厄災烙印の令嬢は貧乏辺境伯領に嫁がされるようです

あおまる三行

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8.雪が積もるように

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 初雪の日、思わず声が漏れた。
 王都の雪は薄く、人々の足に踏まれればすぐ泥に変わる。
 けれど、この辺境の雪は違った。
 空から落ちてくる白い結晶はふわりと舞い、触れればすぐ溶けてしまいそうなのに、地面をあっという間に覆っていく。
 世界が静かな銀色の幕に閉ざされていくよう。
「……きれい……」
 伸ばした手の先で、白は儚く消えた。
 その時、背後からくぐもった笑い声が聞こえた。
 振り返ると、辺境伯様が、ほんのわずか口元をゆるめていた。
「すみません……!大変な冷害をもたらすものなのに、呑気なことを」
「いや。……確かに、美しいものだと俺も思う」
「……恐れ入ります」
「子供の頃は、美味そうだと思ったな。甘くてやわらかそうだと……」
 ふっと思い出すように笑ってから、辺境伯様はばつが悪そうに「忘れてくれ」と言った。
 その顔を少々可愛らしいと思ってしまった。

 それからの日々、雪は降り続いた。
 領地は厚い白に閉ざされ、人も物も動きづらくなる季節。
 代わりに、魔獣の動きも鈍重になり、すべてのものは冬の中に閉じ込められていく。
 冬支度を終えて一息ついたこの辺境伯領は、静かに雪の中に埋もれていくようだった。
 
 辺境伯様は相変わらず忙しそうで、朝から晩まで執務室の灯が消えることはなかった。
 それでも――不思議なことに、午後のお茶だけは共にする機会が増えた。
 暖炉の火がぱちりと弾ける静かな部屋で、雪の落ちる音を聞きながら、二人きりで過ごす短い時間。
 話題は大きなことではない。
 冬に強い作物の話、街の子供たちが作る雪灯籠の話、今年の干し肉の出来、使用人たちの生活への配慮……
 お茶会と言うより、定例の報告会と言った方が似つかわしい。ほんの少しの時間で終わることも多い。
 けれど、時折訪れる沈黙が、いつしかやさしいものに変わっていた。
 湯気の向こうで目が合うたび、胸が少し跳ねた。
 辺境伯様の視線は以前より柔らかくなっている気がする。氷の向こうにある暖かさのように、ゆっくりと心に沁みていく。
 
 この方は、いつも丁寧に耳を傾けてくれる。
 私の言葉を途中で遮らず、無理を求めず、必ず「できる範囲でいい」と残してくれる。
 そのささやかな優しさに触れるたび、胸の奥が静かに満たされていくのを感じた。
 私は、何も望まずにここへ来た。強いて言うなら、逃げ場所が欲しかった。
 愛情どころか、安らぎすら求めてはいなかったはずだった。
 なのに今、降り積もる雪の中、この静かな時間が、もう少し続けばいいと願ってしまう。
 それがどれほど贅沢な願いか、自分でも理解しながら。
 湯気の向こう、ふとこちらへ向けられたまなざしが優しい。
 その柔らかさひとつで、胸が温かくなる。
 冬の冷たさの中で、指先までじんと熱を帯びる。


 そうして毎日、降り止まぬ雪が、世界を白に閉ざしていった。
 空気は刺すように冷たく、息を吸うだけで胸の奥が縮まる。
 窓の外は一面の白。
 人の気配さえ吸い込んでしまうような、深い静寂だった。
 

 ある日の午後、裏倉庫から派手な崩れる音が響いた。
 ギシ、と嫌な軋みが続き、次の瞬間、重い木箱が連鎖するように倒れ、倉庫全体が揺れた。
 私は反射的に駆け出していた。
 雪を蹴り、息を切らして倉庫へ向かう。
 見れば、整然と積まれていた物資の山が、雪と湿気の重みで崩れ、木箱や袋が折り重なって床を埋め尽くしていた。
 冬越えの貴重な備蓄が、無残に潰れ、破れ、濡れていた。
(――私が最後に触った)
 昨日、乾燥のために敷いた布を広げるスペースを確保するため、ほんの少し物資の位置をずらした。
 もちろん許可はとった。問題はなかった筈だ。
 けれど、それが支えを弱くしたのかもしれない。それとも……
(厄災の烙印のせい)
 背筋が冷たくなった。
 視界の端が暗く、狭まり、息が苦しくなる。
 胸の奥で、押し殺した恐怖が牙をむいた。
 あの倉庫の冷たい夜の空気の感触を、もう忘れたはずなのに。
 震える声が漏れる。
 
「……わ、私の、せい……です……」
 唇が凍りつきそうだった。
 声にした瞬間、頭の中に次々と過去の光景が押し寄せた。
 怯えた目でこちらを見る使用人。
 割れた花瓶。
 病に倒れた者。
 積み重ねられた「偶然」が、すべて私が原因だと言われた日々。
 ――また、あの目で見られる。
 ――ここでも、拒まれる。
 ――私は、ここにもいてはいけなかった。
 吐き気がするほど怖くて、寒くて、心臓が痛かった。
 そのとき、雪を踏みしめる重く確かな足音が近づいた。
 辺境伯様だった。
 カイネと数人の使用人を伴っていたが、その表情はいつもと変わらず冷静だった。
 素早く倒壊状況を確認し、指示を飛ばす。
「幸い、怪我人はいない。損耗も局所的だし、中身はほとんど無事だ」
 そして、私に視線を向けた。
 蒼い瞳がまっすぐにこちらを射抜いた。
「申し訳ありませ、わ、わたしの……」
 
「――あなたのせいではない」
 雪より静かで、真っ直ぐな声。
「こういうことは初めてではない。例年より雪が早かったから、雪除けが間に合っていなかった。あなたの行動は関係ない……それより、怪我はないだろうか」
 その言葉が、胸の奥に強く届いた瞬間、何かが崩れた。
 
 張りつめていたものが、ぷつりと切れた。
 息が震え、視界が滲んだ。
 
「……ルーチェ嬢?」
「ちが……っ、私は……また、迷惑をかけたと……思って……」
 声がうまく出なかった。
 涙が一粒、雪に落ちた。
 落ちた瞬間、自分で驚いた。
 泣くつもりなんてなかったのに。
「す、すみません……泣くのではなくて、説明がしたかっただけで……」
 ごしごしと袖で目元を拭く。
「違います、そんなつもりでは……っ泣く気なんて……なかったのに――」
 止めようとしても止まらない。
 胸の奥から堰を切ったように、止めどなくあふれてくる。
 泣けば嫌われる、そう刷り込まれてきた恐怖が顔を上げる。
 
 その肩に、そっと大きな手が触れた。
「……」
 嗚咽が止まらず、私はただ、肩を震わせながら涙に任せた。
 縋りつくことはできずに下を向く。辺境伯様は私の姿を隠すように立っていた。
 慰め慣れている人ではないと、すぐにわかった。
 ぎこちなく、手の置きどころに迷っている気配すら伝わってきた。
 だからこそ、胸の奥が痛いほど温まった。
 肩にふれた手は、手袋越しなのに、あたたかかった。
 カイネがこちらの様子をうかがう使用人たちを下がらせている。
 イリアは何度も私の背をさすりながら、心配そうに眉を下げていた。
「……大丈夫だ。ここには、誰もあなたを責める者はいない」
 不器用な、けれど、まっすぐな声音だった。
 その言葉に、胸がきゅっと縮まる。
「はい……」
 これほど救われたと感じた言葉が、今まであっただろうか。
 視界が涙で霞みながら、私は初めて心から安堵した。
 白い世界の中で、頬を伝う涙だけがあたたかかった。
 涙はまだ止まらなかったけれど――怖さではなく、安堵で震えているのだと、ようやく気づいた。




 倉庫の後始末が終わり、人心地ついた夜。
 暖炉の火は静かに揺れ、橙色の光が執務室の壁を照らしていた。
 ダリウスは机に肘をつき、額を押さえた。
 まぶたを閉じると、倉庫の前で泣き出したルーチェの姿が浮かんだ。

 あの細い肩が震えた瞬間、
 気づけば、抱きしめたいと――
 心の奥で強く思ってしまっていた。
 その衝動に、自分で驚いた。
 慰めようと手を伸ばしたつもりだった。
 だが、あの時ほんとうに望んでいたのは、ただ腕の中に守り抱いてしまうことだった。
 そんな乱暴さを、自分が持っているとは思わなかった。
「……参った」
 ひとり言のように呟く。
 仕事の疲れでも、淡い同情でもない。
 もっと深い場所から湧き上がる感情。
 名をつけるなら、あまりに単純で、避けるべきもの。
 ノックとともに扉が開き、カイネが入ってきた。
 いつもの軽い足取りと、にやにやした笑み。
「いやあ、旦那様。情が移りましたねえ。あれは、どう見ても――」
 軽口を続けようとした口を、ダリウスの低い声が遮った。
「やめろ」
 短く鋭い声だったが、怒りではなく戸惑いが滲んでいた。
 カイネは笑って肩をすくめた。
「はは、悪気はありませんよ。ただまあ、見ていて微笑ましかったので」
 その時、背後の扉からそっと顔を出したイリアが、遠慮なくため息をついた。
「カイネ……楽しそうにしてる場合じゃないでしょう。旦那様がどれだけ悩んでるか、わかってるの?ルーチェ様も……」
「わかってるから、面白いんじゃ」
「怒るわよ。わきまえて」
「はい……」
 イリアの静かな一言に、さすがのカイネも咳払いして黙った。
 ダリウスは、ゆっくり息を吐いた。
 
「彼女にしてみれば、実家での扱いはどうあれ、ここにいるのも俺との婚姻も、その不当な扱いの結果だ。疎まれている……とまでは、思いたくないが……」
 落ち着いた声で続ける。
「だから、軽々しくからかいの材料にするな。ルーチェ嬢は」
 言葉が止まる。
 金まで添えて厄介払いされた娘。
 金のために引き受けた婚約者。
 気の毒な女性。「厄災」の危険をはらむ女。聡明で忍耐強い女性――
 どんな言い方が正しいのか、思いつかない。
 やっと絞り出した声は、思いがけず穏やかだった。
「守りたいと思った。……別に、それだけだ。彼女も最早、当家の領民の一人なのだから。穏やかに……幸福に、生きていけるように、してやりたいと思う」
 カイネの目が丸くなり、続いて口元がじんわりと笑みの形に変わった。
 だが結局、何も言わなかった。
 イリアはそっと視線を伏せ、小さく頷いた。
 部屋には再び、暖炉の火の音だけが残った。


 
 昔の夢を見た。

 まだ私が「厄災」の烙印を押される前。

 王都の華やかな社交界に、ひどく場違いな人物が現れたことがあった。

 銀髪——本来なら、光を受けてきらめくはずの色。

 なのにその時の彼の髪は、銀と言うよりくすんだ灰色に見えた。乾いた風にさらされ艶を失い、ところどころ乱れていた。

 その乱れには、寝る間も惜しんで働き続けた者だけが纏う、追い詰められた気迫の影が宿っていた。
 蒼い瞳も、まっすぐではあるのに、深く疲れていた。

 まるで、眠ることすら許されていないかのように。隈を作って、睨むように力を入れて。
 そして——服。貴族の礼装としては明らかに古く、糸のほつれを丁寧に繕った跡がいくつも並んでいた。

 色褪せた生地は、何度も洗われ、何度も補修され、それでも“礼装”として形を保とうとしていた。

 会場の空気が、たちまちざわめきに変わった。
「まあ……あれが辺境伯?」

「ひどい格好。あれでは乞食のよう」

「貧乏だという噂は本当だったのね」
「まさか本当に援助を求めに?」

「せめて服を新調すればいいのに」
 嘲笑交じりのひそひそ声が、会場中に広がった。

 さざ波のように嘲笑が広がるたび、彼は静かに会場を見渡し、それでも逃げるような素振りを一度もしなかった。
 貴族ひとりひとりに声をかけ、深く、深く頭を下げていた。
 必死で、切実で、その背負う苦しみが痛いほど伝わった。
 本来なら、辺境伯ほどの立場であれば頭を下げる必要などないはず。

 それなのに、彼は王都に集まった貴族たちへ、一人ひとりに礼を尽くして回っていた。
 ——理由は、すぐに理解できた。
 当時の辺境伯領は、魔獣の大量発生によって壊滅寸前。

 畑は焼かれ、家畜は失われ、疫病まで広がり、領民たちは飢えと恐怖に追い込まれていた。

 王都からの支援も断ち切られた。
 若くして家督を継いだ辺境伯様に残された手立ては、王都の裕福な貴族たちから、どうにか援助を引き出すこと。
 だからこそ——彼は服の古さも体裁も、気にしている余裕などなかったのだ。

 人々を生かすために、食糧や薬品を買うために、エネルギーとなる魔晶石を手に入れるために。
 彼は自尊心よりも領民の命を選んだ。その切実な願いが、彼の姿勢からありありと伝わってきた。
 銀髪は疲れに揺れ、蒼い瞳には眠れぬ夜の影が差していた。

 それでも背筋は折れず、誰に嘲笑されても、深く頭を下げ続けていた。
「どうか……どうか、力を貸してほしい」
 声は小さかったけれど、震えていなかった。

 誇りを保ったまま、必死に頭を下げる。
(あんなふうに、他人の命のために頭を下げられる人がどれほどいるのかしら……)
 幼い私は、その背中をただ見つめるしかできなかった。
(思い出した)
 彼はたった一人、王都の貴族たちに援助を求めに来ていたのだ。
 ――それ故に、貧乏辺境伯などと。
 
「そうだ……」
 思い出した。あの時の方。あれが、辺境伯様だった。
 私はそっと胸に手を当てる。
(……あんなにも立派な方だったのに。貴族たちは、服が古いというだけで笑っていた)
 あの頃、私はまだ幼くて、彼に声をかけることもできなかった。

 けれど心の中では、ずっと思っていた。
(立派だわ。あんなふうに頭を下げるなんて、簡単にできることじゃない)
 その人が今、私を迎え入れてくれている。

 「厄災」と呼ばれた私を、拒まず、蔑まず。静かに受け入れてくれた。

 
 目覚めてしまった私は、部屋の灯りを小さく灯した。
 あの方の腕の温度を思い返すたび、息が詰まりそうになった。
 誰かに支えられることが、こんなにも心を震わせるとは知らなかった。
 触れられたのはほんの一瞬。
 けれど同時に、胸の奥がぎゅっと縮む。
 ゆだねてはいけない。
 迷惑をかけてはいけない。
 甘えてしまえば、きっと何かを壊してしまう。
 その恐怖が、熱を打ち消すように冷たい影を落とした。
 涙を見せるなど、愚かだった。
 あの方に気を遣わせてしまった。
 弱さを見せるほど、わたしはここでの立場を危うくするかもしれないのに。
「……」
 だけど──どうして涙が溢れたのか、今ならわかる。
 責められなかったからだ。
 怯えた目で見られなかったからだ。
「大丈夫だ」と言われた瞬間、胸の奥で固く閉じていた扉が、音を立てて軋んだ。
 
 あの時、ほんとうは抱きしめてほしかった。
 
 そんな願いが生まれてしまった自分に気づき、息が止まる。
 望むだけで許されるほど、わたしは軽い存在ではない。
 ずっと苦労を重ねられて来た方に寄りかかることなんて、決してあってはならない。
 だから、胸の高鳴りも、こぼれそうな想いも、すべてここで閉じ込める。
 そのはずなのに──
 今も心臓が震えている。
 苦しいほどのこの鼓動も、雪が静かに積もるように、いつか無音になるだろうか。
 それを願うのに、ほんの少しだけ惜しいと思っている自分がいる。
 私は毛布を握りしめ、目を閉じた。

 
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