厄災烙印の令嬢は貧乏辺境伯領に嫁がされるようです

あおまる三行

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9.白雪と近づく距離

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 執務室の窓辺には、重く分厚い雲が垂れ込めていた。
 吹雪は途切れる気配を見せず、遠くの景色は白に呑まれる。
 
 机の上には、各地から届いた報告が重ねられている。
 ダリウスはそれらを読み終え、指先で眉間を押さえた。
「……やはり、国内の混乱は思ったより深刻らしい」
 低い声に、側に控えるカイネが静かにうなずく。
「魔晶石の供給が滞るなど、予想していませんでしたから」
「シルリエ鉱山は国内でも有数の大鉱山だ。こんなに急に枯れるとは……恐らく、枯渇の気配を隠していたものと見える」
 ダリウスは溜め息をついた。
 
「一番気の毒なのは鉱山の労働者だ」
「……旦那様はほんと、それが一番に出てくるのが、貴族っぽくないというかなんというか」
「なんとでも言え。事実だろう」
「好ましく思ってるんですよ」
 カイネが笑う。ダリウスはひとつ力を抜いて椅子の背に身体を預けた。
「……俺の貴族らしさはさておいて、だ。……この件、貴族連中も含めて、苦労が襲いかかるだろうな」
「便利さに慣れきった生活からは、突然後戻りできるものではありませんし、不満の噴出は止められないでしょうね」
「ああ。それを責めることはできん……しかし混乱が長引けば、国そのものが揺らぐ」

 魔晶石は、魔力の封じられた石だ。
 それをエネルギーに使うことで、国中の様々な設備が動かされている。
 生活の基盤、必需品――それ故に、魔晶石の鉱脈を発見しただけで、その領地は鉱脈から採れる魔晶石が枯渇するまで、とても華やぐ。
 貴族の中には自領の発展と優先供給を見込んで、新たな鉱山探索や、既存鉱山の更なる開発に投資する家も多い。
 魔獣の被害に喘ぐヴァルト辺境伯領には縁のない話だった。
 王都からの分配だけではなく、魔晶石を他領から買うことができればもっと豊かな生活を領民にさせてやれるが、生憎先立つものがない。
 仕方なく、辺境伯領では時間をかけて、魔晶石を節約し、配給だけで回す街のかたちを作り上げていた。

 ダリウスは苦く笑った。
「皮肉なものだ。俺たちは困窮ゆえに、魔晶石に頼りきりにならない生活を作り、節約と貯蓄に励むしかなかった。その結果、今のところ最も影響を受けずにいられる」
「おかげで、あまり不安の声も聞かれません。倹約というのも、時に強さになるものですね」
「倹約ではなく吝嗇、貧乏人と呼ばれていたがな。……肩身の狭さが少しは報われたか」
 ダリウスは一枚の書状を指先で弾いた。
 視線は紙を見ているのに、そこにはない何かを追っているようだった。
 短い沈黙。
 
 やがて、カイネが慎重に言葉を選ぶ。
「……この件を、ルーチェ様には?」
「ああ。伝えるつもりだ。判断を求めたい。彼女の意見は、信頼に値する」
 その声音には、揺るがぬ静かな確信があった。
 カイネはふっと目を細めた。
「俺たち使用人も、最近はすっかりルーチェ様を頼りにしています。あのお方は、不思議な方ですね」
 ダリウスの指が動きを止める。
 それを隠すように、ゆっくりと書状を揃える。
 雪が窓を叩く音だけが響く。
 胸の奥で、不可思議な痛みが広がった。
 触れられない場所に手を伸ばそうとしたときの、あの感覚。
 それを押し込めるように、ダリウスは低く息を吐き、机上の書類に向き直った。
「……余計な感傷だ」
 呟く。

 それから、「近く、冬の魔獣の状況を見に行ってくる」と言った。
「トトリたちを連れていくが、いいか」
「承知しました。セレスは休暇でしたっけ」
「ああ」
 答えてから、思い出したようにダリウスはカイネを見た。
「お前もたまには休暇を取った方がいいぞ。カイネ」
「……うわぁ、旦那様にそう言われてしまうとはね。俺ってもしかしてめちゃくちゃ働き者ですか?」
 ニヤニヤしたカイネに、ダリウスも調子を合わせるように口の端を持ち上げた。
「感謝はしている、いつもな。……そうだな、準備と先触れをしておいてくれ。それと俺の留守中、ルーチェ嬢をよろしく頼む」
「言われずとも……拝命致しますよ」
 カイネは静かに頭を下げる。



 

 空からは、音もなく細かい雪片が降り続けている。
 世界そのものが、冷たい光に閉ざされてしまったようだった。
 そんな静けさの中、廊下を行き交う人の声だけがやけに鮮明に響いていた。
 その中で、ひときわ小さな囁きが耳に残った。
「王都で、魔晶石の値段が跳ね上がっているそうです」
「北西部のシルリエ鉱山が枯渇しつつあるとか……」
 魔晶石。
 暖房にも、灯りにも、魔道具の動力にも欠かせない、生活の根幹。
 それが高騰するということは――


 その日の午後。
 辺境伯様と卓を囲み、湯気の立つ茶を口に含んだとき、私は迷った末に切り出した。
「……王都の魔晶石が値上がりしているそうですね」
 彼の視線が、静かに私へ向けられた。
 まっすぐで、揺れのない眼差し。
「気になるのか」
 短い言葉だった。
 けれどその内側には、ただの興味ではなく、私の不安を受け止めようとする気配があった。
「あなたはどう思う」
 カップを両手で包み込み、私は小さく首を振った。
「いえ……流石に、すぐに全く供給が途絶えるということはないでしょうし、備蓄を放出すればしばらくは、凌げるでしょう。それに、この領は、魔晶石に頼りすぎない対策をされています。炭や木材の備蓄も、魔道具による節約の仕組みも。冬の間は特に、徹底されていると……学びました。だから、ひどく心配は、していません」
「……」
「新たな鉱脈が発見されるまで、嵐に薙ぎ倒されないよう耐えるのが、最善ではないけれど……出来ることなのだろうと思います」
 言葉を終えると、辺境伯様は目を伏せ、ふっと息を吐いた。
 その吐息は、少しだけ照れくさそうに見えた。
「……まあ、そうだな。俺も同意見だ」
 よく学んでいるな、と言葉にせずとも伝わる声音だった。
「節約倹約を旨としているから、こういう時には倒れにくいだろう」
「……」
「倹約家というより、もはや吝嗇だと言われるが」
 自嘲ぎみに紡がれた言葉に、私は勢いよく首を振った。
「違います」
 声が強すぎた。
 けれど、止められなかった。
「無駄を許さないのは、誰かのために必要だからです。人を守るために、お金も物資も慎重に扱うことの、何が悪いのでしょうか。それは、吝嗇なんかじゃありません……!」
 茶の表面に落ちる私の影が、わずかに揺れた。
 言いすぎたかもしれないと、胸がざわつき、言葉を飲み込む。
 けれど、静かに息をつく気配がした。
 顔を上げると、辺境伯様は少し目を丸くして、すぐに、かすかな笑みを浮かべた。
 驚きと、照れと、どこか安らぎがまざったような表情。
その表情に、心臓がどくりと鳴った。
「……そう言ってもらえると、ありがたいが」
 小さく漏らされた声は、ほんのわずか、嬉しそうだった。
 胸の奥がふっと温かくなる。
 窓の外に目を向ける。
 雪は相変わらず静かに降り続いていた。
 この白い壁が、辺境を世界から切り離してしまうように見える。
 
「……この領内は、きっと大丈夫だと思います。でも……国全体は、どうなるのでしょう」
 自分でも気づかぬうちに、声が低くなっていた。
「王宮では、どんな対策が考えられているのでしょうか」
「どうだろうな。……備蓄がなされているだろうし、他にも魔晶石鉱山はあるから、そうすぐに何かが起こるとも考えにくい。……だが、やはり、特に鉱山投資に金を回している貴族は打撃を受けるだろうし、何より心理的な不安による混乱は避けられないだろうな」
 それでも、大きな国が揺らぐとき、最初に押し潰されるのは辺境だ。
 立場の弱い人たちから、犠牲になっていく。
 私は本の中で知っている。
 そして、それをただ眺めていた小さな自分も知っている。
 無意識に握った指が震えた。
 茶器を置く音が静かに響く。
 
 辺境伯様は私を見つめ、言葉少なに呟いた。
「……もしや、兄君が心配か?」
「え……?」
「王宮に勤められていると聞いた」
 ……確かに、王宮で官吏として働く兄も、きっと職務に忙殺されているのだろう。
 
 そういえば、辺境伯様と婚姻することになったと、兄に連絡はいっているのだろうか。
 留学に行ってしまってから、一度も言葉を交わせていない。
「いえ。……兄には、私の心配なんて無用でしょう。不肖の妹ですもの」
「そんなことはないと思うが」
 辺境伯様の言葉に、胸の奥に沈んでいた記憶が、ゆっくりと浮かび上がった。
 兄――リヒト兄様。
 私と同じ、翠の瞳をした人。
 母が亡くなったあと、誰よりも私を守ろうとしてくれた。
 幼い私の手を引き、背中にかばってくれたことを、今でも覚えている。
 優秀で、努力家で、留学から戻った今は王宮で官吏として働き始め、気づけば、もう若くして出世していると聞いた。
 
 本来なら、兄様が公爵家を継ぐはずだった。母の跡を継ぎ、名実ともに公爵家の主として立つはずだった。
 けれど――。義父が家の実権を握ったあの日、まだ兄は未成年で。
 幼さを理由に、義父は兄様から継承権を遠ざけ――そして、留学の名目で家を追放したのだ。
 ルーチェ、大丈夫だ、必ず手紙を出す、いつか迎えに行くからと、兄様は最後まで言ってくれていた。
 その頃、私たちはまだ兄妹でいられたはずだった。
 けれど、留学先の兄様からは、一通の便りも届かなかった。
 ――兄様が王都に戻った後も、ずっと。
 
「……兄は、忙しいのだと思います」
 そう言いながらも、胸の奥はひどく冷たかった。
 忙しいから。仕方がないから。そう思おうとしてきた。
 けれど本当は、もう、「厄災」を背負い、兄を助けられもしない妹など忘れ、切り捨てたのだとわかっている。
「……私がここに来てからも、兄からは、一度も手紙は届いていません。だから、私の心配など、兄にとってはきっと迷惑なだけです」
「……」
「兄は幼い頃、私を守ってくれようとしましたが、私はそれに甘えてばかりで。呆れられてもしかたありません」
 雪の光が反射して、カップの縁が白く光った。
 その眩しさが、目の奥を痛くする。
 手紙が来ないのは、私が、もう家族ではないから。
 そう考えるほどに、胸が軋む。
「大丈夫です。……兄のことを思い出すのは、もうずいぶん前に、やめていますから」
 優しく庇われた時のことを思い出すと、余計に辛いから。
「……」
 部屋に静寂が落ちた。
 雪を踏む遠い馬の蹄の音だけが、かすかに響く。
 辺境伯様は、しばらく何も言わなかった。
 ただ、指先でカップの縁をなぞるようにして、
 私の言葉をゆっくり飲み込むようにしていた。
「……それでも」
 低く、静かな声だった。
「兄君が、あなたを忘れているとは思えない」
 蒼い瞳がまっすぐこちらを見た。
 優しい慰めでも同情でもなく、
 ただ、確信のある事実を述べるような声音だった。
 視線を落とす。
「……どうして、そう思われるのですか。兄はもう私を必要としていません。手紙だって、どんなに送っても、返事は一度も……」
 絞り出した声は震えていた。
「いや……証拠があるわけじゃない」
 辺境伯様は気まずそうに頬を掻いた。
「……らしくもないことを言った。だが……あなたが知らないところで、何かがあった可能性は考えられないだろうか」
 辺境伯様の声は、どこまでも穏やかだった。
 いつもの冷静さとは違う、凍りついていた場所を温めてくれるような温度。
「……」
「……いや、すまない。本当に、確証はないんだ」
「……」
「ただ……」
 まっすぐな蒼い瞳が、私を見つめている。
 
「俺が兄君なら、あなたを忘れはしない。……そう思っただけだ」
 固く閉じていた心に、その一言が落ちていった。
 深く息を吸う。
「――ありがとうございます」
 言葉にすると、心に温かさが広がる気がした。



 扉の前では、カイネとイリアがこっそり様子をうかがっていた。
 静けさの中、室内のテーブルには湯気のたつ茶器が並び、向かい合って座るダリウスとルーチェの姿があった。
 まだ、どこかぎこちない。しかし、以前のような硬い壁はもうない。
 ふたりの間に漂う空気は、慎重な手つきで積み上げられた信頼の気配に満ちていた。
 ルーチェはカップを両手に包み、立ちのぼる白い湯気に頬をうっすらと赤く染めながら微笑んだ。
 その様子を、ダリウスがふと見つめる。気づかれまいと視線をそらそうとしながらも、目が離せないとでも言いたげな、静かな熱が瞳に宿っていた。
 ほんの一瞬、ルーチェが顔を上げる。蒼と翠の視線が触れ合った。
 気まずさでもなく、恐れでもなく、ただ胸の奥を小さく震わせるような驚き。
「……」
「……」
 次の瞬間、ふたり同時にそっと視線を逸らした。
 ルーチェはカップに視線を落とし、ダリウスは窓の外の吹雪へ目を向けた。
 沈黙はあった。
 だが、それは重さではなく、言葉にならない想いが静かに満ちる沈黙だった。
 
 ──その光景を見ていたカイネは、腕を組んで深く嘆息した。

「……いや、なんというか……」
「もどかしいわ」
「それ!あと一歩じゃないか?」
「声が大きい」
 隣のイリアが肘で軽く小突く。
 だが彼女自身も、どこか目を細めていた。
 ふたりの間に生まれたささやかな温度を、壊してしまわないように包み込むような視線だった。
「焦らせないで、カイネ。旦那様は慎重な方なのだから。ルーチェ様も」
「わかってるけどさ。……でも、あれは応援したくなるだろ?」
「それには、同意するけれど」
 
 ダリウスは咳払いをひとつして、言葉を探すように口を開こうとするが、ルーチェも同じタイミングで息を吸ってしまい、ふたり同時にまた言いかけたなんらかの言葉を飲み込む。
 イリアは思わず口元を押さえた。
 ああ、これは本当に、時間の問題だ。
「……また、目をそらした。あのお二人」
 カイネが低くつぶやく。

 イリアは小さく息を漏らし、うなずいた。
「旦那様は、ずっとお一人で領を守ってこられたのよ。先代の大奥様が亡くなられた時も、涙ひとつ見せなかった。家族を失った痛みも、困難な領地の運営も、すべて抱え込まれて。……ご自身の幸せに真剣に向き合われることなんて、できなかったのだと思う……」
 イリアはそっと視線を伏せる。
 無表情だとよく言われるイリアだが、あの二人の苦労を思うと、表情にさっと翳がさした。
「ルーチェ様も同じ。守ってくれる人がいない場所で、ずっと耐えられて……」
「おい見ろイリア!あれ。完全に惚れてるだろ、旦那様の方」
「……あなたはもう少し、静かにして」
 感傷を無視した声に、イリアが眉をひそめる。
「だってもう、見てられないじゃないか」
「わかっている。けれど」
 イリアは胸の前で指を絡め、そっと目を伏せた。
「私は、旦那様だけじゃなくて、ルーチェ様にも、どうか幸せになっていただきたいの。最近、よく笑うようになられたのに」
 その声には祈りのような静けさがあった。
 カイネは珍しく真剣な顔をして、うなずく。
「旦那様だって。あの人はほんとに、強くあろうとしてばかりで、俺らがさんざ頼まなきゃ、碌に休みも取りゃしない。理不尽なことがあったって、怒りはしても悲しい顔なんか見せないんだ。ちゃんと受け止めてくれる誰かが必要だって俺はずっと……」
 一瞬の沈黙。
 
 そして、ふたり同時に顔を上げた。
「……俺たちが背中を押した方が早くないか!?」
「言うと思ったわ。やめなさい」
 イリアが即座に制した。
 しかしカイネは腕を組み、何か壮大な作戦を練り始めるような顔になる。
「いや、だって、このままじゃ永久に距離が縮まらない気が……」
「本気でやめなさい。この邸と領地はもう十分大変なんです。問題を増やさないで」
 イリアがこめかみに手を当てる。
「自然に任せるのがいいの、きっと。お二人は……そのうち、ちゃんと手を伸ばされる」
 カイネはしばらく唸ったあと、乱暴に頭をかいた。
「わかったわかった、わかりましたよイリア様。でも俺は祈るからな?早くなんとかなるように!」
「余計なことを考えるのはやめて、旦那様がお命じになった帳簿の件と視察の手配を進めなさい。あなたの仕事はそちらでしょう、執事カイネ。それが終わったらルーチェ様のお部屋に薪を運んできて。手が足りないの」
「くっ……現実的……」
 廊下の奥から風が吹き抜け、雪の光が窓の外を白く照らした。
 カイネが大きく伸びをする。
「ま……春までに、少しでも近づければいいな」
「そうね。それを見守るのが私たちの役目……」

 ふたりの主たちが、互いに触れそうで触れない距離でそっと歩き始めたことを、彼らは確信していた。
 その未来が、確かな幸福へと続きますように――と、胸の内で密かに願いながら。
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