厄災烙印の令嬢は貧乏辺境伯領に嫁がされるようです

あおまる三行

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光と影が交差する芽吹きの章

37.宵に紛れて

 舞踏会の喧騒から、イリアは静かに身をひいた。
 広間を満たす音楽と笑い声は、扉を一枚隔てただけで、嘘のように遠ざかる。
 夜気を孕んだ庭園に足を踏み入れた瞬間、肺の奥まで澄んだ空気が流れ込んできた。

 ――何をしているのだろう。
 歩きながら、イリアは自分の内心を持て余していた。
 ルーチェの心配をしているのだろう、ダリウスの様子を見ているのだろう、ユフェミアを案じているのだろう、と周囲からは言われる。
 けれど、舞踏会が始まってから、ずっとどこか落ち着かなかった理由は、わかっている。

 リヒトのことだ。
 先ほどルーチェと踊っていた姿。少し皮肉っぽい笑み。相変わらずの距離感。
 それなのに、思い返すのは、以前貸した膝掛けを返してくれた時の、少し影を帯びた翠のまなざしだった。
 舞踏会で、またお会いすることもあるのだろうか、と……
 そしてまた、お話をすることはあるのだろうかと……
 少し緊張していた自分が、ひどく愚かに思えた。

(……仕事に集中しなさい、イリア)
 誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。
 気にしている自分の方が、どうかしている。
 事実、先程のリヒトはイリアに見向きもしなかった。
 用がなければ声もかけない、全く違う立場の方だ。
 籍を抜いたとはいえ元は公爵家のご令息。王宮でも評判の優秀な官吏。奥様の兄君様。
 対するイリアは、元は孤児の、辺境育ちの一介の侍女。
 はぁ、と息を吐くと、肩の力が抜けた。
 何が気になるのか、自分でも自分の気持ちがわからない。

 ――カイネと話したい。
 唐突に、そんな思いが浮かぶ。
 特別な意味があるわけではない。
 ただ、あの軽い口調で「お前は難しく考えすぎ」とか、「俺らは頑張ってるよ十分に」とか……遠慮なく言われたいだけだ。
 多分、こんな弱気を見せたら揶揄われる。
 でも、それでいい。笑い飛ばしてもらえれば、それで少し楽になる気がした。
(あとで……少し話しただけでこうもリヒト様のことが気になるのはどうしてなのか、相談してみようかしら)
 幼馴染で、三つ歳上。カイネに対して、つい兄のように頼ってしまう気があることは否定しない。
 孤児だった幼い頃は本当に、生活の面倒まで見てもらっていた。
 イリアはため息をひとつ吐き、ゆっくりと歩き出した。
 
 白い石畳の小径を辿り、低く刈り込まれた生垣の間を抜け、月明かりに照らされた花壇のそばへ。
 夜の庭園は静かで、どこか別の世界のようだった。
 舞踏会の華やかさとは正反対の、冷たく澄んだ美しさ。
 その静寂の中で――

「……」

 不意に、低い声が聞こえた。
 イリアは足を止める。
 人の気配。
 それも、ひとりではない。
 建物の陰から、押し殺したような声が続く。
 舞踏会を抜け出した男女のものだろうか。
 品の無い逢瀬を楽しむ男女もいますから、と溜め息をついていたユフェミアの言葉を思い出す。

(嫌だわ。立ち聞きしていたと思われたら、気まずい……)
 さりげなく存在を知らせるように、咳払いしかけた、その時だった。

 背後から、突然、強い力で引き寄せられた。
 同時に、口を塞がれる。
 驚きと恐怖に、イリアは反射的に暴れかけた。
 肘を引いて蹴りを入れようとした、その瞬間――

「シッ」
 耳元で、低く囁く声。
 聞き覚えのある声に、イリアの動きが止まる。
 息がかかるほど近い距離で、片腕でイリアを抱き込むようにしながら、もう片方の手で口元を覆っている。
 力はあるが乱暴ではない。最小限の拘束だと、イリアは瞬時に理解した。
「……」
 見返して頷くと、塞がれていた口が、そっと離された。
 代わりに、肩を抱く腕は緩まないまま、彼女を植え込みの影へと導く。

 顔を上げると、そこにいたのはリヒトだった。
 いつもの表情ではない。目は鋭く、周囲を警戒する色を帯びている。
「……すみません、無礼を。偵察中でしたもので」
 耳元にごく小さな声で告げられ、イリアはようやく状況を理解した。
 彼は、偶然そこにいたのではない。意図して、この庭園に潜んでいたのだ。

 二人が身を潜めている植え込みの向こう、石畳を踏む靴音と、押し殺した声が聞こえてくる。
 茂みの影から少しだけ身を乗り出す。
 月明かりの下、少し離れた小径に、数人の人影が見えた。
(あれは……)
 イリアは息を呑む。
 中央に立つのは、公爵エドムンド。――ルーチェとリヒトの義父。
 その周囲を囲むように、神官服を纏った者たちがいる。
 その顔ぶれの中に、イリアは見覚えのある神官を見つけた。
 つい先ほど、舞踏会の場でルーチェに対し、烙印を理由に難癖をつけてきた男だ。
 リヒトが隣で、眼鏡の奥の瞳を細めている。

 じっとしていると、低く抑えた声が、夜気に紛れて聞こえてきた。
「……魔晶石の件は想定外でしたな、公爵閣下」
「構わん。結果的に、得られるものが増えたというだけだ」
 エドムンドの声には、苛立ちよりも冷ややかな計算が滲んでいた。
「辺境伯領は、持ち上げれば持ち上げるほど脆い。期待を背負わせ、重荷を与えればいい」
「では、神殿としては――」
「しばらく待て」
 はっきりとした言葉に、イリアの背筋が冷たくなる。
「辺境は遠い。王都の目も届きにくい。理由はいくらでも作れる」
「……話はまとまりましたな」
「うむ。……あとは放っておけばよい。いずれ混乱は起きる。北の辺境とはそういう場所だ」
「確かに、厄災の烙印を理由にすれば、民も疑いません。辺境伯夫人がいる限り、不幸は「起こるもの」です」
 くぐもった笑い声。

「――なんなら、辺境伯自身に、ご不幸があるかもしれませんな」

 旦那様に――!
 その言葉に、イリアの喉がひくりと鳴った。
 思わず、足を踏み出しかけ、小枝を踏んでしまう。
「……っ」
 ぱき、という、ほんの小さな音だった。
 だが夜の庭園では十分すぎるほどだった。
「誰かいるのか」
 鋭い声が飛び、足音がこちらへ向かってくる。
 神官の一人が、物陰を探るように近づいてきた。

 硬直するイリアをよそに、リヒトは一瞬で判断した。
「すみません」
「えっ」
 彼はイリアを強く引き寄せ、その身体を自分の胸に押しつける。
 同時に、わざと足取りをふらつかせ、酒に酔った男のように姿勢を崩した。

 
 神官が植え込みの陰を覗き込む。
 そこに見えたのは、若い男が小柄な侍女を抱きしめている光景だった。
「……おい」
 神官が眉をひそめる。
 男は少しだけ顔を上げ、気怠げに笑った。
 陰になった場所、それに男のまっすぐな栗色の髪が顔にかかり、目元はよく見えない。
 声にはわざとらしい酒気が滲んでいる。足元にはグラスが倒れていた。
「なんだよ……逢瀬の邪魔をするな」
 腕の中の侍女は顔を男の胸に埋め、震える手でその背を掴んでいる。
 小柄な侍女の姿は、男に隠れて見えない。

 神官は一瞬、じっとその姿を見つめた。
 品位もなく、取るに足らない光景だと判断する。
「……ちっ」
 短く舌打ちすると、興味を失ったように踵を返す。
「くだらん。こんなところで騒ぐな」
 そう吐き捨て、神官は闇の中へと去っていった。


 
 足音が完全に遠ざかるまで、リヒトはそのままの姿勢を崩さなかった。
 イリアは必死でリヒトに縋りついていた。
 自分の心音がうるさい気がした。――それ以外、何も考えられていなかった。

 やがて、静寂が戻る。
 その時になってようやく、彼は深く息を吐いた。
「……申し訳ありませんでした」
 小さく呟き、腕を緩める。
 イリアはまだ、彼の上着の背を握りしめたままだった。
 胸の鼓動が、なかなか収まらない。
 聞いてしまった言葉の重さと、間一髪の緊張が、夜の冷気とともに、じわじわと身体に染み込んでいく。
 先程の声が、いつまでも耳から離れなかった。
 イリアは一拍置いてから、首を横に振った。
「いえ……適切な対処です。仕方ありません」
 それ以上、言葉が続かない。
 謝られる理由は理解しているし、責める気持ちもなかった。
 ただ、密着した体温の名残と、聞いてしまった会話の内容が、思考をうまくまとめさせてくれない。

 リヒトは庭園の奥――公爵と神官たちが立ち去った方向へ、鋭い視線を投げる。
 先ほどまでの酔いの仮面は完全に消え、官吏として、そして情報を扱う者の顔になっていた。
「……しかし、これは」
 独り言のように呟いてから、リヒトはイリアへと向き直る。
「イリアさん。君は、辺境伯殿に報告を」
「旦那様に……」
「ええ。もう、君たちは邸へ戻った方がいい」
 その声音に迷いはない。
 これは偶然聞いてしまった噂話ではなく、意図をもった動きだと、リヒトはすでに判断していた。
「では……リヒト様は?」
 問いかけると、リヒトはわずかに笑った。

 柔らかい、どこか影を含んだ笑みだった。
「……私は、私にできることを致します」
 それ以上は語らない。その表情が、これ以上踏み込むなと静かに告げていた。

 イリアは一瞬、呆然と立ち尽くす。
 王宮の庭園は変わらず美しく、夜風は穏やかで、少し前までのことが嘘のようだ。
 けれど、今は立ち止まっている場合ではない。
「……わかりました」
 短く答え、イリアは踵を返した。

 裾を持ち上げ、石畳を踏みしめて走り出す。
 胸の奥に残るざわめきと、不安と、そして責任感を抱えながら、彼女は再び光と喧騒の会場へと駆け戻っていった。
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