10 / 16
8.雪が積もるように
しおりを挟む
初雪の日、思わず声が漏れた。
王都の雪は薄く、人々の足に踏まれればすぐ泥に変わる。
けれど、この辺境の雪は違った。
空から落ちてくる白い結晶はふわりと舞い、触れればすぐ溶けてしまいそうなのに、地面をあっという間に覆っていく。
世界が静かな銀色の幕に閉ざされていくよう。
「……きれい……」
伸ばした手の先で、白は儚く消えた。
その時、背後からくぐもった笑い声が聞こえた。
振り返ると、辺境伯様が、ほんのわずか口元をゆるめていた。
「すみません……!大変な冷害をもたらすものなのに、呑気なことを」
「いや。……確かに、美しいものだと俺も思う」
「……恐れ入ります」
「子供の頃は、美味そうだと思ったな。甘くてやわらかそうだと……」
ふっと思い出すように笑ってから、辺境伯様はばつが悪そうに「忘れてくれ」と言った。
その顔を少々可愛らしいと思ってしまった。
それからの日々、雪は降り続いた。
領地は厚い白に閉ざされ、人も物も動きづらくなる季節。
代わりに、魔獣の動きも鈍重になり、すべてのものは冬の中に閉じ込められていく。
冬支度を終えて一息ついたこの辺境伯領は、静かに雪の中に埋もれていくようだった。
辺境伯様は相変わらず忙しそうで、朝から晩まで執務室の灯が消えることはなかった。
それでも――不思議なことに、午後のお茶だけは共にする機会が増えた。
暖炉の火がぱちりと弾ける静かな部屋で、雪の落ちる音を聞きながら、二人きりで過ごす短い時間。
話題は大きなことではない。
冬に強い作物の話、街の子供たちが作る雪灯籠の話、今年の干し肉の出来、使用人たちの生活への配慮……
お茶会と言うより、定例の報告会と言った方が似つかわしい。ほんの少しの時間で終わることも多い。
けれど、時折訪れる沈黙が、いつしかやさしいものに変わっていた。
湯気の向こうで目が合うたび、胸が少し跳ねた。
辺境伯様の視線は以前より柔らかくなっている気がする。氷の向こうにある暖かさのように、ゆっくりと心に沁みていく。
この方は、いつも丁寧に耳を傾けてくれる。
私の言葉を途中で遮らず、無理を求めず、必ず「できる範囲でいい」と残してくれる。
そのささやかな優しさに触れるたび、胸の奥が静かに満たされていくのを感じた。
私は、何も望まずにここへ来た。強いて言うなら、逃げ場所が欲しかった。
愛情どころか、安らぎすら求めてはいなかったはずだった。
なのに今、降り積もる雪の中、この静かな時間が、もう少し続けばいいと願ってしまう。
それがどれほど贅沢な願いか、自分でも理解しながら。
湯気の向こう、ふとこちらへ向けられたまなざしが優しい。
その柔らかさひとつで、胸が温かくなる。
冬の冷たさの中で、指先までじんと熱を帯びる。
そうして毎日、降り止まぬ雪が、世界を白に閉ざしていった。
空気は刺すように冷たく、息を吸うだけで胸の奥が縮まる。
窓の外は一面の白。
人の気配さえ吸い込んでしまうような、深い静寂だった。
ある日の午後、裏倉庫から派手な崩れる音が響いた。
ギシ、と嫌な軋みが続き、次の瞬間、重い木箱が連鎖するように倒れ、倉庫全体が揺れた。
私は反射的に駆け出していた。
雪を蹴り、息を切らして倉庫へ向かう。
見れば、整然と積まれていた物資の山が、雪と湿気の重みで崩れ、木箱や袋が折り重なって床を埋め尽くしていた。
冬越えの貴重な備蓄が、無残に潰れ、破れ、濡れていた。
(――私が最後に触った)
昨日、乾燥のために敷いた布を広げるスペースを確保するため、ほんの少し物資の位置をずらした。
もちろん許可はとった。問題はなかった筈だ。
けれど、それが支えを弱くしたのかもしれない。それとも……
(厄災の烙印のせい)
背筋が冷たくなった。
視界の端が暗く、狭まり、息が苦しくなる。
胸の奥で、押し殺した恐怖が牙をむいた。
あの倉庫の冷たい夜の空気の感触を、もう忘れたはずなのに。
震える声が漏れる。
「……わ、私の、せい……です……」
唇が凍りつきそうだった。
声にした瞬間、頭の中に次々と過去の光景が押し寄せた。
怯えた目でこちらを見る使用人。
割れた花瓶。
病に倒れた者。
積み重ねられた「偶然」が、すべて私が原因だと言われた日々。
――また、あの目で見られる。
――ここでも、拒まれる。
――私は、ここにもいてはいけなかった。
吐き気がするほど怖くて、寒くて、心臓が痛かった。
そのとき、雪を踏みしめる重く確かな足音が近づいた。
辺境伯様だった。
カイネと数人の使用人を伴っていたが、その表情はいつもと変わらず冷静だった。
素早く倒壊状況を確認し、指示を飛ばす。
「幸い、怪我人はいない。損耗も局所的だし、中身はほとんど無事だ」
そして、私に視線を向けた。
蒼い瞳がまっすぐにこちらを射抜いた。
「申し訳ありませ、わ、わたしの……」
「――あなたのせいではない」
雪より静かで、真っ直ぐな声。
「こういうことは初めてではない。例年より雪が早かったから、雪除けが間に合っていなかった。あなたの行動は関係ない……それより、怪我はないだろうか」
その言葉が、胸の奥に強く届いた瞬間、何かが崩れた。
張りつめていたものが、ぷつりと切れた。
息が震え、視界が滲んだ。
「……ルーチェ嬢?」
「ちが……っ、私は……また、迷惑をかけたと……思って……」
声がうまく出なかった。
涙が一粒、雪に落ちた。
落ちた瞬間、自分で驚いた。
泣くつもりなんてなかったのに。
「す、すみません……泣くのではなくて、説明がしたかっただけで……」
ごしごしと袖で目元を拭く。
「違います、そんなつもりでは……っ泣く気なんて……なかったのに――」
止めようとしても止まらない。
胸の奥から堰を切ったように、止めどなくあふれてくる。
泣けば嫌われる、そう刷り込まれてきた恐怖が顔を上げる。
その肩に、そっと大きな手が触れた。
「……」
嗚咽が止まらず、私はただ、肩を震わせながら涙に任せた。
縋りつくことはできずに下を向く。辺境伯様は私の姿を隠すように立っていた。
慰め慣れている人ではないと、すぐにわかった。
ぎこちなく、手の置きどころに迷っている気配すら伝わってきた。
だからこそ、胸の奥が痛いほど温まった。
肩にふれた手は、手袋越しなのに、あたたかかった。
カイネがこちらの様子をうかがう使用人たちを下がらせている。
イリアは何度も私の背をさすりながら、心配そうに眉を下げていた。
「……大丈夫だ。ここには、誰もあなたを責める者はいない」
不器用な、けれど、まっすぐな声音だった。
その言葉に、胸がきゅっと縮まる。
「はい……」
これほど救われたと感じた言葉が、今まであっただろうか。
視界が涙で霞みながら、私は初めて心から安堵した。
白い世界の中で、頬を伝う涙だけがあたたかかった。
涙はまだ止まらなかったけれど――怖さではなく、安堵で震えているのだと、ようやく気づいた。
◆
倉庫の後始末が終わり、人心地ついた夜。
暖炉の火は静かに揺れ、橙色の光が執務室の壁を照らしていた。
ダリウスは机に肘をつき、額を押さえた。
まぶたを閉じると、倉庫の前で泣き出したルーチェの姿が浮かんだ。
あの細い肩が震えた瞬間、
気づけば、抱きしめたいと――
心の奥で強く思ってしまっていた。
その衝動に、自分で驚いた。
慰めようと手を伸ばしたつもりだった。
だが、あの時ほんとうに望んでいたのは、ただ腕の中に守り抱いてしまうことだった。
そんな乱暴さを、自分が持っているとは思わなかった。
「……参った」
ひとり言のように呟く。
仕事の疲れでも、淡い同情でもない。
もっと深い場所から湧き上がる感情。
名をつけるなら、あまりに単純で、避けるべきもの。
ノックとともに扉が開き、カイネが入ってきた。
いつもの軽い足取りと、にやにやした笑み。
「いやあ、旦那様。情が移りましたねえ。あれは、どう見ても――」
軽口を続けようとした口を、ダリウスの低い声が遮った。
「やめろ」
短く鋭い声だったが、怒りではなく戸惑いが滲んでいた。
カイネは笑って肩をすくめた。
「はは、悪気はありませんよ。ただまあ、見ていて微笑ましかったので」
その時、背後の扉からそっと顔を出したイリアが、遠慮なくため息をついた。
「カイネ……楽しそうにしてる場合じゃないでしょう。旦那様がどれだけ悩んでるか、わかってるの?ルーチェ様も……」
「わかってるから、面白いんじゃ」
「怒るわよ。わきまえて」
「はい……」
イリアの静かな一言に、さすがのカイネも咳払いして黙った。
ダリウスは、ゆっくり息を吐いた。
「彼女にしてみれば、実家での扱いはどうあれ、ここにいるのも俺との婚姻も、その不当な扱いの結果だ。疎まれている……とまでは、思いたくないが……」
落ち着いた声で続ける。
「だから、軽々しくからかいの材料にするな。ルーチェ嬢は」
言葉が止まる。
金まで添えて厄介払いされた娘。
金のために引き受けた婚約者。
気の毒な女性。「厄災」の危険をはらむ女。聡明で忍耐強い女性――
どんな言い方が正しいのか、思いつかない。
やっと絞り出した声は、思いがけず穏やかだった。
「守りたいと思った。……別に、それだけだ。彼女も最早、当家の領民の一人なのだから。穏やかに……幸福に、生きていけるように、してやりたいと思う」
カイネの目が丸くなり、続いて口元がじんわりと笑みの形に変わった。
だが結局、何も言わなかった。
イリアはそっと視線を伏せ、小さく頷いた。
部屋には再び、暖炉の火の音だけが残った。
◆
昔の夢を見た。
まだ私が「厄災」の烙印を押される前。
王都の華やかな社交界に、ひどく場違いな人物が現れたことがあった。
銀髪——本来なら、光を受けてきらめくはずの色。
なのにその時の彼の髪は、銀と言うよりくすんだ灰色に見えた。乾いた風にさらされ艶を失い、ところどころ乱れていた。
その乱れには、寝る間も惜しんで働き続けた者だけが纏う、追い詰められた気迫の影が宿っていた。
蒼い瞳も、まっすぐではあるのに、深く疲れていた。
まるで、眠ることすら許されていないかのように。隈を作って、睨むように力を入れて。
そして——服。貴族の礼装としては明らかに古く、糸のほつれを丁寧に繕った跡がいくつも並んでいた。
色褪せた生地は、何度も洗われ、何度も補修され、それでも“礼装”として形を保とうとしていた。
会場の空気が、たちまちざわめきに変わった。
「まあ……あれが辺境伯?」
「ひどい格好。あれでは乞食のよう」
「貧乏だという噂は本当だったのね」
「まさか本当に援助を求めに?」
「せめて服を新調すればいいのに」
嘲笑交じりのひそひそ声が、会場中に広がった。
さざ波のように嘲笑が広がるたび、彼は静かに会場を見渡し、それでも逃げるような素振りを一度もしなかった。
貴族ひとりひとりに声をかけ、深く、深く頭を下げていた。
必死で、切実で、その背負う苦しみが痛いほど伝わった。
本来なら、辺境伯ほどの立場であれば頭を下げる必要などないはず。
それなのに、彼は王都に集まった貴族たちへ、一人ひとりに礼を尽くして回っていた。
——理由は、すぐに理解できた。
当時の辺境伯領は、魔獣の大量発生によって壊滅寸前。
畑は焼かれ、家畜は失われ、疫病まで広がり、領民たちは飢えと恐怖に追い込まれていた。
王都からの支援も断ち切られた。
若くして家督を継いだ辺境伯様に残された手立ては、王都の裕福な貴族たちから、どうにか援助を引き出すこと。
だからこそ——彼は服の古さも体裁も、気にしている余裕などなかったのだ。
人々を生かすために、食糧や薬品を買うために、エネルギーとなる魔晶石を手に入れるために。
彼は自尊心よりも領民の命を選んだ。その切実な願いが、彼の姿勢からありありと伝わってきた。
銀髪は疲れに揺れ、蒼い瞳には眠れぬ夜の影が差していた。
それでも背筋は折れず、誰に嘲笑されても、深く頭を下げ続けていた。
「どうか……どうか、力を貸してほしい」
声は小さかったけれど、震えていなかった。
誇りを保ったまま、必死に頭を下げる。
(あんなふうに、他人の命のために頭を下げられる人がどれほどいるのかしら……)
幼い私は、その背中をただ見つめるしかできなかった。
(思い出した)
彼はたった一人、王都の貴族たちに援助を求めに来ていたのだ。
――それ故に、貧乏辺境伯などと。
「そうだ……」
思い出した。あの時の方。あれが、辺境伯様だった。
私はそっと胸に手を当てる。
(……あんなにも立派な方だったのに。貴族たちは、服が古いというだけで笑っていた)
あの頃、私はまだ幼くて、彼に声をかけることもできなかった。
けれど心の中では、ずっと思っていた。
(立派だわ。あんなふうに頭を下げるなんて、簡単にできることじゃない)
その人が今、私を迎え入れてくれている。
「厄災」と呼ばれた私を、拒まず、蔑まず。静かに受け入れてくれた。
目覚めてしまった私は、部屋の灯りを小さく灯した。
あの方の腕の温度を思い返すたび、息が詰まりそうになった。
誰かに支えられることが、こんなにも心を震わせるとは知らなかった。
触れられたのはほんの一瞬。
けれど同時に、胸の奥がぎゅっと縮む。
ゆだねてはいけない。
迷惑をかけてはいけない。
甘えてしまえば、きっと何かを壊してしまう。
その恐怖が、熱を打ち消すように冷たい影を落とした。
涙を見せるなど、愚かだった。
あの方に気を遣わせてしまった。
弱さを見せるほど、わたしはここでの立場を危うくするかもしれないのに。
「……」
だけど──どうして涙が溢れたのか、今ならわかる。
責められなかったからだ。
怯えた目で見られなかったからだ。
「大丈夫だ」と言われた瞬間、胸の奥で固く閉じていた扉が、音を立てて軋んだ。
あの時、ほんとうは抱きしめてほしかった。
そんな願いが生まれてしまった自分に気づき、息が止まる。
望むだけで許されるほど、わたしは軽い存在ではない。
ずっと苦労を重ねられて来た方に寄りかかることなんて、決してあってはならない。
だから、胸の高鳴りも、こぼれそうな想いも、すべてここで閉じ込める。
そのはずなのに──
今も心臓が震えている。
苦しいほどのこの鼓動も、雪が静かに積もるように、いつか無音になるだろうか。
それを願うのに、ほんの少しだけ惜しいと思っている自分がいる。
私は毛布を握りしめ、目を閉じた。
王都の雪は薄く、人々の足に踏まれればすぐ泥に変わる。
けれど、この辺境の雪は違った。
空から落ちてくる白い結晶はふわりと舞い、触れればすぐ溶けてしまいそうなのに、地面をあっという間に覆っていく。
世界が静かな銀色の幕に閉ざされていくよう。
「……きれい……」
伸ばした手の先で、白は儚く消えた。
その時、背後からくぐもった笑い声が聞こえた。
振り返ると、辺境伯様が、ほんのわずか口元をゆるめていた。
「すみません……!大変な冷害をもたらすものなのに、呑気なことを」
「いや。……確かに、美しいものだと俺も思う」
「……恐れ入ります」
「子供の頃は、美味そうだと思ったな。甘くてやわらかそうだと……」
ふっと思い出すように笑ってから、辺境伯様はばつが悪そうに「忘れてくれ」と言った。
その顔を少々可愛らしいと思ってしまった。
それからの日々、雪は降り続いた。
領地は厚い白に閉ざされ、人も物も動きづらくなる季節。
代わりに、魔獣の動きも鈍重になり、すべてのものは冬の中に閉じ込められていく。
冬支度を終えて一息ついたこの辺境伯領は、静かに雪の中に埋もれていくようだった。
辺境伯様は相変わらず忙しそうで、朝から晩まで執務室の灯が消えることはなかった。
それでも――不思議なことに、午後のお茶だけは共にする機会が増えた。
暖炉の火がぱちりと弾ける静かな部屋で、雪の落ちる音を聞きながら、二人きりで過ごす短い時間。
話題は大きなことではない。
冬に強い作物の話、街の子供たちが作る雪灯籠の話、今年の干し肉の出来、使用人たちの生活への配慮……
お茶会と言うより、定例の報告会と言った方が似つかわしい。ほんの少しの時間で終わることも多い。
けれど、時折訪れる沈黙が、いつしかやさしいものに変わっていた。
湯気の向こうで目が合うたび、胸が少し跳ねた。
辺境伯様の視線は以前より柔らかくなっている気がする。氷の向こうにある暖かさのように、ゆっくりと心に沁みていく。
この方は、いつも丁寧に耳を傾けてくれる。
私の言葉を途中で遮らず、無理を求めず、必ず「できる範囲でいい」と残してくれる。
そのささやかな優しさに触れるたび、胸の奥が静かに満たされていくのを感じた。
私は、何も望まずにここへ来た。強いて言うなら、逃げ場所が欲しかった。
愛情どころか、安らぎすら求めてはいなかったはずだった。
なのに今、降り積もる雪の中、この静かな時間が、もう少し続けばいいと願ってしまう。
それがどれほど贅沢な願いか、自分でも理解しながら。
湯気の向こう、ふとこちらへ向けられたまなざしが優しい。
その柔らかさひとつで、胸が温かくなる。
冬の冷たさの中で、指先までじんと熱を帯びる。
そうして毎日、降り止まぬ雪が、世界を白に閉ざしていった。
空気は刺すように冷たく、息を吸うだけで胸の奥が縮まる。
窓の外は一面の白。
人の気配さえ吸い込んでしまうような、深い静寂だった。
ある日の午後、裏倉庫から派手な崩れる音が響いた。
ギシ、と嫌な軋みが続き、次の瞬間、重い木箱が連鎖するように倒れ、倉庫全体が揺れた。
私は反射的に駆け出していた。
雪を蹴り、息を切らして倉庫へ向かう。
見れば、整然と積まれていた物資の山が、雪と湿気の重みで崩れ、木箱や袋が折り重なって床を埋め尽くしていた。
冬越えの貴重な備蓄が、無残に潰れ、破れ、濡れていた。
(――私が最後に触った)
昨日、乾燥のために敷いた布を広げるスペースを確保するため、ほんの少し物資の位置をずらした。
もちろん許可はとった。問題はなかった筈だ。
けれど、それが支えを弱くしたのかもしれない。それとも……
(厄災の烙印のせい)
背筋が冷たくなった。
視界の端が暗く、狭まり、息が苦しくなる。
胸の奥で、押し殺した恐怖が牙をむいた。
あの倉庫の冷たい夜の空気の感触を、もう忘れたはずなのに。
震える声が漏れる。
「……わ、私の、せい……です……」
唇が凍りつきそうだった。
声にした瞬間、頭の中に次々と過去の光景が押し寄せた。
怯えた目でこちらを見る使用人。
割れた花瓶。
病に倒れた者。
積み重ねられた「偶然」が、すべて私が原因だと言われた日々。
――また、あの目で見られる。
――ここでも、拒まれる。
――私は、ここにもいてはいけなかった。
吐き気がするほど怖くて、寒くて、心臓が痛かった。
そのとき、雪を踏みしめる重く確かな足音が近づいた。
辺境伯様だった。
カイネと数人の使用人を伴っていたが、その表情はいつもと変わらず冷静だった。
素早く倒壊状況を確認し、指示を飛ばす。
「幸い、怪我人はいない。損耗も局所的だし、中身はほとんど無事だ」
そして、私に視線を向けた。
蒼い瞳がまっすぐにこちらを射抜いた。
「申し訳ありませ、わ、わたしの……」
「――あなたのせいではない」
雪より静かで、真っ直ぐな声。
「こういうことは初めてではない。例年より雪が早かったから、雪除けが間に合っていなかった。あなたの行動は関係ない……それより、怪我はないだろうか」
その言葉が、胸の奥に強く届いた瞬間、何かが崩れた。
張りつめていたものが、ぷつりと切れた。
息が震え、視界が滲んだ。
「……ルーチェ嬢?」
「ちが……っ、私は……また、迷惑をかけたと……思って……」
声がうまく出なかった。
涙が一粒、雪に落ちた。
落ちた瞬間、自分で驚いた。
泣くつもりなんてなかったのに。
「す、すみません……泣くのではなくて、説明がしたかっただけで……」
ごしごしと袖で目元を拭く。
「違います、そんなつもりでは……っ泣く気なんて……なかったのに――」
止めようとしても止まらない。
胸の奥から堰を切ったように、止めどなくあふれてくる。
泣けば嫌われる、そう刷り込まれてきた恐怖が顔を上げる。
その肩に、そっと大きな手が触れた。
「……」
嗚咽が止まらず、私はただ、肩を震わせながら涙に任せた。
縋りつくことはできずに下を向く。辺境伯様は私の姿を隠すように立っていた。
慰め慣れている人ではないと、すぐにわかった。
ぎこちなく、手の置きどころに迷っている気配すら伝わってきた。
だからこそ、胸の奥が痛いほど温まった。
肩にふれた手は、手袋越しなのに、あたたかかった。
カイネがこちらの様子をうかがう使用人たちを下がらせている。
イリアは何度も私の背をさすりながら、心配そうに眉を下げていた。
「……大丈夫だ。ここには、誰もあなたを責める者はいない」
不器用な、けれど、まっすぐな声音だった。
その言葉に、胸がきゅっと縮まる。
「はい……」
これほど救われたと感じた言葉が、今まであっただろうか。
視界が涙で霞みながら、私は初めて心から安堵した。
白い世界の中で、頬を伝う涙だけがあたたかかった。
涙はまだ止まらなかったけれど――怖さではなく、安堵で震えているのだと、ようやく気づいた。
◆
倉庫の後始末が終わり、人心地ついた夜。
暖炉の火は静かに揺れ、橙色の光が執務室の壁を照らしていた。
ダリウスは机に肘をつき、額を押さえた。
まぶたを閉じると、倉庫の前で泣き出したルーチェの姿が浮かんだ。
あの細い肩が震えた瞬間、
気づけば、抱きしめたいと――
心の奥で強く思ってしまっていた。
その衝動に、自分で驚いた。
慰めようと手を伸ばしたつもりだった。
だが、あの時ほんとうに望んでいたのは、ただ腕の中に守り抱いてしまうことだった。
そんな乱暴さを、自分が持っているとは思わなかった。
「……参った」
ひとり言のように呟く。
仕事の疲れでも、淡い同情でもない。
もっと深い場所から湧き上がる感情。
名をつけるなら、あまりに単純で、避けるべきもの。
ノックとともに扉が開き、カイネが入ってきた。
いつもの軽い足取りと、にやにやした笑み。
「いやあ、旦那様。情が移りましたねえ。あれは、どう見ても――」
軽口を続けようとした口を、ダリウスの低い声が遮った。
「やめろ」
短く鋭い声だったが、怒りではなく戸惑いが滲んでいた。
カイネは笑って肩をすくめた。
「はは、悪気はありませんよ。ただまあ、見ていて微笑ましかったので」
その時、背後の扉からそっと顔を出したイリアが、遠慮なくため息をついた。
「カイネ……楽しそうにしてる場合じゃないでしょう。旦那様がどれだけ悩んでるか、わかってるの?ルーチェ様も……」
「わかってるから、面白いんじゃ」
「怒るわよ。わきまえて」
「はい……」
イリアの静かな一言に、さすがのカイネも咳払いして黙った。
ダリウスは、ゆっくり息を吐いた。
「彼女にしてみれば、実家での扱いはどうあれ、ここにいるのも俺との婚姻も、その不当な扱いの結果だ。疎まれている……とまでは、思いたくないが……」
落ち着いた声で続ける。
「だから、軽々しくからかいの材料にするな。ルーチェ嬢は」
言葉が止まる。
金まで添えて厄介払いされた娘。
金のために引き受けた婚約者。
気の毒な女性。「厄災」の危険をはらむ女。聡明で忍耐強い女性――
どんな言い方が正しいのか、思いつかない。
やっと絞り出した声は、思いがけず穏やかだった。
「守りたいと思った。……別に、それだけだ。彼女も最早、当家の領民の一人なのだから。穏やかに……幸福に、生きていけるように、してやりたいと思う」
カイネの目が丸くなり、続いて口元がじんわりと笑みの形に変わった。
だが結局、何も言わなかった。
イリアはそっと視線を伏せ、小さく頷いた。
部屋には再び、暖炉の火の音だけが残った。
◆
昔の夢を見た。
まだ私が「厄災」の烙印を押される前。
王都の華やかな社交界に、ひどく場違いな人物が現れたことがあった。
銀髪——本来なら、光を受けてきらめくはずの色。
なのにその時の彼の髪は、銀と言うよりくすんだ灰色に見えた。乾いた風にさらされ艶を失い、ところどころ乱れていた。
その乱れには、寝る間も惜しんで働き続けた者だけが纏う、追い詰められた気迫の影が宿っていた。
蒼い瞳も、まっすぐではあるのに、深く疲れていた。
まるで、眠ることすら許されていないかのように。隈を作って、睨むように力を入れて。
そして——服。貴族の礼装としては明らかに古く、糸のほつれを丁寧に繕った跡がいくつも並んでいた。
色褪せた生地は、何度も洗われ、何度も補修され、それでも“礼装”として形を保とうとしていた。
会場の空気が、たちまちざわめきに変わった。
「まあ……あれが辺境伯?」
「ひどい格好。あれでは乞食のよう」
「貧乏だという噂は本当だったのね」
「まさか本当に援助を求めに?」
「せめて服を新調すればいいのに」
嘲笑交じりのひそひそ声が、会場中に広がった。
さざ波のように嘲笑が広がるたび、彼は静かに会場を見渡し、それでも逃げるような素振りを一度もしなかった。
貴族ひとりひとりに声をかけ、深く、深く頭を下げていた。
必死で、切実で、その背負う苦しみが痛いほど伝わった。
本来なら、辺境伯ほどの立場であれば頭を下げる必要などないはず。
それなのに、彼は王都に集まった貴族たちへ、一人ひとりに礼を尽くして回っていた。
——理由は、すぐに理解できた。
当時の辺境伯領は、魔獣の大量発生によって壊滅寸前。
畑は焼かれ、家畜は失われ、疫病まで広がり、領民たちは飢えと恐怖に追い込まれていた。
王都からの支援も断ち切られた。
若くして家督を継いだ辺境伯様に残された手立ては、王都の裕福な貴族たちから、どうにか援助を引き出すこと。
だからこそ——彼は服の古さも体裁も、気にしている余裕などなかったのだ。
人々を生かすために、食糧や薬品を買うために、エネルギーとなる魔晶石を手に入れるために。
彼は自尊心よりも領民の命を選んだ。その切実な願いが、彼の姿勢からありありと伝わってきた。
銀髪は疲れに揺れ、蒼い瞳には眠れぬ夜の影が差していた。
それでも背筋は折れず、誰に嘲笑されても、深く頭を下げ続けていた。
「どうか……どうか、力を貸してほしい」
声は小さかったけれど、震えていなかった。
誇りを保ったまま、必死に頭を下げる。
(あんなふうに、他人の命のために頭を下げられる人がどれほどいるのかしら……)
幼い私は、その背中をただ見つめるしかできなかった。
(思い出した)
彼はたった一人、王都の貴族たちに援助を求めに来ていたのだ。
――それ故に、貧乏辺境伯などと。
「そうだ……」
思い出した。あの時の方。あれが、辺境伯様だった。
私はそっと胸に手を当てる。
(……あんなにも立派な方だったのに。貴族たちは、服が古いというだけで笑っていた)
あの頃、私はまだ幼くて、彼に声をかけることもできなかった。
けれど心の中では、ずっと思っていた。
(立派だわ。あんなふうに頭を下げるなんて、簡単にできることじゃない)
その人が今、私を迎え入れてくれている。
「厄災」と呼ばれた私を、拒まず、蔑まず。静かに受け入れてくれた。
目覚めてしまった私は、部屋の灯りを小さく灯した。
あの方の腕の温度を思い返すたび、息が詰まりそうになった。
誰かに支えられることが、こんなにも心を震わせるとは知らなかった。
触れられたのはほんの一瞬。
けれど同時に、胸の奥がぎゅっと縮む。
ゆだねてはいけない。
迷惑をかけてはいけない。
甘えてしまえば、きっと何かを壊してしまう。
その恐怖が、熱を打ち消すように冷たい影を落とした。
涙を見せるなど、愚かだった。
あの方に気を遣わせてしまった。
弱さを見せるほど、わたしはここでの立場を危うくするかもしれないのに。
「……」
だけど──どうして涙が溢れたのか、今ならわかる。
責められなかったからだ。
怯えた目で見られなかったからだ。
「大丈夫だ」と言われた瞬間、胸の奥で固く閉じていた扉が、音を立てて軋んだ。
あの時、ほんとうは抱きしめてほしかった。
そんな願いが生まれてしまった自分に気づき、息が止まる。
望むだけで許されるほど、わたしは軽い存在ではない。
ずっと苦労を重ねられて来た方に寄りかかることなんて、決してあってはならない。
だから、胸の高鳴りも、こぼれそうな想いも、すべてここで閉じ込める。
そのはずなのに──
今も心臓が震えている。
苦しいほどのこの鼓動も、雪が静かに積もるように、いつか無音になるだろうか。
それを願うのに、ほんの少しだけ惜しいと思っている自分がいる。
私は毛布を握りしめ、目を閉じた。
34
あなたにおすすめの小説
冷遇王妃はときめかない
あんど もあ
ファンタジー
幼いころから婚約していた彼と結婚して王妃になった私。
だが、陛下は側妃だけを溺愛し、私は白い結婚のまま離宮へ追いやられる…って何てラッキー! 国の事は陛下と側妃様に任せて、私はこのまま離宮で何の責任も無い楽な生活を!…と思っていたのに…。
側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、孤独な陛下を癒したら、執着されて離してくれません!
花瀬ゆらぎ
恋愛
「おまえには、国王陛下の側妃になってもらう」
婚約者と親友に裏切られ、傷心の伯爵令嬢イリア。
追い打ちをかけるように父から命じられたのは、若き国王フェイランの側妃になることだった。
しかし、王宮で待っていたのは、「世継ぎを産んだら離縁」という非情な条件。
夫となったフェイランは冷たく、侍女からは蔑まれ、王妃からは「用が済んだら去れ」と突き放される。
けれど、イリアは知ってしまう。 彼が兄の死と誤解に苦しみ、誰よりも孤独の中にいることを──。
「私は、陛下の幸せを願っております。だから……離縁してください」
フェイランを想い、身を引こうとしたイリア。
しかし、無関心だったはずの陛下が、イリアを強く抱きしめて……!?
「離縁する気か? 許さない。私の心を乱しておいて、逃げられると思うな」
凍てついた王の心を溶かしたのは、売られた側妃の純真な愛。
孤独な陛下に執着され、正妃へと昇り詰める逆転ラブロマンス!
※ 以下のタイトルにて、ベリーズカフェでも公開中。
【側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、陛下は私を離してくれません】
婚約者に突き飛ばされて前世を思い出しました
天宮有
恋愛
伯爵令嬢のミレナは、双子の妹キサラより劣っていると思われていた。
婚約者のルドノスも同じ考えのようで、ミレナよりキサラと婚約したくなったらしい。
排除しようとルドノスが突き飛ばした時に、ミレナは前世の記憶を思い出し危機を回避した。
今までミレナが支えていたから、妹の方が優秀と思われている。
前世の記憶を思い出したミレナは、キサラのために何かすることはなかった。
婚約破棄? 私、この国の守護神ですが。
國樹田 樹
恋愛
王宮の舞踏会場にて婚約破棄を宣言された公爵令嬢・メリザンド=デラクロワ。
声高に断罪を叫ぶ王太子を前に、彼女は余裕の笑みを湛えていた。
愚かな男―――否、愚かな人間に、女神は鉄槌を下す。
古の盟約に縛られた一人の『女性』を巡る、悲恋と未来のお話。
よくある感じのざまぁ物語です。
ふんわり設定。ゆるーくお読みください。
悪役令嬢、休職致します
碧井 汐桜香
ファンタジー
そのキツい目つきと高飛車な言動から悪役令嬢として中傷されるサーシャ・ツンドール公爵令嬢。王太子殿下の婚約者候補として、他の婚約者候補の妨害をするように父に言われて、実行しているのも一因だろう。
しかし、ある日突然身体が動かなくなり、母のいる領地で療養することに。
作中、主人公が精神を病む描写があります。ご注意ください。
作品内に登場する医療行為や病気、治療などは創作です。作者は医療従事者ではありません。実際の症状や治療に関する判断は、必ず医師など専門家にご相談ください。
居場所を失った令嬢と結婚することになった男の葛藤
しゃーりん
恋愛
侯爵令嬢ロレーヌは悪女扱いされて婚約破棄された。
父親は怒り、修道院に入れようとする。
そんな彼女を助けてほしいと妻を亡くした28歳の子爵ドリューに声がかかった。
学園も退学させられた、まだ16歳の令嬢との結婚。
ロレーヌとの初夜を少し先に見送ったせいで彼女に触れたくなるドリューのお話です。
婚約七年目、愛する人と親友に裏切られました。
彼方
恋愛
男爵令嬢エミリアは、パーティー会場でレイブンから婚約破棄を宣言された。どうやら彼の妹のミラを、エミリアがいじめたことになっているらしい。エミリアはそのまま断罪されるかと思われたが、彼女の親友であるアリアが声を上げ……
あっ、追放されちゃった…。
satomi
恋愛
ガイダール侯爵家の長女であるパールは精霊の話を聞くことができる。がそのことは誰にも話してはいない。亡き母との約束。
母が亡くなって喪も明けないうちに義母を父は連れてきた。義妹付きで。義妹はパールのものをなんでも欲しがった。事前に精霊の話を聞いていたパールは対処なりをできていたけれど、これは…。
ついにウラルはパールの婚約者である王太子を横取りした。
そのことについては王太子は特に魅力のある人ではないし、なんにも感じなかったのですが、王宮内でも噂になり、家の恥だと、家まで追い出されてしまったのです。
精霊さんのアドバイスによりブルハング帝国へと行ったパールですが…。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる