厄災烙印の令嬢は貧乏辺境伯領に嫁がされるようです

あおまる三行

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10.抵抗

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 雪は今日も、朝から降り続いていた。
 音を奪うほど深く積もり、庭の像も背中まで埋もれて見えなくなっていた。
 窓に触れると、指先が痺れるほど冷たい。
「数日、留守にする」
 辺境伯様は私にそう伝えてきた。
 以前はカイネを通じた言伝だったのに、今日は、直接挨拶を受けた。
 寂しいけれど、そのことは嬉しい。
「何かあったのですか?」
「いや。定例の見回りだ。……例年の冬より冷え込んでいるからな。辺境警備にあたっている者たちの様子を見なければ」
 冬の間、基本的に魔獣は眠りについている。けれど、万一のことに備えて警備を怠ることはできない。
 何も起こらなければ、不便で寒い僻地での退屈な警備。万一が起これば、命に関わる任務。
 辺境伯様は、そういう方々のことも大事にされているのだ。
「今回は騎士団も連れて行く」
 その言葉に、胸の奥がふっと強く波立った。
 辺境の冬は想像以上に厳しい。雪に閉ざされた道は常に危険と隣り合わせで、凍った大地には何が潜んでいるかわからない。
 だからこそ当然なのだと理解はしているのに、心は落ち着かなかった。
「冬眠し損ねた魔獣がいないか……それに、皆の士気が下がっていないか、直接確かめてくる。留守の間、何かあれば伝令を送ってくれ」
 淡々と告げる声はいつもと変わらない。
 けれど、ふと、ほんの短い沈黙が落ちる。それから、辺境伯様はぎこちなく私の前で向き直った。
「……行ってくる」
 視線が絡む。
 その視線の奥に、言葉にならない何かが揺れている気がして、胸の奥がきゅっと縮む。
「どうか……お気をつけて」
 絞り出した声は少し掠れていた。心配してはいけないとわかっているのに、押さえ切れない気持ちが透けてしまった。
 辺境伯様の肩がわずかに動き、目が細められる。ほんの一瞬、微笑が浮かんだ。
 
「いつか私も……」
 雪の中を共に歩く自分を想像してしまう。何か考えるより先に、言葉はこぼれた。
「……ご一緒できたら……嬉しいです」
 辺境伯様は驚いたように瞬き、そして、静かに笑った。
 冬の光を映すその瞳は、やさしく温かかった。
「それなら、今度は共に行こう。あまり愉快な土地ではないが、あなたが望むなら」
「はい……!」
「兵たちにも、今度は、……妻となる女性を、連れて行くと言っておく」
 その瞬間、頭が真っ白になった。
 妻。
 そうなることは取り決められていて、義父との間でやりとりのあった契約で、と理解はしていた。けれどそう呼ばれただけで息が詰まりそうになる。
 顔が一気に熱くなり、まともに顔を上げられなくなった。
 辺境伯様はそのまま振り返り、騎士団が待つ中庭へ歩みを進める。雪を踏む重い音が遠ざかっていく。
 その背中はいつものようにまっすぐで、強くて、頼もしかった。
 けれど今日は、ほんの少しだけ名残惜しそうに見えた。

 残された私は、熱を帯びた頬に手を当て、深く息を吸った。
 胸が痛いくらい高鳴っている。落ち着かせようとしても、うまくいかない。
 いつか本当に、あの背中の隣に立てる日が来るだろうか。
 その願いを胸に抱きながら、私は静かに窓辺に立ち、雪の向こうに見えなくなった影をいつまでも追い続けた。


 
 辺境伯様が出立してから、しばらくは静かな日々が続いていた。
 けれど、その静寂を破ったのは、粗雑に叩きつけるような扉の音だった。
「シェリフォード公爵家よりの使者だ、開けよ」
 嫌な予感が背筋を走った。
 イリアが振り返り、私の様子を伺う。
 普段の軽い調子をさっと消したカイネはすでに入口へ向かい、事務的に応対の準備を進めていた。
「ルーチェ様、差し出がましいようですが……剣呑な雰囲気です。騎士も出払っている今、ルーチェ様が前に出られる必要はございません。私どもがお相手を致します」
 イリアが私を庇うように立ち位置を変えた。
 しかし、その腕をそっと押し返して前に出る。
「大丈夫。……仮にも公爵家の使いを名乗っているのでしょう? 私がお迎えするわ」
「ですが――」
「大丈夫」
 一度、目を閉じる。
 
「私は、……辺境伯様の妻になるのだから」
 
 自分でも驚くほどはっきりした声だった。
 数日前の辺境伯様の言葉が胸の奥で強く鳴る。
 その名を呼びたいほど近くに感じてしまって、頬がわずかに熱くなった。
「カイネ。お通しして。イリア、応接間にご案内を」
「ルーチェ様」
「皆も、力を貸してほしいの。ご用向きをうかがって、辺境伯様にお伝えすれば問題ないことだわ」
 使用人たちを見まわし、励ますように笑って見せる。
 
 扉が開かれると、冷たい風と共に粗野な男たちが雪を払って踏み込んできた。
 いかにも王都の貴族然とした騎士服に、見栄だけを張ったような金の飾り。数人の部下を引き連れている。
 応接間に通された彼らの視線は邸内を値踏みするように見渡し、それから私に向けられた。
「噂の厄災令嬢はご健在でしたか。お父上は魔獣に食われるだろうと言われていましたが」
 茶器を差し出すイリアの手が震え、私の傍に控えたカイネの表情がわずかに歪む。
 周囲の使用人たちも息をのむ気配を隠せない。
 私の返事を待たずに、男は脚を組んだ。
「辺境伯殿は?」
「……ダリウス・ヴァルトは留守にしております」
「話にならないな」
 馬鹿にしたような視線。
 けれど、私は怯まなかった。
 そのことに、我ながら少し驚きもした。
 
 意識して背筋を伸ばした。
 辺境伯様のように、まっすぐに。誇りと責任を持って。
「留守の間の、この邸の責任者は私です。……ご用向きを、お話ください」
 声が少し掠れたが、逃げはしなかった。
 使者は鼻で笑い、書状を無造作に突き出す。
「公爵家は今、些細な事情で当座の金が入り用なのですよ。辺境伯家は公爵家と縁を結んだのだ、多少の援助は当然でしょう」
「……」
「いくら貧乏辺境伯とは言え、恩返しくらいはして頂きたいものです。……それに、この邸とルーチェ様のそのお召し物を見るに、辺境伯が吝嗇だというのには間違いないようだ。節約した金は、王都で有効に使うべきでは?」
 その物言いは、あまりに露骨だった。
 辺境を蔑み、私を侮辱し、何もかもを踏みにじる声音。
 邸は確かに古い。公爵邸と比べれば小さくて、補修の跡が見えるところも多い。
 けれど、大切に扱われている皆の家だ。
 ドレスは流行のものではないけれど、私の身に合わせて整えてもらったものだ。
 何をどう考えても無礼だ。だがここで、私が怯んだり泣き出したりすれば、相手の思う壺だとわかっていた。
 ――以前の私なら、押し負けていただろう。
 少し大きな声を出されただけで怖くなって、また自分のせいにされるのだと怯えて、誰にも助けてもらえないと諦めて、黙って。
 けれど、今は違う。

 ちら、と横を見ると、イリアは歯を食いしばり、カイネはひどく無表情に、口だけ笑って使者を見下ろしている。
 周りの使用人たちも怒りと悔しさに肩を震わせている。
 それを見ただけで、私は背筋が伸びるのを感じた。
「……拝見します」
 私はゆっくり手を伸ばし、差し出された書状を受け取った。
 封を切る指先が震えているのは、怒りか、それとも恐れか。
 わからないまま視線を落とし、文章を追った。
「そもそも、この書状はそのまま借金の取り立てでもあるのですよ」
 私は書状を握りしめ、もう一度、深く息を吸った。
 紙の質は王都でも最高級のものだ。封蝋も、公爵家の印だ。
 一見すれば、確かに正式な証書に見えるだろう。
 実際、見たこともない紙の質感と、豆粒のようにびっしりと、読みきれないほど記載された文字の並びに、使用人たちは怯んでいる。
 王家の紋章を象った印章も大きく目立つように押されてあった。
 けれど、何かがひっかかった。
 使者の口元がいやらしく歪む。囁くように嗤っていた。
「すぐに自由になる金くらいはあるんだろう?」
 周囲の空気が凍りついた。
 敬意も何もない口調に、イリアは青ざめながらも必死に感情を抑えているようだった。
 ほかの使用人たちも、怯えながらも私を庇うように立ちはだかろうとしている。
「……ええ、仰る通り、辺境伯様は私に、支度金の範囲であれば自由にせよと仰いました」
 私は静かに、書面へと目を落とした。
「でも……」
 ――記載法が違う。
 母の存命中、何度も兄と共に練習した正式文書の書き方と異なっている。
 受領印の日付も、公爵家の公式文書で使用される暦の表記が間違っている。
 そして締めの文言は、歴代の公爵家当主が必ず用いるはずの定型句が欠落している。
 王印はよく似ているが、王家にだけ許された特殊なインクが用いられていない。
 つまり――偽造だ。
「……こちらの文言ですが」
 声は少し震えていた。けれど、不思議と頭は澄んでいた。
「公爵家における正式な持参金契約書の形式ではありません。まず、この暦の表記。統一された年度書式と矛盾があります」
 指先で示すと、使者の顔がわずかに歪む。
「加えて――この証書は、持参金を借財として扱う形式にされていますが、公爵家当主の署名が足りません」
「なっ、ここに、公爵の署名があるだろう!」
「確かに義父は公爵位を便宜継承し、そう名乗っています。略式の書状であれば、慣例で通りますしそれで構わないのでしょう」
 ひとつ息を吸う。
 大丈夫だ、と肩にふれた手の温かさを思い出す。
「けれど、これは貴族の家同士の金銭貸借を示す書類なのでしょう?このような場合、王家が責任を持って発行する公的書類になりますから、略式では済みません。少なくとも、未だ義父と相続争いの決着がついていないままでいる後継者――兄の、リヒト・シェリフォードの署名も無ければ」
 ぐっと唾を飲む。
「……有効ではありません」
「な、何を……」
「もし正式な書類として扱われたいのであれば、王立裁判所に提出なさってください。現在のシェリフォード公爵家の実情はやや複雑ではありますが、貴族の家において前例のない話ではありません。その場で無効であると判断されます」
 静かに言い切った。
 胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
 足は震えているし、手汗で指先はびっしょり濡れていた。
 でも――退いてはいけない。
「借金の取り立て、とおっしゃいましたね。構いません。ご納得頂けないのであれば、どうぞ訴えてください。こちらは一点の曇りもありませんから」
 使者は言葉を失い、周囲を見回した。
 カイネが厳しい目で睨みつけ、使用人たちの視線も一斉に集中する。
 
 誰よりも、わなわなと震えていたのはイリアだった。いつのまにか、カイネよりも前に踏み出している。
 いつもと同じ冷静さを装おうとする表情ではあるのだが、低い声は使用人たちの心を代弁していた。
「辺境伯様がご不在だからと……我々を無学な辺境民だと侮って……!」
「おい、イリア……!」
 珍しくカイネがイリアを止めている。
「お帰りください。公爵家には、ご要請にはお応えできないとお伝えくださいませ」
 自分の声とは思えないほど強かった。
 その瞬間。
 甲高い破裂音がして、玄関の壁に掛けられた古い飾り棚が落ちた。
 使者は悲鳴を上げて席を立つ。
「ひっ……! やはり厄災か――!」
(偶然だわ、ただの)
(私のせいじゃない)
 私はもう、そう思えるようになっていた。
 けれどそれすらも、利用することにした。
 それらしく。「厄災」らしく。
 つとめて悪い笑みを浮かべてみせる。
「これで済んでよかったと思うべきです。「厄災」の影響はご存知の筈でしょう?……私と目を合わせて、長くお話することはおすすめできませんわ。この地は王都と違って魔獣も出ますし、お身体の無事を案じております」
 言葉が喉から勝手に飛び出した。
 使者は顔を真っ青にして書類を引っ掴むと、部下を引き連れ逃げるようにばたばたと邸を出て行った。
 
「……」
 扉が閉じた瞬間、張りつめていた力がすっと抜けていく。
 イリアがそっと肩に触れ、静かに言った。
「ルーチェ様……お見事でした」
 カイネも無言のまま深く頭を下げた。
 胸の奥がまだどくどくと脈打っていた。指先は冷たいのに、顔だけが熱い。
「俺たち、正直……怖かったんです。でも、ルーチェ様が前に立ってくださって……助けられました」
 別の使用人が言うと、次々に声が重なった。
「ありがとうございます!」
「見事でした!」
「もう、あんな連中に好き勝手はさせません!」
 わっと人の気配が寄せ集まる。
 思わず目を丸くした。
 これまで、私は少し距離のある存在だった。
 扱いにくいと思われていることも知っていたし、無理もないと思っていた。
 厄災の烙印つきの、面倒事を運ぶかもしれない人間なのだから。
 でも、今は。
「……あの……私の方こそ……ありがとう」
 声が震える。
 あたたかい笑顔が、いくつもいくつも向けられた。
 その瞬間、胸の奥で何かが静かにほどけていく。
 皆の輪の中に――今、私も入れてもらえた。

 
 ひとしきり喜びあい、ほっとした気持ちを共有した後。
 イリアが使用人たちを引き連れ、怒りに任せた様子で玄関から門に至るまでの雪道に泥を撒いていた。
「カイネ!もっと泥を持って来て!あいつらの足跡に撒くわよ!」
「はいはい……!」
 二度と来るな、と呪う風習だ。
 客人の足跡に泥をぶちまけて潰し、この邸の扉との縁を断ち切らせる。
 それにしても、余程、腹に据えかねたのだろう。
 イリアは玄関に投げつけるように泥を撒き、渾身の力で足跡を踏みつけ、肩で息をしていた(泥を持たされたカイネは若干ひいていた)。
 それからコホンと咳払いをして、「落ちた棚を直さないといけませんね」といつも通り、冷静な表情で言っていた。
 

 ◆

 数日後、辺境伯様が戻られた。
 重い外套を脱ぎ、暖炉脇のソファに腰を下ろす。疲れが滲んでいた。
 けれどその瞳は、いつもと変わらず落ち着いていた。
「魔獣の動きに問題はない。出過ぎた魔獣は狩ったし、辺境の士気も変わらずだ。……それで、ここに来たのは、公爵家の使者だったのか」
「はい。借金の書類だと言われました。でも書式の不備があったため、無効であると証明できました」
 私は隣に腰掛け、簡潔に報告した。
 カイネとイリアも控えており、要所で補足してくれる。
「ルーチェ様、お見事だったんです。あいつら、顔真っ青で逃げていきましたから」
「本当にかっこよかったです。誰も言い返せなくて」
 褒められているのに顔が熱くなる。
 でも、辺境伯様は少しだけ眉を寄せ、思案するように目を伏せた。
「しかし、王都の公爵家が……」
 低く呟いた声に、胸が痛んだ。
 あの家は、表向きは繁栄と格式を誇るはずだった。
 私がここへ送られてから、そう月日が経ったわけでもない。何があったというのだろう。
 辺境伯様は静かに息を吐き、私の方へゆっくりと視線を向けた。
「いや……何より、俺たちが舐められたということか。その上、俺が不在の時を狙うとはな」
「恐らく、それらしく作った書類を見せれば、俺たちが怯むと思ったんでしょう。実際、俺らは王都の正式書類なんてほとんど見たことがありませんから」
「向こうの様子からして、我々使用人は読み書きも怪しいと思われていたのでしょう。本当に、卑劣な……!」
「軽んじてくれたものだ。だが……」
 その瞳に、深い感情が宿っている。
「……助かった。ありがとう、ルーチェ嬢」
 
 その言葉と同時に、温かなものが手に触れた。
 気づけば、辺境伯様の手が、私の指先を包み込んでいた。
「……っ」
 どきりとした。
 ほんの僅かな触れ合いなのに、心臓が破裂しそうに脈打つ。
「辺境伯様……?」
 声が震えた。
 辺境伯様の方も、はっとしたように肩を強張らせる。
「あ……すまない。いや……その……」
 とっさに離せばいいのに、まだ私の手を握ったままだった。
 どうやら、ご自身でもどう離せばよいかわからず固まってしまっているらしい。
「……」
「……」
 
 横目で、傍にいたカイネとイリアを見る。
 すると二人とも急に、何かとてつもなく大事な仕事を思い出した様子で、明後日の方向に目を逸らしていた。
 他の使用人たちも、突然窓の外に興味を示したり、そそくさと暖炉の火を弄り始めたり、目を閉じて思索に耽り出したり、私たちの様子を見ないようにしている。
 誰も何も言わない。
 けれど、その沈黙が妙に気まずく、同時にくすぐったい。
「……っ」
 私は視線を落とし、握られた手を見つめた。
 指先がじんじんと熱を宿し、離してほしくないと思ってしまった自分に気づく。
 けれど声にはできなかった。
 辺境伯様は苦しげに喉を鳴らし、小さく息を整えた。
「……すまない。つい……」
 ようやくそっと手が放される。
「いえ……」
 触れていた部分が、ひどく寂しく思えた。
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