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埋もれた祈りを秘める雪の章
15.銀色
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新年。
冬の淡い陽の光の中、辺境伯領にも新しい年が訪れた。
辺境伯様とのお茶の時間は続いている。
湯気の立つ茶器のあいだで、静かな溜息が落ちた。
午後の光は薄く、雪の白さだけがやけに眩しい。
「……ひとつ、話しておかねばならないことがある」
いつもより慎重な声音だった。
手元の書状を指で押さえ、少し迷うように視線を彷徨わせてから、こちらを見た。
「婚姻申請の件だ」
胸の奥がかすかに強張る。
「……滞っているのですか?」
「ああ。王都に送った書状に対して、返答がはぐらかされ続けている。雪の中、神官を派遣するのは難しい、というのが表向きの理由だ」
彼の指先が、書状を軽く叩いた。
その仕草がどこか苛立ちを含んでいるように見えたのは、気のせいではない。
「最初はこちらも書面で十分だと伝えた。しかし急に態度が変わった。式を執り行わないなら、せめて神官の祝福をして差し上げたい……などと。善意めいたことを言う」
辺境伯様は、はっと軽く吠えるように嗤った。
王都から遠い辺境故に、雪を理由に後回しにされている、という状況は想像できる。けれど――何か裏があるのだろうか。
私の結婚を遅らせて、誰かに利益があるとも思えないけれど――
「……神官様は、「厄災の烙印」が気掛かりなのでは……?」
「だとしたらあなたの婚姻前に止めるはずだ。今更のらりくらりと先延ばしにする意味がわからない」
「そうですね……」
「公爵家としては、恐らくあなたと俺の結婚が不成立のまま、持参金を回収できた方が都合が良いのだろうな。……このまま待っていても、まともな返答は来ないだろう。もういっそ、領内の小さな神殿に頼んで処理を終わらせるしかないのかもしれない」
「処理」
「……いや、すまない。不適切な表現だった」
少し黙ってから、辺境伯様は軽く私に頭を下げた。
「その、俺としては……あなたとの婚姻申請の手続きを、どうにかして進めたいと思っている」
言いながら、私の様子を見て――
そして、わずかに目を伏せた。
「……ああ、いや、そこまで急ぐことでもなかった。いずれ、折を見て」
その声音は、私に気を遣うもの。
私は気づいてしまう。
これは、私に無理強いすまいとする言葉だということに。
「辺境伯様」
思わず呼び止めるように声が出た。
彼は少し驚いたように目を上げる。
「……ありがとうございます。私はどんな形でも、ここにいられれば嬉しいです。でも」
一度、呼吸を整える。
「私も……手続きは、進めて頂きたく、思います」
こくり、と自分で自分の言葉に頷きながら言った。
言葉の途中で、喉が震えた。
そっと唇を閉じる。
辺境伯様はしばらく黙って私を見つめ、それから小さく息を吐いた。
「そう、か」
「……」
「そうか……」
その声は驚くほど優しかった。
そして、ほんの一瞬だけ、彼の瞳がかすかに揺れる。
――触れれば壊れてしまう何かを、押しとどめているような。
「わかった。必ず、整える。どんな形でも、あなたを不安にはさせない」
その言葉に、胸の奥がじんわりと熱を持つ。
まるで静かな誓いのように、部屋の空気が震えた気がした。
「……はい」
それ以上言えば、涙がこぼれそうで。
私はただ、うつむいて微笑むしかなかった。
「……それと」
言葉を探そうとしたそのとき、辺境伯様がゆっくりと立ち上がった。
机の引き出しへと手を伸ばし、ひとつの小さな箱を取り出す。
黒い布張りのそれは、ひどく慎重に扱われていた。
「……書面だけではあんまりだと自省した。……これは、礼節として、……ひとつの、対外的な証拠にもなるかたちとして、受け取ってもらえたら嬉しい」
言いながら、彼は箱をこちらへ差し出した。
指先がわずかに震えていたのを、私は見逃さなかった。
受け取った箱を開いた瞬間、胸がどきりとする。
そこにあったのは、銀色の、どこまでも静かな輝きをたたえた一対の指輪。
けれど、その表面には信じられないほど繊細な飾りが施されていた。
蔦のような模様が絡み合い、光を受けてわずかに揺らめく。
「魔獣の爪を溶かして鍛えた金属――魔銀で作られている。この土地でしか扱えない素材だ」
静かに説明する声が、胸の奥にいつまでも残った。
「魔獣の素材は使える量も少なく、扱いが難しい。細工するには腕のある鍛冶師でなければ無理だ。これは、うちに代々仕える職人に頼んだ。……強さと、永い志の意味を込めて」
私は言葉を失った。
この指輪はまさしく、世界にひとつしかないものだ。
私のためだけに、時間を費やし、手を動かし、心を込めて作られた。
その重さを思うと、胸が苦しいほど熱くなる。
「嫌では、ないだろうか」
ふいに、迷いを含んだ声が落ちた。
あれほど自信に満ちた背中を持つ人が、今はまるで不安を押し殺すように。
私は、首を横に振ることしかできなかった。
「……嫌なはずありません」
声は震えていた。
でも、嘘ではない。
彼は目を見開き、そしてほっとしたように小さく息を吐いた。
その表情が、胸の奥を強く揺らす。
「本当なら、宝石を贈るところなのだろうとも思う。今やそれも不可能ではないが……だが、あなたが見つけてくれたものへの喜びと感謝とは別にして、あなたには俺の持っていたものから何かを贈りたかった。……ただの我が儘で、すまない」
そう言った辺境伯様の声は、いつもの落ち着きとは違っていた。
どこか照れを隠そうとするような、硬い響き。
「いえ……だって、だってこれは、宝石なんかより、余程」
それは単に、心がこもっているというだけの話ではない。
素材の貴重さもさることながら、細工できるだけの腕を持つ職人たちと、それを抱える工房を育てるには、長い歳月がかかる。
王都でも、魔銀で剣の下緒を飾り、自慢げにしている騎士を見たことがある。貴族によっては蒐集している者もいた筈だ。
古い時代のアンティークにのみ辛うじて見出される技術。宝石と比べても、余程のものでなければその足元にも及ばない。
伝統的な、不出の工芸技術。その最新作。
なのに、彼はそれを誇らず、「宝石ではなくて悪い」と言う。
そこに込められた気持ちが、言葉よりずっと正直で、真っすぐだった。
「良ければ、手を、出してくれ」
私はそっと左手を――迷いなく、薬指を差し出した。
指先が触れた瞬間、熱に触れたように心臓が跳ねる。
彼の指が、細心の注意で指輪を滑らせていく。
はまった瞬間、銀の光が淡く揺れた。
まるで、指ごと静かに包まれるような感覚だった。
「……似合う」
その一言は、かすかに掠れていた。
見上げた先で、彼の瞳は驚くほど真剣だった。
触れられていた指先は離れたはずなのに、熱だけが残ったままだった。
「……私も、おつけしたいです」
「……ああ」
まるでままごとのような二人だけの儀式だったけれど。
それはまさしく、ひとつのかたちだった。
◆
その夜、部屋へ戻ってから、私は灯りの下でそっと指輪を見つめた。
細やかな彫金の文様が、柔らかな光を受けて静かに輝く。指先をわずかに動かすたび、銀は清らかな音を立てるように光を揺らした。
――こんなに、嬉しいなんて。
胸が温かく満ちていく。
ずっと、どこかで怯えていた。
厄災の烙印持ちとして。存在しているだけで誰かの不幸になるのではないかと。
けれど、今、鏡に映る自分は泣きそうに笑っていた。
もしや、あれらは本当にただの思い込みだったのではないだろうか。
だとすれば、どうしてこんな烙印が見つけられるのだろう。
なぜ、あのとき――。
指輪を胸元に寄せて、そっと目を閉じた。
答えは出ない。きっとすぐにはわからない。
けれど、不思議と怖くなかった。
私の中に芽生えた気持ちが、迷いを静かに押しのけていたから。
辺境伯様の横顔を思い出す。
低く穏やかな声。
触れた指先の温度。
誇らしげに私を紹介したときの、あのまっすぐな眼差し。
指輪を滑らせようとする時のわずかな震え。
恐れるような、切ないようなまなざし。
気がつけば、頬が熱くなっていた。
こんなにも胸を締め付ける想いを、もう否定できない。
――好きだ。
やっとその言葉が心の中に置かれた瞬間、涙がひと粒こぼれた。
苦しくて、嬉しくて、どうしようもなく満ちていく。
私を守ろうとしてくださって嬉しい、という気持ちと同時に、同じだけ、あの方を守って差し上げたいと、いつしかずっと願っている。
静かな夜の中、胸に抱いた指輪の冷たい感触だけが確かだった。
冬の淡い陽の光の中、辺境伯領にも新しい年が訪れた。
辺境伯様とのお茶の時間は続いている。
湯気の立つ茶器のあいだで、静かな溜息が落ちた。
午後の光は薄く、雪の白さだけがやけに眩しい。
「……ひとつ、話しておかねばならないことがある」
いつもより慎重な声音だった。
手元の書状を指で押さえ、少し迷うように視線を彷徨わせてから、こちらを見た。
「婚姻申請の件だ」
胸の奥がかすかに強張る。
「……滞っているのですか?」
「ああ。王都に送った書状に対して、返答がはぐらかされ続けている。雪の中、神官を派遣するのは難しい、というのが表向きの理由だ」
彼の指先が、書状を軽く叩いた。
その仕草がどこか苛立ちを含んでいるように見えたのは、気のせいではない。
「最初はこちらも書面で十分だと伝えた。しかし急に態度が変わった。式を執り行わないなら、せめて神官の祝福をして差し上げたい……などと。善意めいたことを言う」
辺境伯様は、はっと軽く吠えるように嗤った。
王都から遠い辺境故に、雪を理由に後回しにされている、という状況は想像できる。けれど――何か裏があるのだろうか。
私の結婚を遅らせて、誰かに利益があるとも思えないけれど――
「……神官様は、「厄災の烙印」が気掛かりなのでは……?」
「だとしたらあなたの婚姻前に止めるはずだ。今更のらりくらりと先延ばしにする意味がわからない」
「そうですね……」
「公爵家としては、恐らくあなたと俺の結婚が不成立のまま、持参金を回収できた方が都合が良いのだろうな。……このまま待っていても、まともな返答は来ないだろう。もういっそ、領内の小さな神殿に頼んで処理を終わらせるしかないのかもしれない」
「処理」
「……いや、すまない。不適切な表現だった」
少し黙ってから、辺境伯様は軽く私に頭を下げた。
「その、俺としては……あなたとの婚姻申請の手続きを、どうにかして進めたいと思っている」
言いながら、私の様子を見て――
そして、わずかに目を伏せた。
「……ああ、いや、そこまで急ぐことでもなかった。いずれ、折を見て」
その声音は、私に気を遣うもの。
私は気づいてしまう。
これは、私に無理強いすまいとする言葉だということに。
「辺境伯様」
思わず呼び止めるように声が出た。
彼は少し驚いたように目を上げる。
「……ありがとうございます。私はどんな形でも、ここにいられれば嬉しいです。でも」
一度、呼吸を整える。
「私も……手続きは、進めて頂きたく、思います」
こくり、と自分で自分の言葉に頷きながら言った。
言葉の途中で、喉が震えた。
そっと唇を閉じる。
辺境伯様はしばらく黙って私を見つめ、それから小さく息を吐いた。
「そう、か」
「……」
「そうか……」
その声は驚くほど優しかった。
そして、ほんの一瞬だけ、彼の瞳がかすかに揺れる。
――触れれば壊れてしまう何かを、押しとどめているような。
「わかった。必ず、整える。どんな形でも、あなたを不安にはさせない」
その言葉に、胸の奥がじんわりと熱を持つ。
まるで静かな誓いのように、部屋の空気が震えた気がした。
「……はい」
それ以上言えば、涙がこぼれそうで。
私はただ、うつむいて微笑むしかなかった。
「……それと」
言葉を探そうとしたそのとき、辺境伯様がゆっくりと立ち上がった。
机の引き出しへと手を伸ばし、ひとつの小さな箱を取り出す。
黒い布張りのそれは、ひどく慎重に扱われていた。
「……書面だけではあんまりだと自省した。……これは、礼節として、……ひとつの、対外的な証拠にもなるかたちとして、受け取ってもらえたら嬉しい」
言いながら、彼は箱をこちらへ差し出した。
指先がわずかに震えていたのを、私は見逃さなかった。
受け取った箱を開いた瞬間、胸がどきりとする。
そこにあったのは、銀色の、どこまでも静かな輝きをたたえた一対の指輪。
けれど、その表面には信じられないほど繊細な飾りが施されていた。
蔦のような模様が絡み合い、光を受けてわずかに揺らめく。
「魔獣の爪を溶かして鍛えた金属――魔銀で作られている。この土地でしか扱えない素材だ」
静かに説明する声が、胸の奥にいつまでも残った。
「魔獣の素材は使える量も少なく、扱いが難しい。細工するには腕のある鍛冶師でなければ無理だ。これは、うちに代々仕える職人に頼んだ。……強さと、永い志の意味を込めて」
私は言葉を失った。
この指輪はまさしく、世界にひとつしかないものだ。
私のためだけに、時間を費やし、手を動かし、心を込めて作られた。
その重さを思うと、胸が苦しいほど熱くなる。
「嫌では、ないだろうか」
ふいに、迷いを含んだ声が落ちた。
あれほど自信に満ちた背中を持つ人が、今はまるで不安を押し殺すように。
私は、首を横に振ることしかできなかった。
「……嫌なはずありません」
声は震えていた。
でも、嘘ではない。
彼は目を見開き、そしてほっとしたように小さく息を吐いた。
その表情が、胸の奥を強く揺らす。
「本当なら、宝石を贈るところなのだろうとも思う。今やそれも不可能ではないが……だが、あなたが見つけてくれたものへの喜びと感謝とは別にして、あなたには俺の持っていたものから何かを贈りたかった。……ただの我が儘で、すまない」
そう言った辺境伯様の声は、いつもの落ち着きとは違っていた。
どこか照れを隠そうとするような、硬い響き。
「いえ……だって、だってこれは、宝石なんかより、余程」
それは単に、心がこもっているというだけの話ではない。
素材の貴重さもさることながら、細工できるだけの腕を持つ職人たちと、それを抱える工房を育てるには、長い歳月がかかる。
王都でも、魔銀で剣の下緒を飾り、自慢げにしている騎士を見たことがある。貴族によっては蒐集している者もいた筈だ。
古い時代のアンティークにのみ辛うじて見出される技術。宝石と比べても、余程のものでなければその足元にも及ばない。
伝統的な、不出の工芸技術。その最新作。
なのに、彼はそれを誇らず、「宝石ではなくて悪い」と言う。
そこに込められた気持ちが、言葉よりずっと正直で、真っすぐだった。
「良ければ、手を、出してくれ」
私はそっと左手を――迷いなく、薬指を差し出した。
指先が触れた瞬間、熱に触れたように心臓が跳ねる。
彼の指が、細心の注意で指輪を滑らせていく。
はまった瞬間、銀の光が淡く揺れた。
まるで、指ごと静かに包まれるような感覚だった。
「……似合う」
その一言は、かすかに掠れていた。
見上げた先で、彼の瞳は驚くほど真剣だった。
触れられていた指先は離れたはずなのに、熱だけが残ったままだった。
「……私も、おつけしたいです」
「……ああ」
まるでままごとのような二人だけの儀式だったけれど。
それはまさしく、ひとつのかたちだった。
◆
その夜、部屋へ戻ってから、私は灯りの下でそっと指輪を見つめた。
細やかな彫金の文様が、柔らかな光を受けて静かに輝く。指先をわずかに動かすたび、銀は清らかな音を立てるように光を揺らした。
――こんなに、嬉しいなんて。
胸が温かく満ちていく。
ずっと、どこかで怯えていた。
厄災の烙印持ちとして。存在しているだけで誰かの不幸になるのではないかと。
けれど、今、鏡に映る自分は泣きそうに笑っていた。
もしや、あれらは本当にただの思い込みだったのではないだろうか。
だとすれば、どうしてこんな烙印が見つけられるのだろう。
なぜ、あのとき――。
指輪を胸元に寄せて、そっと目を閉じた。
答えは出ない。きっとすぐにはわからない。
けれど、不思議と怖くなかった。
私の中に芽生えた気持ちが、迷いを静かに押しのけていたから。
辺境伯様の横顔を思い出す。
低く穏やかな声。
触れた指先の温度。
誇らしげに私を紹介したときの、あのまっすぐな眼差し。
指輪を滑らせようとする時のわずかな震え。
恐れるような、切ないようなまなざし。
気がつけば、頬が熱くなっていた。
こんなにも胸を締め付ける想いを、もう否定できない。
――好きだ。
やっとその言葉が心の中に置かれた瞬間、涙がひと粒こぼれた。
苦しくて、嬉しくて、どうしようもなく満ちていく。
私を守ろうとしてくださって嬉しい、という気持ちと同時に、同じだけ、あの方を守って差し上げたいと、いつしかずっと願っている。
静かな夜の中、胸に抱いた指輪の冷たい感触だけが確かだった。
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