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離れても想いはめぐる蔦の章
49.渦巻く疑念
王宮からの呼び出しは、思ったよりも早かった。
薄曇りの空の下、馬車を降りると、石造りの回廊がひんやりとした空気を返してくる。
隣を歩くカイネとイリアの足取りは、いつもよりもわずかに硬い。
「こちらでお待ちください」
会議場の前で、衛兵がそう告げた。
同行者は入室できない、という意味だ。
私は振り返り、二人に小さく頷いた――つもりだったのだけれど。
「私は、奥様の護衛ですから」
イリアがきっぱりと言った。
言葉は柔らかいが、一歩も退く気配がない。その距離は、ほとんど肩が触れるほどだった。
「従者を連れることは認められてる筈です。この状況で奥様をお一人にするわけにはいきません」
カイネも当然のように隣に立つ。
衛兵が困ったように視線を泳がせる。
私は思わず、少しだけ口元を緩めてしまった。
「……二人の身元は私が保証いたします。よろしいですか」
そう尋ねると、衛兵は一瞬逡巡し、やがて頷いた。
会議場の扉が開く。
中は思っていたよりも広く、天井は高い。
円卓を囲むのは、王族、重臣、神殿関係者。
中央に空の玉座が。その左にサイラス殿下。限られた高位貴族と神官たち。アルベルト殿下はご不在だ。
視線が一斉にこちらへ向けられ、その重さに背筋が伸びる。
私は深く一礼した。
「ヴァルト辺境伯夫人、ルーチェ・ヴァルトでございます。辺境伯代理として参りました」
形式的な名乗りを終え、席に着く。
「兄上はお越しにならないようだ」
サイラス殿下がさらりと言い、進行を隣の公爵に委ねる。
「報告せよ」
私にそう命じたのは、シェリフォード公爵エドムンド――義父だ。
ずっと私を貶めてきた人。
今も思い出すだけで身が竦みそうになる。
けれど、私は親指に嵌めた魔銀の指輪をそっと撫でた。
――ルーチェ。
ダリウス様の声を思い出して……私は、深呼吸した。
会議の議題は明白だった。
辺境で発生した大型魔獣、討伐の進捗、そして魔晶石供給への影響。
「――以上が、現時点での状況です」
私は淡々と、事実だけを報告した。
ダリウス様が現地へ向かい、辺境騎士団を率いて被害拡大を抑えていること。
だが魔獣の性質が異常であり、長期化の恐れがあること。
魔獣は何故かルヴァリエ鉱山に執着しており、坑夫たちは鉱山に入れないまま、魔晶石の採掘をできずにいること――
ざわざわと波紋が広がる。
その中で、ふと視線を感じた。
末席、記録者としての席に座る――リヒト兄様。
一瞬、目が合う。
兄様は何も言わない。
ただ、わずかに眉を動かし、ペンを走らせている。
会議は、私の報告がひととおり終わったところで、静かに次の話題へ移った。
討伐そのものの進捗よりも、王宮の人々の関心は、その「事後処理」にあるらしい。
「もしも、ヴァルト辺境伯が討伐に失敗した場合ですが」
冷静な声で、取り決めが語られる。
王宮と神殿の軍勢を差し向け、数の力で魔獣を排除する。
そして――鉱山だけは確保する。
その場合の権利。
魔獣処理の功績に応じた管理権の所在。
誰が、どれだけ支払い、何を得るのか。
まるで、ダリウス様が失敗し、死ぬことが確定しているかのような物言いだ。
誰も「今、援軍を送ること」は提案しない。
ダリウス様が姿を消したところで、弱った魔獣へ軍勢を送り込み、鉱山を確保し――どのように切り分けるか、算段している。
続けられる議論を、私は正面から見据えた。
「……ヴァルト辺境伯家が有する権利は、いかなる非常事態においても変わりません。それに、夫は、必ず戻ります」
思っていたよりも、声ははっきりと響いた。
「ダリウス・ヴァルトは、魔獣を討伐し、無事に戻ってきます。ですから、事態収束後のことより、まずは今のことを検討して頂きたいのです。夫は援軍の派遣を求めております。せめて、物資と魔晶石の供出を……辺境伯代理として、強く望みます」
「代理。「厄災の烙印」持ちが?」
鼻で笑う――義父の声。
「そもそもこの事態。愚かにも魔晶石の権利を独占した辺境伯領に、正当なかたちで「厄災」が――神罰が降ったということではないのか。我が娘のリリアーナが心配し、優しく憂いていた通りの結果だ。そうは思わないのか」
「……」
「ヴァルト辺境伯家がすべきは要求ではなく謝罪だろう。……なあ、ルーチェ」
議場が一斉に私に目を向ける。
――私がどう反応するのか、試されている。
義父の言葉は明らかに僭越で、辺境伯代理たる私を軽んじている。
それにあの、声。
かつて、幼い私を痛めつけた声。
――お前のせいだ、お前がいるだけで不幸が降る、と。
私が泣いて平伏して謝るまで何度も何度も、責め続けて罰を与えた声。
「……」
息を吸う。
そして私は、義父を見て微笑んだ。
――北の辺境で戦うダリウス様のために。
――私がここで、負けてはいけない。
「ご忠告ありがとう、シェリフォード公爵」
同じように、敬意を捨てて返答し。
「……たとえそうであっても、私の立場が変わることはありません。この場で申し上げたいことは、謝罪などではなく、私たちの領の変わらぬ権利と支援の要望に尽きています」
義父を真正面から見据える。
すると、何か言おうとした義父は、極めて不愉快そうに目を逸らした。
視線が集まり、何人かが不快そうに眉を寄せたが、私は退かなかった。
ここで揺らげば、すべてが「もしも」の名の下に切り捨てられてしまう。
「失敬。王宮内府監査官、リヒトにございます」
そこへリヒト兄様が、発言を求める。
まるで私への注目を断ち切るように。
「このように、今すぐに辺境へ援軍を送るという案がありうると思いますが。その点について議論されていないようにお見受けします」
ざわめきが起こる。
公爵家の顔色を窺う貴族が、「官吏風情が口を挟んで、差し出がましい」と聞こえよがしに言っている。
兄様は、すらりと視線を向けた。
まるで剣を突きつけられたように、その貴族が黙る。
「差し出がましい、ですか」
静かな声だった。
「それはつまり、陛下の命を受けた王宮内府監査官たる私が、災害支援と国庫の金の使途にかかわる意思決定の著しい遅滞について、確認する立場にないというご認識でしょうか」
空気が、ぴんと張りつめる。
(兄様……?)
はっきりと、嫌味と分かる物言い。
私へ向いた注目を逸らして自分にひきつけ――兄様は殊更に、小馬鹿にしたように貴族たちを見ていた。
兄様の並べた正論に、誰も即座に答えられない。
答えれば、それ自体が「問題」になるから。
「ヴァルト辺境伯殿からの報告によれば、北方辺境の魔獣被害はすでに第三段階に入りつつあります。すなわち、一領内の問題を超えている。民間人の避難、領内主産業の稼働停止、交易の不活性化。――いずれも、国益に直結する損失です。にもかかわらず、討伐に関する追加動員案は「検討中」のまま据え置かれ、代わりに神殿への寄付金が増額されている。これは如何なることかと、疑念を持つのも許されぬということでしょうか」
兄様は淡々と、帳面を一枚めくった。
神殿側の席から、わずかに衣擦れの音がした。
「神殿は施しを行っております」
高位神官が、柔らかな声で言う。
「魔獣の討伐に向けた祈祷の会を開き、祈りを捧げているのです」
それは見せるための慈善だ。
本当に、今、魔獣に脅かされている土地が立ち直れるはずがない。
「もちろん、信仰は国の礎です。否定するつもりはありません」
兄様はそう前置きしてから――皮肉っぽく唇の端で笑う。
「ですが、不思議ですね。安寧を祈るための金は即座に集まり運用されているのに、実際的に人や物資を送るための金は「時期尚早」とされる。魔獣が祈りで退くのなら、ヴァルト辺境伯殿はとっくに討伐を終わらせてこの場に帰ってきているものと思いますが」
「――リヒト卿。そこまでにしてもらおうか」
サイラス殿下だった。
穏やかな微笑を浮かべたまま、しかし視線は冷たい。
「君の問題提起はありがたく受け止めよう。しかし、民心が不安に揺らいでいる時に、拙速な軍事行動は混乱と無駄を招くだけだ。神殿とも協議の上、慎重に進めている。実務に携わる君には多大なる苦労と心配をかけているのだろうが、そう理解してほしい」
周囲が、ほっとしたように頷く。
――責任から解放された顔。
同意する声が続いた。
「サイラス殿下のおっしゃる通りですな」
「若く有能な官吏殿は、執務室で書類をお読みになるだけで現場の血の重さを知らぬ」
「軍を動かすということは、それだけで莫大な損失を伴うものだ」
兄様の瞳が、わずかに細まる。
「……そうですか。しかし私は、今のご発言も含めて議事録に残しましょう。事がおさまった時、判断の是非を問うために」
(兄様……)
胸が、ざわつく。
今の発言で、公爵家と神殿、そしてサイラス殿下に、兄様が睨まれてしまう――
その言葉があまりに正鵠を射ているために、却って心配になってしまう。
それでも兄様は、振り返らなかった。
まるで、最初からそうなると知っていたかのように。
その時――
重々しい扉が、慌てた様子で開く音がした。
「遅れてすまない!」
皆がそちらを見やり、すぐに気づいた。
第一王子殿下――アルベルト殿下だ。
息を切らして、肩が強張っている。
ふわふわとした金髪が乱れ、黄金の瞳は焦りの色を浮かべていた。
辺りを見回し、諦めたようにへにゃりと笑う。
「やはり、今日の議場は、こちらだったんだね」
(……もしや、殿下は別の会場に案内されていたのでは)
私が見回すと、何人かの貴族が隠しもせず、クスクスと笑っていた。
「仮にも陛下の代理たる王子殿下の一人が遅刻とは」
「アルベルト殿下は相変わらず、時計も見ずに優雅な生活をしていらっしゃる」
しかし、アルベルト殿下は事情を説明しようとする気配すらない。
周囲を見回すと、取り繕うように頭を掻いた。
「……遅れてしまうなんて、恥ずかしいね……僕は、もう少しきちんと予定を確認するようにしないと」
それだけ言って、少ない従者を連れて席に向かう。
空気が、ひそやかに揺れた。
兄様がちらとアルベルト殿下を見て――表情を変えずに、ペンを動かした。
けれど、アルベルト殿下は議場を見回し、小さく首をかしげた。
「それで辺境の件はどうなっているのだろう。魔獣が鉱山を押さえてしまっているのなら、援軍の準備だろうか」
その声音は、責めるでも、疑うでもなく、ただ素朴だった。
本当にそう思っている、という顔。
誰かが、堪えきれないといった様子で噴き出す。
それを合図にしたように、あちこちで追従する失笑がこぼれる。
「兄上……そのお話は、今しがた終わったところですよ」
柔らかく、しかし含みのある声。
サイラス殿下だ。
「慎重を期すべきだ、という結論に落ち着きました。拙速な派兵は、かえって国を危うくする、と」
周囲の貴族たちが、同意するようにうなずく。
まるで、最初から決まっていたかのように。
「そうだとも」
「魔獣討伐に慣れたヴァルト辺境伯に任せて様子を見るのが賢明だ」
「国王陛下のご容体も思わしくない今、混乱は避けねば」
言葉が重なり、殿下の発言は簡単に飲み込まれていく。
アルベルト殿下は、少しだけ目を瞬かせた。
「……で、でも。ヴァルト辺境伯の働きには報いねば……それに、辺境の民は、今とても不安だろうし……十一年前にも、魔獣被害に十分な支援をできなかったせいで、北の辺境には大変な被害が出たじゃないか」
言葉を探すように口を閉ざす。
殿下は、正しい。
ただ、あまりにも――この場では、弱かった。
「アルベルト殿下はお優しいですな」
「民の不安にひとつひとつ応えていては、国は倒れてしまいますよ」
「ヴァルト辺境伯はあの時も、一人でなんとかしていました。此度も大丈夫です」
口々に、否定しながらアルベルト殿下を睨み、嗤う声。
結局、アルベルト殿下は言葉を止めた。
へら、と頼りなく不器用に笑って。
「……すまない。遅刻しておいて、口を出す立場では、なかったね……」
(どうしよう。このままでは、援軍の派遣などという話にはなりえない)
(サイラス殿下と公爵家、神殿にまで押さえられてしまえば、他の貴族では太刀打ちできない)
(唯一、地位の面で張り合えるのは、アルベルト殿下と、ご欠席の国王陛下だけ)
(せめて国王陛下がご出席でいらっしゃれば……!)
「……!」
ふと――
ざわめきが、質を変えた。
扉の向こうから、慌ただしい足音が近づいてくる。控えめであるべき宮廷の歩調とは、明らかに違う。
会議場の外で、何かが起きている。
扉の向こうから、慌ただしい足音が近づいてくる。控えめであるべき宮廷の歩調とは、明らかに違う。
何かが起きている。
扉が開いた。
息を切らした侍従が、深く頭を下げる。その顔色が、あまりにも悪い。
「――国王陛下が」
一瞬、言葉が途切れた。
その間に、嫌な予感が、胸の奥で形を成す。
「国王陛下が、ただいま……崩御なされました!」
世界が、音を失った。
遅れて波のように広がる動揺。椅子が軋み、誰かが息を呑み、誰かが名を呼ぶ。
誰もが理解している。
これは、ただの訃報ではない。
王位が次の者へ渡されるのだ。
私は、無意識のうちに、胸元に手を当てていた。
ダリウス様は、辺境にいる。
魔獣は、まだ生きている。
そして――この国は、今、確実に岐路に立たされている。
ざわめきは、もはや止まらなかった。
薄曇りの空の下、馬車を降りると、石造りの回廊がひんやりとした空気を返してくる。
隣を歩くカイネとイリアの足取りは、いつもよりもわずかに硬い。
「こちらでお待ちください」
会議場の前で、衛兵がそう告げた。
同行者は入室できない、という意味だ。
私は振り返り、二人に小さく頷いた――つもりだったのだけれど。
「私は、奥様の護衛ですから」
イリアがきっぱりと言った。
言葉は柔らかいが、一歩も退く気配がない。その距離は、ほとんど肩が触れるほどだった。
「従者を連れることは認められてる筈です。この状況で奥様をお一人にするわけにはいきません」
カイネも当然のように隣に立つ。
衛兵が困ったように視線を泳がせる。
私は思わず、少しだけ口元を緩めてしまった。
「……二人の身元は私が保証いたします。よろしいですか」
そう尋ねると、衛兵は一瞬逡巡し、やがて頷いた。
会議場の扉が開く。
中は思っていたよりも広く、天井は高い。
円卓を囲むのは、王族、重臣、神殿関係者。
中央に空の玉座が。その左にサイラス殿下。限られた高位貴族と神官たち。アルベルト殿下はご不在だ。
視線が一斉にこちらへ向けられ、その重さに背筋が伸びる。
私は深く一礼した。
「ヴァルト辺境伯夫人、ルーチェ・ヴァルトでございます。辺境伯代理として参りました」
形式的な名乗りを終え、席に着く。
「兄上はお越しにならないようだ」
サイラス殿下がさらりと言い、進行を隣の公爵に委ねる。
「報告せよ」
私にそう命じたのは、シェリフォード公爵エドムンド――義父だ。
ずっと私を貶めてきた人。
今も思い出すだけで身が竦みそうになる。
けれど、私は親指に嵌めた魔銀の指輪をそっと撫でた。
――ルーチェ。
ダリウス様の声を思い出して……私は、深呼吸した。
会議の議題は明白だった。
辺境で発生した大型魔獣、討伐の進捗、そして魔晶石供給への影響。
「――以上が、現時点での状況です」
私は淡々と、事実だけを報告した。
ダリウス様が現地へ向かい、辺境騎士団を率いて被害拡大を抑えていること。
だが魔獣の性質が異常であり、長期化の恐れがあること。
魔獣は何故かルヴァリエ鉱山に執着しており、坑夫たちは鉱山に入れないまま、魔晶石の採掘をできずにいること――
ざわざわと波紋が広がる。
その中で、ふと視線を感じた。
末席、記録者としての席に座る――リヒト兄様。
一瞬、目が合う。
兄様は何も言わない。
ただ、わずかに眉を動かし、ペンを走らせている。
会議は、私の報告がひととおり終わったところで、静かに次の話題へ移った。
討伐そのものの進捗よりも、王宮の人々の関心は、その「事後処理」にあるらしい。
「もしも、ヴァルト辺境伯が討伐に失敗した場合ですが」
冷静な声で、取り決めが語られる。
王宮と神殿の軍勢を差し向け、数の力で魔獣を排除する。
そして――鉱山だけは確保する。
その場合の権利。
魔獣処理の功績に応じた管理権の所在。
誰が、どれだけ支払い、何を得るのか。
まるで、ダリウス様が失敗し、死ぬことが確定しているかのような物言いだ。
誰も「今、援軍を送ること」は提案しない。
ダリウス様が姿を消したところで、弱った魔獣へ軍勢を送り込み、鉱山を確保し――どのように切り分けるか、算段している。
続けられる議論を、私は正面から見据えた。
「……ヴァルト辺境伯家が有する権利は、いかなる非常事態においても変わりません。それに、夫は、必ず戻ります」
思っていたよりも、声ははっきりと響いた。
「ダリウス・ヴァルトは、魔獣を討伐し、無事に戻ってきます。ですから、事態収束後のことより、まずは今のことを検討して頂きたいのです。夫は援軍の派遣を求めております。せめて、物資と魔晶石の供出を……辺境伯代理として、強く望みます」
「代理。「厄災の烙印」持ちが?」
鼻で笑う――義父の声。
「そもそもこの事態。愚かにも魔晶石の権利を独占した辺境伯領に、正当なかたちで「厄災」が――神罰が降ったということではないのか。我が娘のリリアーナが心配し、優しく憂いていた通りの結果だ。そうは思わないのか」
「……」
「ヴァルト辺境伯家がすべきは要求ではなく謝罪だろう。……なあ、ルーチェ」
議場が一斉に私に目を向ける。
――私がどう反応するのか、試されている。
義父の言葉は明らかに僭越で、辺境伯代理たる私を軽んじている。
それにあの、声。
かつて、幼い私を痛めつけた声。
――お前のせいだ、お前がいるだけで不幸が降る、と。
私が泣いて平伏して謝るまで何度も何度も、責め続けて罰を与えた声。
「……」
息を吸う。
そして私は、義父を見て微笑んだ。
――北の辺境で戦うダリウス様のために。
――私がここで、負けてはいけない。
「ご忠告ありがとう、シェリフォード公爵」
同じように、敬意を捨てて返答し。
「……たとえそうであっても、私の立場が変わることはありません。この場で申し上げたいことは、謝罪などではなく、私たちの領の変わらぬ権利と支援の要望に尽きています」
義父を真正面から見据える。
すると、何か言おうとした義父は、極めて不愉快そうに目を逸らした。
視線が集まり、何人かが不快そうに眉を寄せたが、私は退かなかった。
ここで揺らげば、すべてが「もしも」の名の下に切り捨てられてしまう。
「失敬。王宮内府監査官、リヒトにございます」
そこへリヒト兄様が、発言を求める。
まるで私への注目を断ち切るように。
「このように、今すぐに辺境へ援軍を送るという案がありうると思いますが。その点について議論されていないようにお見受けします」
ざわめきが起こる。
公爵家の顔色を窺う貴族が、「官吏風情が口を挟んで、差し出がましい」と聞こえよがしに言っている。
兄様は、すらりと視線を向けた。
まるで剣を突きつけられたように、その貴族が黙る。
「差し出がましい、ですか」
静かな声だった。
「それはつまり、陛下の命を受けた王宮内府監査官たる私が、災害支援と国庫の金の使途にかかわる意思決定の著しい遅滞について、確認する立場にないというご認識でしょうか」
空気が、ぴんと張りつめる。
(兄様……?)
はっきりと、嫌味と分かる物言い。
私へ向いた注目を逸らして自分にひきつけ――兄様は殊更に、小馬鹿にしたように貴族たちを見ていた。
兄様の並べた正論に、誰も即座に答えられない。
答えれば、それ自体が「問題」になるから。
「ヴァルト辺境伯殿からの報告によれば、北方辺境の魔獣被害はすでに第三段階に入りつつあります。すなわち、一領内の問題を超えている。民間人の避難、領内主産業の稼働停止、交易の不活性化。――いずれも、国益に直結する損失です。にもかかわらず、討伐に関する追加動員案は「検討中」のまま据え置かれ、代わりに神殿への寄付金が増額されている。これは如何なることかと、疑念を持つのも許されぬということでしょうか」
兄様は淡々と、帳面を一枚めくった。
神殿側の席から、わずかに衣擦れの音がした。
「神殿は施しを行っております」
高位神官が、柔らかな声で言う。
「魔獣の討伐に向けた祈祷の会を開き、祈りを捧げているのです」
それは見せるための慈善だ。
本当に、今、魔獣に脅かされている土地が立ち直れるはずがない。
「もちろん、信仰は国の礎です。否定するつもりはありません」
兄様はそう前置きしてから――皮肉っぽく唇の端で笑う。
「ですが、不思議ですね。安寧を祈るための金は即座に集まり運用されているのに、実際的に人や物資を送るための金は「時期尚早」とされる。魔獣が祈りで退くのなら、ヴァルト辺境伯殿はとっくに討伐を終わらせてこの場に帰ってきているものと思いますが」
「――リヒト卿。そこまでにしてもらおうか」
サイラス殿下だった。
穏やかな微笑を浮かべたまま、しかし視線は冷たい。
「君の問題提起はありがたく受け止めよう。しかし、民心が不安に揺らいでいる時に、拙速な軍事行動は混乱と無駄を招くだけだ。神殿とも協議の上、慎重に進めている。実務に携わる君には多大なる苦労と心配をかけているのだろうが、そう理解してほしい」
周囲が、ほっとしたように頷く。
――責任から解放された顔。
同意する声が続いた。
「サイラス殿下のおっしゃる通りですな」
「若く有能な官吏殿は、執務室で書類をお読みになるだけで現場の血の重さを知らぬ」
「軍を動かすということは、それだけで莫大な損失を伴うものだ」
兄様の瞳が、わずかに細まる。
「……そうですか。しかし私は、今のご発言も含めて議事録に残しましょう。事がおさまった時、判断の是非を問うために」
(兄様……)
胸が、ざわつく。
今の発言で、公爵家と神殿、そしてサイラス殿下に、兄様が睨まれてしまう――
その言葉があまりに正鵠を射ているために、却って心配になってしまう。
それでも兄様は、振り返らなかった。
まるで、最初からそうなると知っていたかのように。
その時――
重々しい扉が、慌てた様子で開く音がした。
「遅れてすまない!」
皆がそちらを見やり、すぐに気づいた。
第一王子殿下――アルベルト殿下だ。
息を切らして、肩が強張っている。
ふわふわとした金髪が乱れ、黄金の瞳は焦りの色を浮かべていた。
辺りを見回し、諦めたようにへにゃりと笑う。
「やはり、今日の議場は、こちらだったんだね」
(……もしや、殿下は別の会場に案内されていたのでは)
私が見回すと、何人かの貴族が隠しもせず、クスクスと笑っていた。
「仮にも陛下の代理たる王子殿下の一人が遅刻とは」
「アルベルト殿下は相変わらず、時計も見ずに優雅な生活をしていらっしゃる」
しかし、アルベルト殿下は事情を説明しようとする気配すらない。
周囲を見回すと、取り繕うように頭を掻いた。
「……遅れてしまうなんて、恥ずかしいね……僕は、もう少しきちんと予定を確認するようにしないと」
それだけ言って、少ない従者を連れて席に向かう。
空気が、ひそやかに揺れた。
兄様がちらとアルベルト殿下を見て――表情を変えずに、ペンを動かした。
けれど、アルベルト殿下は議場を見回し、小さく首をかしげた。
「それで辺境の件はどうなっているのだろう。魔獣が鉱山を押さえてしまっているのなら、援軍の準備だろうか」
その声音は、責めるでも、疑うでもなく、ただ素朴だった。
本当にそう思っている、という顔。
誰かが、堪えきれないといった様子で噴き出す。
それを合図にしたように、あちこちで追従する失笑がこぼれる。
「兄上……そのお話は、今しがた終わったところですよ」
柔らかく、しかし含みのある声。
サイラス殿下だ。
「慎重を期すべきだ、という結論に落ち着きました。拙速な派兵は、かえって国を危うくする、と」
周囲の貴族たちが、同意するようにうなずく。
まるで、最初から決まっていたかのように。
「そうだとも」
「魔獣討伐に慣れたヴァルト辺境伯に任せて様子を見るのが賢明だ」
「国王陛下のご容体も思わしくない今、混乱は避けねば」
言葉が重なり、殿下の発言は簡単に飲み込まれていく。
アルベルト殿下は、少しだけ目を瞬かせた。
「……で、でも。ヴァルト辺境伯の働きには報いねば……それに、辺境の民は、今とても不安だろうし……十一年前にも、魔獣被害に十分な支援をできなかったせいで、北の辺境には大変な被害が出たじゃないか」
言葉を探すように口を閉ざす。
殿下は、正しい。
ただ、あまりにも――この場では、弱かった。
「アルベルト殿下はお優しいですな」
「民の不安にひとつひとつ応えていては、国は倒れてしまいますよ」
「ヴァルト辺境伯はあの時も、一人でなんとかしていました。此度も大丈夫です」
口々に、否定しながらアルベルト殿下を睨み、嗤う声。
結局、アルベルト殿下は言葉を止めた。
へら、と頼りなく不器用に笑って。
「……すまない。遅刻しておいて、口を出す立場では、なかったね……」
(どうしよう。このままでは、援軍の派遣などという話にはなりえない)
(サイラス殿下と公爵家、神殿にまで押さえられてしまえば、他の貴族では太刀打ちできない)
(唯一、地位の面で張り合えるのは、アルベルト殿下と、ご欠席の国王陛下だけ)
(せめて国王陛下がご出席でいらっしゃれば……!)
「……!」
ふと――
ざわめきが、質を変えた。
扉の向こうから、慌ただしい足音が近づいてくる。控えめであるべき宮廷の歩調とは、明らかに違う。
会議場の外で、何かが起きている。
扉の向こうから、慌ただしい足音が近づいてくる。控えめであるべき宮廷の歩調とは、明らかに違う。
何かが起きている。
扉が開いた。
息を切らした侍従が、深く頭を下げる。その顔色が、あまりにも悪い。
「――国王陛下が」
一瞬、言葉が途切れた。
その間に、嫌な予感が、胸の奥で形を成す。
「国王陛下が、ただいま……崩御なされました!」
世界が、音を失った。
遅れて波のように広がる動揺。椅子が軋み、誰かが息を呑み、誰かが名を呼ぶ。
誰もが理解している。
これは、ただの訃報ではない。
王位が次の者へ渡されるのだ。
私は、無意識のうちに、胸元に手を当てていた。
ダリウス様は、辺境にいる。
魔獣は、まだ生きている。
そして――この国は、今、確実に岐路に立たされている。
ざわめきは、もはや止まらなかった。
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