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24話:未来の代償
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正気か、この若造。
俺は目の前で起きたことが信じられなかった。
外交の常識では、ありえない展開だ。
相手を動かすには、利害を提示し、妥協点を探り、言葉で説得する。それが交渉というものだ。
だが、殿下がやったのは真逆だった。
言葉ではなく、「軍」を見せた。アラリックに演説させ、兵に盾を打ち鳴らさせた。
そして、ベリサリウスは動いた。
老将軍は、殿下の言葉ではなく、アラリックの咆哮と、兵たちの魂の音に心を動かされたのだ。
武人には、武人の言葉がある。
それを殿下は、最初から読んでいた。
「……やれやれ」
俺は肩をすくめた。
元外交官の面目丸潰れだ。だが、悪い気はしない。
この若造、底が知れない。
◇◇◇
だが、感心している場合ではなかった。
カストルの銀の鐘が鳴った瞬間、状況は一変した。
練兵場を囲んでいた帝国兵の一部が、人形のような動きで武器を構え直している。
白濁した瞳。皮膚の下で蠢く黒い蔓。
北で見た、あの変異体と同じだ。
「……大将軍、貴殿もついに老いさらばえたか。反乱軍に加担するとは」
カストルの声が、雨音を越えて冷酷に響いた。
「第一皇子殿下が到着されるまで、この場を『検疫』の名目で完全封鎖する。誰一人として逃がすな」
検疫。
便利な言葉だ。この練兵場を「汚染域」として孤立させ、俺たちを皆殺しにしても、帝国の法に則った「防疫措置」で済む。
カストルの唇が、爬虫類のように冷たく歪んだ。
「……新王よ、貴殿が連れてきたその呪い、ここでどれだけ抑え込めるか見物ですな」
カストルは黒塗りの馬車に乗り込み、悠然と去っていった。
代わりに、練兵場の周囲を、黒い蔓に侵食された「半・変異体」の帝国兵たちが、隙間なく包囲し始めた。
その数、百を優に超える。
「陛下、マズいですよ」
俺は殿下の肩を支え、焦燥を滲ませて囁いた。
「カストルの奴、わざとこの練兵場を『汚染域』として孤立させました」
俺の声が、低くなった。
「ここで我らが暴れれば、『呪いを撒き散らす王』として帝国中の敵に回される。だが、動かなければ、あの黒い蔓の餌食になる。詰みだ」
◇◇◇
その時、仮面の錬金術師メフィストが、サンプルの入った硝子筒を高く掲げた。
その声には、場違いなほどの興奮が滲んでいた。
「陛下! サンプルが、宮殿の合唱に反応して活性化しています!」
メフィストは筒を振った。中の黒い蔓が、ガラスを叩き割らんばかりに激しく暴れている。
「このままだと、あと数刻でこの練兵場全体の地面から、あの『黒い塔』が突き出してくるでしょう! ここは苗床になります!」
殿下の顔が苦痛に歪んだ。
右腕を押さえる手が、白くなるほど握りしめられている。
「メフィスト!」
「はい!」
「この右腕の呪いを無効化、もしくは和らげる方法はあるか! 今すぐにだ!」
◇◇◇
仮面の錬金術師は、鳥の嘴のような仮面をガタガタと震わせた。
狂気と歓喜の入り混じった甲高い笑い声が漏れる。
「クケケケッ! さすがは陛下、話が早い!」
メフィストは雨に濡れるのも構わず泥の上に膝をつき、懐から数本の小瓶と、不気味な青い液体が詰まった注射器のような太い器具を取り出した。
「無効化? いえいえ、そんな勿体ないことは致しませんよ」
メフィストは、素早く調合を始めながら早口で説明した。
「陛下、その右腕は今、帝都の地下にある『心臓』と共鳴し、巨大なアンテナと化しています。痛むのは、陛下の精神が地獄の歌を受け入れまいと必死に抗っているからです」
メフィストは青い液体に、変異体から抽出した黒い粘液を混ぜた。
液体が不気味に泡立つ。
「ですが、『沈静化』……あるいは、この不快な合唱を一時的に遮断する『毒』なら、今この場で作れます!」
メフィストは注射器を掲げた。
その中身は、毒々しい紫色に変色していた。
「名付けて『鴉の沈黙』」
メフィストの声が、低く潜めた。
「効果は二つ。一つ、激痛を麻痺させ、右腕の侵食を一時的に停止させます。二つ、宮殿からの『合唱』という名の精神干渉を遮断し、陛下が『自分自身』を保てるようにします」
メフィストは、一拍置いた。
「ただし、代償も二つ」
その声には、医師としての冷徹な警告が滲んでいた。
「一つ、右腕の感覚が完全に失われ、当面は動かすこともできなくなります」
メフィストは仮面の奥のぎらついた目で、殿下を見上げた。
「二つ、この薬は『猛毒』です。効果が切れた後、侵食は以前よりも激しく、速く、陛下を蝕むでしょう。命を削ります」
メフィストは注射器を構えた。針先から紫の滴が落ちる。
「いわば、未来の命を前借りする博打です」
◇◇◇
俺は殿下の横顔を見た。
蒼白な顔。脂汗。だが、その目には迷いがなかった。
この若造は、最初から腹を括っている。
俺が帳簿の「毒」を読み解いている間も、アラリックが兵を鼓舞している間も、ずっとこの瞬間を覚悟していたのだ。
「……陛下」
俺は低く呼びかけた。
「本気ですか」
「本気だ」
殿下は即答した。
「メフィスト! 毒を頼む! 未来ごときくれてやる!」
メフィストの仮面が、歓喜に震えた。
◇◇◇
殿下は、迷いを断ち切るようにヴォルカスに視線を向けた。
「ヴォルカス!」
「……何だ」
ヴォルカスの声が、掠れていた。
俺は、その横顔を見た。
帝国の将として、ここにいることの意味を噛み締めているのだろう。
門前で殿下に従った時点で、彼の運命は決まっていた。
だが、頭で理解することと、心で受け入れることは別だ。
ヴォルカスの拳が、手綱を握りしめて白くなっている。
帝国への忠誠。将としての誇り。部下たちへの責任。
そして、北の地獄で見た真実。
すべてが、彼の中でせめぎ合っている。
殿下は、その迷いを見透かしたように、静かに言った。
「もうお前は俺の部下だ」
ヴォルカスの目が、大きく見開かれた。
それは命令であり、同時に宣言だった。
『これ以上、孤独な裏切り者にはさせない』という。
「練兵場をまとめあげろ! お前らも公国へ帰還するぞ! ここにはもう、守るべき帝国はない!」
真っ向からの宣戦布告。
皇帝の精鋭部隊を丸ごと「盗む」という、狂気じみた宣言。
だが、この状況では、それが唯一の光だった。
ヴォルカスは動かなかった。
長い、長い沈黙。
俺は息を詰めた。
ここで彼が拒否すれば、練兵場の老兵たちも動揺する。すべてが瓦解する。
だが。
ヴォルカスの肩が、小さく震えた。
それは怒りではなかった。
彼は兜の中で深く息を吸い込み、そして——顔を上げた。
その目には、もう迷いはなかった。
「……御意」
低く、しかし腹の底から絞り出すような声。
「腐った肥溜めで溺れ死ぬよりは、公国の泥にまみれる方がマシだ」
面を荒々しく下げ、裂帛の気合いで叫ぶ。
「練兵場の諸君、聞け! 本日をもって我らはレムリア公王の盾となる! 全員、新王の後に続けッ! 活路を開くぞ!」
ドォンッ!!
五百の老兵たちが盾を打ち鳴らし、応えた。
裏切りではない。「誇り高き武人たちの大移動」だ。
◇◇◇
殿下が、俺を見た。
「カイル」
「……何だ」
「また例の力で一刻を稼ぐ」
声を低く潜める。
「効果が切れた後、私の右腕を切り捨てろ」
俺は息を呑んだ。
切り捨てろ、だと。
主君の腕を。この俺の手で。
一瞬、頭が真っ白になった。
だが、殿下の目を見て、理解した。
これは相談ではない。命令だ。
そして、殿下は最初からこれを覚悟していた。
帳簿の「毒」を抱えて帝都に乗り込んだ時から。いや、北の地獄で右腕に呪いを受け入れた時から。
この若造は、自分の体を「駒」として使い潰す気でいる。
未来も、腕も、命すらも。
……ああ、畜生。
俺は、とんでもない主君に仕えちまったらしい。
「見極めは前の要領で行え。躊躇うな」
殿下の目が、俺を真っ直ぐに射抜いた。
「……承知した」
俺は短く答えた。
それ以上の言葉は、喉につかえて出てこなかった。
「全員、異論は許さん!」
雷鳴のように響く声。
「行くぞ!」
◇◇◇
「ケケケッ! 仰せの通りに……死の淵を歩む王よ!」
メフィストが右腕に近づく。
黒い蔓が最も激しく脈打つ「根」。右肩の付け根。
太い注射針を迷いなく突き立てた。
瞬間。
殿下の体が、ビクンと跳ねた。
「……ッ」
凍てつく冷気が血管を駆け抜けているのだろう。
殿下の顔から、苦痛の色が消えていく。代わりに、感情が凍りついたような無表情が浮かんだ。
右腕から一切の感覚が消えたのだ。
ただの「呪いの塊」をぶら下げている状態。
だが、殿下の目は明瞭だった。
左手で「公国全権委任の宝印」を握りしめ、感覚の消えた右腕を掲げる。
「——道を開けろ」
静かに響く声。
「我らは帰るべき場所へ帰る!」
キィィィィン……!
宝印が共鳴し、鋭く冷たい蒼い光を放った。
一点集中の「光の槍」。
ドォォォン!!
変異体たちが閃光に焼かれ、一瞬で塵へと還った。
「今だ! 全軍、突破ァッ!!」
アラリックの咆哮。
俺は殿下の馬の手綱を取り、駆け出した。
鋼の楔が、帝都の路地を風のように駆け抜けていく。
背後で、宮殿の方角から巨大な地響きが聞こえた。
振り返る余裕はない。
ただ、前へ。
帰るべき場所へ。
俺は目の前で起きたことが信じられなかった。
外交の常識では、ありえない展開だ。
相手を動かすには、利害を提示し、妥協点を探り、言葉で説得する。それが交渉というものだ。
だが、殿下がやったのは真逆だった。
言葉ではなく、「軍」を見せた。アラリックに演説させ、兵に盾を打ち鳴らさせた。
そして、ベリサリウスは動いた。
老将軍は、殿下の言葉ではなく、アラリックの咆哮と、兵たちの魂の音に心を動かされたのだ。
武人には、武人の言葉がある。
それを殿下は、最初から読んでいた。
「……やれやれ」
俺は肩をすくめた。
元外交官の面目丸潰れだ。だが、悪い気はしない。
この若造、底が知れない。
◇◇◇
だが、感心している場合ではなかった。
カストルの銀の鐘が鳴った瞬間、状況は一変した。
練兵場を囲んでいた帝国兵の一部が、人形のような動きで武器を構え直している。
白濁した瞳。皮膚の下で蠢く黒い蔓。
北で見た、あの変異体と同じだ。
「……大将軍、貴殿もついに老いさらばえたか。反乱軍に加担するとは」
カストルの声が、雨音を越えて冷酷に響いた。
「第一皇子殿下が到着されるまで、この場を『検疫』の名目で完全封鎖する。誰一人として逃がすな」
検疫。
便利な言葉だ。この練兵場を「汚染域」として孤立させ、俺たちを皆殺しにしても、帝国の法に則った「防疫措置」で済む。
カストルの唇が、爬虫類のように冷たく歪んだ。
「……新王よ、貴殿が連れてきたその呪い、ここでどれだけ抑え込めるか見物ですな」
カストルは黒塗りの馬車に乗り込み、悠然と去っていった。
代わりに、練兵場の周囲を、黒い蔓に侵食された「半・変異体」の帝国兵たちが、隙間なく包囲し始めた。
その数、百を優に超える。
「陛下、マズいですよ」
俺は殿下の肩を支え、焦燥を滲ませて囁いた。
「カストルの奴、わざとこの練兵場を『汚染域』として孤立させました」
俺の声が、低くなった。
「ここで我らが暴れれば、『呪いを撒き散らす王』として帝国中の敵に回される。だが、動かなければ、あの黒い蔓の餌食になる。詰みだ」
◇◇◇
その時、仮面の錬金術師メフィストが、サンプルの入った硝子筒を高く掲げた。
その声には、場違いなほどの興奮が滲んでいた。
「陛下! サンプルが、宮殿の合唱に反応して活性化しています!」
メフィストは筒を振った。中の黒い蔓が、ガラスを叩き割らんばかりに激しく暴れている。
「このままだと、あと数刻でこの練兵場全体の地面から、あの『黒い塔』が突き出してくるでしょう! ここは苗床になります!」
殿下の顔が苦痛に歪んだ。
右腕を押さえる手が、白くなるほど握りしめられている。
「メフィスト!」
「はい!」
「この右腕の呪いを無効化、もしくは和らげる方法はあるか! 今すぐにだ!」
◇◇◇
仮面の錬金術師は、鳥の嘴のような仮面をガタガタと震わせた。
狂気と歓喜の入り混じった甲高い笑い声が漏れる。
「クケケケッ! さすがは陛下、話が早い!」
メフィストは雨に濡れるのも構わず泥の上に膝をつき、懐から数本の小瓶と、不気味な青い液体が詰まった注射器のような太い器具を取り出した。
「無効化? いえいえ、そんな勿体ないことは致しませんよ」
メフィストは、素早く調合を始めながら早口で説明した。
「陛下、その右腕は今、帝都の地下にある『心臓』と共鳴し、巨大なアンテナと化しています。痛むのは、陛下の精神が地獄の歌を受け入れまいと必死に抗っているからです」
メフィストは青い液体に、変異体から抽出した黒い粘液を混ぜた。
液体が不気味に泡立つ。
「ですが、『沈静化』……あるいは、この不快な合唱を一時的に遮断する『毒』なら、今この場で作れます!」
メフィストは注射器を掲げた。
その中身は、毒々しい紫色に変色していた。
「名付けて『鴉の沈黙』」
メフィストの声が、低く潜めた。
「効果は二つ。一つ、激痛を麻痺させ、右腕の侵食を一時的に停止させます。二つ、宮殿からの『合唱』という名の精神干渉を遮断し、陛下が『自分自身』を保てるようにします」
メフィストは、一拍置いた。
「ただし、代償も二つ」
その声には、医師としての冷徹な警告が滲んでいた。
「一つ、右腕の感覚が完全に失われ、当面は動かすこともできなくなります」
メフィストは仮面の奥のぎらついた目で、殿下を見上げた。
「二つ、この薬は『猛毒』です。効果が切れた後、侵食は以前よりも激しく、速く、陛下を蝕むでしょう。命を削ります」
メフィストは注射器を構えた。針先から紫の滴が落ちる。
「いわば、未来の命を前借りする博打です」
◇◇◇
俺は殿下の横顔を見た。
蒼白な顔。脂汗。だが、その目には迷いがなかった。
この若造は、最初から腹を括っている。
俺が帳簿の「毒」を読み解いている間も、アラリックが兵を鼓舞している間も、ずっとこの瞬間を覚悟していたのだ。
「……陛下」
俺は低く呼びかけた。
「本気ですか」
「本気だ」
殿下は即答した。
「メフィスト! 毒を頼む! 未来ごときくれてやる!」
メフィストの仮面が、歓喜に震えた。
◇◇◇
殿下は、迷いを断ち切るようにヴォルカスに視線を向けた。
「ヴォルカス!」
「……何だ」
ヴォルカスの声が、掠れていた。
俺は、その横顔を見た。
帝国の将として、ここにいることの意味を噛み締めているのだろう。
門前で殿下に従った時点で、彼の運命は決まっていた。
だが、頭で理解することと、心で受け入れることは別だ。
ヴォルカスの拳が、手綱を握りしめて白くなっている。
帝国への忠誠。将としての誇り。部下たちへの責任。
そして、北の地獄で見た真実。
すべてが、彼の中でせめぎ合っている。
殿下は、その迷いを見透かしたように、静かに言った。
「もうお前は俺の部下だ」
ヴォルカスの目が、大きく見開かれた。
それは命令であり、同時に宣言だった。
『これ以上、孤独な裏切り者にはさせない』という。
「練兵場をまとめあげろ! お前らも公国へ帰還するぞ! ここにはもう、守るべき帝国はない!」
真っ向からの宣戦布告。
皇帝の精鋭部隊を丸ごと「盗む」という、狂気じみた宣言。
だが、この状況では、それが唯一の光だった。
ヴォルカスは動かなかった。
長い、長い沈黙。
俺は息を詰めた。
ここで彼が拒否すれば、練兵場の老兵たちも動揺する。すべてが瓦解する。
だが。
ヴォルカスの肩が、小さく震えた。
それは怒りではなかった。
彼は兜の中で深く息を吸い込み、そして——顔を上げた。
その目には、もう迷いはなかった。
「……御意」
低く、しかし腹の底から絞り出すような声。
「腐った肥溜めで溺れ死ぬよりは、公国の泥にまみれる方がマシだ」
面を荒々しく下げ、裂帛の気合いで叫ぶ。
「練兵場の諸君、聞け! 本日をもって我らはレムリア公王の盾となる! 全員、新王の後に続けッ! 活路を開くぞ!」
ドォンッ!!
五百の老兵たちが盾を打ち鳴らし、応えた。
裏切りではない。「誇り高き武人たちの大移動」だ。
◇◇◇
殿下が、俺を見た。
「カイル」
「……何だ」
「また例の力で一刻を稼ぐ」
声を低く潜める。
「効果が切れた後、私の右腕を切り捨てろ」
俺は息を呑んだ。
切り捨てろ、だと。
主君の腕を。この俺の手で。
一瞬、頭が真っ白になった。
だが、殿下の目を見て、理解した。
これは相談ではない。命令だ。
そして、殿下は最初からこれを覚悟していた。
帳簿の「毒」を抱えて帝都に乗り込んだ時から。いや、北の地獄で右腕に呪いを受け入れた時から。
この若造は、自分の体を「駒」として使い潰す気でいる。
未来も、腕も、命すらも。
……ああ、畜生。
俺は、とんでもない主君に仕えちまったらしい。
「見極めは前の要領で行え。躊躇うな」
殿下の目が、俺を真っ直ぐに射抜いた。
「……承知した」
俺は短く答えた。
それ以上の言葉は、喉につかえて出てこなかった。
「全員、異論は許さん!」
雷鳴のように響く声。
「行くぞ!」
◇◇◇
「ケケケッ! 仰せの通りに……死の淵を歩む王よ!」
メフィストが右腕に近づく。
黒い蔓が最も激しく脈打つ「根」。右肩の付け根。
太い注射針を迷いなく突き立てた。
瞬間。
殿下の体が、ビクンと跳ねた。
「……ッ」
凍てつく冷気が血管を駆け抜けているのだろう。
殿下の顔から、苦痛の色が消えていく。代わりに、感情が凍りついたような無表情が浮かんだ。
右腕から一切の感覚が消えたのだ。
ただの「呪いの塊」をぶら下げている状態。
だが、殿下の目は明瞭だった。
左手で「公国全権委任の宝印」を握りしめ、感覚の消えた右腕を掲げる。
「——道を開けろ」
静かに響く声。
「我らは帰るべき場所へ帰る!」
キィィィィン……!
宝印が共鳴し、鋭く冷たい蒼い光を放った。
一点集中の「光の槍」。
ドォォォン!!
変異体たちが閃光に焼かれ、一瞬で塵へと還った。
「今だ! 全軍、突破ァッ!!」
アラリックの咆哮。
俺は殿下の馬の手綱を取り、駆け出した。
鋼の楔が、帝都の路地を風のように駆け抜けていく。
背後で、宮殿の方角から巨大な地響きが聞こえた。
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ただ、前へ。
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