークはまだ続く。次の「裏」が一まわし、転調、そして崩れ落ちるように曲は終わる。まだ「表」が続いている。『ボレロ』の山場だ。



 しかしこの音楽的絶頂において突如演奏を止め、楽器を置いたパートがある。コーラングレだ。僕の位置からはオーケストラ全体の動きが見渡せる。もちろん指揮者の真後ろの、コンクリート製の納屋も。



 コーラングレの奏者は椅子に楽器を置いて席を立ち、側面の銀色の梯子はしごに足をかけてプールサイドへと上がる。でもそれを気に留める者は誰もいない。





● 彼はプールサイドを歩き、納屋の前で立ち止まる。そこには数人が集まっている。警備の人間ではない、学校関係者のようだ。そして「倉庫の鍵が変わっている」とその内の一人の唇が動いたように見える。コーラングレ奏者はそのダイヤル式の南京錠をいじりまわしている。僕のドラムは明らかに乱れ始める。



 鍵は外れたらしく、その扉は開かれる。彼は一人で中に入り、外で待機する者はどこかに電話を掛けている。弦楽器たちが弓で刻む低音のリズムは地響きのようにうねりながら、僕のがたがたのドラムラインを吞み込もうとしている。





◉ そして突然の転調。納屋から出てくる人影は一人ではない。コーラングレ奏者と、小柄な女を抱きかかえた男ーーー彼はバランスを崩したように一瞬よろけ、コーラングレ奏者に支えられる。誰かが担架を持ってきて、男は女をそこへ寝かせる。彼は眩しそうにその目を細める。そして今この場で終わろうとしている『ボレロ』の最後を見届けるように、居住まいを正し、指揮者の背後からこちらに視線を送る。



 ダンサーたちが切れ良く動きを合わせて舞台を取り囲み、その中心ではメロディがほとばしるようにベジャール振付のボレロを踊り上げる。



 指揮者は髪をかき乱しながら激しく指揮棒を振り、オーケストラによる統一された音の洪水を操り終焉へと誘導する。



 轟音の激流となりなだれ込む演奏の中心でバスドラムの大砲が鳴り響き、シンバルと銅鑼がとどめとばかりに追撃の一音をそこへ撃ち込む。



 やがて演奏と踊りはまるで崩壊するかのように終わる。重厚な最後の一音が空の晴れ間に吸い込まれると同時に、周囲から拍手喝采が沸き上がる。



 僕の計画も崩壊したことをそこで改めて悟る。指揮者の後ろで拍手を送る健と、担架で運ばれる白石ちゃんの姿をこの目で捉えながら。


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