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光と影が交差する芽吹きの章
25.出立準備
しばらく経ち――
出立を控え、屋敷はどこか落ち着かない空気に包まれていた。
王都へ向かう日は、確実に近づいてきている。
荷造りの確認をする者、馬丁へ指示を飛ばす者、行程をつぶさに点検する者。
そんな喧騒がようやく静まった頃、私はろうそくの明かりだけが灯る部屋で、窓の外を眺めていた。
夜風がやわらかく揺れ、春へ向かう気配を孕んだ匂いがする。
胸が落ち着かなくて、私は寝室の灯りを消す気になれずにいた。
机の上には、ユフェミアがくれたメモが置かれている。
丁寧な筆致でまとめられた注意点の数々は、私の小さな不安を柔らかく支えてくれるようで……つい指先でなぞってしまう。
あの人は、本当に心尽くしの人だ。
没落貴族の生まれで、何度も仕官先に裏切られ、それでも深くは語らず、ただ静かに働いてくれる。
気づけば使用人たちとも打ち解け、よく楽しそうに彼らの会話に耳を傾けている。
あの大人びた気品は、きっとどれほどの苦労を重ねても折れずにいた証なのだろう。
私もなんとなく、もし姉がいたとしたらこんな感じだったのだろうか、と考えてしまう。
もちろん、ユフェミアだけじゃない。
カイネがまとめてくれた行程も、イリアの入念な準備も、護衛を務めてくれるセレスの強さも、留守を預かってくれる皆の頼もしさも――すべて、ありがたい。
私がこうして皆に囲まれていられることが、まだ信じられないような気がする。
だから、なるべく折を見ては、皆の目をしっかりと見て、感謝の気持ちを伝えるようにしていた。
あなたの気持ちが嬉しいと、でも無理はしないでほしいと……陳腐だけれど、私の素直な気持ちを、そのままに。
奥様にそうして頂くと気が引き締まります――とは、イリアの言。
もっと頑張りますんでまたぜひ褒めてくださいよ、とは、カイネの言葉。
昔は少し目が合っただけで、「気持ちが悪い」と言われたのに――
人によっては本当に気分が悪そうにどこかへ行ってしまった人もいた。
今はこうして、皆に気持ちを伝えられる――そのことが、幸福だった。
そんなことを考えていると、ふと扉を叩く音がした。
「ルーチェ、起きているだろうか」
ダリウス様の低い声が、木扉越しにそっと落ちてくる。
慌てて姿勢を整えてしまった。
「……はい。どうぞ」
扉が開き、ダリウス様が入ってくる。
灯りが彼の銀髪の光を切り取り、柔らかな影を頬に落とした。
薄い明かりの中でも、その姿を見ただけで、胸の奥がじんと温かくなる。
「もう休まれた方が……」
声をかけながら近づくと、ダリウス様はわずかに眉をゆるめて、私の手を取った。
「あなたこそ、だ。最近ずっと……緊張しているだろう」
「……少し。王都は初めてではありませんけれど、今回は立場も責務もありますから」
辛いからと言って、誰もいない場所へ逃げ込むわけにはいかない。
「大丈夫だ。あなたなら」
「ダリウス様」
「俺も、傍にいるようにする」
「……はい。私も」
その言葉は、いつも私の弱さをほどく。
手をつないだまま、ソファへと促され、並んで腰を下ろした。
放されるかと思ったが、ダリウス様は指先を絡めたまま離さなかった。
「王都の連中が何を思おうが気にすることはない。あなたは胸を張っていればいい。辺境の再建は、確かに進んでいる。あなたの力添えがあったからだ」
「……そんな。私なんて、本当に微々たることで……」
否定しかける口を、そっと押しとどめるようにダリウス様の親指が私の手の甲を撫でた。
「俺は知っている。あなたがどれだけ考え、動いてきたか。王都の連中は俺の腹の中を探りたいだろうから、色々と仕掛けてくる可能性はあるが……少なくとも、あなたが怯むには値しない」
彼は軽く息をつき、机の上の資料に視線をやった。
「勉強も、今日はもう休んだ方が良いな」
「ええ……でも、皆が本当によくやってくれているんです。私の不安が少しでも減るように……特にユフェミアは、今日も遅くまで準備をしてくれて」
「……そうか。あなたが信頼を寄せる者が増えるのは、俺も嬉しい。ユフェミアの雇い主としても、あなたの夫としても」
そう言われると、一気に顔が熱くなる。
彼は、こんなふうに私が大切にするものを大切に扱ってくれる。
それが、何より安心できて――そして、きっと好きになった理由だ。
「……王都で暮らす邸のことだが」
話題を変えるように、ダリウス様が視線を外す。
「十一年前の災害の折に、手放した。維持する余力がなかった。それきりだ。今回、改めて用意するべきかとも思ったが……」
「……」
「あなたは、どう思うだろうか」
私は少し考えた。
確かに、今なら、王都の一等地に邸を買うことも不可能ではないだろう。
目立ってしまうし何より無意味な出費だから、ダリウス様はそうはなさらないだろうけれど。
「そうですね……」
ユフェミアの穏やかな声を思い出す。
「でしたら、ユフェミアのご実家の邸をお借りするのはいかがでしょうか。旧クラリシエール邸です」
ダリウス様が、わずかに目を見開いた。
「……確かに立地は悪くない」
「はい。ユフェミアが話してくれました。誰も住まなくなって久しいけれど、思い入れのある邸だと……」
しばしの沈黙。
考えを邪魔しないように、私も少し黙っていた。
それから、ダリウス様は小さく頷いた。
「あなたの提案なら、やってみよう。友人想いの妻のために」
「……ありがとうございます」
「ルーチェ」
「……はい」
近づいたダリウス様が、そっと私の手を取った。
その手の温かさだけで、落ち着かなかった胸の奥が静まる気がする。
「王都に行っても……俺から離れずいてくれると、嬉しい」
その声音は不器用で、けれど誠実で。
私は胸の奥に熱が落ちるのを感じながら、頷いた。
「もちろんです。どこにいようと、私は……あなたのお傍におります」
同席できない場面もありますけれど、と分かりきったことを言ったら、ダリウス様は少し笑った。
「……ルーチェ」
名前を呼ばれただけで、身体の芯まで震えるようだ。
次の瞬間、軽く、けれど深く沈み込むようなキスが触れた。
触れただけのはずなのに、息が止まる。
唇が離れても、胸の甘い痛みは消えなかった。
「すまない。……つい我慢が」
「いえ……嬉しい、です」
その胸元へ身を寄せる。
規則正しい心音が静かな部屋にやわらかく響き、頬が熱くなる。
「しかし、しばらくは気が休まらない日が続くだろう。だから今は……」
「……はい」
肩に落ちる手が、ゆっくり私の背を撫でる。
それだけで呼吸が深くなるのがわかった。
「王都で何があっても、あなたは俺の妻だ。俺が守る」
「……うれしいです。けれど……私も、お守りしたいのです。ダリウス様の隣で、恥じない自分でありたいから」
言い終えた瞬間、腕の力が少し強くなった。
胸に抱き寄せられ、温もりと体温がより近づく。
ダリウス様は短く息を吸い、私の髪をゆっくり撫でた。
「……ルーチェ。そう言われると、離したくなくなる」
「しばらく離れませんから……今夜くらい、甘えてくださいませ」
「……あなたにそう言われると、自分が弱くなる気がする」
呆れたようでいて、どこか照れた声。
「……俺は、自分のことを誤解していた」
「え?」
「この領さえ守れればそれで良いと……およそ欲の無い人間だと、小馬鹿にされていることも知っていたし、それが自分の強さだと思っていた……」
背にまわった腕は強く、私を抱き留めている。
「あなたにこうしてふれていると、果てのない欲がわいてくる」
「……」
「……幻滅しただろうか」
「いいえ。まさか……」
なんだかとても、信じられないような気がしただけだ。
誰より誠実で、清廉な人が――その蒼い瞳が、私を映して色を濃くする。
「でも、私も……」
皆から目を逸らして。俯いて。それで自分の身が守れると、誤った思いに支配されていた。
「多分、欲張りな人間ですから……」
ダリウス様に守られることも嬉しくて。けれど、同じだけ守って差し上げたくて。
彼の強さも弱さも、全部が愛おしくて。
「……ルーチェ」
頬にそっと触れられ、確かに長く感じる口づけを落とされた。
縋りつく私を抱き上げる腕は逞しくて、どうにもならない気持ちのまま身を委ねるしかない。
外では虫の声が遠く響き、屋敷のざわめきは完全に静まり返っている。
私は抱き締められたまま、彼の腕にそっと手を添えた。
◆
翌朝の空気は、冬の名残をわずかに含みながらも、どこか軽かった。
夜更けまで話していたせいか、目覚めても胸の奥がまだ温かい。
ダリウス様はしきりに「無理をさせた」と言ってくれたけれど……
そうして大切にされて、彼の腕の中で目を覚ますことは、私にはとても恥ずかしくて、けれど嬉しいことだった。
朝食の後、私はダリウス様にお願いして、ユフェミアとカイネを執務室に呼んでもらった。
「急に呼び立ててしまってごめんなさい」
そう言うと、ユフェミアは柔らかく微笑み、カイネは何となく察した顔で肩をすくめる。
「いえ、奥様。お呼びいただけて光栄です」
「……で、どのような御用命でしょう?なんなりと」
その軽口に、私は少しだけ笑ってから本題に入った。
「王都の件……私たちの暮らす場所をどうしようかと、ダリウス様と相談していたの。それで、旧クラリシエール邸の改修を、させてもらえないかと思って。もちろん、ユフェミアが許してくれるのなら」
ユフェミアの瞳が大きく見開かれる。
「そ、それは……」
「以前、話してくれたでしょう? 長く手を入れられずにいた邸だと。でも、思い入れのある一族のお邸だと……」
ダリウス様が静かに頷いた。
「無理強いはしない。……さて、どう思う。ユフェミア」
「は、はい」
戸惑った様子で、ユフェミアは頷く。
「確かに地券は私が持っていますが、けれど、そんな、最後に見た時は幽霊屋敷のようで……とても、お二人にお貸出しできるようなものではありません。直して頂くなんてそんな、恐れ多い。無駄な出費をさせるわけには」
ユフェミアにはまだ、魔晶石発見のことを伝えてはいない。
音に聞く貧乏辺境伯領とは様子が違う、というくらいのことは感じ取っているだろう。聡明な人だから。
けれど、辺境伯家の経済状況に立ち入ってくるようなことはない。
その線引きをありがたく思いながら、だからこそ、と私は頷いた。
「ユフェミアが許してくれるなら、そうしたいの。邸の権利はあなたのもののままで構わないわ」
「そんな……」
ユフェミアは考え込んでいた。
それから、「本当によろしいのですか」と囁くように頷く。
「ええ。……身一つで辺境まで来てくれたあなたへの御礼だと思ってほしいの」
「ルーチェ様……」
「……決まったか。そこでだ、カイネ」
「はいはい、来ました」
「王都での改修の差配を、お前に任せたい」
一瞬、カイネは言葉を失ったようだったが、すぐに背筋を伸ばした。
「……了解です。責任重大ですね」
「ただし、あまり期間はない。カイネ、お前の仕事の速さに期待している」
「んん……旦那様は俺にいっつも難しい仕事を振るんですから……」
言いながらも、カイネは少し照れたように視線を逸らす。
「信頼しているから任せる」
「わかりましたよ、わかりました。旦那様にそうまで言わしめる優秀で有能な俺ですから。やってみせましょう」
カイネは冗談めかしているが、まっすぐに引き受けた。
私は続けた。
「ユフェミアにも、一足先に王都へ行ってもらいたいの。お邸の改修はあなたの意に染むかたちで進めてほしいから」
「はい。ルーチェ様のお役に立てるなら、喜んで。ついでに社交界の情勢も偵察してまいります」
迷いのない答えだった。
その横顔に、これまで積み重ねてきた苦労と覚悟が滲んでいるのが分かる。
ダリウス様が、少し声音を低くして言った。
「カイネ。ユフェミアは、俺の妻が信頼している人だ。必ず守ってやれ」
「お任せください」
「……例の件についても、ユフェミアには伝えて構わない」
「……承知しました」
例の件とは、魔晶石の件だろう。
今度は冗談めかした調子ではなく、真剣な声だった。
「お二人の信頼を預かる以上、全力でやりますよ。……ユフェミア嬢のご要望通りに」
ユフェミアが深く頭を下げる。
「ありがとうございます、辺境伯様。必ずや、ご期待に沿ってみせます。……お世話になります、カイネ」
「おまかせを、ユフェミア嬢。……いえ、王都に……不慣れなのは、多分、俺の方ですから。世話になるのはこちらかもしれませんが」
少しだけ、カイネはらしくもなく言い淀んで、そう言った。
「カイネは、王都は初めてですか?」
「いえ。……いや、……まあ、初めて、ですね」
「そう……でしたら、私がお役に立てることがあれば、嬉しいです」
その様子を見ながら、私は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
ここには、それぞれが役割を持ち、互いを信じて動く人たちがいる。
王都へ向かう準備は、もう始まっている。
――私は、この人たちと一緒に進んでいくのだと、あらためて思った。
出立を控え、屋敷はどこか落ち着かない空気に包まれていた。
王都へ向かう日は、確実に近づいてきている。
荷造りの確認をする者、馬丁へ指示を飛ばす者、行程をつぶさに点検する者。
そんな喧騒がようやく静まった頃、私はろうそくの明かりだけが灯る部屋で、窓の外を眺めていた。
夜風がやわらかく揺れ、春へ向かう気配を孕んだ匂いがする。
胸が落ち着かなくて、私は寝室の灯りを消す気になれずにいた。
机の上には、ユフェミアがくれたメモが置かれている。
丁寧な筆致でまとめられた注意点の数々は、私の小さな不安を柔らかく支えてくれるようで……つい指先でなぞってしまう。
あの人は、本当に心尽くしの人だ。
没落貴族の生まれで、何度も仕官先に裏切られ、それでも深くは語らず、ただ静かに働いてくれる。
気づけば使用人たちとも打ち解け、よく楽しそうに彼らの会話に耳を傾けている。
あの大人びた気品は、きっとどれほどの苦労を重ねても折れずにいた証なのだろう。
私もなんとなく、もし姉がいたとしたらこんな感じだったのだろうか、と考えてしまう。
もちろん、ユフェミアだけじゃない。
カイネがまとめてくれた行程も、イリアの入念な準備も、護衛を務めてくれるセレスの強さも、留守を預かってくれる皆の頼もしさも――すべて、ありがたい。
私がこうして皆に囲まれていられることが、まだ信じられないような気がする。
だから、なるべく折を見ては、皆の目をしっかりと見て、感謝の気持ちを伝えるようにしていた。
あなたの気持ちが嬉しいと、でも無理はしないでほしいと……陳腐だけれど、私の素直な気持ちを、そのままに。
奥様にそうして頂くと気が引き締まります――とは、イリアの言。
もっと頑張りますんでまたぜひ褒めてくださいよ、とは、カイネの言葉。
昔は少し目が合っただけで、「気持ちが悪い」と言われたのに――
人によっては本当に気分が悪そうにどこかへ行ってしまった人もいた。
今はこうして、皆に気持ちを伝えられる――そのことが、幸福だった。
そんなことを考えていると、ふと扉を叩く音がした。
「ルーチェ、起きているだろうか」
ダリウス様の低い声が、木扉越しにそっと落ちてくる。
慌てて姿勢を整えてしまった。
「……はい。どうぞ」
扉が開き、ダリウス様が入ってくる。
灯りが彼の銀髪の光を切り取り、柔らかな影を頬に落とした。
薄い明かりの中でも、その姿を見ただけで、胸の奥がじんと温かくなる。
「もう休まれた方が……」
声をかけながら近づくと、ダリウス様はわずかに眉をゆるめて、私の手を取った。
「あなたこそ、だ。最近ずっと……緊張しているだろう」
「……少し。王都は初めてではありませんけれど、今回は立場も責務もありますから」
辛いからと言って、誰もいない場所へ逃げ込むわけにはいかない。
「大丈夫だ。あなたなら」
「ダリウス様」
「俺も、傍にいるようにする」
「……はい。私も」
その言葉は、いつも私の弱さをほどく。
手をつないだまま、ソファへと促され、並んで腰を下ろした。
放されるかと思ったが、ダリウス様は指先を絡めたまま離さなかった。
「王都の連中が何を思おうが気にすることはない。あなたは胸を張っていればいい。辺境の再建は、確かに進んでいる。あなたの力添えがあったからだ」
「……そんな。私なんて、本当に微々たることで……」
否定しかける口を、そっと押しとどめるようにダリウス様の親指が私の手の甲を撫でた。
「俺は知っている。あなたがどれだけ考え、動いてきたか。王都の連中は俺の腹の中を探りたいだろうから、色々と仕掛けてくる可能性はあるが……少なくとも、あなたが怯むには値しない」
彼は軽く息をつき、机の上の資料に視線をやった。
「勉強も、今日はもう休んだ方が良いな」
「ええ……でも、皆が本当によくやってくれているんです。私の不安が少しでも減るように……特にユフェミアは、今日も遅くまで準備をしてくれて」
「……そうか。あなたが信頼を寄せる者が増えるのは、俺も嬉しい。ユフェミアの雇い主としても、あなたの夫としても」
そう言われると、一気に顔が熱くなる。
彼は、こんなふうに私が大切にするものを大切に扱ってくれる。
それが、何より安心できて――そして、きっと好きになった理由だ。
「……王都で暮らす邸のことだが」
話題を変えるように、ダリウス様が視線を外す。
「十一年前の災害の折に、手放した。維持する余力がなかった。それきりだ。今回、改めて用意するべきかとも思ったが……」
「……」
「あなたは、どう思うだろうか」
私は少し考えた。
確かに、今なら、王都の一等地に邸を買うことも不可能ではないだろう。
目立ってしまうし何より無意味な出費だから、ダリウス様はそうはなさらないだろうけれど。
「そうですね……」
ユフェミアの穏やかな声を思い出す。
「でしたら、ユフェミアのご実家の邸をお借りするのはいかがでしょうか。旧クラリシエール邸です」
ダリウス様が、わずかに目を見開いた。
「……確かに立地は悪くない」
「はい。ユフェミアが話してくれました。誰も住まなくなって久しいけれど、思い入れのある邸だと……」
しばしの沈黙。
考えを邪魔しないように、私も少し黙っていた。
それから、ダリウス様は小さく頷いた。
「あなたの提案なら、やってみよう。友人想いの妻のために」
「……ありがとうございます」
「ルーチェ」
「……はい」
近づいたダリウス様が、そっと私の手を取った。
その手の温かさだけで、落ち着かなかった胸の奥が静まる気がする。
「王都に行っても……俺から離れずいてくれると、嬉しい」
その声音は不器用で、けれど誠実で。
私は胸の奥に熱が落ちるのを感じながら、頷いた。
「もちろんです。どこにいようと、私は……あなたのお傍におります」
同席できない場面もありますけれど、と分かりきったことを言ったら、ダリウス様は少し笑った。
「……ルーチェ」
名前を呼ばれただけで、身体の芯まで震えるようだ。
次の瞬間、軽く、けれど深く沈み込むようなキスが触れた。
触れただけのはずなのに、息が止まる。
唇が離れても、胸の甘い痛みは消えなかった。
「すまない。……つい我慢が」
「いえ……嬉しい、です」
その胸元へ身を寄せる。
規則正しい心音が静かな部屋にやわらかく響き、頬が熱くなる。
「しかし、しばらくは気が休まらない日が続くだろう。だから今は……」
「……はい」
肩に落ちる手が、ゆっくり私の背を撫でる。
それだけで呼吸が深くなるのがわかった。
「王都で何があっても、あなたは俺の妻だ。俺が守る」
「……うれしいです。けれど……私も、お守りしたいのです。ダリウス様の隣で、恥じない自分でありたいから」
言い終えた瞬間、腕の力が少し強くなった。
胸に抱き寄せられ、温もりと体温がより近づく。
ダリウス様は短く息を吸い、私の髪をゆっくり撫でた。
「……ルーチェ。そう言われると、離したくなくなる」
「しばらく離れませんから……今夜くらい、甘えてくださいませ」
「……あなたにそう言われると、自分が弱くなる気がする」
呆れたようでいて、どこか照れた声。
「……俺は、自分のことを誤解していた」
「え?」
「この領さえ守れればそれで良いと……およそ欲の無い人間だと、小馬鹿にされていることも知っていたし、それが自分の強さだと思っていた……」
背にまわった腕は強く、私を抱き留めている。
「あなたにこうしてふれていると、果てのない欲がわいてくる」
「……」
「……幻滅しただろうか」
「いいえ。まさか……」
なんだかとても、信じられないような気がしただけだ。
誰より誠実で、清廉な人が――その蒼い瞳が、私を映して色を濃くする。
「でも、私も……」
皆から目を逸らして。俯いて。それで自分の身が守れると、誤った思いに支配されていた。
「多分、欲張りな人間ですから……」
ダリウス様に守られることも嬉しくて。けれど、同じだけ守って差し上げたくて。
彼の強さも弱さも、全部が愛おしくて。
「……ルーチェ」
頬にそっと触れられ、確かに長く感じる口づけを落とされた。
縋りつく私を抱き上げる腕は逞しくて、どうにもならない気持ちのまま身を委ねるしかない。
外では虫の声が遠く響き、屋敷のざわめきは完全に静まり返っている。
私は抱き締められたまま、彼の腕にそっと手を添えた。
◆
翌朝の空気は、冬の名残をわずかに含みながらも、どこか軽かった。
夜更けまで話していたせいか、目覚めても胸の奥がまだ温かい。
ダリウス様はしきりに「無理をさせた」と言ってくれたけれど……
そうして大切にされて、彼の腕の中で目を覚ますことは、私にはとても恥ずかしくて、けれど嬉しいことだった。
朝食の後、私はダリウス様にお願いして、ユフェミアとカイネを執務室に呼んでもらった。
「急に呼び立ててしまってごめんなさい」
そう言うと、ユフェミアは柔らかく微笑み、カイネは何となく察した顔で肩をすくめる。
「いえ、奥様。お呼びいただけて光栄です」
「……で、どのような御用命でしょう?なんなりと」
その軽口に、私は少しだけ笑ってから本題に入った。
「王都の件……私たちの暮らす場所をどうしようかと、ダリウス様と相談していたの。それで、旧クラリシエール邸の改修を、させてもらえないかと思って。もちろん、ユフェミアが許してくれるのなら」
ユフェミアの瞳が大きく見開かれる。
「そ、それは……」
「以前、話してくれたでしょう? 長く手を入れられずにいた邸だと。でも、思い入れのある一族のお邸だと……」
ダリウス様が静かに頷いた。
「無理強いはしない。……さて、どう思う。ユフェミア」
「は、はい」
戸惑った様子で、ユフェミアは頷く。
「確かに地券は私が持っていますが、けれど、そんな、最後に見た時は幽霊屋敷のようで……とても、お二人にお貸出しできるようなものではありません。直して頂くなんてそんな、恐れ多い。無駄な出費をさせるわけには」
ユフェミアにはまだ、魔晶石発見のことを伝えてはいない。
音に聞く貧乏辺境伯領とは様子が違う、というくらいのことは感じ取っているだろう。聡明な人だから。
けれど、辺境伯家の経済状況に立ち入ってくるようなことはない。
その線引きをありがたく思いながら、だからこそ、と私は頷いた。
「ユフェミアが許してくれるなら、そうしたいの。邸の権利はあなたのもののままで構わないわ」
「そんな……」
ユフェミアは考え込んでいた。
それから、「本当によろしいのですか」と囁くように頷く。
「ええ。……身一つで辺境まで来てくれたあなたへの御礼だと思ってほしいの」
「ルーチェ様……」
「……決まったか。そこでだ、カイネ」
「はいはい、来ました」
「王都での改修の差配を、お前に任せたい」
一瞬、カイネは言葉を失ったようだったが、すぐに背筋を伸ばした。
「……了解です。責任重大ですね」
「ただし、あまり期間はない。カイネ、お前の仕事の速さに期待している」
「んん……旦那様は俺にいっつも難しい仕事を振るんですから……」
言いながらも、カイネは少し照れたように視線を逸らす。
「信頼しているから任せる」
「わかりましたよ、わかりました。旦那様にそうまで言わしめる優秀で有能な俺ですから。やってみせましょう」
カイネは冗談めかしているが、まっすぐに引き受けた。
私は続けた。
「ユフェミアにも、一足先に王都へ行ってもらいたいの。お邸の改修はあなたの意に染むかたちで進めてほしいから」
「はい。ルーチェ様のお役に立てるなら、喜んで。ついでに社交界の情勢も偵察してまいります」
迷いのない答えだった。
その横顔に、これまで積み重ねてきた苦労と覚悟が滲んでいるのが分かる。
ダリウス様が、少し声音を低くして言った。
「カイネ。ユフェミアは、俺の妻が信頼している人だ。必ず守ってやれ」
「お任せください」
「……例の件についても、ユフェミアには伝えて構わない」
「……承知しました」
例の件とは、魔晶石の件だろう。
今度は冗談めかした調子ではなく、真剣な声だった。
「お二人の信頼を預かる以上、全力でやりますよ。……ユフェミア嬢のご要望通りに」
ユフェミアが深く頭を下げる。
「ありがとうございます、辺境伯様。必ずや、ご期待に沿ってみせます。……お世話になります、カイネ」
「おまかせを、ユフェミア嬢。……いえ、王都に……不慣れなのは、多分、俺の方ですから。世話になるのはこちらかもしれませんが」
少しだけ、カイネはらしくもなく言い淀んで、そう言った。
「カイネは、王都は初めてですか?」
「いえ。……いや、……まあ、初めて、ですね」
「そう……でしたら、私がお役に立てることがあれば、嬉しいです」
その様子を見ながら、私は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
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カレンから届いた手紙に、たった一度だけハルシオンは返事を書く。
そこには彼の想いが書かれてあった。
月日は流れ、カレンとローランが婚姻して三年目の冬の日。
カレンはひとつの決意と想いを胸に、北へ向かう汽車に乗った。
※微さまぁか、もしくはざまぁになっていないかもしれないです。
※舞台は近世・産業革命初頭を基にした架空世界だと思っていただけましたら有難いです。
稚拙な作品ではありますがご覧くださいましたら凄く嬉しいです。よろしくお願い致します。
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