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33話:神喰いの右腕
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翌朝、目を覚ました時、窓から差し込む光がやけに眩しかった。
私は杖を握り、ゆっくりと身を起こした。
体が軽い。昨夜の酒に何か混ぜられていたのは気づいていたが、文句を言う気にはなれなかった。
ここ数ヶ月で最も深い眠りだった。
広間には、同じように目を覚ました側近たちがいた。
アラリックは包帯を巻いた掌を握り、感触を確かめている。
リオラとルークは、互いの距離に気づいて慌てて離れた。
殿下が、静かに歩み寄ってきた。
「よく眠れたか」
「……陛下。昨夜の荒療治には参りました」
私は苦笑しながら頭を下げた。
「しかし、おかげで久方ぶりに夢も見ぬほど深く眠れました。この老骨、まだまだ役に立てそうです」
アラリックが、拳を胸に当てた。
「陛下。私は陛下の盾であることを誇りに思います。しかし、盾が錆びていては意味がありません」
その目には、もう死を急ぐような鋭さはなかった。
「これからは、己を大切にすることも、陛下を守る務めの一つと心得ます」
リオラが、静かに口を開いた。
「陛下。私たちは陛下の影として生きることを選びました。しかし、影もまた、光がなければ存在できません」
その声には、いつもの乾いた調子に、僅かな温もりが混じっていた。
「陛下が望むなら、時には陽の下で息をすることをお許しください」
ルークは言葉少なに、しかし確かに頷いた。
その目には、年相応の柔らかさが戻っている。
殿下は、四人を見渡した。
「よし。では、始めるぞ」
◇◇◇
内政は、驚くほど安定し始めていた。
父王エドワード三世がヴァインの補佐として事務を代行し、混乱は最小限に抑えられている。
難民キャンプは「王立工区」として正式に承認され、セバスチャンが指揮する土木作業により、城壁の強化は驚異的な速度で進んでいた。
食糧問題も、ロザリンからの先行連絡により一時の猶予を得ている。
カイルとルークの片割れは、南で順調に仕事を進めているようだ。
私は執務室で報告書に目を通しながら、ふと窓の外を見た。
雨は上がり、雲の切れ間から青空が覗いている。
ここ数ヶ月、こんな空は見なかった。
扉が叩かれた。
「ヴァイン様、メフィスト殿がお呼びです。陛下も既に工房へ向かわれました」
私は杖を握り、立ち上がった。
いよいよか。
◇◇◇
メフィストの工房を訪れた時、私は言葉を失った。
レオンが、そこにいた。
あの北の地獄で正気を失った少年が、確かな意志を宿した目で殿下を見つめている。
「……陛下」
その声には、不思議な残響があった。
洞窟の奥から響くような、複数の声が重なったような。
完全ではない。だが、彼は地獄から戻ってきたのだ。
「陛下。教皇国の軍勢は、もう国境の川を渡っています」
レオンの声が、警告として震えた。
「彼らが連れている聖櫃の中に、私と同じ……穴の向こうの声が聞こえます」
殿下は、レオンの肩に手を置いた。
「よく戻ってきた、レオン。お前の力が必要だ」
レオンは微かに笑った。
かつての清らかな笑顔とは違う。影を知った者の笑みだった。
「……御意、陛下」
◇◇◇
メフィストが、黒い布に包まれた物を恭しく差し出した。
「陛下、お待たせしました」
仮面の奥で、あの狂人が静かに震えている。
歓喜でも恐怖でもない。自らの最高傑作に対する畏敬。
「これは、私の生涯における最高傑作です」
布が剥ぎ取られた。
黒い金属と、殿下の右腕から抽出した蔓の生体組織。
それらが複雑に絡み合った、異形の義手だった。
神喰いの右腕。
それは静かに脈打っていた。
殿下の体に戻る日を待ち望んでいたかのように。
「装着なさいますか、陛下」
殿下は頷いた。
「ああ」
義手が、右肩の切断面に当てられた。
冷たい金属が、熱い神経と繋がる。
その瞬間。
凄まじい衝撃が、工房を揺るがした。
殿下の体が強張り、額に脂汗が浮かぶ。
あの合唱が、再び殿下の頭の中で響いているのだろう。
私は思わず一歩踏み出しかけた。
だが、殿下の目が、それを制した。
静かな、しかし揺るぎない意志。
今の殿下には、それを支える鋼の心がある。
黒い義手の拳が、ゆっくりと握られた。
指が動く。滑らかに、力強く。
「……いいぞ、メフィスト。よくやった」
メフィストは、仮面の奥で満足げに笑った。
「ケケケ……光栄でございます、陛下」
私は、その光景を見つめていた。
殿下は、呪いを武器に変えた。
この方は、どこまで強くなるのだろう。
◇◇◇
黒い煤が混じった雨上がりの広場。
自分は、殿下の傍らに立っていた。
眼下には、不安を抱えた旧来の民と、泥にまみれた難民たちが身を寄せ合っている。
彼らの視線が、バルコニーに立つ殿下に集まっていた。
殿下の右肩には、マントの下で義手が静かに脈打っている。
自分の背後には、再編された兵団が整列していた。
殿下が、小声で告げた。
「アラリック。合図とともに、その心強さを民に示せ」
「御意」
自分は静かに頷いた。
殿下が、声を張り上げた。
「レムリアの民よ。そして、救いを求めてこの地に辿り着いた友よ」
難民たちが顔を上げた。
友、と呼ばれたことへの驚きが、その目に浮かんでいる。
「今は情勢が落ち着いていない。不安だと思う」
殿下の声は、静かだった。
「どうか一時的に配給が不足しても、難民を責めないでほしい。彼らはきっと、この国を豊かにする助けとなる」
旧来の民の間に、動揺が走った。
だが、殿下は続けた。
「ただ、こんな時期だからこそ言わせてくれ」
声が、少し低くなった。
「私が完璧でないため、私に近い側近ほど、油断すれば狂信的なまでに働いてしまう。その影響で、部下たちも視野が狭くなっているかもしれない」
民衆がざわめいた。
王が、自らの弱さを認めている。
殿下は、マントを動かして欠損した右肩の空洞を晒した。
いや、違う。今はもう空洞ではない。
「私は完璧な王ではない。見ての通り、右腕一本すら守れなかった男だ」
民衆が息を呑んだ。
「ただ、国は王ではない。民あっての国だ」
殿下の声が、力強くなった。
「行き過ぎた異様な雰囲気があれば、民の方から我が部下の目を覚まさせてほしい。心が折れかけていたら、責めずに支えてほしい」
殿下は、深く頭を下げた。
「官民一体にならないと、乗り越えられない争いが近く迫っている。どうか、よろしく頼む」
広場が凍りついた。
王が、民に頭を下げている。
自分は、その背中を見つめていた。
この方は、いつもこうだ。
自らを低くすることで、周囲を高める。
殿下が顔を上げた。
「ただ、安心してほしい」
声が鋭くなった。
「お前たちが互いを支える間、敵を阻む盾は私が用意した」
マントの下から、黒い義手が晒された。
民衆が息を呑む。
黒い金属と、生きた蔓が絡み合った異形の腕。
「この腕は、かつて私を蝕んだ呪いから生まれた。しかし今、それは私の剣となり、お前たちを守る盾となる」
殿下が、自分を見た。
「アラリックよ!」
「はい!」
「その証拠を、民たちに示せ!」
自分は、振り返った。
旧レムリア精鋭軍、ヴォルカス率いる元帝国軍、ベリサリウスの老兵たち。
彼らが、自分の合図を待っている。
「——レムリアに栄光をッ!!」
自分の咆哮が、空を震わせた。
兵団が動いた。
一糸乱れぬ動作で、盾が打ち鳴らされる。
ガシンッ! ガシンッ!!
地響きのようなリズム。
多国籍な混成部隊とは思えぬほど、完璧に同調している。
槍が天を突き、剣が陽光を反射する。
この威圧感は、守られているという実感を、民の魂に刻み込むためのものだ。
民衆の間から、歓声が上がった。
「レムリア万歳!」
「新王陛下万歳!」
難民も、旧来の民も、同じ声で叫んでいた。
もはや彼らの間に壁はない。
自分は、殿下の背中を見つめた。
この方のために、盾となる。
錆びぬよう、己を保ちながら。
それが、昨夜誓った自分の務めだ。
私は杖を握り、ゆっくりと身を起こした。
体が軽い。昨夜の酒に何か混ぜられていたのは気づいていたが、文句を言う気にはなれなかった。
ここ数ヶ月で最も深い眠りだった。
広間には、同じように目を覚ました側近たちがいた。
アラリックは包帯を巻いた掌を握り、感触を確かめている。
リオラとルークは、互いの距離に気づいて慌てて離れた。
殿下が、静かに歩み寄ってきた。
「よく眠れたか」
「……陛下。昨夜の荒療治には参りました」
私は苦笑しながら頭を下げた。
「しかし、おかげで久方ぶりに夢も見ぬほど深く眠れました。この老骨、まだまだ役に立てそうです」
アラリックが、拳を胸に当てた。
「陛下。私は陛下の盾であることを誇りに思います。しかし、盾が錆びていては意味がありません」
その目には、もう死を急ぐような鋭さはなかった。
「これからは、己を大切にすることも、陛下を守る務めの一つと心得ます」
リオラが、静かに口を開いた。
「陛下。私たちは陛下の影として生きることを選びました。しかし、影もまた、光がなければ存在できません」
その声には、いつもの乾いた調子に、僅かな温もりが混じっていた。
「陛下が望むなら、時には陽の下で息をすることをお許しください」
ルークは言葉少なに、しかし確かに頷いた。
その目には、年相応の柔らかさが戻っている。
殿下は、四人を見渡した。
「よし。では、始めるぞ」
◇◇◇
内政は、驚くほど安定し始めていた。
父王エドワード三世がヴァインの補佐として事務を代行し、混乱は最小限に抑えられている。
難民キャンプは「王立工区」として正式に承認され、セバスチャンが指揮する土木作業により、城壁の強化は驚異的な速度で進んでいた。
食糧問題も、ロザリンからの先行連絡により一時の猶予を得ている。
カイルとルークの片割れは、南で順調に仕事を進めているようだ。
私は執務室で報告書に目を通しながら、ふと窓の外を見た。
雨は上がり、雲の切れ間から青空が覗いている。
ここ数ヶ月、こんな空は見なかった。
扉が叩かれた。
「ヴァイン様、メフィスト殿がお呼びです。陛下も既に工房へ向かわれました」
私は杖を握り、立ち上がった。
いよいよか。
◇◇◇
メフィストの工房を訪れた時、私は言葉を失った。
レオンが、そこにいた。
あの北の地獄で正気を失った少年が、確かな意志を宿した目で殿下を見つめている。
「……陛下」
その声には、不思議な残響があった。
洞窟の奥から響くような、複数の声が重なったような。
完全ではない。だが、彼は地獄から戻ってきたのだ。
「陛下。教皇国の軍勢は、もう国境の川を渡っています」
レオンの声が、警告として震えた。
「彼らが連れている聖櫃の中に、私と同じ……穴の向こうの声が聞こえます」
殿下は、レオンの肩に手を置いた。
「よく戻ってきた、レオン。お前の力が必要だ」
レオンは微かに笑った。
かつての清らかな笑顔とは違う。影を知った者の笑みだった。
「……御意、陛下」
◇◇◇
メフィストが、黒い布に包まれた物を恭しく差し出した。
「陛下、お待たせしました」
仮面の奥で、あの狂人が静かに震えている。
歓喜でも恐怖でもない。自らの最高傑作に対する畏敬。
「これは、私の生涯における最高傑作です」
布が剥ぎ取られた。
黒い金属と、殿下の右腕から抽出した蔓の生体組織。
それらが複雑に絡み合った、異形の義手だった。
神喰いの右腕。
それは静かに脈打っていた。
殿下の体に戻る日を待ち望んでいたかのように。
「装着なさいますか、陛下」
殿下は頷いた。
「ああ」
義手が、右肩の切断面に当てられた。
冷たい金属が、熱い神経と繋がる。
その瞬間。
凄まじい衝撃が、工房を揺るがした。
殿下の体が強張り、額に脂汗が浮かぶ。
あの合唱が、再び殿下の頭の中で響いているのだろう。
私は思わず一歩踏み出しかけた。
だが、殿下の目が、それを制した。
静かな、しかし揺るぎない意志。
今の殿下には、それを支える鋼の心がある。
黒い義手の拳が、ゆっくりと握られた。
指が動く。滑らかに、力強く。
「……いいぞ、メフィスト。よくやった」
メフィストは、仮面の奥で満足げに笑った。
「ケケケ……光栄でございます、陛下」
私は、その光景を見つめていた。
殿下は、呪いを武器に変えた。
この方は、どこまで強くなるのだろう。
◇◇◇
黒い煤が混じった雨上がりの広場。
自分は、殿下の傍らに立っていた。
眼下には、不安を抱えた旧来の民と、泥にまみれた難民たちが身を寄せ合っている。
彼らの視線が、バルコニーに立つ殿下に集まっていた。
殿下の右肩には、マントの下で義手が静かに脈打っている。
自分の背後には、再編された兵団が整列していた。
殿下が、小声で告げた。
「アラリック。合図とともに、その心強さを民に示せ」
「御意」
自分は静かに頷いた。
殿下が、声を張り上げた。
「レムリアの民よ。そして、救いを求めてこの地に辿り着いた友よ」
難民たちが顔を上げた。
友、と呼ばれたことへの驚きが、その目に浮かんでいる。
「今は情勢が落ち着いていない。不安だと思う」
殿下の声は、静かだった。
「どうか一時的に配給が不足しても、難民を責めないでほしい。彼らはきっと、この国を豊かにする助けとなる」
旧来の民の間に、動揺が走った。
だが、殿下は続けた。
「ただ、こんな時期だからこそ言わせてくれ」
声が、少し低くなった。
「私が完璧でないため、私に近い側近ほど、油断すれば狂信的なまでに働いてしまう。その影響で、部下たちも視野が狭くなっているかもしれない」
民衆がざわめいた。
王が、自らの弱さを認めている。
殿下は、マントを動かして欠損した右肩の空洞を晒した。
いや、違う。今はもう空洞ではない。
「私は完璧な王ではない。見ての通り、右腕一本すら守れなかった男だ」
民衆が息を呑んだ。
「ただ、国は王ではない。民あっての国だ」
殿下の声が、力強くなった。
「行き過ぎた異様な雰囲気があれば、民の方から我が部下の目を覚まさせてほしい。心が折れかけていたら、責めずに支えてほしい」
殿下は、深く頭を下げた。
「官民一体にならないと、乗り越えられない争いが近く迫っている。どうか、よろしく頼む」
広場が凍りついた。
王が、民に頭を下げている。
自分は、その背中を見つめていた。
この方は、いつもこうだ。
自らを低くすることで、周囲を高める。
殿下が顔を上げた。
「ただ、安心してほしい」
声が鋭くなった。
「お前たちが互いを支える間、敵を阻む盾は私が用意した」
マントの下から、黒い義手が晒された。
民衆が息を呑む。
黒い金属と、生きた蔓が絡み合った異形の腕。
「この腕は、かつて私を蝕んだ呪いから生まれた。しかし今、それは私の剣となり、お前たちを守る盾となる」
殿下が、自分を見た。
「アラリックよ!」
「はい!」
「その証拠を、民たちに示せ!」
自分は、振り返った。
旧レムリア精鋭軍、ヴォルカス率いる元帝国軍、ベリサリウスの老兵たち。
彼らが、自分の合図を待っている。
「——レムリアに栄光をッ!!」
自分の咆哮が、空を震わせた。
兵団が動いた。
一糸乱れぬ動作で、盾が打ち鳴らされる。
ガシンッ! ガシンッ!!
地響きのようなリズム。
多国籍な混成部隊とは思えぬほど、完璧に同調している。
槍が天を突き、剣が陽光を反射する。
この威圧感は、守られているという実感を、民の魂に刻み込むためのものだ。
民衆の間から、歓声が上がった。
「レムリア万歳!」
「新王陛下万歳!」
難民も、旧来の民も、同じ声で叫んでいた。
もはや彼らの間に壁はない。
自分は、殿下の背中を見つめた。
この方のために、盾となる。
錆びぬよう、己を保ちながら。
それが、昨夜誓った自分の務めだ。
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