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光と影が交差する芽吹きの章
22.夢に見る王都の記憶
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――夢を見ていた。
王都にいた頃の、胸の奥が冷たくなるような記憶だ。
まだ、庭の倉庫に追いやられる前。広いけれど落ち着かない、公爵家の自室。
掃除はされているのに、どこかざらつく不快感を残していたのは、侍女たちが私の持ち物を「丁寧に扱う必要はない」と思っていたからだろう。
この暗さを私はよく知っている。胸の奥にひたひたと沈んでくる、あの頃の空気だ。
夢なのだと気づく前に、私は公爵家の長い廊下に立っていた。背筋を冷たい風が撫で、胸の奥が縮む。
扉の向こうから、ぱたりと軽い足音がした。
開いた隙間から顔を出したのは、輝くような金色の髪を巻いたリリアーナ——あの頃のままの、年若い義妹だった。
「お姉様、ごきげんよう」
甘さを含んだ声音。
きらきらと楽しそうに輝く桃色の瞳。
けれど、その奥にはうっすらとした軽蔑が滲んでいた。
「お姉様、またそんな本を読んでいらしたの?」
明るい色のドレスを揺らし、リリアーナがほほえんでいた。
「……勉強は、しておきたいから」
そう言う私に、彼女はきょとんとした顔をして、それからふわりと微笑む。
「まあ、しっかり者。お姉様ってば――ほんと、お兄様にそっくりですわね」
さも心配しているような顔で、私の持っていた本の頁をつまんでくる。
つまんだ指先は、すぐに放して、平然とハンカチで拭われた。
「お姉様、厄災の烙印って……本当にあるのかしら? 皆が言っているのよ。触ると、運が落ちるって」
小鳥がささやくみたいな口調で、それは無邪気に投げつけられる。
「お父様がおっしゃっていたわ。お姉様は、少し……扱いに気をつけないといけないって。だから、わたくし、お姉様のために、皆にも気をつけるように言ってあげてるの。ねえ、侍女たちも困ってるのよ? お姉様ったら、よく物を壊してしまうんですもの」
「……壊した覚えはないのだけれど」
「でも、みんな言ってますわ。ほら、「厄災の烙印」のせいって……それに、お姉様が通った後の道では、いっつも悪いことが起こるんですもの。本当に、わたくし……お姉様のことを思って言っているのよ?」
彼女は悪意のない笑顔で言う。
まるで、面白いおとぎ話を披露するかのように。
「お姉様が、皆に不運を移したら危ないもの」
そう言って、軽やかに私の肩を叩いて――すぐに、その手をハンカチで拭いた。
ふと横を見ると、侍女たちがひそひそ声で嘲るように笑っている。
「また物が壊れて……ほんと厄介よね」
「公爵令嬢のくせに、なんであんな……」
「お兄様が追い出されたんだから当然よ」
「後目もリリアーナ様に決まっているんだし、媚を売る必要もないわ」
私は言い返す言葉を持たなかった。
部屋に戻れば、置いてあったはずの小物がなくなっている。衣服が粗末に扱われている。そんなことが日常だった。
「お姉様、泣きそうなお顔。……ねえ、泣かないで?」
リリアーナは花のように笑う。
そうじゃない、不運なんて偶然でしかない、と言いたいのに声が出ない。
私は、ただ――何もできなかった。
喉が締めつけられて、声が出なかった。
「ねぇ、お姉様。わたくし、怖いの。……お兄様みたいに、わたくしを不幸にするつもりなの?」
その一言が、胸を刺した。
リヒト兄様が義父によって家から追われたこと。
それを「当然の処置」と吹き込まれ育ったリリアーナは、悪意ではなく、ただ深く考えないままに私を傷つける。
そして場面が揺らぎ、夜へと切り替わる。
真っ暗な天蓋の下で、枕を濡らさないよう必死で息を殺していた頃の自分。
誰にも気づかれないように、震える肩を押さえていた。
苦しい。
そう思った瞬間、夢が破れて、現実へ引き戻された。
◆
「……ゆめ…………」
夢だと気づいても、息が苦しい。
薄闇の向こう、リリアーナのほほえみだけが、あまりにも鮮やかで。
誰よりも親しげで、誰よりも無邪気で――だからこそ、残酷だった。
寒気がして、私は夢の中で身を縮めた。
もう終わったはずの時間。
それなのに、心がふと過去へ引き戻されてしまう。
思い出したくない。
でも――忘れてはいけない気もしている。
あの頃の私がどれほど苦しかったのか。
それを知っているからこそ、今の幸福がどれほど尊いかも、よくわかるのだ。
「……」
(眠るのがこわい)
胸の奥に、夢の余韻がひりつくように残っていた。目を開けた瞬間、もう一度眠ることが怖いと思った。
あの頃の痛みまで連れ戻されそうで、息が浅くなる。
寝台からそっと抜け出し、鏡台を見る。
窓から細く差し込む月の光が、鏡の中の私を照らしている。
焦点を合わせて、自分の瞳を覗き込む。――翠の瞳の底、目を凝らせば瞳孔の奥に小さく見える、紋様。
そうと言われてじっと見つめれば分かる紋様だけれど、こんな小さな紋様を見つけられたことで、私の人生は変わってしまった。
怖くて悲しくて、私はずっと、誰のこともまっすぐに見られなかった。
誰かと見つめ合って、気持ちを受け入れ合うことなど、一生無いと思っていた……
肩を覆うショールを握ったまま廊下に出た。
夜気は冷たかったが、悪夢の熱を冷ますにはちょうどよかった。
邸は静かで、雪の夜特有の深い沈黙が満ちている。
どこかでまだ、火が爆ぜる音がする。
その穏やかな沈黙に、少し心が癒された。
歩きながら、ふと、薄く明かりの漏れる扉に気づいた。執務室だ。
(こんな時間まで……?)
私は静かに扉を叩いた。
「……ルーチェ嬢?」
すぐに聞こえた辺境伯様の声は、落ち着いていて、私の乱れた呼吸を包むみたいだった。
扉が細く開く。
「すみません、辺境伯様。まだ、お仕事中でしたか……」
「少しだけ確認したいことがあったんだ」
直接は聞かず、すぐに席を立って、暖炉のそばのテーブルに私を座らせる。
心配してくれているのが伝わってくる。
その距離感が、胸にしみて、少しずつ落ち着いていく。
差し出された紅茶をありがたく受け取った。
「……春が、近いですね」
カップを持つ指が、まだわずかに震えていた。
「ああ」
彼は近くに腰を下ろす。
静かな部屋に、薪のはぜる音だけが響いた。
長く深呼吸して、胸の苦しさがようやく和らいでくる。
紅茶の温度が、指先から心にまで染みていくようだった。
ふと、辺境伯様が手を伸ばし、私の頬に触れた。
ゆっくり、確かめるように——けれど、優しく。
「……大丈夫か」
「はい。……ありがとうございます」
そのまま引き寄せられて、軽く唇が触れ合った。
ほんの一瞬の、確かめ合うような、まだ不慣れで慎ましい口づけ。
けれど胸が強く打って、夢の残滓がすっと消えていく。
この人のそばなら、もうあんな夜に戻らなくていい。
そう思える、静かな温もりだった。
しばらくの間、そうして辺境伯様の傍にいた。
離れがたくて、席を立てずにいた。
「……」
辺境伯様は書類を揃えながら、どこか言いにくそうに視線をそらしている。
「……あなたが、あの部屋を気に入っているならと思って、何も言わずにいたが」
「え……?」
突然の前置きに、何の話なのか、すぐには飲み込めなかった。
辺境伯様は一度黙って、それから真正面を見ずに続けた。
「あなたは、もう辺境伯夫人で……俺の妻で。その……」
言葉を探すように眉がわずかに寄る。
「……同じ部屋で過ごしても、いいと思うのだが」
最後の一語は、ほとんど囁きだった。
恐る恐る差し出された手のようで、胸の奥が熱くなる。
こんなにも強くて、誰より決断の早いひとが、こんなところだけ不器用になるなんて。
「……私も、そうできたらと思っていました」
自然と口からこぼれていた。
言った瞬間、辺境伯様の肩がかすかに揺れる。
驚いたようで、解き放たれたようで、そしてどこか安堵の色を含んでいる。
「そうか……よかった」
その声が、まるで雪解けの最初の水音みたいに優しかった。
「では、仕事はここまでにする。……共に戻ろうか」
「……はい。辺境伯様」
差し出された手に、自分の指先をそっと重ねる。
触れた瞬間、ふたりとも微かに硬くなる。
それでもすぐに、体温がじんわりと広がった。
執務室の明かりを落とし、私たちは並んで廊下へ出た。
窓の外では、夜の雪が静かに音もなく降り続いている。
歩幅を合わせながら進むその道が、これからふたりで辿る日々に続いているのだと思うと、胸の奥がそっと震えた。
今夜から同じ部屋へ帰る。
ただそれだけなのに、世界がすこし広がったように感じられた。
◆
差し込む光が白く揺れて、私は目を覚ました。
辺境伯様の腕が、私を抱き寄せている。
(ああ……今度は夢じゃなくて、よかった)
「起きていたのか」
「はい……」
少しだけ身体をずらすと、辺境伯様がぼそりと呟いた。
「少しだけ、思い出話をしてもいいだろうか」
「はい……」
抱き寄せた手がぽんぽんと私の肩を叩く。
「昔、王都の舞踏会に出たことがある。一度だけ……そう、十一年前だ」
「……はい」
「辺境が資金難で、俺が支援を求めて頭を下げていた時……じっとこちらを、見ている……少女がいた」
「……」
「王都の貴族連中が寄越した蔑みや憐れみの視線とは違った。まっすぐな翠の瞳が印象的で……まるで、俺の置かれた状況すべてを、見つめてくれているようだった。少なくとも俺はあの瞳に見つめられた時……味方のいない戦場で、自分が決して間違っているわけではないと思うことができた」
「……はい」
「あの時は、それが誰とも分からなかった」
辺境伯様は、それ以上何も言わない。
胸が熱くなる。
あの頃、私はただ、必死で――けれど確かに、あの人の姿を見つめていた。
「……きっと、その頃からです。こうして、差し上げたかったんだと思います」
私はそっと彼の髪を撫で、今度は逆に腕の中に抱き寄せた。
静かだった。
雪が降って、世界の音が全部遠くなったような感覚。
すると辺境伯様が少し眉を寄せて私を見た。
「……それにしても、ルーチェ嬢」
「はい?」
「もう好い加減、「辺境伯様」はよしてほしいものだ」
「え……あ、はい……。では……ダリウス様」
「様もいらない」
「む、無理です……。まだ慣れません……」
彼は小さく息をつき、やがて諦め半分に笑った。
「……わかった。ありがとう、ルーチェ」
その言い方が優しくて、胸の奥がじんわり温かくなる。
私はその髪を撫でて、静かに目を閉じた。
王都にいた頃の、胸の奥が冷たくなるような記憶だ。
まだ、庭の倉庫に追いやられる前。広いけれど落ち着かない、公爵家の自室。
掃除はされているのに、どこかざらつく不快感を残していたのは、侍女たちが私の持ち物を「丁寧に扱う必要はない」と思っていたからだろう。
この暗さを私はよく知っている。胸の奥にひたひたと沈んでくる、あの頃の空気だ。
夢なのだと気づく前に、私は公爵家の長い廊下に立っていた。背筋を冷たい風が撫で、胸の奥が縮む。
扉の向こうから、ぱたりと軽い足音がした。
開いた隙間から顔を出したのは、輝くような金色の髪を巻いたリリアーナ——あの頃のままの、年若い義妹だった。
「お姉様、ごきげんよう」
甘さを含んだ声音。
きらきらと楽しそうに輝く桃色の瞳。
けれど、その奥にはうっすらとした軽蔑が滲んでいた。
「お姉様、またそんな本を読んでいらしたの?」
明るい色のドレスを揺らし、リリアーナがほほえんでいた。
「……勉強は、しておきたいから」
そう言う私に、彼女はきょとんとした顔をして、それからふわりと微笑む。
「まあ、しっかり者。お姉様ってば――ほんと、お兄様にそっくりですわね」
さも心配しているような顔で、私の持っていた本の頁をつまんでくる。
つまんだ指先は、すぐに放して、平然とハンカチで拭われた。
「お姉様、厄災の烙印って……本当にあるのかしら? 皆が言っているのよ。触ると、運が落ちるって」
小鳥がささやくみたいな口調で、それは無邪気に投げつけられる。
「お父様がおっしゃっていたわ。お姉様は、少し……扱いに気をつけないといけないって。だから、わたくし、お姉様のために、皆にも気をつけるように言ってあげてるの。ねえ、侍女たちも困ってるのよ? お姉様ったら、よく物を壊してしまうんですもの」
「……壊した覚えはないのだけれど」
「でも、みんな言ってますわ。ほら、「厄災の烙印」のせいって……それに、お姉様が通った後の道では、いっつも悪いことが起こるんですもの。本当に、わたくし……お姉様のことを思って言っているのよ?」
彼女は悪意のない笑顔で言う。
まるで、面白いおとぎ話を披露するかのように。
「お姉様が、皆に不運を移したら危ないもの」
そう言って、軽やかに私の肩を叩いて――すぐに、その手をハンカチで拭いた。
ふと横を見ると、侍女たちがひそひそ声で嘲るように笑っている。
「また物が壊れて……ほんと厄介よね」
「公爵令嬢のくせに、なんであんな……」
「お兄様が追い出されたんだから当然よ」
「後目もリリアーナ様に決まっているんだし、媚を売る必要もないわ」
私は言い返す言葉を持たなかった。
部屋に戻れば、置いてあったはずの小物がなくなっている。衣服が粗末に扱われている。そんなことが日常だった。
「お姉様、泣きそうなお顔。……ねえ、泣かないで?」
リリアーナは花のように笑う。
そうじゃない、不運なんて偶然でしかない、と言いたいのに声が出ない。
私は、ただ――何もできなかった。
喉が締めつけられて、声が出なかった。
「ねぇ、お姉様。わたくし、怖いの。……お兄様みたいに、わたくしを不幸にするつもりなの?」
その一言が、胸を刺した。
リヒト兄様が義父によって家から追われたこと。
それを「当然の処置」と吹き込まれ育ったリリアーナは、悪意ではなく、ただ深く考えないままに私を傷つける。
そして場面が揺らぎ、夜へと切り替わる。
真っ暗な天蓋の下で、枕を濡らさないよう必死で息を殺していた頃の自分。
誰にも気づかれないように、震える肩を押さえていた。
苦しい。
そう思った瞬間、夢が破れて、現実へ引き戻された。
◆
「……ゆめ…………」
夢だと気づいても、息が苦しい。
薄闇の向こう、リリアーナのほほえみだけが、あまりにも鮮やかで。
誰よりも親しげで、誰よりも無邪気で――だからこそ、残酷だった。
寒気がして、私は夢の中で身を縮めた。
もう終わったはずの時間。
それなのに、心がふと過去へ引き戻されてしまう。
思い出したくない。
でも――忘れてはいけない気もしている。
あの頃の私がどれほど苦しかったのか。
それを知っているからこそ、今の幸福がどれほど尊いかも、よくわかるのだ。
「……」
(眠るのがこわい)
胸の奥に、夢の余韻がひりつくように残っていた。目を開けた瞬間、もう一度眠ることが怖いと思った。
あの頃の痛みまで連れ戻されそうで、息が浅くなる。
寝台からそっと抜け出し、鏡台を見る。
窓から細く差し込む月の光が、鏡の中の私を照らしている。
焦点を合わせて、自分の瞳を覗き込む。――翠の瞳の底、目を凝らせば瞳孔の奥に小さく見える、紋様。
そうと言われてじっと見つめれば分かる紋様だけれど、こんな小さな紋様を見つけられたことで、私の人生は変わってしまった。
怖くて悲しくて、私はずっと、誰のこともまっすぐに見られなかった。
誰かと見つめ合って、気持ちを受け入れ合うことなど、一生無いと思っていた……
肩を覆うショールを握ったまま廊下に出た。
夜気は冷たかったが、悪夢の熱を冷ますにはちょうどよかった。
邸は静かで、雪の夜特有の深い沈黙が満ちている。
どこかでまだ、火が爆ぜる音がする。
その穏やかな沈黙に、少し心が癒された。
歩きながら、ふと、薄く明かりの漏れる扉に気づいた。執務室だ。
(こんな時間まで……?)
私は静かに扉を叩いた。
「……ルーチェ嬢?」
すぐに聞こえた辺境伯様の声は、落ち着いていて、私の乱れた呼吸を包むみたいだった。
扉が細く開く。
「すみません、辺境伯様。まだ、お仕事中でしたか……」
「少しだけ確認したいことがあったんだ」
直接は聞かず、すぐに席を立って、暖炉のそばのテーブルに私を座らせる。
心配してくれているのが伝わってくる。
その距離感が、胸にしみて、少しずつ落ち着いていく。
差し出された紅茶をありがたく受け取った。
「……春が、近いですね」
カップを持つ指が、まだわずかに震えていた。
「ああ」
彼は近くに腰を下ろす。
静かな部屋に、薪のはぜる音だけが響いた。
長く深呼吸して、胸の苦しさがようやく和らいでくる。
紅茶の温度が、指先から心にまで染みていくようだった。
ふと、辺境伯様が手を伸ばし、私の頬に触れた。
ゆっくり、確かめるように——けれど、優しく。
「……大丈夫か」
「はい。……ありがとうございます」
そのまま引き寄せられて、軽く唇が触れ合った。
ほんの一瞬の、確かめ合うような、まだ不慣れで慎ましい口づけ。
けれど胸が強く打って、夢の残滓がすっと消えていく。
この人のそばなら、もうあんな夜に戻らなくていい。
そう思える、静かな温もりだった。
しばらくの間、そうして辺境伯様の傍にいた。
離れがたくて、席を立てずにいた。
「……」
辺境伯様は書類を揃えながら、どこか言いにくそうに視線をそらしている。
「……あなたが、あの部屋を気に入っているならと思って、何も言わずにいたが」
「え……?」
突然の前置きに、何の話なのか、すぐには飲み込めなかった。
辺境伯様は一度黙って、それから真正面を見ずに続けた。
「あなたは、もう辺境伯夫人で……俺の妻で。その……」
言葉を探すように眉がわずかに寄る。
「……同じ部屋で過ごしても、いいと思うのだが」
最後の一語は、ほとんど囁きだった。
恐る恐る差し出された手のようで、胸の奥が熱くなる。
こんなにも強くて、誰より決断の早いひとが、こんなところだけ不器用になるなんて。
「……私も、そうできたらと思っていました」
自然と口からこぼれていた。
言った瞬間、辺境伯様の肩がかすかに揺れる。
驚いたようで、解き放たれたようで、そしてどこか安堵の色を含んでいる。
「そうか……よかった」
その声が、まるで雪解けの最初の水音みたいに優しかった。
「では、仕事はここまでにする。……共に戻ろうか」
「……はい。辺境伯様」
差し出された手に、自分の指先をそっと重ねる。
触れた瞬間、ふたりとも微かに硬くなる。
それでもすぐに、体温がじんわりと広がった。
執務室の明かりを落とし、私たちは並んで廊下へ出た。
窓の外では、夜の雪が静かに音もなく降り続いている。
歩幅を合わせながら進むその道が、これからふたりで辿る日々に続いているのだと思うと、胸の奥がそっと震えた。
今夜から同じ部屋へ帰る。
ただそれだけなのに、世界がすこし広がったように感じられた。
◆
差し込む光が白く揺れて、私は目を覚ました。
辺境伯様の腕が、私を抱き寄せている。
(ああ……今度は夢じゃなくて、よかった)
「起きていたのか」
「はい……」
少しだけ身体をずらすと、辺境伯様がぼそりと呟いた。
「少しだけ、思い出話をしてもいいだろうか」
「はい……」
抱き寄せた手がぽんぽんと私の肩を叩く。
「昔、王都の舞踏会に出たことがある。一度だけ……そう、十一年前だ」
「……はい」
「辺境が資金難で、俺が支援を求めて頭を下げていた時……じっとこちらを、見ている……少女がいた」
「……」
「王都の貴族連中が寄越した蔑みや憐れみの視線とは違った。まっすぐな翠の瞳が印象的で……まるで、俺の置かれた状況すべてを、見つめてくれているようだった。少なくとも俺はあの瞳に見つめられた時……味方のいない戦場で、自分が決して間違っているわけではないと思うことができた」
「……はい」
「あの時は、それが誰とも分からなかった」
辺境伯様は、それ以上何も言わない。
胸が熱くなる。
あの頃、私はただ、必死で――けれど確かに、あの人の姿を見つめていた。
「……きっと、その頃からです。こうして、差し上げたかったんだと思います」
私はそっと彼の髪を撫で、今度は逆に腕の中に抱き寄せた。
静かだった。
雪が降って、世界の音が全部遠くなったような感覚。
すると辺境伯様が少し眉を寄せて私を見た。
「……それにしても、ルーチェ嬢」
「はい?」
「もう好い加減、「辺境伯様」はよしてほしいものだ」
「え……あ、はい……。では……ダリウス様」
「様もいらない」
「む、無理です……。まだ慣れません……」
彼は小さく息をつき、やがて諦め半分に笑った。
「……わかった。ありがとう、ルーチェ」
その言い方が優しくて、胸の奥がじんわり温かくなる。
私はその髪を撫でて、静かに目を閉じた。
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