【本編完結】厄災烙印の令嬢は貧乏辺境伯領に嫁がされるようです

あおまる三行

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光と影が交差する芽吹きの章

27.芽生える心

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 王都の邸に、リヒト兄様が訪ねてきたのは、午後の光が中庭に落ち着き始めた頃だった。

 応接間に通されて現れた兄様は、相変わらず理知的な雰囲気を崩していなかった。
 けれど、目が合った瞬間、ほんのわずかに表情が緩むのを、私は見逃さなかった。
「久しぶりだな、ルーチェ。息災だったか」
「リヒト兄様……ええ、お陰様で」
 そう応じた声は、思ったより落ち着いていた。胸の奥で何かが揺れたけれど、それはもう、昔のような痛みではない。
 ほどなくしてダリウス様が入って来る。
「来てくれたのですか、リヒト卿」
「……先日は、突然押しかけて失礼しました。辺境伯閣下」
 三人で向かい合って腰を下ろすと、ひととき、言葉のない間が落ちた。
 気まずさというより、互いに相手を量っているような沈黙だった。
 それを破ったのは兄様だった。
 
「……結婚おめでとう。ルーチェ」
 穏やかで、静かな声だった。責めるでも、探るでもない。ただ事実を受け止めた声音。
 私は思わず息を呑み、それからゆっくりと頷いた。
「ありがとうございます。兄様」
 ダリウス様も、わずかに頭を下げる。
「辺境伯閣下にもお慶び申し上げます」
「感謝します」
「……先に言っておきますが、私のことを義兄上などとは呼ばないように」
「承知しました。……御妹殿には、日々助けて頂いています」
「そんな!私の方こそ……」
 その言葉に、兄様は一瞬だけ目を細めた。
 試すような視線が、すっと私に向けられる。
「……そうみたいだな」
 兄様は小さく息を吐き、肩の力を抜いた。
「正直に言えば、心配はしていました。だが――」
 そこで言葉を切り、私とダリウス様を順に見て、少しだけ笑う。
「余計な口出しだったようだ」
 その表情に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
 守られるだけの妹ではなく、一人の人間として見てもらえた気がした。
「ルーチェ。お前が自分で選んだ道なら、俺はそれを尊重する」

 リヒト兄様は、椅子に腰を下ろしたまま、深くため息をついた。
 一度眼鏡を掛け直している。
「……それで、だ。今日は祝意を述べると共に、幾つか相談もあってきた」
「相談……?」
「シェリフォード公爵家の件だ」
 私は思わず眉を寄せた。
 兄様は構わず話を続けている。
「リリアーナが最近、よく官舎を訪ねてくる。義父殿からの手紙も携えてな」
「使いではなく、リリアーナ本人が、ですか?」
「そうだ。突撃、という表現が一番近いな。忙しいところに押しかけてきて、手紙を読めというのもそこそこに、サイラス殿下の話だの、家のためにどう振る舞うべきかだの……正直、鬱陶しくてかなわない」
 身内のことをそう評するのは心苦しいはずなのに、兄様の声には疲労の色しかなかった。私は苦笑しつつ、視線を落とす。
「実際、リリアーナは公爵令嬢で、今や、第二王子の――サイラス殿下の婚約者だ」
「……あなた方の妹御をこのように言うのは恐縮してしまうが。第二王子殿下にとっては、扱いやすいのでしょう。あの女性は」
 ダリウス様の低い声。
 リヒト兄様は鼻で笑った。
「お飾りの妻、というやつだな。物事を自分で考えず、ちやほやされていれば満足で、家と神殿の言うことを聞く、公爵家の愛らしいお人形。……あの計算高い王子らしい選択だ。まあ、政治的判断としては悪くない面もある」
 言葉は辛辣だったが、不思議と怒りは感じられなかった。冷めた諦観に近い。
 私は隣に座るダリウス様をちらりと見てから、再びリヒト兄様に向き直る。
「それで……お兄様は、どうなさるおつもりなのですか?」
「どうにかしたいとは思っている」
 即答だった。
「公爵家は、もう長く蝕まれすぎた。金の流れも、人の扱いもな。証拠も、少しずつだが集まってきている。正式に告発できる形にしたい」
 その声音は低く、しかし確かな決意を帯びていた。私は胸の奥が、ひやりとするのを感じる。
 それは危険な道だ。相手は公爵家で、背後には神殿もいる。

「――実はな」
 兄様が、少しだけ視線を伏せて切り出した。

「シェリフォード公爵家から、自分を――リヒト・シェリフォードを、正式に除籍しようと思っている」

 一瞬、言葉を失う。
 けれど驚きより先に、胸の奥で静かに納得が広がった。
「籍を抜いて、冷戦状態の継承権争いも放棄する。……もうお前を隠してもいないあの家に、しがみつく理由はない」
 淡々とした口調だったが、その裏に長い葛藤があったことは、妹である私にはわかる。
「義父殿との縁を、完全に切るということですね」
 ダリウスが低く言った。
「ええ。亡き母の家名や財産、爵位まで放り出す形になるのは……正直なところ、非常に癪ですが」
 そこで、兄様はわずかに笑った。
「母上は、そんなもののために俺たちが縛られることを、望まないでしょう」
 胸が締めつけられる。
「……私も、同じことを考えていました」
 自然と、そう口にしていた。
「ルーチェ」
「公爵家の名前があっても、守ってはくれませんでした。寧ろ、私の大切な方々に迷惑をかけてしまう……それなら、これからのために、きちんと区切りをつけたいです」
 兄様は、しばらく私を見つめてから、静かに頷いた。
「だろうな。だから――お前にも、除籍を勧める」
 それは命令でも強制でもなく、兄としての提案だった。
「今後のためにも、公爵家とは正式に縁を切った方がいい。あの家は、必ずまた「利用できるもの」を探す。……実際、俺に届いた手紙は、お前を脅かして俺から金を毟り取ろうとするものばかりだ」

 ダリウス様が、ゆっくりと息を吐いた。
「……手続きは、どの程度お進みですか」
「勝手ではあるが、俺の分もルーチェの分も、同時に進めていた。あとはお前の了承があれば、それで済む。形式上は陛下の承認を頂くかたちにはなるが、実務的な決済をするのは俺の同僚だ」
 そして、ふっと視線を鋭くする。
「――舞踏会までには、終わらせた方が良いのだろう?」
「……」
 ダリウス様は、答えない。
 兄様は察しているのだろうか。
 舞踏会の席で、ダリウス様が魔晶石発見の報告を行おうとしていることを。
 そうなった時に――公爵家が私との縁を利用して、辺境伯領の魔晶石を横取りするのを、少しでも防ぐために。
 除籍を勧めてくれたのだろう。

「……リヒト卿。あなたの慧眼に感謝申し上げます」
 深々と頭を下げている。
「――もっとも。義父が難癖をつけてくる可能性はある。俺の除籍は喜んで受け入れるだろうが、ルーチェとの縁にはまだ利用価値があると考えているだろうから」
「確かに……」
「それに、ルーチェにとって良いことばかりではないのも確かだ」
 兄様は、今度ははっきりとダリウスを見た。
「公爵家から籍を抜いたからといって、ルーチェと俺の兄妹の縁まで切れるわけじゃない。「実家のない女」などと、誰にも言わせるな。……万が一、そんな扱いをする者がいたら。閣下がその扱いを見過ごしていたのなら」
 そこまで言って、言葉を切る。
「俺が、許さない」
 一瞬の沈黙。
 そしてダリウス様は、真っ直ぐに答えた。

「そのようなことは、あり得ません」
 低い声は、揺るぎがなかった。
「守ります。……名誉にかけて」
「……」
 まあ十分だ、と兄様は小さく息を吐いた。
「ならいい。……手続きは、こちらで進めておく」
 私は、二人を見比べて、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
 公爵家を失うことよりも。
 失わないものが、こんなにもはっきりしている。
 それが、何よりの救いだった。
 
「……でも、兄様。無茶はなさらないでください」
 思わず、そう口にしていた。
 兄様は少しだけ目を丸くして、それから苦笑した。
「お前に言われるとはな」
 その視線が、私の左手――指輪のある方へ、ほんの一瞬だけ落ちる。
「だが……安心しろ。独りで突っ込む気はない。味方は選ぶさ」
 その「味方」の中に、誰が含まれているのか。私は聞かなかった。ただ、ダリウス様の横顔を見て、静かに息を整える。
 王都は、春の陽気とは裏腹に、確実にきな臭くなっている。
 それでも私は、ここにいる。
 この人たちと一緒に。

 ◆

 王都の邸の門前。
 馬車の準備が整い、リヒトが外套の前を整えて立っていた。

 少し離れたところで、イリアは荷物の確認をしていた。
 リヒトはルーチェのために贈り物を持ってきてくれていた。
 それは流行のものではなく、貴重な書籍ばかりで、ルーチェは大変喜んでいたが何分重い。
 運び込みには難儀していた。
 
 以前リヒトが訪れた時には、ルーチェを連れ去られてしまうのではないかと緊張していた。
 今回は、兄妹の水入らずの時間を過ごしてほしいと、イリアは少し離れたところに控えていた。

「――以前、少しお話ししましたね」

 不意に背後から声をかけられ、イリアは瞬きをする。
 振り向くと、リヒトがそこにいた。
 ルーチェとは違う、まっすぐにさらりと垂れる髪。
 しかし、眼鏡の奥の瞳は同じく思慮深い翠色だ。
 ルーチェよりも少し鋭い色を帯びたまなざし。
 イリアはぱっと下を向いた。思わず、荒れた指先を隠すようにエプロンの裾を掴んでいた。
 
「……はい。辺境伯様の邸で、膝掛けをお貸しした時に」
 まさか、リヒトが一介の侍女風情を覚えているとは思っていなかった。
 リヒトはそれに気づいたのか、わずかに笑った。
「助かりました。あの日は辺境伯領に訪れるのも初めてで、本当に冷えましたから」
「いえ……当然のことをしただけです」
 緊張から、イリアは自分が無表情になっているのを感じた。
 初対面の相手とは、大抵うまくいかない。
 ルーチェのようにやわらかく、ユフェミアのようにさりげなく、セレスのように素直に笑えれば良いのに。
 しかしリヒトは気にした様子もなく、持っていた袋をイリアに差し出した。
「こちらを」
「あ……」
 貸すとは言ったけれど、返してもらえるとは。
 膝掛けは丁寧に包まれ、礼状と思しき小さな封筒が添えられている。
(貸した時より綺麗にしていただいているような……)
「……ここまでして頂かなくとも。捨てて頂いて結構でしたのに」
 あまり可愛くない言い方だろうか、とイリアは自省する。
「いえ……その、大したものではありませんから」
 侍女の私物を貸すなんて、却って不敬だっただろうかと、後で悩んだものだ。
「そのご厚意があたたかかったのですよ」
 くくっと少し皮肉げに笑ったリヒトに、イリアは目を瞬かせた。
  
「ルーチェの侍女だと聞きました。お名前を――うかがっても?」
「……イリアと申します。家名はございません」
 それだけ伝えた。
 孤児であった、という過去までは話す気になれない。
 リヒトもそれ以上踏み込んではこなかった。
「ああ――申し遅れました。私は……リヒト、と申します」
「……存じております。奥様の、兄君様ですから」
 知っていて当然だ。
 けれどリヒトは、わざわざイリアにも自分の名を明かす礼を尽くしてくれたのだと――イリアは遅れて気がついた。
 
 それで離れてしまうのかと思いきや、ぽつりぽつりと、準備に動く人々を眺めながら会話が続く。
 
「こちらに来てから、思うよりずっと忙しくて」
「王都は、そういう場所ですから。……辺境は静かでしたか」
「ええ。……音が違います。風とか、人の声とか」
「想像がつきますね。私は寧ろ、風の音で眠れなくなりそうでしたが」

「よく奥様が心配されています。……お体は、大丈夫ですか」
「ええ。気にかけていただくほどでは」
「王都は、人を休ませない気が致します。めまぐるしくて」
「面白い表現ですね。私は慣れてしまいましたが、そういうものかな……」

 短い、踏み込まないやりとり。
 それでも、互いに相手の言葉を丁寧に受け取ろうとしている空気があった。
「……以前も申しましたが。どうかルーチェのことをよろしくお願いします」
 イリアは一瞬だけ目を見開き、それから静かに頷いた。
「お任せください」
「それから君も。……微力な者ではありますが、もしお困りのことがあれば、知らせてください。イリアさん」

 それ以上は言葉にせず、リヒトは馬車へ向かう。
 イリアはその背を見送りながら、胸の奥に小さな余韻が残るのを感じていた。
 
(……覚えていてくれたのね)
 ただそれだけのことが、なぜか心に残る。
(流石は、公爵家のご令息。王都で辣腕官吏として名を馳せている方……使用人のことも細やかに覚えて、気にかけてくださる)
(そういう方だから、信頼されて多くの仕事を任されるのでしょう)
(私もあれくらい自分の仕事をこなしながら、周囲にも目配りのできる人間になりたいもの……)
 
 やがて馬車が動き出し、リヒトは一度だけ振り返って、軽く会釈をした。
 その視線は、ルーチェに向けられたものだ。
 それなのに、背後に立っていたイリアは、慌てて同じように頭を下げていた。
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